雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
「楽毅」第四巻より
みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
「楽毅」第四巻より
去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
「楽毅」第四巻より
・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
「楽毅」第三巻より
この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
「楽毅」第二巻より
なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
「楽毅」第二巻より
からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
「楽毅」第二巻より
こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
「楽毅」第二巻より
人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
「楽毅」第三巻より
勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
「楽毅」第二巻より
目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
「楽毅」第1巻より
知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
「楽毅」第1巻より
会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
「奇貨居くべし 黄河編」より
静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
「楽毅」第四巻より
人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
「春秋の名君」より
寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
「沈黙の王」より
小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
「歴史の活力」より
奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
「歴史の活力」より
黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
「侠骨記」より
人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
「奇貨居くべし 春風篇」より
外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
「奇貨居くべし 春風篇」より
橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
「晏子」(第四巻)より
倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
「中国古典の言行録」より
礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
「春秋の色」より
都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
「子産(下)」より
人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
「孟嘗君 5」より
人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
「沙中の回廊(下)」より
「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
「沙中の回廊(下)」より
人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
「子産(上)」より
知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
「青雲はるかに(上)」より
師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
「孟嘗君 2」より
人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
「孟嘗君 2」より
人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
「孟嘗君 3」より
人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
「中国古典の言行録」より
人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
「太公望 中」より
与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
「孟夏の太陽」より
・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
「太公望 中」より
他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
「太公望 中」より
人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
「奇貨居くべし 春風篇」より
みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
「奇貨居くべし 黄河編」より
人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
「晏子」第二巻より
人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
「奇貨居くべし 飛翔篇」より
失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
「楽毅」第四巻より
人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
「奇貨居くべし 春風篇」より
大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
「奇貨居くべし 春風篇」より
あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
「中国古典の言行録」より
いちろうさんへ
>子どもたちの方が敏感なものじゃないの?
これについては、本当におっしゃるとおりです。
子どもをじっくり観察して、(たいていは教師をたててくれるのですが)どの教師のどの部分を頼っているかを見抜くのはおもしろいです。
それも、頼り方、頼る部分は十人十色です。
投稿: kurazoh | 2008/08/27 01:23
いちろうさんへ。
>暗象のブログを読めば読むほど、先生への不信が募る
とおっしゃいますが、私への不信だけで十分では?
>暗象は心の底では、どの先生も信じていないからなんだろうなあ‥と。
私は、私も含め、どの教師にも十分な指導力が備わっているとは信じていませんね。だからこのようなブログを立てているわけです。
教師には、プラスの指導力以外に、マイナスの指導力というのがあります。
プラスは当然そのままかけ算、足し算でいいのですが、マイナスの指導力に整数をかけるととんでもないことになります。
その修正をどうかけるか、マイナスからどうプラスに転じていけるのか、そういうことをいつも考えています。
学習指導要領に「法的拘束力がない」と誤解して、それを読まない教師がいたとしましょう。
この教師が、授業力があり、教科書準拠で授業をしていれば、問題が表面化することはないでしょう。教科書が学習指導要領準拠だからです。
この教師が、教科書まで無視していたら、それも無計画に、行き当たりばったりで授業していたら、非常に不安です。
学習指導要領という基準は、公立学校の教育の要です。
投稿: kurazoh | 2008/08/27 01:15
いちろうさんへ。
何はともあれ、ぜひ一度、学習指導要領の「総則」だけでもお読み下さい。
教科まではたいへんかもしれませんが、結局「教師がどう教えるかにかかっているんだな」ということがよくおわかりになると思いますよ。
これで教師を「拘束」できるの?というのが一般の方の単純な感想でしょう。
そして、これは「教師の力次第だな」という実感も持たれることと思います。
教科で言うと、学習指導要領が「拘束」しているイメージが最もわかりやすいのは、入試問題の出題範囲・レベルです。
その範囲外からの出題は、アウト。
この効果はご理解いただけますよね。
学習指導要領は私立も拘束することができるという解釈は困難なのですが、さすがに「これ、小学生が解ける問題?」という難問を連発すると、「問題」になるようです。
学習指導要領は「基準」ですので、「マニュアル」ではありません。
投稿: kurazoh | 2008/08/27 01:02
>学校教育法等の委任に基づく法規命令
詳細に委託されているとは考えられないし、
文部科学省のHPにも書かれていない。
暗象も協力したとあるが、
私的著作物に「拘束力」を持たすには、
それ相応の手続きが必要です。
単純な法律運用上の規則や命令とは違うと、
以前にも書いた気がします。
>もし拘束力がない「選択自由」の法規?だった場合、受ける教育によっては非常に大きなデメリットを子どもが被ります
教科書を教えるということと、
混同していませんか?
学習指導要領の縛りが緩やかだった時は、
今より学力が低かったのですか?
暗象は、過保護で管理主義的との批判をしてきたけど、ここへ来て、その理由がわかってきた気がします。基本的に、他人を信じていないんですよね。他の先生が信じられないから、学習指導要領は法的拘束力があるといい、マニュアル化して、暗象の思い通りに動く先生にしようとしている。
暗象のブログを読めば読むほど、先生への不信が募るのは、暗象は心の底では、どの先生も信じていないからなんだろうなあ‥と。
子どもたちの方が敏感なものじゃないの?
(イメージだけど)
投稿: いちろう | 2008/08/27 00:50
以下に述べたように、学習指導要領の法的拘束力の問題については、決して持論ではなくて一般論です。
教育法規の勉強で昭和30年代とか40年代に日教組を中心とした学習指導要領拒否闘争とその主張としての法規としての性質の否定があったことは知っていますが、昭和51年に学力調査関係の最高裁判決が出て、学習指導要領は法規としての性質をもつという説がとられたと認識しています。
繰り返しますが、もし拘束力がない「選択自由」の法規?だった場合、受ける教育によっては非常に大きなデメリットを子どもが被りますが、その点についていちろうさんはどうお考えでしょう?
投稿: kurazoh | 2008/08/27 00:21
いちろうさんへ。
私の理解するところでは、学習指導要領は告示として出されているから法的拘束力があるわけではなく、学校教育法等の委任に基づく法規命令として制定されているから法的拘束力があるのです。
法規命令とは、法律の委任に基づいて行政機関が定める法規のことです。
学校教育法施行規則の規定は以前にコメント欄で述べました。
なお、学習指導要領の「法的拘束力」とは、その内容を読めばわかるように、また、教育の特質や地域や学校、子どもの実情から言っても、相当に弾力的に運用されていくものです。
ただ、さすがに「未履修」などがあると、大きな問題になるのです。
投稿: kurazoh | 2008/08/27 00:05
>「伝習舘高校事件」‥処分は裁量権の範囲内として是認したものがあることをふまえたものです。
違うって。
この裁判の後、文部大臣が法的性格も含め、
明確に否定しているって。
それ以後、
どこで誰が解釈を変えたかを問うています。
教育基本法の改正で、
法的な性格が強まったと考えることはできるが、
だからと言って「拘束力」が生じるものではない。
引用部分の説明では、
暗象が勝手に解釈して、
そう言っているとしかとれないが、
もしそうであれば、余計に問題が大きいのだが?
投稿: いちろう | 2008/08/26 23:43
いちろうさんへ。
ご説明が遅くなりました。
学習指導要領の法的拘束力の問題ですね。
以前に述べた「伝習舘高校事件」というのは、最高裁判所の判例に、公立高等学校教諭への懲戒処分理由として学習指導要領以外のことを考査したなどとした処分は裁量権の範囲内として是認したものがあることをふまえたものです。
普通の子どもや保護者の方が感じる現実問題としては、もし先生方が学習指導要領に準拠した教科書の内容を教えてくれなかったとしたら、入試で習っていないことがでる可能性があり、塾に行かせる必要性が増す・・・なんてことがあるでしょう。
もちろん、学習指導要領なんて関係なく、独自の教材で鍛え抜いて、入試問題程度はみんな軽くクリアできる・・・そんな先生ばかりなら問題はないのでしょうが・・・。
投稿: kurazoh | 2008/08/26 23:09
>私は文科省の言う通りになっているというより、協力者としてこちらの言い分を通してもらっている立場
立場としての日々の発言は理解できるよ。
であれば、尚更のこと、
「法的拘束力がある」との説の出どこはどこ?
「法令に準ずる性格を有する」までは理解できるが、
「拘束力がある」というのは、考えられない。
説の出所を明らかにせず、
自分が協力してつくったものを、
拘束力があるから従えというのは、どうかと思う。
投稿: いちろう | 2008/08/26 21:40
コンテクストとしては、私は文科省の言う通りになっているというより、協力者としてこちらの言い分を通してもらっている立場ですから、いちろうさんに言わせれば救いようのない人間でしょうね。
投稿: kurazoh | 2008/08/25 12:18
>法的拘束力がないと、公立学校でいっさい教科書を使わず、教師が「これを教えたい」という内容だけを自由に(これは教えたくないという内容は教えずに)授業ができるようになってしまいます。
それはダメなことなのか?
フィンランドをはじめに、諸外国も日本のような学習指導要領(質と量)で、教育の内容などが定められているのか?
>「伝習舘高校事件」という裁判所の判例がありますから、興味があればご覧ください。
文部大臣は、法的ということばさえも否定していますが? 法的拘束力があるというのは、誰が言っていますか? 文部大臣以上だと、総理大臣のことばですか?
ただ、わけのわからないところに信用失墜行為だということばを使っているところから、勝手に法的拘束力があると思っているだけでは?
ちなみに、「法的」な性格は否定しないが、「拘束力」が発生するものではないというのが、私の思いです。単なる省庁の発行する冊子に拘束力を持たすことは、民主主義の否定では? 単なる法律運用ではないので、拘束力を持たすには、議会(国会)での議決が必要と思います。
>どの部分に疑義があるかをご提示いただければ
そういう問題じゃないって。
単なる省庁の発行するものに対して、公務員だから従わなきゃいけないと考える発想がダメなんだって。
暗象は、政治的には木端役人になるし、経済的には経営者になるし、そういう目線で見ていることに不安を覚えているということ。
>「権力の犬」になっているという負の自覚
そう思って欲しいのだが?
暗象は、そう思えない人間だから、
この間、批判してきたのだが?
(批判理由の一つだね!!)
投稿: いちろう | 2008/08/25 00:38
もしいちろうさんが「学習指導要領に準拠した教育が目指した先に、子どもたちとっての幸せな社会があるのか」という疑問をおもちであるなら、文科省のHPで内容は読めますので、どの部分に疑義があるかをご提示いただければ、それに対する個人的な見解を述べることができます。
投稿: kurazoh | 2008/08/24 11:34
学習指導要領に法的拘束力がないと、公立学校でいっさい教科書を使わず、教師が「これを教えたい」という内容だけを自由に(これは教えたくないという内容は教えずに)授業ができるようになってしまいます。
子どもや保護者はこういう教師に要望はできても法的に拘束されないと無視されてしまいます。
この件については「伝習舘高校事件」という裁判所の判例がありますから、興味があればご覧ください。
学習指導要領準拠の教科書を用いた授業をしている教師で、「権力の犬」になっているという負の自覚をもっている人、「権力側の意識が強い」と思っている人はほとんどいないでしょう。
投稿: kurazoh | 2008/08/24 11:30
>法令そのものではないのですが、これらに基づいて文部科学省が告示するもので、「法的拘束力」をもつものです。
自己規制しすぎですね。
違うところで信用失墜行為だとかいい、
自己規制論を書いていましたが、
なぜそこまで「権力の犬」に成り下がらなきゃいけないのか?
行政経験もあるということで、
権力側の意識が強いのはわかるが、
その目線でとらえた先に、
子どもたちとっての幸せな社会があるのか?
法律を運用するために、
規則や通達が出されますが、
規則や通達に拘束されるには、
法的裏付けが必要です。
学習指導要領は、
学習内容について書かれていることを考えると、
人によっては、憲法、教育基本法にある
「学問の自由」に抵触するおそれがあり、
単純な「法律の運用」にあたらないので、
「法的拘束力」を与えることは法律違反では?
法的拘束力があるというのは、
文科省の見解なのでしょうか?
ただ、イメージだけで拡大解釈しているのでは?
投稿: いちろう | 2008/08/24 11:06
たとえば、中学校の場合、学校教育法施行規則第5章第74条に、「中学校の教育課程については、この章に定めるもののほか、教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する中学校学習指導要領によるものとする。」とあります。
投稿: kurazoh | 2008/08/24 03:09
学習指導要領は、教育基本法、学校教育法、学校教育法施行規則のような法令そのものではないのですが、これらに基づいて文部科学省が告示するもので、「法的拘束力」をもつものです。
投稿: kurazoh | 2008/08/24 03:05
「すべて」は、全部
「何でも」は、ほとんどすべて
批判の類いが入るのは「何でも」の方です。
その意味で、あの日は「何でも」を使いました。
今、学習指導要領が法令なのか調べています。
そんなことは、ありえないと感じたので…。
投稿: いちろう | 2008/08/24 02:48
「何でも賛成というのは、暗象の文科省に対する姿勢」といういちろうさんの指摘が誤りだと述べた根拠は、私が文科省への批判を行った記事を書いたことがあるからですが、法令遵守の姿勢という意味で述べられたのであれば、「賛成」というよりは公務員としての義務にあたることを実践する姿勢をもっていると言えることになります。
投稿: kurazoh | 2008/08/24 02:45
いちろうさんの質問にお答えします。
>「何でも」と「すべて」の違いが、
概念として区分できていますか?
「何でも」というときは、ニュアンスとして、無批判にすべてを、という意味でしょうか。
文脈の捉え方の問題ですね。
投稿: kurazoh | 2008/08/24 02:31
あら、ごめんなさい!!
日付をクリックしたら、1日にいくつも投稿してあると一つしか表示しないんですね。
表示しないのと、馬鹿丁寧な言葉づかいの質問を見つけて書きましたが、私のミスでした。
では、改めて
>いちろうさんに改めてお聞きしますが、「暗象」について私が答えるべき質問とは何でございますでしょうか。
8/13
暗象さんの中で、
「何でも」と「すべて」の違いが、
概念として区分できていますか?
イエスかノーでもいいですよ。
投稿: いちろう | 2008/08/24 02:14
基本的に、個人のブログの文字情報だけで人を信頼することはできないし、その必要はないと思います。
読み手が絶対権力者です。
読み手は、無視したければ無視し、批判したければ批判すればよいのでしょう。
ただ、「自分にとって都合の悪いコメントを削除」したということが、いちろうさんの「暗象」を信頼できない根拠であるとすると、そのような事実はないので、それだけを根拠とした不信は成り立たないのではないかと思います。
「人間としてどうかと思う」人間のブログにわざわざ何度もご訪問していただいて、飽くことなくコメントを繰り返していただくのは光栄です。
投稿: kurazoh | 2008/08/24 02:08
>信頼そのものを損ねることのない教師のあり方を追究したいと考えています。
そりゃ、無理だろう。それ以前の問題だって。
自分にとって都合の悪いコメントを削除して、
>いちろうさんに改めてお聞きしますが、「暗象」について私が答えるべき質問とは何でございますでしょうか。
と書ける人間を、誰が信頼するの?
コメントや記事の修正をちょくちょくしているのは知っていたけど、ここまできたら人間としてどうかと思う。
投稿: いちろう | 2008/08/24 01:34