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授業が上手な人と比べられたくない教師

 「日本人はどこまでバカになるのか」など、売り上げがあまり期待できない教育関係の本は、内容が乏しいのにタイトルだけ過激になる傾向があります。
 現場を知らない大学教授ならともかく、元中学校教師が当たり前の学力観を披露し、しかもそれによって学力が向上するなどとした主張が見られる本は、現場では何の役にも立たないわけですが、少しでも早く「当たり前のことが当たり前のようにできていない」現実を直視して、そこから出発する手がかりになることを望みます。

 日本の学習指導要領や全国的な学力調査などを「悪玉」にしているから、自分の議論の正当性をかもしだすのに「善玉」が必要ですが、これが、フィンランドの教育だったりする。

 日本より2割も安い給料なのに、社会から尊敬され、高い競争率を突破し、高度で長期間の実習を受けてから現場に出るフィンランドの教師たち。
 その資質・能力を学びとることを日本の教師に進めるのではなく、日本の教育制度の「悪さ」と外国の教育制度の「よさ」ばかりを強調する構成。
 日本の教師と子ども不在の教育論ほど説得力のないものはありません。
 
 教師は、人と比較されるのを嫌う職業人です。
 特に、自分より授業がおもしろい、わかりやすい、内容が深い、板書がきれい、声が聞き取りやすい、・・・などという長所をもった教師と比べられてしまうのはつらい。

 しかし、教職2年目と、30年目が「同僚」として現場にたち、同じ教育課程のもと、同じ子どもたちに向き合う学校現場という環境では、教師に「逃げ場」はありません

 学校の教師と塾の講師は別物で、比較すること自体がナンセンス・・・・・
 などと主張する人がいますが、子どもの立場になって考えてみれば、そういうことを言うこと自体がナンセンスになります。

 学校の授業はわかりにくいけど、塾で理解できるようになった・・・という子どもはどれだけいるのでしょう。

 学校の教師が塾の講師に「教え方」を学ぶのは、「学べる教え方」に関心があるからであって、部活動で勝つ方法や合唱コンクールで賞をとるコツを習いに行くわけではありません。

 「学校の教師は、授業をすることのみに特化した職業ではない」なんていうことは当たり前のことです。
 そこで、学校の教師が授業のコツを学ぶ相手が、どうして学校以外の人ではいけないという論理になるのか。
 これは、要は、「授業が上手い人」と比べられたくないという、教師の特質を物語っているにすぎません。
 
 ここで、おそろしい逃げを打つ言葉が目に入ってきます。

教師にしても、「自分は、教えるのはうまくないけど、生徒のやる気を起こさせることは約束できる」というくらいのことは言ってもいいはずである。そんな言葉をそのまま口にすれば、まったく問題がないわけではないが、それくらいの気概と自信をもつべきではないだろうか。

 そういう自信をもっている教師は、やる気を起こさせるだけの仕事をして、あとは他の教師に授業をゆずるべきでしょう。
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教育」カテゴリの記事

コメント

>知識の伝達だけなら、塾の方が良いという人も多いだろうけど、学校っていうのは、それだけでいいのか?
という言葉も、よく聞く話です。
要は、学校は狭義の学力をつけるためだけの場所ではない、ということでしょう。
もっと言えば、学校は狭義の学力をつけさせる以上に大切なことを教えるべきだろうということですね。
いちろうさんの主張はこれに近いのではないでしょうか。
ただそのような言い方だと、では狭義の学力は塾の専門家にお任せしましょう、生活指導など「生き方指導」を教師はやればいいでしょうなんて批判を受けることにならないでしょうか。
また学習指導要領の話で恐縮ですが、この点に関連して十年前に生まれてきたのが「生きる力」という言葉です。
教師の役割として、「生きる力」を子どもに身に付けさせることが重視されています。
「生きる力」にはいちろうさんがおっしゃる「子どもたちが将来の社会を形成するために必要な技能」も含まれているので、学校が子どもに身に付けさせる力を一言で表現できるものになっています。
狭義の学力は授業という学習指導の場で身に付けさせることはおわかりいただけると思いますが、実はこの授業で身に付けさせようとしているのも、現行の学習指導要領が目指す学力、PISA型学力で求めている力は、テストで容易に測定できるような狭義の学力だけではありません。
全国的な学力調査もそこに配慮していますし、各自治体が実施している調査も「漢字テスト」「計算問題」がすべてではありません。
>教育をテストの点数中心に矮小化させている
という誤解は、その「テスト」で測定しようとしている「学力」の変化にお気づきいただいたり、あとはブログで紹介している教師の資質・能力の問題をご覧いただいたりする必要があるかもしれません。

delicious
>学校の授業はわかりにくいけど、塾で理解できるようになった・・・という子どもはどれだけいるのでしょう。

よく聞く言葉だよ。
知識の伝達だけなら、塾の方が良いという人も多いだろうけど、学校っていうのは、それだけでいいのか?
3年位前、Yahoo!の掲示板で、公立の小中学校の選択制の議論があって、ほとんど読んでいるだけで終わったけど、公立学校の役割とか子どもたちが将来の社会を形成するために必要な技能であるとか、いろいろ考えさせられた。
でも、ここのブログは、教育をテストの点数中心に矮小化させている気がしてならない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より