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教師VS子ども その4「批判的思考力」

 批判的思考力の問題は「論理力」でふれていますので、ここでは「自分なりの視点」の見つけ方について考えてみます。
 教育については、政府なら国家としての、学校なら教師としての、家庭なら保護者としての視点が当然あるわけですが、ご存じのように日本には何かうまくいなかいことがあると「当事者以外のだれが悪いのか」を探そうとします。
 このブログ、「教育失敗学」で、自分が実践者という立場であるので、実践者からの、そして実践者に向けての視点というのを中心にしているのは、教育界ではありがちな、「批判のための批判にならないようにする」ことを心がけたからです。

 「批判的思考力」を発揮する上で大切なのは、一つの視点にとらわれず、別の視点から考えてみることであり、それによって発想力も豊かになる、コミュニケーション能力も高まるという、相乗効果が期待できるのが「思考力」です。

 教育について、問題の本質を探ろうとすると、ひどく思考が拡散してしまったり、奥深いところに入り込んでしまったりすることがあります。
 ・・・それが実践者、経営者としてはどうみても問題に正対せず、逃げようとしているとしか考えられない人もいます・・・。
 本質を探るということについて、佐藤可士和は、「引いて見つめることが大切」という言い方をしています。
 どんどん引いて離れてみること・・・と聞くと、現場ではその姿勢に染まってしまっていて、行動もしないので何を考えているのかわからない人がいますが・・・。 
 また、「正面からだけでなく、いろいろな角度から見てみること」、「視点を転換すること」、「思い込みを捨てること」、またそれは難しいことなので、「あえて極論を考えてみること」も大切と言います。
 ・・・教育には「極論」があらかじめ用意されているので、「どっちに立つか」という思考にならないでもらいたいのですが・・・。
 過去の学校教育では、このような「批判的思考力」が十分に育成できていたのか、という反省があります。
 子どもの授業評価に真っ向から反対する教師に、「子どもには批判力がない」ことを前提にしている人がいます。それならば、批判力が本当にないかどうかをまず授業評価で確かめることや、批判力がないならそれを育成するように努めることが大切でしょう。
 「批判的思考力」の育成は、今の学習指導要領でも「生きる力」の概念の中に入っているわけですし、成果が示されているフィンランド・メソッドでも同じ指導が行われているわけで、それに異議を唱える方の目的は想像しにくいものです。
 このような「批判のための批判」が教育の信頼を損ない続けている・・・そんな「極論」を持ちながら、教育を考え続けていこうと思います。
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教育」カテゴリの記事

コメント

コメントが遅くなりまして申し訳ございません。
学習指導要領は法令ですから、そこに具体的な批判をするのは困難です。
よく言われていることですが、今回の学習指導要領は改正教育基本法、学校教育法を受けて成立したものですから、あちこちからの様々な要求、要望がごったに状態にあって、何でも入っているというのが私の印象です。
立脚点をこの前にさかのぼってもいいのですが、それではきりがないのと、ご存じのようにこのブログ自体の性格がありますから、基本は学習指導要領においています。
私のブログをお読みいただくより、学習指導要領をお読みいただいて、パブリックコメントの寄せられた情報を見ていただいた方がおもしろいと思います。

shadow
わかっていないよなぁ〜

>学習指導要領に関連したことを引用すると、「垂れ流し」とか「無批判に追従」しているとか非難されることがある

何を聞いても、暗象が説得の手段として学習指導要領を持ちだすからだよ。そんなもの読んでもいないものにとっては、黄門の印籠にしか思えない。
“関連したことを引用”というのがわからない。“関連した部分を引用”じゃないのか? だから、無批判に追従していると感じられる。少なくとも学習指導要領の9割以上を肯定的に垂れ流しているのだが?

さらに学習指導要領がらみの補足を。
過去のコメントでも申し上げている通り、「フィンランド詣で」が始まる以前から実施されている現行の指導要領の理念の実現が不十分だったので、その具体的な手立てを確立する観点から改訂されたのが新しい学習指導要領です。
日本で実施している調査とその結果のことにもふれました。
私は以前から観点別学習状況を「適切に評価する」ために必要な「適切な指導」の必要性を何度も記事で述べています。
「思考力・判断力」「表現力」を評価する観点がありながら(ということは、それらの能力を育成することを約束しておきながら)、実際にそれを育成しているとは思えない実践が多いこと。
教科指導だけでなく、総合的な学習の時間の実践でも同じです。
「フィンランドにあこがれる」とか、「フィンランドは多くの社会問題を抱えている」とかいう理由で「フィンランド・メソッド」を導入すべきか、導入すべきでないかを考えるのではなく、その方法が日本の子どもに育成すると約束している学力を伸ばすのに有効性が高いかどうかで判断すべきことは言うまでもないことでしょう。
学習指導要領に関連したことを引用すると、「垂れ流し」とか「無批判に追従」しているとか非難されることがあるので、もう少し具体的に教師の資質・能力の問題を浮き彫りにして、指導の現実をお示ししたいと思います。

補足情報ありがとうございます。
「批判」という単語へのこだわりを捨て、
これからを生きるのに必要な能力。という切り口で考えると、
批判の進化形は、「協調」「リーダーシップ」だと思います。

独りでは、できる事が限られていること。
対立する意見が林立する中で、けれども 停滞は許されないこと。
新しい価値を創造しなければ、もはや生き残ることはできない現実。

これから必要な能力は、
それぞれの意見や主張を聞き、今起きている現象や過去の事実から推論し、判断し、集約し、
「それだったらこういう風にしようよ!!」
課題解決のために皆の気持ちを同じ方向に向けられる力。
つまり、リーダーシップのひとつの形です。

もちろんリーダーシップを取れる人ばかりが必要ではないと思います。
けれども、批判という「判断」「評価」「指摘」は何も生産しません。
どのような場面でも、自分だったら「こうあるべきではないか」「こう考える」「こう実行する」
それを周囲との協調性を大切にして、行動する。
それが「生きる」ということのひとつの要素だと思います。

この能力は机上で身につくことより、実際の体験から得るもの、たとえば、
仮定されたことではなく、現実に迫られたとき、どのように対処したほうが良いのか。
ほかの人はどのような行動をとるのか。
自分はどう行動するのか。
どうしたらよかったと思うのか。
そのためには、何をどうすればよいのか。

そのような状態に身を置く 訓練で身につく能力だと思います。

そんな能力開発のための施策を検討中です。
自分で試行錯誤することは楽しいですからネ!!

PISA型学力等についての簡単な補足をしておきます。
PISA型調査というのは、これからの時代を生き抜いていくために必要になると思われる能力を調査していますが、日本の子どもは「情報の取り出し」は昔から得意なのに、問題の文章中に書かれている内容がどのような意味をもっているかを考えたり推論したりする力(「解釈」の力)と、問題の文中に示されている筆者の考えや書き方について自分なりに考え、判断し、評価する・・・たとえば文章に書かれている内容と自分の知識や経験を結びつける力(「熟考・評価」する力)が十分に身に付いていないことがわかっています。
これをもし教師が「国民性の問題だから」といって放置していたら、どうなるか。
まさか日本の子どもに「批判的思考力」は必要ないと考える人はいないでしょう。
これはPISAの調査が大きく報道される以前から、中等教育以上の実践者ならみんな実感がもてているはずです。
それは、授業のスタイルが「主体的な活動」といいつつ、いつも固定的な正解を求めていたり、教師による一方的な知識注入型で子どもが「受身的」すぎる学習になってしまっていたりすることが原因ではないか、・・・などの反省があって、すでに現行の学習指導要領ではその問題の解決に向けた学習指導の充実が求められているわけです。

yamamotosan様、コメントありがとうございます。
子どもにとっては「自分の言葉で語れるようにすること」が第一段階での目標でしょう。
情報を鵜呑みにしないことです。
以前に記事でも紹介したことがあるのですが、毎回配られるプリントに必ず1箇所以上の誤りがあるという教師がいました。
まず間違い探しに真剣に取り組んだものです。
ねらってできていたとしたらすごい。
鎧も権威も捨てて子どもの力を引き出していた教師ということになります。

思うのですけれど、批判の先にあるもの、批判力の根拠になるものは何でしょうか。
それを意識しない批判的思考力は、単なる言葉遊びに過ぎないのか。と。
害のない遊びなら良いのですが・・・
先生の権威とは、鎧ではなく実質であってほしいと私も思います。

コメントありがとうございます。
外部評価の導入はかなり進んだようですが、評価結果の公表についてはいかがでしょうか。
高尚な“批判力”を育てるためには結果の公表も必要です。
昔はたしかに学校に「権威」があり、体罰に関しても不満を言えない雰囲気がありました(今もあるかもしれません)。
しかし、教育に関する情報は(教育雑誌の発行部数拡大から見ても)下手をすると親の方がくわしくなっていたりして、昔のようなバランスを保つのは無理でしょう。
子どもには子どもなりの、保護者には保護者なりの「不満」表明権はあり、それが的はずれの場合には説明して納得してもらえれば「正しい」批判力がつくし、的を射ている場合というのは決して見逃さず、指導の改善に生かすべきだと考えています。
相変わらず教育委員会の答弁のようで申し訳ありません。

pig
>批判力が本当にないかどうかをまず授業評価で確かめることや、批判力がないならそれを育成するように努めることが大切でしょう。

わが子の学校で行われている授業や先生・学校の評価なんて、飲食店のアンケートレベルだけど、あんなことするから、サービスが悪いと騒ぐ客を増やすことにつながっているんじゃないのか?
田舎育ちだからかもしれないが、先生には“権威”があるべきだと思う。医者や警察にも。それがなくなった原因を考えるべきだと思うよ。
高尚な“批判力”を育てるならいいが“不満力”を育てるだけの評価じゃ、しない方がいいと思うが?

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より