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教師にファシリテーター・スキルが求められる理由

 ビジネススクールやセミナーでは今、ファシリテーション・スキル講座が大流行(おおはやり)のようです。
 Goegleで検索してみても、以下のような案内が目白押しです。

 「体験学習ファシリテータースキル養成講座」
 「ファシリテーション・スキル修得セミナー」
 「ファシリテーション・スキル研修公開セミナー」
 「ファシリテータースキルアップセミナー」
 「ファシリテーション能力強化(セミナー)」

 1回5万円とか10万円という受講料の相場は、ビジネス関係のセミナーでは一般的のようです。
 (こういう費用は受講者の会社の経費でおちるので高いのでしょうか?それとも単純に需要と供給の関係で決まるのでしょうか?)

 これらの案内を比較してみたり、ウィキペディアの内容を見たりしても、「ファシリテーター」の意味や役割が広く日本で普及しているものとは言えないようです。
 ピッタリする訳語ができないので、「またカタカナ語か!」と、外来語の多用を忌避される方は抵抗感が先にでてくるかもしれませんが、ファシリテーターの典型に「坂本龍馬」がいるというたとえは、若干親しみやすさに結びつくかもしれません。

 「ファシリテーション」の活用の場としては、住民参加型のまちづくり体験学習の現場、企業内研修などのワークショップ教育の現場、医療の現場、組織活性化の現場といったものが紹介されています。
 いずれにせよ、中立な立場を保ちながら議論に参加すること、議論の展開をスムーズに調整すること、参加者の相互理解を促進すること、最終的には合意形成へ導くことは、共通する概念としてあるようで、だから坂本龍馬というたとえが役に立つわけですね。

 ファシリテーターとしての立場・能力というのは、実は日常の教育現場における教師のあり方として考えても、ほとんどずれるところがない、すでに実践されてきているものだと考えられます。
 ただし、子どもを前にした授業実践では見られたとしても、教職員の集団の中に、ファシリテーター的な存在がいなかった。これが課題なのかもしれません。
 ファシリテーターには、単なるコミュニケーション能力だけでなく、専門的な知識・思考力等も必要とされるので、誰でも簡単にできるというわけにはいきません。
 何より賛否が分かれている議論の場合には中立・公平を保つことが求められますので、外部の人材を活用するという発想も出てきます。

 行政系ではもしかしたら教育委員会の指導室長や指導主事が、ファシリテーターとしての役割を果たしていたのかもしれませんが、たとえば「文科省の指定校研究に応募するかどうか」という意思決定については、行政の立場の人間の「中立」というあり方はけっこう難しいものがあります。
 私も「キミは学校の味方なのか、教育委員会の味方なのか」という詰問を校長から受けた経験がありますが、「中立」と「板挟み」というのも意味がちょっと違う気もします。

 外部の人材としては、すでに子どもが卒業している元PTA役員(PTA顧問)なども考えられるかもしれませんが、ファシリテーターはアドバイザーでもなく、コーチでもありません。

 ですから、内部でそのような役割を果たせる人材を育成する必要があることは確かです。
 教師がファシリテーター・スキルを磨くことができれば、授業技術の向上、子どもの学力の向上に結びつくだろうと思われます。
 なお、私は、子どもに対しても、主体的な自治活動の運営を充実したものにするため、ファシリテーターとしての能力の基礎を培う教育が必要だと考えています。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より