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教員採用の望ましいあり方について

 大分県の教員採用汚職事件を受けて、政府の教育再生懇談会(座長、安西祐一郎慶応塾長)がまとめた緊急提言の中に、教員採用・昇任プロセスの透明化を図るため、試験問題の公開を行うなどが盛り込まれたそうです。
 また、教育委員会の閉鎖性を解消するため、事務局幹部職員に教員出身者以外からの積極登用などを訴えているようです。
 政治的には正しい判断なのかもしれませんが、現実には多くの困難と新しい問題が浮上しそうです。
 まず、試験問題についてですが、採用試験の問題分析を行った経験から言うと、全国的に「問題の質が低い」ことは明らかです。古い大学入試問題のパクリのようなものまであります。
 場合によっては、「こんな程度の問題で採用を決めているのか」「この程度の問題ができると教職につけてしまうのか」という批判が新たに浮上するおそれがあります。
 また、当然採点基準の問題が出てきて、自由に伸び伸び書ける論文ほど採点が難しくなり、結果として、見え見えのことばかりしか問えない問題が増えて、そういう問題しかつくれない教師をどんどんつくりだしていくことになります。
 私の考える解決策は、教員免許の有無では資質・能力の適性はほとんどわからないので、司法試験や医師国家試験のようなタイプの資格試験を1次として導入し、各自治体が面接等を中心とした2次試験を行うようにすればよいのではないでしょうか。地方公務員としての身分の問題などがあり、難しいのはわかりますが、各自治体で採用試験をつくるコストというのは日本全体で見れば無駄のような気がしています(外部に委託している自治体もあります)。 
 次の事務局幹部職員の教員出身者以外からの積極登用もけっこうなのですが、結局は問題をつくったり教育の専門的なことに関する判断をするのは教員系の人間です。
 そもそも事務方の採用に教員採用汚職のようなケースがあるかないか、調べないでも予想はつきます。
 ペーパーで点をとる能力はなくても、地元を愛する心があればOKなんて理屈は、「わたくしども空間」重視の日本ならありがちなことでしょう。
 「緊急提言」というものは所詮この程度のレベルのものです。
 教員採用についての意見は、過去にも書いておりましたが、改めてまとめてみようと思います。
 子どもの立場で考えると、「裏金でなった先生?ああ、でも、自分の力で受かったかもしれない先生より、100倍授業はわかりやすく、生徒思いでみんな大好きだったのに・・・」なんてコメントが聞かれる恐れがあることは、封印したいのですがどうしても出てきてしまうかもしれません。
 不正は不正としてきちんと裁かれるべきことは言うまでもありません。
 現場に立つチャンスをたった1年間でも失った人の無念さは痛いほどよくわかります。
 しかし、充電期間が増えたことは、きっと後の子どものためになっていくと思います。
 教師になりたい人は、素直に応援(ヤジも含む)したいです。
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教育」カテゴリの記事

コメント

GAKUさんへ
コメントありがとうございます。
ぜひ夢の実現を果たして下さい。
そのためには、このブログをよくお読みいただくのが近道なのか、それとも逆効果になるのかは、私には判断できませんが・・。
私は教員採用試験も管理職試験もろくな準備もせずに一度で合格してしまったので、ほとんど参考になるアドバイスができそうもなく、たいへん申し訳ないです。
中には「特別な勉強会に入らないと・・・」という人もいますが、そんな必要はありません。
唯一勉強法としてお薦めできるのは、学習指導要領などを含めた教育法規をしっかり「かみしめること」、これに尽きます。
なぜこのような法令になっているのか、を突き詰める姿勢が教師に求められています。当然、中教審の答申などにも目が向けられることになります。
実践経験が少ない人にはこれが近道だと考えます。
教育現場は100あれば100とも異なる環境条件になりますが、唯一、法令と子どもの立場で考える姿勢だけが共通の武器となります。
根底に、子どもの立場で常に考えるくせがついている人は、面接でどんなに「いじわる」な質問が来ても、たじろがないでしょう。
面接や論文で大逆転することは難しいかもしれませんが、「土俵際で残れる教師」を行政も求めていますから、地域や保護者からのきつい苦情一発でまいってしまうような弱そうな人だと見られないことが大事です。
本当に参考にならないですみません。

いつも興味深く読ませていただいております。

教員志望の一人としてコメントさせていただきます。また、コメントの表現が少しキツくなります。申し訳ありません。

採用試験に関してはとにかく基準をはっきりさせていただきたい。それ以外にありません。

「〇〇教育委員会が適格と認めた者」と言う基準って何でしょう?


どれだけの点数なのか、面接でどこを見たのか。基準はどこに置いたのか。言えばキリが無いです。

とても極端なこと言えば、採用された者は教育委員会にとってどこが採用する決め手になり、採用されなかったどこが決め手にならなかったのか。そこまでわかればそう批判されることは無いのではないでしょうか。
あくまでも極端なことですが。

はっきりしてくれたら私は何もいらないです。

やはり、表現が少しキツくなりましたね。改めて申し訳ありませんでした。

いちろうさんへ。
ご感想ありがとうございます。
いつも熱心に訴えていただいてありがたく思っております。
今回は少し具体的なことを書いてしまいましたが、いちろうさんのご忠告の趣旨は文科省もよくわかっていることが内部の事情を知るとわかります。
ただ、最近の文科省は「よくわかっていること」をアピールしたくて拙速の道をとっているようです。
今回の私といちろうさんのやりとりを読んでいる官僚もいるのですが、きっと多くの教訓を得ていることと思います。
固定観念を打ち破るには強靱な粘り強さと現場での実践で成果を見せるしかないんですよね。
その点、文科省という組織の最大の弱点は「自分がやっているわけではない」ことですね。批判はどうにでもできるわけです。
後は具体的にできることを一つ一つ積み上げていき、その評価も短期・中期・長期のスパンで繰り返していくしかありません。

wobbly
雑感として‥
私が小学校の低学年の時、近所にホームレス(あの時代は乞食と言っていた)がいて、祖母が「勉強しなかったら、あんな風になるんだよ」と教えてくれた。
長く、そう思っていたけど、小学校の高学年から中学生時代がオイルショック。大学生の時が円高不景気、働きだしたらバブル、そしてバブル崩壊と経験した。その間、相当インパクトがあったのか、乞食→浮浪者→ホームレスと言われる人たちを見続け、本人の責任だけではないことが実感としてわかった。だから、私の労働運動のベースは、そこにある。
教育の世界はよくわからないことが多いが、「子どもたちの家庭環境の問題に目がいってしまう時期」の意味がわからない。子どもの問題を家庭環境に求めたのか? そうであったら、先生は他人の家庭に対して何かができるのか? 厳しいことを言うが、暗象の“家庭環境のとらえ方”では、“論理的でない”親は反発するだろう。

>特定の生徒の家庭環境の健全化というところが課題になったりしますが、そのために自分の家庭を犠牲にしている教師もたくさんいます。

金八先生の見過ぎ? 人間味という部分が大きく出るから、理屈やマニュアル対応じゃダメでしょう。ダメな人がすればするほど、ドツボにはまっていくことが容易に想像できる。

>教師が社会変革に携われるとして、どんな役割を期待されているのでしょうか。それはすべての教師に期待されているわけですか。

別に、労働運動をしろと言っていないって。家庭に問題のある子どもがいたら、表面じゃなく、さらに個々の家庭の問題とせずに、どうして問題のある家庭が増えたのかを考えることだよ。
引き合いにすずめさんを出すと反発するけど、あの人は、目先の子どもから社会を見ようとしたり、客観的に理解するため(このあたりは疑問があるが)に諸外国との比較をしたり‥と、目が外に向いていることを感じることがある。でも、暗象の目は、ピラミッド型の組織の上の方にいて、子どもだけじゃなく、親までも含め、しもじもを見るように対応している。
営業(先生)の立場として、顧客(子ども・親など)から得られる情報をきちんと受け止め、背景も含め分析して、対応をねることが大切だって、何回も書いていない?  暗象は、文科省と一心同体のように言っているけど、そんなもんじゃないと思う。

>「教育」そのものにほとんど関心のない方もいらっしゃいます。

どうして「教育」から関心が薄れていったのかを考えることが大切なんじゃないの? いつの世も、どこであっても、ある一定程度、問題のある者はいると思うが、極端に増えるということは、どこかに原因があるもんなんじゃないの? そういうことの分析をしないと、民間企業なら潰れるよ。

忘却くんも暗象さんも、すずめさんをさして「子どもの姿が見えない」と言うけど、私は、暗象さんからは「子どもの背後が見えない」と思う。

いちろうさんへ。
誤解されている点については確認をさせていただきます。

>(私)しかし何ともやりきれない
 問いです。

>(いちろうさん)なのか?
 自分が社会の一員であるという
 自覚を持って、社会のために何
 ができるか考えろと言うことが、
 “何ともやりきれない問い”
 なのか?
 そういう考えで教育している
 から、「今どきの若者」が
 できるんじゃないのか?

 この問いは、子どもから親である自分に向かって発せられた「どうして私を産んだの?」というもので、目の前で生徒が保護者に言っていたのを聞いたこともあり、そのときの保護者の表情が忘れられないので
よく思い出す言葉です。

>(いちろうさん)心配しなくて
 も社会の矛盾なんて解決しないよ。
 解決しようという姿勢と、その
 手段を学ばせるんじゃないのか?
 それが、人権思想と民主主義じゃ
 ないのか。

 道徳や社会科の指導要領に沿って教育を行えば、そのような姿勢が中学生にも学ばせることができます。
 新学習指導要領では、「社会参画」というのも重要なキーワードとして登場しました。

>(いちろうさん)労働運動に関して
 の、引用部分のことばは、よく喧伝
 されるが、このことばで暗象が得す
 ることがあるのか? 暗象が教えた
 子どもたちは、幸せになれるのか?
 「自分の給料が下がらないように
 必死に抵抗」という文言からは、
 組合員の利己的な印象を受けるが、
 暗象は、給料が低い方がいいのか?
 給料が上がったらどこかへ寄付して
 いるのか?
 
 給料が下がらないように・・・は別に組合の方を対象に述べたものではありません。
 組合費を払いたくないから加入していないけれど、よく管理職に反発している人もたくさんいました。
 私のいた職場では、分会長みたいな人は職員会議で決まったせりふをいつも言っていたので目立っていましたが、あとの人はだれが組合員でだれがそうでないかは全く分かりませんでした。
 給与水準のことで言えば、私は水準を下げて多少人材の問題はあっても人数を増やすことに賛成しています。
 そのかわり、公務に支障がない教育に関する兼業は積極的に認めるなどの措置が必要です。
 真面目にお答えする義務はないのかもしれませんが、私が毎年寄付をしている団体は全部で5つありますが、それぞれに寄付する理由をもっています。
 授業に必要な資料を提供していただいたりと、十数年というおつきあいになっている団体もあります。
 
>(いちろうさん)自覚を持たずに
 “何ともやりきれない問い”と言
 うから、無責任な人間だと思って
 いる。人間味のなさも、そこから
 来ているんじゃないの?

 中学校の教師の立場としては、やはり社会全体の問題というより、子どもたちの家庭環境の問題に目がいってしまう時期が長かったですね。
 相手の保護者や子どもからも、私は人間味を感じられていなかったからでしょう。
 家庭訪問を幾度となく繰り返し、ご相談にのったり、いろいろな届けものをしても、感謝の言葉を一言も言われなかったという経験もありました。
 いちろうさんのように教育ブログを訪問されるような方もいらっしゃれば、「教育」そのものにほとんど関心のない方もいらっしゃいます。
 日常生活の問題解決でいっぱいいっぱいで、「社会変革」まで手がまわる教師はなかなかいないでしょう。
 学校外のことで言えば、まず第一歩は特定の生徒の家庭環境の健全化というところが課題になったりしますが、そのために自分の家庭を犠牲にしている教師もたくさんいます。
 いちろうさんは、教師が社会変革に携われるとして、どんな役割を期待されているのでしょうか。それはすべての教師に期待されているわけですか。

pig
本当に困った人だ。
禅問答の〆が

>しかし何ともやりきれない問いです。

なのか?
自分が社会の一員であるという自覚を持って、
社会のために何ができるか考えろと言うことが、
“何ともやりきれない問い”なのか?
そういう考えで教育しているから、
「今どきの若者」ができるんじゃないのか?

>社会の矛盾が解決されても、子どもに社会性が育たなければ、すぐ逆戻りしてしまうのは明らかであり、

心配しなくても社会の矛盾なんて解決しないよ。
解決しようという姿勢と、
その手段を学ばせるんじゃないのか?
それが、人権思想と民主主義じゃないのか。

>自分の給料が下がらないように必死に抵抗する運動などを含む

だれも暗象に労働運動をしろとか、日教組へ入れとは言わないさ。ただ、○×しか答えのない頭の中味が問題だと言っている。労働運動に関しての、引用部分のことばは、よく喧伝されるが、このことばで暗象が得することがあるのか? 暗象が教えた子どもたちは、幸せになれるのか?
「自分の給料が下がらないように必死に抵抗」という文言からは、組合員の利己的な印象を受けるが、暗象は、給料が低い方がいいのか? 給料が上がったらどこかへ寄付しているのか? 組合員的には、何もしないくせに利益を得ているエゴイストに見える。最低限の礼儀として、利益を得ているなら批判しないことは必要だと思うよ。
それと、暗象みたいな考え方が拡がったから、バブル期以上の好景気が続きながらも、派遣やワーキングプア、ネットカフェ難民まで増えているんじゃないのか? そこへ子どもたちを送り出しているんだよな。
そういう自覚を持たずに“何ともやりきれない問い”と言うから、無責任な人間だと思っている。人間味のなさも、そこから来ているんじゃないの?

いちろうさんのお話を伺っていると、少子化が進んでいるのは大人たちの合理的な判断の結果であり、「少子化問題」とは実は存在せず、「少子化」が「解答」であるという論者の主張にも納得してしまいます。
なぜ「こんな世の中なのに子どもをつくったんだ?」・・・子どもの立場から言うと、「どうして私を産んだの?」
しかし何ともやりきれない問いです。
教師たちが学校で行っている仕事の一部に、「自分らしい生き方」探しが重視される風潮の中で、不愉快な他人の言動も寛容に受け入れたり批判したりしつつ、共同体としての社会をともに担っていこうとする態度を身に付けてもらうことがあります。
このことはもちろん親も地域の人々もかかわれることですが、共同生活の場である学校が無駄なく指導できる場であることはたしかです。
しかし子どもや保護者によっては他者を理解することが「自分らしい生き方」像からあまりにかけ離れているため、適応できずに「自己実現」の方を優先する人もでてくる。
社会の矛盾が解決されても、子どもに社会性が育たなければ、すぐ逆戻りしてしまうのは明らかであり、教師が担う責務というのはあくまでも子どもに「生きる力」を身に付けさせることであると考えています。
こういうことをかつていちろうさんは「管理主義」「過保護」という言い方で批判されましたが、子どもに目を向けないで「労働運動(自分の給料が下がらないように必死に抵抗する運動などを含む」に熱心に励んでいる教師をたくさん知っている私としては、「はい、その通りです」とは言えない状況にあります。

pout
下の記事で答えを書いているじゃない。

>「望ましいリーダーの特徴」として「正直」を選んだ人が、他国と比べて日本はダントツに低いということです。

国家公務員の人事評価に反対しているのは、イメージ的には労働組合を支持母体に持つ民主党なんだけど、実は、自民党の議員が多い。何故だか知っている?
笑い話のようだけど「口利きや縁故で入れた人たちが排除されたら困るから」と聞いたことがある。その点、渡辺大臣は頑張っていたと思うが、やっぱり今回の内閣改造で消えてしまった‥。
こういう日本社会の矛盾に目を向け改善する努力をしないで、子どもたちをそういう世に送り出すのは、無責任じゃないの?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より