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PISA型学力と教育の「超越性」

Psycheさん、コメントありがとうございます。
 日本人は基本的に「ものまね」が好きですよね。
 教員研修でも、すぐにそのまま真似ができるような内容が教師からは好まれます。
 しかし、記事の本文中にあったフィンランドの教師の言葉からわかるように、教育は表面をなぞったような活動だと、ちょっと不測の事態があったときに教師は対応ができません。
 そのためにも、教師はさまざまな理論で武装し、最適なものをその場で瞬時に組み合わせて実践する能力が求められています。
 教育実習が思い通りにいかなかった理由を「大学での教職課程」のせいにしたくなる気持ち、「もっと現場で(すぐに)役に立つスキルや知識を教えてほしい」という気持ちはわかりますが、マニュアル主義を求めること自体、教育そのものを誤解していることになるのですね。
 これは「いちろう」さんがコメントされている趣旨と同じです。

 理論(知識)自体が無駄であるわけではなく、その使い方がわかっていない・・・・これは学校教育で教えていることも同じことです。
 「使いみち」を入試に限定すると、その「使い方」をよく知っている子どもは有利です。
 では、入試が終わった後はどうなるか・・・・。
 PISA型の学力は、「答えが一つとは限らない実生活、実社会を想定した知識や技能の使い方が身に付いたかどうか」に重点がおかれているので、それが重視されている最近の状況は歓迎すべきことかもしれません。
 しかし、フィンランド型の学習を実験したある学校で、「日本でそのまま実施するのは難しいが、総合的な学習の時間でやってきたことが生かせる」という報告が出ているのに、その総合の時間はカットされていく・・・。
 現行の学習指導要領では、学校の教師集団の叡智を結集した総合学習が可能でしたが、新学習指導要領では、その学習を教科内で実施することになりますので、教師一人一人の力量に左右されることになりました。
 そして、結局は、「入試への使いみち」が問われる時期が目前になっていて、かつそれが十分に身に付いてない状況があれば、教師は何を学ばせようとするのか・・・。

 佐藤優の言葉に、「構築主義、設計主義を徹底的に詰めるところから、『命がけの飛躍』の必然性を感じ取るのだと思う。このようにして、感じ取った超越性が、寛容と多元主義の根拠になる」というものがあります。
 教育の「超越性」に教員養成の過程で気づかせることができるのか、教育現場で気づくことができるのか、それはやはり本人の「教養」と「直観力」次第でしょうか。
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教育」カテゴリの記事

コメント

新学習指導要領が、欲ばりな内容であることは確かです。
しかも、教育基本法と学校教育法の改正を受けての指導要領ですから、盛り込まれる内容が多いのはいたしかたありません。
いちろうさんの
>関われば関わるほど依存的になり
というご指摘がありますが、教師としての実感としては、適切な関わり方をしていけばいくほど、子どもは成長し、「依存体質」から「自立体質」に移行します。
もちろん、時間だけとって、子どもが成長しない場合には、批判の対象となるでしょう。

wobblywobblywobbly
>その両方を教科の学習を中軸として身に付けさせようとしているのが新学習指導要領です。

???
フィンランドは、日本より授業時数が多いのか?
フィンランドの家庭や地域は、
日本より子どもと関わっているのか?

関われば関わるほど依存的になり、
うまくいかないと関わった者を批判するんじゃないの?

報道の範囲でしか知らないが、
授業時数を増やしたり、内容を増やしたり‥、
結局、
より多く関わる方向へ進んだと認識している。

もともと知識・技能活用型のPISA型学力に課題があるというのは、数年前の教育課程実施状況調査から問題になっていたのですが、そこに力を入れようとしたのが、現行の学習指導要領でした。
そこに基礎・基本の習得も十分でないことが問題となり(「学力低下」論)、その両方を教科の学習を中軸として身に付けさせようとしているのが新学習指導要領です。

typhoon
意味不明なんで、質問があります。

学力低下論のもと、とられた政策が、
どうして日本より学力の低い国のマネなのか?
違う目的があるとしか思えないんだけど?

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
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    「孟嘗君 2」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より