子どもを人間関係の問題に由来するプレッシャーから解放する方法について、北川達夫・平田オリザの対談書「ニッポンには対話がない」(三省堂)から話題を一つとりましたが、もう一つ目をひいた考え方に、「シンパシーからエンパシーへ」というものがありました。
日本では、「心からわかり合おうとするのが本物のコミュニケーション」とか、「心からわかり合える人間関係をつくりなさい」と教えていくような文化があり、自分自身、「しっかり話し合えば理解し合える」「相手の気持ちになって考えてあげればいい」などと指導した覚えもあります。
しかし、このことが、子どもたちには大きなプレッシャーを与えているのではないかというのが、平田オリザの考えです。
たしかに、「どう考えてもあの子どもの行動は理解できない」と言って、指導を放棄するような教師の言動を見てきたことをふまえると、「子どもたちの心を完全に理解しきること」が、指導の前提ではないということに気付きます。
子どもが「相手の気持ちになること」は、特に感情的にもつれてしまった相手を想定すると非常に難しいことであり、「そんなことはできない」ともっと心の殻を硬く、厚くしてしまう逆効果の指導であった可能性が高いと思われます。
心からわかり合うことだけがコミュニケーションではない、というのは、ヨーロッパ諸国では常識のようで、大使館員の方も上司から「わかり合おうなんて思っちゃいけない」などという忠告・指導があるようです。
では、どうするのかというと、感情移入型のコミュニケーション、シンパシーを前提としたコミュニケーションだけではなく、エンパシー型、自己移入型のコミュニケーションをとっていくべきだという考え方があります。
これは、いくら相手の気持ちを察しようとしても、結局は相手の気持ちはわからないという前提に立って、もし自分がその立場だったら、どう考えて行動するかを考えるという、自己の状況判断を重視した思考をもつということです。
「人間は互いに理解し合える」という前提をまともにはずすことは、日本の教育現場では決してできないことでしょう。
しかし、もしそれが教育現場の指導上、否定できない前提であったために、コミュニケーションができない、進展しない、回復できない、そんな状況から脱却できないケースは実は多くの教師が感じてきたことかもしれません。
せめて、「価値観の違う人間が互いにわかり合うのは難しい」という前提にして、では、どのようにコミュニケーションをとるべきかと考えれば、自分がその「理解できない」相手の人間だったとしたら、どうするのか、どうしてほしいと思うのか、といったところに進むことができ、もしかしたらコミュニケーションが成立するきっかけになるかもしれない。
「理解できない」と思われた相手と自分の共通点は何か、何が好きで、何が嫌いか、そういうところに思考がはたらいていく。
協調性から社交性へ、という言葉で表現されているのも、「わかり合える」「わかり合わなければいけない」という前提からもしコミュニケーション不全に陥るのなら、「相手を理解するために何が必要か。相手に理解してもらうために何が必要か」が考えられるコミュニケーションを導入すべき、という趣旨を表しています。
そう考えると、日本の子どもたち(大人もそうですが)には、「協調性」は強く求められても、「社交性」は求められてこなかった気がします。
このような問題は、世代や立場によっても考え方がかなり異なるかもしれませんが、いかがでしょうか。



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