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2008年8月

厳しい「公教育」現場を逆の視点で見ると・・・

 公教育(公立学校の教育という意味で)=荒教育の認識は暗いニュースや教員の不祥事がある度に人々の心に濃縮されていく模様です。
 
 しかし、公教育広教育であり、学力も、価値観も、非常に多様な生徒が集まる分、「本当の次世代の人間性」を高めていく上では最も恵まれた環境であるかもしれません。

 生徒たちにとって、公教育幸教育好教育厚教育の場となるよう、現場の私たちはがんばるのみです。

 そのとき、ネックになるのは、公教育溝教育であることです。
 教師間での指導観、生徒観、教育観の溝が、変化や改革を拒む性質をもっています。
 それも子どもの状況と同様に、「多価値・多文化共生社会」を生き抜く智恵を獲得するチャンスの場と捉えられるかどうか。

 議論や討論の場は、最低限、自治会、生徒会で持たれることが必要です。
 それだけでなく、(職員会議とは別に)教員の会議でももっていくことが必要かもしれません。

 公教育攻教育の姿勢はくずしたくないと思います。
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コミュニケーション不全からの脱却のために

 子どもを人間関係の問題に由来するプレッシャーから解放する方法について、北川達夫・平田オリザの対談書「ニッポンには対話がない」(三省堂)から話題を一つとりましたが、もう一つ目をひいた考え方に、「シンパシーからエンパシーへ」というものがありました。

 日本では、「心からわかり合おうとするのが本物のコミュニケーション」とか、「心からわかり合える人間関係をつくりなさい」と教えていくような文化があり、自分自身、「しっかり話し合えば理解し合える」「相手の気持ちになって考えてあげればいい」などと指導した覚えもあります。

 しかし、このことが、子どもたちには大きなプレッシャーを与えているのではないかというのが、平田オリザの考えです。

 たしかに、「どう考えてもあの子どもの行動は理解できない」と言って、指導を放棄するような教師の言動を見てきたことをふまえると、「子どもたちの心を完全に理解しきること」が、指導の前提ではないということに気付きます。

 子どもが「相手の気持ちになること」は、特に感情的にもつれてしまった相手を想定すると非常に難しいことであり、「そんなことはできない」ともっと心の殻を硬く、厚くしてしまう逆効果の指導であった可能性が高いと思われます。
 
 心からわかり合うことだけがコミュニケーションではない、というのは、ヨーロッパ諸国では常識のようで、大使館員の方も上司から「わかり合おうなんて思っちゃいけない」などという忠告・指導があるようです。

 では、どうするのかというと、感情移入型のコミュニケーション、シンパシーを前提としたコミュニケーションだけではなく、エンパシー型自己移入型のコミュニケーションをとっていくべきだという考え方があります。

 これは、いくら相手の気持ちを察しようとしても、結局は相手の気持ちはわからないという前提に立って、もし自分がその立場だったら、どう考えて行動するかを考えるという、自己の状況判断を重視した思考をもつということです。

 「人間は互いに理解し合える」という前提をまともにはずすことは、日本の教育現場では決してできないことでしょう。

 しかし、もしそれが教育現場の指導上、否定できない前提であったために、コミュニケーションができない、進展しない、回復できない、そんな状況から脱却できないケースは実は多くの教師が感じてきたことかもしれません。
 
 せめて、「価値観の違う人間が互いにわかり合うのは難しい」という前提にして、では、どのようにコミュニケーションをとるべきかと考えれば、自分がその「理解できない」相手の人間だったとしたら、どうするのか、どうしてほしいと思うのか、といったところに進むことができ、もしかしたらコミュニケーションが成立するきっかけになるかもしれない。
 「理解できない」と思われた相手と自分の共通点は何か、何が好きで、何が嫌いか、そういうところに思考がはたらいていく。

 協調性から社交性へ、という言葉で表現されているのも、「わかり合える」「わかり合わなければいけない」という前提からもしコミュニケーション不全に陥るのなら、「相手を理解するために何が必要か。相手に理解してもらうために何が必要か」が考えられるコミュニケーションを導入すべき、という趣旨を表しています。

 そう考えると、日本の子どもたち(大人もそうですが)には、「協調性」は強く求められても、「社交性」は求められてこなかった気がします。

 このような問題は、世代や立場によっても考え方がかなり異なるかもしれませんが、いかがでしょうか。
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幼児の感じている微妙な違い

 仰向けに寝ている母親のおなかの上では立たないのですが、私のおなかの上では立ってバランスをとっている幼児の娘。
 ときどき頭から布団に落ちて泣いていますが、チャンスがあればチャレンジしてきます。
 なぜ母親の上では立たない娘が私の上では立つのか。
 足場の広さの問題か、硬さの問題か。
 心配そうに悲鳴を上げるのが母親で、喜んでいるのが私だからか。
 母親は困らせたくなくて、私は困らせたいからか。
 今のところ有力な説は、母親のうつぶせの状態の背中の上では立つので、足場の安定性に左右されているというものです。
 背中の上では倒れても受けとめてもらえないのですが、わかっていながらか立ってしばらくすると歩き出し、そして落下します。
 幼児でもいろいろな「違い」を肌で感じながら成長していくのだなと思いました。
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授業が上手な人と比べられたくない教師

 「日本人はどこまでバカになるのか」など、売り上げがあまり期待できない教育関係の本は、内容が乏しいのにタイトルだけ過激になる傾向があります。
 現場を知らない大学教授ならともかく、元中学校教師が当たり前の学力観を披露し、しかもそれによって学力が向上するなどとした主張が見られる本は、現場では何の役にも立たないわけですが、少しでも早く「当たり前のことが当たり前のようにできていない」現実を直視して、そこから出発する手がかりになることを望みます。

 日本の学習指導要領や全国的な学力調査などを「悪玉」にしているから、自分の議論の正当性をかもしだすのに「善玉」が必要ですが、これが、フィンランドの教育だったりする。

 日本より2割も安い給料なのに、社会から尊敬され、高い競争率を突破し、高度で長期間の実習を受けてから現場に出るフィンランドの教師たち。
 その資質・能力を学びとることを日本の教師に進めるのではなく、日本の教育制度の「悪さ」と外国の教育制度の「よさ」ばかりを強調する構成。
 日本の教師と子ども不在の教育論ほど説得力のないものはありません。
 
 教師は、人と比較されるのを嫌う職業人です。
 特に、自分より授業がおもしろい、わかりやすい、内容が深い、板書がきれい、声が聞き取りやすい、・・・などという長所をもった教師と比べられてしまうのはつらい。

 しかし、教職2年目と、30年目が「同僚」として現場にたち、同じ教育課程のもと、同じ子どもたちに向き合う学校現場という環境では、教師に「逃げ場」はありません

 学校の教師と塾の講師は別物で、比較すること自体がナンセンス・・・・・
 などと主張する人がいますが、子どもの立場になって考えてみれば、そういうことを言うこと自体がナンセンスになります。

 学校の授業はわかりにくいけど、塾で理解できるようになった・・・という子どもはどれだけいるのでしょう。

 学校の教師が塾の講師に「教え方」を学ぶのは、「学べる教え方」に関心があるからであって、部活動で勝つ方法や合唱コンクールで賞をとるコツを習いに行くわけではありません。

 「学校の教師は、授業をすることのみに特化した職業ではない」なんていうことは当たり前のことです。
 そこで、学校の教師が授業のコツを学ぶ相手が、どうして学校以外の人ではいけないという論理になるのか。
 これは、要は、「授業が上手い人」と比べられたくないという、教師の特質を物語っているにすぎません。
 
 ここで、おそろしい逃げを打つ言葉が目に入ってきます。

教師にしても、「自分は、教えるのはうまくないけど、生徒のやる気を起こさせることは約束できる」というくらいのことは言ってもいいはずである。そんな言葉をそのまま口にすれば、まったく問題がないわけではないが、それくらいの気概と自信をもつべきではないだろうか。

 そういう自信をもっている教師は、やる気を起こさせるだけの仕事をして、あとは他の教師に授業をゆずるべきでしょう。
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自分も他者も、社会も変わるという前提

 フィンランド関連の図書を読んでいる一環で、北川達夫・平田オリザの対談の書「ニッポンには対話がない 学びとコミュニケーションの再生」(三省堂)に出会いました。
 
 「同じ」が前提でなく、「違い」が前提のコミュニケーションの必要性、既存の価値観からの脱却など、参考になる多くの視点がありました。

 この本の中で、平田オリザの「ほんとうの自分」なんてどこにもない・・・という小論が目をひきました。

 その個々人のものは、個人のなかにあっていいのだけれど、それが表に出てくるとき(仕事や人間関係)には、そこに変化があってもかまわない。その変化を受けて、「個人の内心」もまた、ゆっくりと変わっていく。

 「自分に合った仕事をみつけよう
 「ほんとうの自分を見つけよう
 「ほんとうの自分の意見を言おう
という言い方、アドバイスを、大人は無意識にしていないだろうかと、自問自答すると、同じようなことを指導した記憶がよみがえってきます。
 しかし、「ほんとうの自分」など、簡単に見つかりはしないことを、自分自身、真剣に考えてきたか。

 人は、相手に合わせて意見や言い方を変えることがあるし、相手が変われば、おおげさに言うことも、論理的に説明することも、少し省略して言うこともある。
 言い方を変えると、「役割を演じる」ことがある。
 心に大きな負担を抱えている子どもには、「ほんとうの自分らしくいこう」などとは言わずに、逆に「人によって態度を変えてもよい」「ほんとうの自分などは考えずに、好きなように演じてかまわない」・・・などの方が響いていくようです。

 自分に合った仕事がある、という前提からスタートするのではなく、いろんな経験をとおして、認識は変わり、場合によっては職場を変えていくこともできる・・・
 社会的な関係性や他者とのコミュニケーションの積み重ねによって、人も自分も変化していく。
 そして、人や自分の輪郭が徐々に明らかになっていく・・・。
 そんなつもりでチャレンジしていく・・・。
 人とのコミュニケーションもそういうものだと考えていきたいものです。 
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新学習指導要領で学力低下が進むと主張する「学者」

 新学習指導要領を真っ向から否定している著書に、尾木直樹著「日本人はどこまでバカになるのか」(青灯社ブックス)があります。
 著者は元中学校教師で、教育評論家時代はいじめや不登校の問題でよくTVに出演していましたが、現在では法政大学キャリアデザイン学部教授、早稲田大学大学院客員教授という肩書きがついて、文科省の政策への批判を展開するようになっているようです。

 学習指導要領批判とセットにして紹介しているのが全国的な学力調査
 全国的な学力調査に批判的な人に共通する特色は、これを「全国一斉学力テスト」と呼ぶことです。
 授業の実際や学習習慣についての質問紙調査もあるので、呼び名としては適切ではないのですが、負のニュアンスをにおわせるのには最適の呼び方です。
 「子どもたちの学習の改善に何も役立たない」かどうかは、現場の教師の活用次第、指導の改善次第であることを私は述べましたが、著者は「教師はどのような実践をするか」という前提条件を排除した論理が中心なので、このような極端な結論になってしまいます。
 
 文科省批判にセットとして肯定的に利用しているのが、フィンランドの教育です。
 その目指している学力に共通するものがあることは、記事やコメントでふれていますが、著者は学習指導要領の学力観の構造が古いと批判しています。
 では独自の?学力観が新しいかというとそうではなくて、基礎基本を育てながら活用力を培うという、普通の指導論を述べているだけです。
 
 夜スペにも批判を展開していますが、著者はさまざまな要求は現場の教師が請け負うべき、しかしそのためには「教員増」「一学級の生徒定数減」「教師がじっくり研修を受けて力をつける」などの行政(国)の地道な努力以外にない・・・というタイプの結論づけです。
 「そこを忘れて、安易に進学塾のDMに応募するのは、いかがなものか。」と言いますが、こういう時間感覚や経営感覚のない言葉によって、励まされる人はだれなのでしょうか・・・。

 教師の指導力向上について、「早稲田アカデミー」が実施しているセミナーに対しても著者は「悪いことではない」と言いながら、「教師」と「講師」は違うという論理のもとで批判していますが、その主張は明らかに的はずれであり、偏見に満ちています。
 フィンランドの教育をもちあげ、文科省の教育政策を批判するのはいいのですが、全然見えてこないのが、日本の教師のことです。
 ごく一部に見られる教師批判が、「授業の進め方や指導法といった教師の本質に関わる領域がアウトソージング(外部委託)されていることに抵抗を感じる教師が少ないことも、嘆かわしい現実である。」といったような文言でしょうか。

 その理由が、自分たちが「教師」ではなくそのような「講師」の恩恵を受けて今があるから・・・というものであったら、やはり教師の資質・能力を問題にする方が先なのではないかと思ってしまいます。

 著者がPISA型学力低下を食い止める切り札にしているのは、家庭の教育力の向上です。
 しかし、「家族の団欒をとり戻せ」とか、「パソコンは居間に」とか言っても、そう簡単にはいかない家庭もあるでしょうし、「読書の力」とか「基本的生活習慣の確立」なんて当たり前のことです。

 国づくりのグランドデザインがないとか、そういう大げさなことを言っている場合ではなくて、今、目の前の子どもにどんな意味のある学習指導ができるか、生き方指導ができるかが現場では問われているわけです。
 ほぼ予想通りの内容ではありましたが、PISA型学力にふれた本に目を通そうとしているので、仕方がありません。
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教育の「つながり」度の違い

 先日初めて参加させていただいた歴史のある研究会は、ある都市圏の先生方が母体となっているもので、私は「他の都市圏の教師」として紹介される立場でした。

 そこで私が日本でも学校文化というか、教育文化の違いがあるということに驚いたのは、その地域の道徳や特別活動の授業では、生徒にかなりつっこんだ家庭環境を語らせていることを知ったときでした。

 「自分の本当の父親はわからない」とか、そういう悩みが生徒から発せられる授業というのは、私のいる地域では想定にありません。

 そこまで言い合える人間関係を構築している学校パワーというのもすばらしいのですが、一般の人は、たとえば自分の親がバツ2だとか、前の父親と今の父親の違いとか、最近の夫婦の関係だとか、そういうことがクラスの授業で発表されている状況というのはとても理解できないものでしょう。

 一方で、個人情報保護の観点から、住所録が存在せず、子どもがいまどの家に遊びに行っているのか、友達がどこに住んでいるのかがわからないという地域もあるわけです。

 教師と子ども、子どもと子ども、保護者と子ども、保護者と保護者、教師と保護者・・・その「つながり」度の違いは、とてもさまざまなレベルで存在しているようです。
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子どもの発言の「機会」と「義務」

 道徳教育の難しさは、「そんなことは当たり前」「正しいものは正しい」「間違っているものは間違っている」という一見すると思考を必要としない内容ばかり扱うのですが、問題はそれを子どもの内面に根ざした道徳性にするために、どのような指導ができるかということです。

 その段階で活用できるのが指導要領の「解説」なのですが、こちらは法令ではないので拘束力がありません。読んでなくて「知りませんでした」と言う教師を、「法令じゃないんだからそんなの読む義務はない。別にかまわないでしょう」とすましてしまう空気は、外部の人はともかく学校にも蔓延しています。
 そういう体質が、教育政策への要求を高めたい人たちを刺激していく。
 すると教師には「やらされ感」が強い教育政策となってはねかえってくる。
 道徳教育に限らず、そんな傾向が繰り返されていることは明白です。
 
 しかし、学習指導要領の内容にしろ、解説にしろ、現場での指導の成果がたくさん盛り込まれていることは、細かく各学校の研究成果の発表内容などとつき合わせなくてもわかります。
 学習指導要領の内容やその解説は、新しいものですら、現場の叡智がつまっているものがあります。
 
 いずれにせよ、道徳教育の具体的な指導の工夫については各教師の力量、学校の組織的指導力にかかっています。
 「だめなものはだめ」という指導だけでは、「だめだと言われたからだめ」という思考停止状態を生んでしまうおそれがある。
 そこで大きなヒントになるのが、そもそも多様な価値観、異文化をもっている人間同士が一緒に過ごす国の教育です。

 フィンランドの教育について本を読んで興味深かったのは、子どもは教師に指名されても、「発言する義務はない」と考えられていることです。
 「機会(チャンス)」と「義務」をはっきりわけている。
 今、日本の教育では、指名に対して発言しないと、「関心・意欲・態度」の面で問題があると評価されてしまうおそれがあります。
 このようなことを一つ一つ丹念に調べて、たとえば帰国子女の学校不適応の問題、増加傾向にある外国籍の子どもたちへの配慮事項などを考えていくことも必要でしょう。

 さて、道徳教育の内容にも、「それぞれの個性や立場を尊重し、いろいろなものの見方や考え方があることを理解」するというものがありますが、その題材として外国人や自分と明らかに立場が違う人を題材にするというのは一つの方法ですが、今の日本の子どもにたちには、「ほとんど同じような考え方をしていると思われる友達」でも、自分と異なる考えやその考えの背景となる経験をもっていることに気付くような活動がたくさん求められていると思います。
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社会関係資本喪失の結果と道徳教育の課題

 社会的な交流、人と人との信頼関係、社会参加の度合いなどで測定できる「社会における人と人との絆」をソーシャルキャピタル(社会関係資本)とよぶそうですが、その喪失がもらたしている、あるいはその喪失状況を物語っていると考えられる事件が相次いで起こっています。
 親殺し、無差別通り魔殺人、自殺、・・・。
 人は誰にも相手にされなくなったとき、期待してくれると思っていた相手から気持ちの上で裏切られたとき・・・何らかの形で自分の存在を、より広く(ということはマスコミが取り上げるような大きなことを)示そうとしてしまうことがある・・・。
 自分の存在を示すことが最優先されるので、どんな犠牲が払われようと、相手が何を失おうとかまわない・・・。
 「ソーシャルキャピタルの喪失」がそのような事件のすべての原因であるわけではないでしょうが、その影響の大きさを考えてみたいものです。

 ソーシャルキャピタルが多いほど経済活動は活発になりますが、一方、その結果として格差がおこり、「持たざる人」の自尊心を傷付け、「持てる人」と「持たざる人」の断絶社会活動、経済活動の停滞をもたらす・・・。

 ソーシャルキャピタルの喪失要因を経済活動の結果だけに求めるなら、企業の「門戸開放」などで対応できるかもしれませんが、教育のあり方にその根本原因を求めていくとどうなるのか。
 「学力格差を広げない」という要請がもし公立学校に求められているとすると、何ができるのか。何をしてはいけないのか。
 このような文脈から、様々な立場の様々な意見が展開されています。
 「学力格差を広げないため」の施策を述べると、「学校は学力をつけることだけが目標の場所ではない」という当たり前のことを言って批判しているつもりの人もよく登場します。 

 新しい学習指導要領の総則の「教育課程編成の一般方針」では、知・徳・体のうち、「」の部分の記述が改正教育基本法などを受けて分量的にも大きなものになったのが特徴で、固定観念をはずした広い意味での道徳教育が担うべき様々な課題が示されています。
 豊かな体験活動を通して表面的な理解ではなく生徒の内面に根ざした道徳性の育成を図る際に、特に
生徒が自他の生命を尊重し
規律ある生活ができ
自分の将来を考え
法やきまりの意義の理解を深め
主体的に社会の形成に参画し
国際社会に生きる日本人とての自覚
を身に付けるようにすることなどに配慮しなければならないこととされています。

 このような教育は、学校の教育活動全体を通じて行うもので、「道徳の時間」はその「」として存在する、ということも学習指導要領では示されています。
 「要」の時間の重点目標は何か、何を指導するのか、各教科や総合的な学習の時間、特別活動における指導内容との関連は何か、これらのことの説明責任は、各学校では校長がもつのは当然ですが、教師たちの中心に、「道徳教育の推進を主に担当する教師(道徳教育推進教師)」が位置づけられていることも特色といえます。

 そんなこと言われても、「お前にそんな立場になる資格があるのか」と追及されると困る、と思ってしまう教師がいるかもしれません。
 当然、子どもに行う道徳教育の内容をふまえた自分自身の問いかけも、忘れずにいきたいものです。
 教師の自問自答用の、チェック項目として・・・・。

(中学校の場合)
1 主として自分自身に関すること。

 (1) 望ましい生活習慣を身に付けていますか? 心身の健康の増進は図られていますか? 節度を守り節制に心掛け、調和のある生活をしていますか?
 (2) より高い目標を目指し、希望と勇気をもって着実にやり抜く強い意志をもっていますか?
 (3) 自律の精神を重んじ、自主的に考え、誠実に実行してその結果に責任をもつことができていますか?
 (4) 真理を愛し、真実を求め、理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていっていますか?
 (5) 自己を見つめ、自己の向上を図っていますか? 個性を伸ばして、充実した生き方を追求していますか?

2 主として他の人とのかかわりに関すること。
 (1) 礼儀の意義を理解していますか? 時と場に応じた適切な言動をとっていますか?
 (2) 温かい人間愛の精神を深め、他の人々に対し思いやりの心をもって接していますか?
 (3) 友情の尊さを理解して心から信頼できる同僚をもち、互いに励まし合い、高め合う、そんな職場環境をもっていますか?
 (4) 異性についての正しい理解を深め、互いの人格を尊重するような態度がとれていますか?
 (5) それぞれの個性や立場を尊重し、いろいろなものの見方や考え方があることを理解して、寛容の心をもって謙虚に他に学ぶ姿勢をもっていますか?
 (6) 多くの人々の善意や支えにより、日々の生活や現在の自分があることに感謝し、それにこたえることができていますか?

3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
 (1) 生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する姿勢を大切にしていますか?
 (2) 自然を愛護する活動をしていますか? 美しいものに感動する豊かな心をもち、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めるような機会をつくっていますか?
 (3) 人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて、人間として生きることに喜びを見いだすように努めていますか?

4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。
 (1) 法やきまりの意義を理解し、遵守していますか? ばれなければいいなどと思っていませんか? 自他の権利を重んじ義務を確実に果たして、社会の秩序と規律を高めるように努めていますか?
 (2) 公徳心及び社会連帯の自覚を高め、よりよい社会の実現に努めていますか?
 (3) 正義を重んじ、だれに対しても公正、公平にし、差別や偏見のない社会の実現に努めていますか?
 (4) 自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め、役割と責任を自覚し集団生活の向上に努めていますか?
 (5) 勤労の尊さや意義を理解し、奉仕の精神をもって、公共の福祉と社会の発展に努めていますか?
 (6) 父母、祖父母に敬愛の念を深め、家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築くことができていますか?
 (7) 学級や学校の一員としての自覚をもち、教師や学校の人々に敬愛の念を深め、協力してよりよい校風を樹立するよう努めていますか?
 (8) 地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し、社会に尽くした先人や高齢者に尊敬と感謝の念を深め、郷土の発展に努めていますか?
 (9) 日本人としての自覚をもって国(政府などという狭い意味ではなく、郷土や風土や文化、国民などを含む広い意味としての「国」として)を愛し、国家の発展を努めるとともに、優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献していますか?
 (10) 世界の中の日本人としての自覚をもち、国際的視野に立って、世界の平和と人類の幸福に貢献しようとする姿勢をもっていますか?

 子どもに対しては、指導上、必要となる道徳教育の内容がおわかりいただけたと思います。
 上記の文言は、あくまでも自問自答用のものです・・・。
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相手に反論される心配のない批判

 教育関係者を名乗る他のブログの管理者の中に、大げさなタイトルで何の根拠もなく批判して見せて、それに対する根拠つきの指摘や質問に答えられない人がいます。
 
 一般の方が教育について自由な意見を述べられるのは喜ばしいことだと思いますが、公務員を名乗る人が何の根拠もない(というかおかしな偏見に基づいて)話を書くことに、私は非常に敏感に反応してしまいます。
 特にわざわざTBしていただいた方の記事は、いつも読ませていただいております。
 私は、その記事をふまえて、主張の根拠にあたる部分についての具体的な質問や、別の見方の提供をさせていただくことがあります。

 「コメント欄」の位置づけは管理者によって自由でかまわないと思いますが、読者の具体的な指摘に何もリアクションできないということは、批判の主張を認めたという解釈をしてかまわないのではないかと思います。
 もし誤解であるなら、コメント欄、もしくは記事等での反論があってしかるべきでしょう。

 私のように、「なんだ、お前は自分を棚に上げて」と思われる人間は、教育に携わるものにとっては避けられないことで、逃げるとか逃げないとかではなく、自分も理想に近づきたいし、他の人にもそうあってほしいという希望ととらえていただくしかないのではないかと思います。

 教師の子どもが不登校になるケースを私もたくさん知っていますが、その教師に不登校児童・生徒の指導を任される資格がないかというと、そうではないし、学力が不振な子をもつ教師が、何で自分の子どもの勉強も見られないやつが人に教えるんだという話でもないでしょう。

 自分の考えを表明する権利はだれにでもあります。ただし、公務員ならその根拠を示す責任や義務がついてくるのは当然だと考えています。
 しかし公務員の中には、未履修等の不正や犯罪行為は問題外として、自由や権利責任や義務より優先してしまうタイプの人がいて、それが公教育の信頼を損ねる原因の一つと考えているので、どうしても指摘したくなってしまいます。

 このような問題に対する批判は自由ですし、批判に対する批判も自由です。
 ただし、批判には具体的な根拠を事実として述べていただかないと、その根拠の確からしさ、事実の真偽をもとにした議論ができないので、「相手に反論される心配のない批判」=「批判のための批判」になってしまうと考えられます。
 
 そうは言っても、望ましい成果が出にくい教育活動については、「批判した人」が常に優位に立てるという状況は避けられない気もしています。
 それでも信頼そのものを損ねることのない教師のあり方を追究したいと考えています。
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「同じ意見」を持つ人は「同じような人間」?

 今、子どもたちは、「批判、非難」に対して敏感に反応し(掲示板の悪口なども含めて)、『折れやすい』心をもっている、そんな印象は現場にいる多くの教師たちも思っているかもしれません。

 批判、非難された人を守る手段として、「批判者を非難する」「味方になる」「肩をもつ」という方法があることもよく知られています。

 実際には、それが本当の意味で防衛に役立っている場合もあれば、批判された人をさらに孤立させる場合もあります。
 子どもの場合は、これが「いじめ」に転化するケースも多い。

 大人の社会でも、「私も同じ意見である」という表明をした途端、「仲良しグループ」「肩をもっている」「(批判している自分と)敵対しようとしている」と見られる傾向がある場合には、双方の視野をより広げていく工夫が必要になります。
 どうしても、人を特定の属性のもとにくくりたくなる人はいるわけで、「たまたまある事項に関する意見が同じになっても、個は個である」という判断をしていきたいものです。

 現場での実践を通して、子どもがいじめなどを受けて「孤立感」「孤独感」に苦しめられる背景には、「同じような行動をとる人」は、みんな「同じような人」「みんなまとめて同質的に私の敵」だという決めつけをする心理的傾向が背景にあるのではないかと考えています。

 苦しい立場はわかりますが、たとえば、「シカトする」という「同じような行動をとる人」の中にも、自ら進んでやっている首謀者と、その指示に何となく従っている人本当はやりたくはないが、自分が次にそういう目にあわないようにやってしまう人さまざまな「個」がいる想像力をもてるようになることは、自分を守る武器になります。
 もちろん、「私を守ってくれる仲間」の存在を常に意識できるような環境をつくることも欠かすことはできません。
 
 ある特定の問題に対する見解だけで、その人物像を理解しようとすること、また、その人物像をつくあげているんだろうと思ってしまうことは、どうしたら防げるのか。

 「いじめ」問題は別として、このあたりの問題は、文字情報だけの世界(最近は絵文字を活用し、感情表現も加える方もいますが)では難しいことかもしれませんが、やはり事実と意見、質問と意見の区別、根拠になる事実の明示、答えを出すべき人が出す、ということに心がけていくしかないのかもしれません。
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ダメなファシリテーター その4「まとめ方」

 研究授業等で、1単位時間の「まとめ」が上手だなあと感じる授業は意外と少ないものです。
 展開の内容でよくばりすぎたり、もともとの「目標」が不明確だったりすると陥りやすい指導上の課題です。
 
 ファシリテーターとしての「話す」「尋ねる」「聞く」活動は、「対人力」の比重が高いものでしたが、「まとめ方」となると、ぐっと「分析力」「思考力」が問われるものになります。
 まとめ方、分析の仕方としてのミスとしてありがちなのは、

 第一に、質問と意見を混同する人
 「教えてほしい」と質問の形から入っていながら、実際には「お前の考え方はおかしい」という意見を言っているにすぎないケースがよくあります。
 (私も他の方のブログのコメントにはこのような「質問」をします・・・が、たいてい黙殺されます。相手の方としては正当な判断でしょう。)

 形式上は質問の形をとっているので、回答しないと、「なぜ質問に答えないんだ」となるし、回答すると、「何を見当違いのことを言っているんだ」という意見が繰り返される。
 まさに進行役なかせの発言というのはよくあります。

 ここでは、相手を怒らせても、質問はこういうことですか、これについてはこのとおりです、このことはご意見ですか、それは、ご意見として承っておきます・・・と進めるのがよいのでしょう。

 第二に、事実と意見を混同する人
 自分の意見が正しいことを強調したいため、人を納得させるために、事実をもりこみながら述べる人がよくいますが、その事実は意見の根拠にはなっていない場合が多いのです。
 性格にもよりますが、いきなり相手の論理の飛躍を責めたくなる私のような人間は、ファシリテーター向きではないかもしれません。
 しかし、そのコントロールを上手くやっていくことは、教師にも求められる資質・能力です。

 事実は事実として生かしながら、さまざまな意見を引き出していくこと。
 ファシリテーターは、意見を述べたい人だけに発言させることなく、より意見が述べやすい形をつくっていく必要があります。
 授業中の教師も同じです。

 第三に、答えられない質問と答えるべき質問を混同してしまう人
 授業では、教師による自問自答が繰り返される場合があります。
 発問したのに、だれも答えない。だから自分で答えを言ってしまう。
 一番みっともない(というか、理解してほしかったことが、理解されたのか、されていないのかわからないで授業が進む)パターンです。
 これが繰り返されると、生徒は考える習慣をなくしてしまいます。
 ファシリテーターにとっては、参加者の中に答えがある場合は、参加者に聞くことを怠らず、それは「参加者が出すべき答えだ」ということをしっかり理解させることが大切です。

 その他、コンサルティング業が指南する基本的な「フレームワーク」の誤用や乱用という問題もありますが、教師は特別な研修を受けない限りSWOT、PPMなどの分析フレームは知らないわけですから、ここでは省略します。
 
 以上、ファシリテーター・スキルに関する考察をしてきましたが、機会があれば、教師の資質・能力の向上を促す効果が高い「分析フレーム」などを考えていきたいと思います。
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ダメなファシリテーター その3「聞き方」

 前回の「尋ね方」といい、今回の「聞き方」といい、教師の陥りがちな失敗が、ファシリテーターとして犯しやすいミスと重なることが多いのには驚かされます。

 「聞き手」としての教師の役割は、カウンセリングマインドなどの文脈で記事にしてきましたが、情に流されることなく、決めつけることなく、発言の言葉を聞く内容を聞く内容から導かれる意味合いを考える発言されなかったこと(このことを教師が考えるときに、思い込みをいかに持ち込まずに行うかが難しい)ことを聴く発言者の思考状態をふまえて考える・・・などのさまざまな段階があります。
 そこで、教師もよく犯すミスですが・・・

 第一に、相手が話しているのに、他のことをしてしまう人
 全身全霊を「聞く」「聴く」ことに傾けるのは、思ったよりも難しいことではあります。
 教師の中には、自分が考えている姿を子どもに見せるのが恥ずかしいというか、照れてしまう人がいます。
 そういう人は、書類を探す、メモをとろうとする、パソコンの画面を見る、黒板に向う(子どもに背を向ける)、などの行動をとることがあります。

 会話の中で、実際に何かを調べる必要がある場合は「ちょっと調べてみるね」などの一言で何の問題もおこりませんが、その一言がないと、「いつも私を見ていてね症候群」「聞いたら(他の人との会話中でも)すぐに答えてね、そうでないと嫌いになるよ症候群」の子どもたちは遠のいてしまいます。
 授業中、ある生徒が発言している場面では、他の生徒の理解度をうかがうために視線を聞いている生徒に向ける場合はありますが、コメントを返すときなどには当然、発言者の方を向いて行います。

 第二に、これは上の最後の事例と関連がありますが、聞いた後に要約することを怠る人
 常にそうしなければいけないわけではありませんが、教室内での子どもの発言の中には、声量が小さく語尾も不明瞭で、他の生徒が聞き取りにくいとき、また、発言している本人が緊張したり理解が不十分だったりして自分が何を言っているのかわからなくなってしまっているときなどには、教師は必ず発言内容を要約したり、繰り返したりして、自分と発言者、他の生徒という教室にいる全員の理解を確認することが大切です。
 発言→要約・新たな課題の発見→新たな展開→発言・・・・という流れをスムーズにするのも、ファシリテーターの重要な役割です。

 第三に、これは会議での話し合いでよくあることかもしれませんが、話している途中で遮る人
 「飲み込みが早い」「理解するのが迅速で的確」と自負している人が、陥りやすいことです。
 遮られた人の表情を見れば、その意味は一目瞭然でしょう。

 第四に、相手の発言の要約と自分の意見を区別なく言う人
 授業では、子どもが返した不完全な解答を、勝手に補足して正解にしてしまう教師がいます。
 ここでは、発言した生徒の理解を完全なものにするためにも、どこまでが正しく、何が不十分だったのかを明確に示す必要があります。

 第五に、質問の内容は聞くが、その意図を聞かない人
 教師たちは、前提や本音を隠しながら(それくらいは察してくれ、という空気を発散しながら)、会議で発言しあうことがあります。
 ファシリテーターとしては、イエスかノーで答えるのではなく、「どうしてそういうことを聞くのか?」と疑問に思い、直接そう言うわけにはいかないので、「と、いいますと・・・」などと本音の発言を促すことが、議論を前進させる効果を発揮する場合があります。
 教師の発問に対して、ろくに考えもせずに「わかりません」と答える生徒がいます。
 発問の仕方や内容が不明確であるという原因も考えられるのですが、考えたり整理したりする時間をある程度必要とする発問の場合は、「では、いっしょに考えていきましょう」といって続けるのも一つの方法です。
 
 最後に、「質問の意味がわからないので、もう一回言ってください」とか、「具体的な質問をお願いします」と連呼する人
 これは聞き方の問題で、必ずわかるところまでを確認して、「その先についてですが・・・」などと段階をつくって話を向けるなどの工夫がほしいところです。

 問題行動の生活指導で、指導されている生徒の「聞く態度」が悪くてさらに指導者を激高させるような場面というのがよくあります。
 家庭の会話でも、テレビを視聴しながら親の話を聞く、テレビの字幕を見ながら出演者の話を聞く、授業の場面でも、教科書を見ながら教師の話を聞くなど、「ながら聞き」が生活の中にあふれています。
 授業で最も子どもが集中する時間は、「教科書等は見ない」「板書はなし」「ノートも禁止」措置をとるときです。
 短い時間でも、そういう「聞く」ことに集中できる練習が必要なのかもしれません。
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高コンテクスト依存症からの脱却

 コンサルティングを仕事にしている人の中には、アメリカではやっていることをそのまま日本に導入しようとする人もいるようですが、業績を上げているコンサルティング会社は、もっと広い視野から企業活動を捉えているようです。
 日本語による日本でのコミュニケーションの特質に、コンテンツ(内容そのもの=文字情報、数字データ等)よりコンテクスト(コンテンツ以外のもの=状況、脈絡、雰囲気など)が重視されるということがあります。
 「一を聞いて十を知る」
とか、「空気を読め」「察して下さい」
などというのは、「高コンテクスト」・「低コンテンツ」という特質を裏付けるものです。
 掲示板ではないブログでも、コメント欄への書き込みにまじめに答えていればコミュニケーションの手段になっているわけですが、人にとっては(私のように?)相手の意図が読めずに見当違いのことを答えたり、まともに質問に正対してくれない人もいます。
 質問がコメント欄に残ったままで自説を語り続ける人もいますから、ブログというのもよほど神経が図太くないと続けられないものだということがよくわかります。
 特に日本の中高年世代は高コンテクスト・コミュニケーションに慣れ親しんできたため、若い世代の部下に「おい、あれ」「ほら、それ」ですますことができなくなり、悩んでいる上司がクライアントになるのが、最近のコンサルティング業のようです。
 学校現場でも、「そんなこと言わなくてもわかるだろう」「見て覚えていればこんな間抜けなことはしないですんだだろう」という叱責がベテラン教師から若手教師にとぶことがあります。
 「内容なんて関係ない、お前の言い方が気に入らん」という人をなだめるのも一苦労です。
 若手教師の言い分としては、それはきちんと言葉で表現してくれないと分かりません・・・ということがあるのですが、もしこれが若い教師一般の話であれば、学校現場でも「高コンテクスト・コミュニケーション」が低下していることになり、「高コンテンツ」がコミュニケーションに求められることになります。
 私がコメントさせていただく方と、コミュニケーションがうまくいかない理由の一つにも、コンテンツについての関心や知識に大きな隔たりがあることが感じられます。
 理想的には、高コンテンツで高コンテクストが一番なのでしょうが、まず文字情報のやりとりしかないブログでは高コンテクストは望むべくもなく、コンテンツで勝負するしかありません。
 そういう点では、若者の「メール文化」も、「あれあれ」「そう、それ」では何も通じないので、「高コンテンツ」化への移行を促進する効果があるかもしれません。
 非常に多様性の高いメンバーを相手にするコンテクストフリーの環境の中で、コミュニケーションをどのようにリードできるか、これが、教師やファシリテーターに求められる資質であると考えられます。
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ダメなファシリテーター その2「尋ね方」

 ファシリテーターとして犯しやすいミスとして紹介されている逆コンピテンシーは、驚くほど教師のそれと一致しています(過去の記事でもふれてきたことでした)。

 まず第一に、「何か質問はありますか?」を繰り返す人
 仮にこう聞いて誰からも質問が出なかったとしても、誰にも疑問や質問したいことがないわけではないことは明らかでしょう。
 授業で教師がこれをやってしまうと、「はい、私のやるべきことはしました。これで質問があるということは、聞いているあなたたちに問題があるのかもしれませんね。質問はないんですね。よく聞けていたということですね。それでいいでしょう。今日の学習は終わりです・・・。」などというニュアンスで伝わりかねません。
 では、具体的にはどうしたらいいかというと、「○○の点についてはいかがですか」などと、質問を絞りこむことです。

 教師なら、多くの子どもが十分に理解できないでいるツボは心得ていると思いますので、「これについては、こんな不安や疑問を感じる人はいませんか?」と言いながら、質問を促すこともできます。
 意見やコメントを本気で相手から引き出す方法はいくらでもあるのでしょうが、だいたい教師が「質問ありますか」というのは授業の「まとめ」の段階で行うので、そういう意識は低いでしょう。そこで質問されても答える時間はないわけです。
 できれば、導入の段階で「質問(疑問)はありますか」から入って、課題化したものを展開で追究するような学習のスタイルが理想的でしょう。
 
 第二には、「どうでしょうか?」を連発する人
 「どうでしょうか?」にも、いろいろな意味があります。
 自分が「どうでしょうか?」と聞かれたら、何と答えたらいいの?と思える場面でつい言ってしまう言葉です。
 授業だけでなく学校の会議などでも、発言がなくなり、話の進行が停滞して、その突破口がほしい場合に使ってしまう場合もありますが、やはり何らかの方向性をつくって、「展開」させるのがファシリテーターの役割になるのでしょう。
 
 第三には、「分かりました?」と聞く人
 授業ではほとんど決まり文句のように登場しそうな悪い習慣です。
 本気で分かったか分かっていないかを知りたいのなら、それが分かる質問をすればよいわけです。
 
 第四には、特定の人に偏って質問を投げかける人。また、いきなり「○○さん、いかがですか?」と聞く人
 教師にとって、子どもの中には授業の進行を助けてくれる存在(おそらくテストで高得点が取れる子ども)がいます。
 できない子どもにとっては、「結局、○○さんが答えて先に進むのね」という印象でしかなく、教師が本気で、できない子どもをできるようにさせてくれるのか?という目で見られてしまった場合にはまずい聞き方になります。
 しかし、多くの子どもは、自分が当てられるのが嫌で、何だ、早く○○に当てれば事は済むのに・・・。と進行の当てにしてしまう。子どもがそれを当てにした授業になってしまうと、自分でとことん考える習慣というのは失われていくでしょう。
 
 第五には、直接的すぎる聞き方をする人
 たとえば、「これに反対の人は?」といきなり聞いてしまうこと。
 強引に持論を結論にしたがる人にありがちな聞き方です。
 この聞き方では意見は出にくいわけで、「これについて何かコメントはありますか?」くらいがちょうどいい。
 ただし、特定の場面ではそれが効果的な場合もあるので、場面に応じたスキルが求められます。
 
 コミュニケーションの印象は受け手が決めることになることを考え、常に受け手の側になって考えていく姿勢が求められているということでしょう。
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ダメなファシリテーター その1「話し方」

 ファシリテーターは、【1】Tell(何かを述べて)、【2】Ask(参加者に質問を投げかけ)、【3】Listen(それを聞き)、【4】Analyze(その意味合いを分析する)ということを繰り返していきます。
 この作業を行いながら、参加者の前提にあるものを浮かび上がらせて、整理し直し、共有できるところを確認し、新しいものを創っていく、このプロセスに積極的にかかわりながら、合意形成を目指していくのがファシリテーターです。
 ここからは、
逆コンピテンシーから探るファシリテーター・スキル」です。
 ファシリテーターの話し方には、「介在度」のレベルの違いから、「通知する」「説明する」「説得する」などがあります。その使い分けをしなければいけません。
 では、どのような「話し方」が、「望ましくないファシリテーター」の例になるのでしょうか。

 まず第一に、長々と話す人
 一つの文章を読点で区切らずに、句点で延々と続ける人がいます。
 単純に、聞きにくい。
 生徒に発表させても、この傾向が見える場合があるので、適切な指導が必要です。

 第二には、単調に話す人
 「聞いていて眠くなる授業」に最も多いパターンではないでしょうか。

 第三には、「とりあえず」「一応」を多用する人
 口癖になっている子どもや教師はいませんか。もちろん、議論を一度切って、別の話題に入る時には使う言葉ですから、ここで問題にしているのは必要のないときにたくさん使うことです。

 第四には、略語を多用する人
 ビジネス用語には多いのですが、さすがに授業の中ではあまり登場しませんか。

 第五には、聞き手の理解度を無視して話す人
 学校現場では、生徒からは無視していると思われても仕方がない場合はあります。一斉指導の限界です。
 しかし、自分がやっとのことで仕入れた情報を、易しい言葉にかみ砕くことなく使ってしまう場合が大人にはありませんか。そういう話し方は改善できるはずです。
 むかしは、「教師の権威は難しい言葉を話し続けることで保たれる」という猛者もいたようですが。

 第六には、明確に説明できない「思いつき」を言う人
 ブレーンストーミングなら許されるのでしょうが、教師が生徒の質問に「とりあえず」答えるケースに見られないでしょうか。
 根拠を問うくせを子どもにつけておくと、いざ自分が根拠のない話をしたときに、質問されて困ることになってしまう・・・。だから「根拠を問うくせはつけさせたくない」と思う教師はいないでしょうか・・・。

 第七には、挑発にのって(負けて)ムキになってしまう人
 のっけからムキになっている人が会議では見られますが、その前提が視野に入れば、影響は少なくなります。
 
 以上、どれ一つとして、教師がやって「批判されなくてすむ」ものはありません。
 ファシリテーターの話し方の基本は、主役は参加者であるというスタンスを忘れず、一方的に話さずに、相手に考えてもらいながら話を進めることが特に重要となります。そのためには、メッセージは明確に難しいことは易しい言葉で、論理構成も工夫して、耳から聞くだけでもわかるように、そして参加者の反応を絶えず見ながら話すことが求められています。教師も同じですね。
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ファシリテーターの役割

 ファシリテーターの役割について、Geogle検索のトップにきているのが、ちょっと意外な気もしますが、千葉県のHPの中の「環境生活部環境政策課」が担当した「環境学習ガイドブック」の内容です。
 「協力」として「SMILE(聖マーガレット生涯教育研究所)」とありますので、作成はこちらかもしれません。
 この「環境学習ガイドブック」は、一般的な学校の授業のデザインを考えるための参考にもなるものです。

 たとえば、(環境学習の)「プログラムデザインについて」の冒頭では、このように述べられています。

プログラムをデザインする中で一番大切にしたいのは、何を感じて・考えてほしいかという“テーマ”。そして一番気にかけてほしいのは、参加者の気持ちに配慮した“流れ”。効果の高いといわれるアクティビティをただつなげても、いいプログラムにはなりません。プログラムのデザインとは、個々のアクティビティをどのようにして相手の心の動き・要求に合わせて組み合せるか、といった技術のことです。

 そして、ファシリテーターの役割については、興味のある方はそちらのページをお読みいただくのが一番早いのですが、たとえば「参加者とのかかわり」では、インストラクター(指導者)インタープリター(解説者)との違い、ファシリテーターとして求められること、基本姿勢、ハプニングへの心構え、機能を高めるための工夫などがとても参考になります。
 インストラクター(指導者)とは「伝授タイプ」、インタープリター(解説者)とは「仲介タイプ」、ファシリテーター(促進者)とは「触媒タイプ」という名付けがまず理解しやすい。
 そして、ファシリテーターは他の2つのタイプの役割も求められるというので、想定される能力も非常に高いものと考えられます。

 「ファシリテーターとして求められること」とは、
参加者の主体性を引き出すこと(・・・授業における教師の基本的な役割と同じ)
知識と体験を統合できるような素材の提供をすること(・・・教科指導では難しい面もありますが、総合的な学習の時間ではまさにこのことが求められています)
体験をより大きな気づきへと導くこと(・・・主体性を高める指導の工夫の一つです)
参加者自らが主体的に考えられるような援助をすること(・・・この「援助」は今では悪役っぽい語句になりつつありますが・・・最低限必要な指導をした上でなら大切なことです)
○状況を見ながら適切な「介入」を行うこと(・・・この「介入」=指導ができない教師が問題解決的な学習では批判されますね)
 (介入の例)・・・視点を変えてヒントを与える(「こんなふうに考えてはいかがでしょう」「こういう見方もできると思いますが」など)

 ファシリテーターの4タイプ(これも場面に応じて使い分けるそうですが、教師もそれがすんなりできたら相当指導力が高い人と見なされるでしょう)は、教師によくあるタイプにも見えます。
1 指示的・・・どちらかといえば、操作的で、ファシリテーターの意向がストレートに実現されるが、学習者の気持ちは無視される。ある意味では即効的だが、教育的とは言い難い。
2 参加的・・・学習者のニーズが重視され、その時々でのニーズを探り、学習者のねらいとのすり合わせを行いながら、ファシリテーターが積極的にかかわっていく。参加者中心となるので、即効的なものは望めないが、参加者にとっての充足感は高くなる。
3 委任的・・・学習者の立場を尊重して行くのは同じだが、ファシリテーターの方から積極的にかかわるのではなく、むしろ“相談役”的に求めに応じてかかわっていくというやり方をとる。参加者の主体性が尊重され、参加者の満足度は高まるが、ファシリテーターとしては、時として無力感のようなものを感じることがある。
4 放任的・・・ただそこにいるだけの沈黙の参加者。そこにいるだけで意味がある時もある。
 基本的に教師は「指示的」な存在なのでしょうが、「放任的」な管理職がウケがよかったり、「委任的」な主幹が嫌がられたりと、立場や態度によって使い分けは難しいものがあります。
 子どもとの接し方では、教科指導、道徳、総合、特活、部活動、委員会活動など、これら4つの重点がいろいろと考えられそうです。
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教師にファシリテーター・スキルが求められる理由

 ビジネススクールやセミナーでは今、ファシリテーション・スキル講座が大流行(おおはやり)のようです。
 Goegleで検索してみても、以下のような案内が目白押しです。

 「体験学習ファシリテータースキル養成講座」
 「ファシリテーション・スキル修得セミナー」
 「ファシリテーション・スキル研修公開セミナー」
 「ファシリテータースキルアップセミナー」
 「ファシリテーション能力強化(セミナー)」

 1回5万円とか10万円という受講料の相場は、ビジネス関係のセミナーでは一般的のようです。
 (こういう費用は受講者の会社の経費でおちるので高いのでしょうか?それとも単純に需要と供給の関係で決まるのでしょうか?)

 これらの案内を比較してみたり、ウィキペディアの内容を見たりしても、「ファシリテーター」の意味や役割が広く日本で普及しているものとは言えないようです。
 ピッタリする訳語ができないので、「またカタカナ語か!」と、外来語の多用を忌避される方は抵抗感が先にでてくるかもしれませんが、ファシリテーターの典型に「坂本龍馬」がいるというたとえは、若干親しみやすさに結びつくかもしれません。

 「ファシリテーション」の活用の場としては、住民参加型のまちづくり体験学習の現場、企業内研修などのワークショップ教育の現場、医療の現場、組織活性化の現場といったものが紹介されています。
 いずれにせよ、中立な立場を保ちながら議論に参加すること、議論の展開をスムーズに調整すること、参加者の相互理解を促進すること、最終的には合意形成へ導くことは、共通する概念としてあるようで、だから坂本龍馬というたとえが役に立つわけですね。

 ファシリテーターとしての立場・能力というのは、実は日常の教育現場における教師のあり方として考えても、ほとんどずれるところがない、すでに実践されてきているものだと考えられます。
 ただし、子どもを前にした授業実践では見られたとしても、教職員の集団の中に、ファシリテーター的な存在がいなかった。これが課題なのかもしれません。
 ファシリテーターには、単なるコミュニケーション能力だけでなく、専門的な知識・思考力等も必要とされるので、誰でも簡単にできるというわけにはいきません。
 何より賛否が分かれている議論の場合には中立・公平を保つことが求められますので、外部の人材を活用するという発想も出てきます。

 行政系ではもしかしたら教育委員会の指導室長や指導主事が、ファシリテーターとしての役割を果たしていたのかもしれませんが、たとえば「文科省の指定校研究に応募するかどうか」という意思決定については、行政の立場の人間の「中立」というあり方はけっこう難しいものがあります。
 私も「キミは学校の味方なのか、教育委員会の味方なのか」という詰問を校長から受けた経験がありますが、「中立」と「板挟み」というのも意味がちょっと違う気もします。

 外部の人材としては、すでに子どもが卒業している元PTA役員(PTA顧問)なども考えられるかもしれませんが、ファシリテーターはアドバイザーでもなく、コーチでもありません。

 ですから、内部でそのような役割を果たせる人材を育成する必要があることは確かです。
 教師がファシリテーター・スキルを磨くことができれば、授業技術の向上、子どもの学力の向上に結びつくだろうと思われます。
 なお、私は、子どもに対しても、主体的な自治活動の運営を充実したものにするため、ファシリテーターとしての能力の基礎を培う教育が必要だと考えています。
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ファシリテーター・スキル

 思考力が高く、対人力が低い人は、単なる「切れ者」と片付けられてしまい、人は動かない。
 一方、対人力は高いが、思考力が低い人、これは単なる「いい人」で、やはり人への影響力がない。
 特にリーダーには、思考力と対人力の両方が求められる時代です。
 これまで、対人力は日本が均質社会であったことから、「いつかは理解し合える」ことが前提にあり、「思いやりをもつことが大事」「叱ることも思いやりの一種」「叱った後は飲み屋でぱーっとやる」で済んでしまった。
 今、「すぐキレる」「KY」などの言葉からわかるように、対人力が欠如していて自分の感情を優先させる人が多くなっていることが問題になっています。
 思考力については、昔から言われていることですが、日本の教育制度では記憶力と理解力が重視されてきたため、事実や身につけた知識を組み立てて活用する力が鍛えられていないことが問題です。
 ビジネスの世界では、成果主義の導入が話題になったころには、すでにこのような思考力対人力の向上を目的としたセミナーの開催や啓発書の出版が増えていました。
 教育界でも、「生きる力」などのキーワードをつくって問題に正対していますが、現場がそれに追いついていません。

 これから考えていくのは、このような思考力や対人力の統合スキルとして注目できる「ファシリテーター・スキル」です。
 ファシリテーターとは、単なる会議の進行役のことではなくて、複数の参加者から様々な意見や考えを引き出し、その前提にあるものを浮かび上がらせて共有し、それらに基づいて集団としての新たな「知」を創造していく役割を果たす人のことです。
 その定義だけを読んでみても、これは授業中に教師が果たすべき役割であり、教師にとって必要な能力なのではないかと思われるのではないでしょうか。
 参考図書は船川淳志著「ビジネススクールで身につける思考力と対人力」(日経ビジネス人文庫)です。
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同調と反抗、思考停止と対人変革力欠如からの脱却のために

 yamamotosan様、コメントありがとうございます。

>批判の進化形は、「協調」「リーダーシップ」だと思います

 日本の特に公立学校では、「全員に身に付けさせることが難しい能力」の指導を怠る傾向があることを、肌で感じている方が多いと思います。
 「協調」ばかりに指導の目がいってしまい、「自分の意見をもつ」ことを促す教育ができなくなると、「同調」や「反抗」しかできない子どもばかりになってしまいます。
 単なる「反抗」なのに「批判」しているつもりの教師、反対の理由と根拠、対案も出さずに「批判」しているつもりの教師たちが、まるで劇のように「同調」と「反抗」を繰り返していた会議を私も何度も経験しました。
 「協調」のために何が必要かを教師自身が理解できていないなら、子どもに指導することも難しいだろうと思ってしまいます。
 「協調」のためには「リーダーシップ」も必要となるのですが、結果の平等主義を絶対の信条にすると、「エリート教育」「リーダー育成」のような要素を少しでも含んでいるものを忌避します。
 「自治を重んじている」と言いながら、自治に必要なノウハウ、たとえば「話し合い活動の型」すら指導できておらず、そういう活動自体もめったに行われないような学校は多いのです。

 教科指導ばかりでなく、特別活動や総合的な学習の時間、道徳ですら「自分の考えをもち、自分の言葉で表現する」ことを教育していなければ、PISAに限らず学力調査で「自分の考え」を書かせるような問題には対応することができないばかりか、対応しようとする意欲すらわかない子どもが多い(・・・子どもの論理は単純で、テストを受けさせてみれば明白。「先生、こんなこと授業で習っていませんよ(ノートに書いてありませんよ)」・・・)のは当然の結果でしょう。
 
 日産を再建したカルロス・ゴーン氏が着任時に愕然としたことは、業績の窮状そのものより、その状況下にあっても誰もが自分の問題として認識していなかった=当事者意識が欠如していたことだといいます。

 「他責の文化」の蔓延度は、教育ブログを見ていても散見されます。
 思考停止・対人変革力の欠乏が、日本の将来を暗くしており、若者自身がそれを実感していることの問題を、教師としてはどう捉え、何ができるのか。
 「ファシリテーター・スキル」が日本でも注目されてから何年もたっていませんが、教育実践の場ではいかがでしょうか。
 明日からの記事では、ファシリテーター・スキルの逆コンピテンシーからの視点で教師や子どもの能力開発を考えていきます。
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教師VS子ども その5「コミュニケーション能力」

 小学校段階で「話し合い活動」のルール・型は指導されていると思うのですが、中学校に入ってやらせてみるとできないので、中学校でもその確認を怠ることはできません。
 以下は「話し合い」を効果的に行うための12の約束事です。
進行関係
1 司会者、議長の指示に従うこと。
 司会者、議長は、話し合いのルールが守られていない状況と判断したら、適切なタイミングで注意・指導を行わなければならない。
2 互いに相手の立場や考えを尊重して話し合いに参加すること。
 立場を明確にするために、結論を先に言うような話し方をすること。
3 話し合いの目的や話し合いの流れを意識して発言する。
 話し合いの中身は得てしてずれて(それて)いきやすい。そういうときは、司会者、議長は注意をうながす。
聞き方
4 相手の話にはしっかりと耳を傾け、内容に賛成の時には、うなづくなどの賛意を示しながら聞くこと。
 話し手は、司会者、議長だけでなく、聞いている人の動き・反応を見ながら話すこと。そうすることで、自分の意見がどの程度受け容れられているかをだいたい把握することができる。
5 話の途中で自分の意見をはさまないよう、相手の話はさえぎらないで最後までよく聞く。
 発言は基本的に司会者、議長の許可を得てから行う。
6 互いの意見の共通点や相違点をメモしながら聞き、それらを的確に表現できるようにしておく。
 あとで意見のすりあわせや調整を行うときに、何が必要かがわかるようにしておく。
発言の仕方
7 だらだらと長くしゃべらない。
 要点をしっかり頭の中で整理しておく。他の人の話の繰り返しは避ける。
8 最後まではっきりと話す。
 日本語の文法では、最後の助動詞などの使い方で意味が全く変わる場合がある。語尾があいまいにならないように、最後の助動詞や助詞などまではっきりと言う。
9 根拠を示して意見を述べるようにする。
 できれば客観的なデータなど、多くの人が納得できる論拠が示せるとよい。
10 「○○さんと同じ」ではなく、自分の意見を自分の言葉で表現する。
 自分の考え・意見をもつことが何よりも大切である。
11 話し合いに参加している人全員が聞き取れる声の大きさ、はやさを維持する。
 「聞こえません」という声が上がらないように努力する。基本的に席が前の方の人は、後ろを見て話すとよい。
会議の生かし方
12 話し合いの結論を尊重する。
 みんなで決めたことはみんなで守る、そういう原則を守る。 
 職員会議を開く前に、これらのルールの確認をした方がよい学校がもしかしたらあるかもしれませんね。
 管理職も、その他の教職員も、これらの型は守られているでしょうか。
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教師VS子ども その4「批判的思考力」

 批判的思考力の問題は「論理力」でふれていますので、ここでは「自分なりの視点」の見つけ方について考えてみます。
 教育については、政府なら国家としての、学校なら教師としての、家庭なら保護者としての視点が当然あるわけですが、ご存じのように日本には何かうまくいなかいことがあると「当事者以外のだれが悪いのか」を探そうとします。
 このブログ、「教育失敗学」で、自分が実践者という立場であるので、実践者からの、そして実践者に向けての視点というのを中心にしているのは、教育界ではありがちな、「批判のための批判にならないようにする」ことを心がけたからです。

 「批判的思考力」を発揮する上で大切なのは、一つの視点にとらわれず、別の視点から考えてみることであり、それによって発想力も豊かになる、コミュニケーション能力も高まるという、相乗効果が期待できるのが「思考力」です。

 教育について、問題の本質を探ろうとすると、ひどく思考が拡散してしまったり、奥深いところに入り込んでしまったりすることがあります。
 ・・・それが実践者、経営者としてはどうみても問題に正対せず、逃げようとしているとしか考えられない人もいます・・・。
 本質を探るということについて、佐藤可士和は、「引いて見つめることが大切」という言い方をしています。
 どんどん引いて離れてみること・・・と聞くと、現場ではその姿勢に染まってしまっていて、行動もしないので何を考えているのかわからない人がいますが・・・。 
 また、「正面からだけでなく、いろいろな角度から見てみること」、「視点を転換すること」、「思い込みを捨てること」、またそれは難しいことなので、「あえて極論を考えてみること」も大切と言います。
 ・・・教育には「極論」があらかじめ用意されているので、「どっちに立つか」という思考にならないでもらいたいのですが・・・。
 過去の学校教育では、このような「批判的思考力」が十分に育成できていたのか、という反省があります。
 子どもの授業評価に真っ向から反対する教師に、「子どもには批判力がない」ことを前提にしている人がいます。それならば、批判力が本当にないかどうかをまず授業評価で確かめることや、批判力がないならそれを育成するように努めることが大切でしょう。
 「批判的思考力」の育成は、今の学習指導要領でも「生きる力」の概念の中に入っているわけですし、成果が示されているフィンランド・メソッドでも同じ指導が行われているわけで、それに異議を唱える方の目的は想像しにくいものです。
 このような「批判のための批判」が教育の信頼を損ない続けている・・・そんな「極論」を持ちながら、教育を考え続けていこうと思います。
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教師VS子ども その3「表現力」

 文章表現のみによって伝えられることは、本来伝えたいことと、伝わることのギャップが最も大きいものかもしれません。
 ですから「正確さ」を重視する場合は、「」を守ることが奨励されます。
 日本では、「型」に関する文化は歌舞伎柔道空手等を例に出すまでもなく、伝統的に豊かなものです。
 誤解を招いてはいけない法令、行政の作成する文書、(入学)試験問題などは「型」の方が内容より優先される場合もあります。

 しかし、教育現場では、「型にはめこむ」という言葉が「堅苦しい」などの負のニュアンスで語られ、「型にはまらない」ことが自由で伸び伸び、生き生きとした子どもの姿を連想させるなど、「型」の扱いについて共通理解が得にくいものの一つになっています。
 朝礼や集会、体育の授業等での集合・整列指導一つをとっても、学校によって格差があるでしょう。
 整列時になぜ前だけを意識してしまうのか、なぜ素早く整列させることができないのか、そういう問題を解決するためのノウハウがなさそうな学校がある。
 学級自治会での「話し合い」活動が、うまくいっていない場合は、「話し合い」のルールや「型」を子どもはおろか教師がそれを理解していない場合もあります。
 「話し合い」についてはコミュニケーション能力の項でまたふれたいと思います。
 
 さて、文章を書く上で、基本的な型、起承転結の四段型や序論・本論・結論導入・展開・まとめの三段型があることは、子どももはやい時期に学習すると思います。
 また、時系列にものごとを並べること、考え・理由・根拠を示すこと、結論を先に言う頭括式の使い方、多様な視点(メリデメ、相手の立場など)をもつことなど、「表現」に必要な「型」をしっかり身に付けさせることが、新しい学習指導要領に基づく指導では重視されることになるでしょう。
 普通の教師は採用試験の論文作成後、生涯で何本の教育論文を書いているのか、調査されたことはないのでわかりませんが、たとえば管理職試験を受けようとする人の中でも、「論文の型」ができないことに悩む人がいるくらい、教師にとっても苦手な分野になっていることが予想されます。
 
 全国的な学力調査のB問題というものは、以下のような趣旨でつくられています。

知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力や,様々な課題解決のための構想を立て実践し評価・改善する力などにかかわる内容を中心とした出題

 以下は、すずめ先生の記事へのコメントで書いた文章です(参考までに)。
 記述式が多いこのB問題ですが、定期考査だけでなく、授業でもこのような問題を考えることに慣れていない生徒たちは、無回答になる傾向が高いのです。PISAの調査でも同様でした。これは、問題のスタイルに慣れていないことと、そのような思考のスタイルを授業で実践されていないという二重の問題が原因として考えられるわけです。
 ですから「練習問題」の必要のない生徒が多い学校もあれば、「答えが一つとは限らない」問題解決的な学習に慣れさせる必要がある生徒が多い学校もあるわけです。
入試問題集でも、「初めてのパターン」「見慣れないパターン」の問題に、わざわざ「新傾向」という注がつけられますが、この理由はもうおわかりでしょう。
 問題集にあるような試験問題や授業しか経験ない子どもは、B問題を解くには不利になる場合があるのです。
全国的な学力調査は、試験問題の質の向上にも役立っていくものと考えられます。

 学力調査問題は、定期考査問題の質だけでなく、授業の質、子どもの学習の質を高める効果があると考えています。
 子どもが「自分の考え」を「自分の言葉」で一定の「型」を守りながら表現できる力が、どれだけ伸びていくかが今後の評価の視点となります。 
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「目安箱」効果は「透明化」の進展か?

 「信頼」と「安心」のない世界、その代表格としてデビューした「教員採用汚職問題」。
 政府の規制改革会議が13日に開設した「目安箱」には、どれくらいの情報が集まってくるのでしょうか。

 この流れを受けて、教員採用・昇任・異動はおろか、おそらくは人事考課の透明性までが求められる時代になるでしょう。
 外部の人間のチェックというのも改善案に盛り込まれるかもしれませんが、監視の強化だけでは問題は解決されないでしょう。
 このことによって、教師や管理職に求められるコンピテンシーロールモデル、その候補者としての力量を測定するための具体的な評価基準の設定が要請されると考えられ、私が想定してきた環境に近づきます。
 評価の透明性については、教師が生徒に対して行うものも同様に求められるわけですが、生徒が教師に対して行う評価も含めて透明性が高くなると、仕事がやりにくくなるのは力量に課題がある教師です。
 大学の教師に対しては積極的に導入されているようですが、それでまいってしまっている教師もいるようです。
 採用や昇任、異動の透明性が高くなればなるほど、教師の力量に関する問題が浮上していくことでしょう。

 また、教師の「異動」についての情報が公開されるようになると、(「異動希望」というのを教師は出せることになっています)たとえば、異動先として人気がある自治体や、早く異動したいと思っている教師が多く、異動先として選ぶ教師が少ない自治体などが明らかになってきたりします。
 あまり子どもには知られたくない情報なのですが・・・。
 島の子どもたちに「先生は何年この学校にいてくれるの?」と赴任当初に聞かれて口ごもってしまうようでは、「信頼」や「安心」を子どもに抱いてもらうことはできません。
 
 現場の教師にとって「資質・能力」に対しての目がより厳しくなっていく時期がせまっています。
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「新しい」教育に対する「開国派」と「攘夷派」

 (内容的には、教師VS子ども その2「論理力」の続編になります) 
 教育効果の高い新しい指導技術・指導内容に関する情報を知りたい。
 そういう願望はどの教師も持っているのではないかと思います。
 ですから、自腹を切って本を買い、セミナーに出かけ、教育関係の記事をネット上で検索する。
 教育雑誌は、そのようなニーズを満たすための特集を組んだりする。たとえば、最近ではフィンランド・メソッド。

 成果が出ている実践を試してみたくなる、というのは教育者として自然な欲求でしょう。
 そのとき、当然、参考にする教育が実践された環境と、自分の指導力や自分の教える子どもたちの実態の乖離にも目を向けなければならないのは、言うまでもありません。
 追試をしてうまくいかないときに、失敗した教師は「あの先生の授業は優秀な子どもがいたから成功したのだ(裏をかえせば何を言っていることになるか、は明らかですね)」という言い訳で自己防衛してしまいがちです。
 まずは自分の指導力のレベルをしっかり認識すること、これが今の教師に求められていることかもしれません。

 さて、新しいものが好きな教師が多い一方で、そういうものへの拒否反応が先にでてくる教師もいます。
 そういう教師の特徴は、「まず試す」ことではなくて、「まず批判する・拒絶する」ことにあります。

 歴史上のできごとをたとえに使えば、「開国派」と「攘夷派」です。
 「開国派」は、優れたものが外国にあると考える。そこから学べるものを学んでいく。取り入れていく。そういう姿勢です。
 「攘夷派」は、今まで自分たちがやってきたことこそが正しいと信じている。外圧は徹底的に排除する。そういう姿勢です。
 日本の歴史のおもしろさで言えば、「開国派」が悪役になっていることです(天皇の意思に背く、みんなで決めようという原則に反する、反対者を弾圧する、そういうことから)。
 しかし、「攘夷派」だったはずの人々が、「攘夷」が無理だと悟り、「悪役」を倒した後は、「開国派」と同じ考えになる。
 日本では伝統的に、「何はともあれ、まずは反対」という考え方の人がいるわけです。

 「異なる立場の人間の視点から考える
 論理的思考を行うには、そのような方法も大切ですから、「まずは反対」という立場の人がいても、問題になるわけではありません。
 要は、論理的に詰めていって、その反対者を納得させられる表現力、説得力があるか、そこが問われてきます。
 そして、説得していくためには、教育の場合、実践が必要になります。
 この「実践」を「実験」として認めない、という立場の人もいますが、「実験」対象となった子どもは熱意のこもった指導のためか、高い成果を残してくれるようになるのが救いです。 

 新しい指導技術は、今までの自分の実践と何がどの程度異なっているのか
 (この時点で、決して「新しい」ばかりの指導技術ではなく、今まで自分が実践してきたこともかなり含まれていることに気付くことも多いでしょう)
 子どもに求められる力を、どのように習得させていく効果が新しい指導技術にはあるのか。
 そういう調査・分析をしっかり行っていくことが必要です。
 「開国派」「攘夷派」の二項対立ではなく、どちらの長所も持ちながら、「常に子どもの立場で教育を考える派」であることが教師には求められていると考えています。
 子どもの立場で考えれば、要するに、授業がおもしろく、力がつけばよい、ということです。
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教師VS子ども その2「論理力」

 コンピテンシーモデルで言うと、「論理追求力」、一般的な用語で言うと、「論理的思考力」の育成についてです。
 家庭では、子どもが何かの主張や要求をする場合に、その根拠を聞く習慣をつけておくとよい、というアドバイスがよく聞かれます。
 ここで、主語と述語を含む一文で答えられれば、論理的思考力の第一歩は成功していると考えられます。
 
 そもそも、日本語は単語のみの応酬で会話が可能だったり、「阿吽の呼吸」「以心伝心」という「美徳」があることが原因で、論理的思考力が弱くなるという主張をしていた人もいました。
 また、 「はっきりと論理的にものごとを言う」ことが嫌われる文化の側面を乗り越えていくことが、社会としても求められているのかもしれません。

 本当のところはどうなのか。
 そこで論理的思考力を問える質の高い問題が求められているわけですが、ペーパーの学力調査では、思考力があっても表現力がなければ思考力の有無が判定できないという難点があるので、当然「表現力」の育成にも力を注ぐことになります。
 公立学校で実施されている定期考査の中で、自分の考えを表現するような問題は何%くらい出題されているのでしょう。定期考査問題を分析してみればよくわかります。
 授業の中では、どうでしょうか。
 子どものノートを分析すればよくわかります。
 
 定期考査問題分析、子どものノート(ニアリーイコール教師の板書)分析は、学力向上の研究に向けては必須の調査対象であると確信しています。
 それをセットにして、教師が行う生徒一人一人の学習状況の評価を分析していけば、教師の「論理的思考力」は十分に測定できると思います。

 教師はよく授業のまとめの段階で「今日のところ、わかりましたか?」と生徒に聞いてしまいますが、生徒にとっては「教師の私のやるべきことはやりました。教えるべきことは教えましたが、何か不満はありますか?」と聞こえてしまいます。
 実際には、授業のまとめの段階(単元のまとめでもよいのですが)では、その日の授業のねらいが達成できたかどうかを判断できる問いを発し、子どもが発言できたり、ノートに書けたりすればよいのです。
 「わかったかどうか、私にはわかりませんが、皆さんがわかったかどうかは定期考査のときにわかりますから」では、きっと定期考査後にやるべきことが増えてしまうでしょう。

 論理的思考力を育成する初期の段階では、「事実と意見(考え・推論)を区別できるようにする」必要があります。
 しかし、大人でも、特定の意見があたかも事実であるかのように相手を批判する道具として使うことがあります。
 「だってそうとしか考えられないだろう」というのも「意見」です。
 こういう「意見」の持ち方を批判すると、「だって個人の考えは尊重されるべきだって憲法に書いてあるだろう」といきなり「憲法」を登場させる人もいます。
 そういう大人の思考回路を子どももよく真似して使います。
 「だってそうとしか考えられない」というのは、「事実」である「理由」「根拠」にはなりません。
 
 全国的な学力調査への批判を続けている人たちがいますが、まず「事実」に目を向けること、そこから様々な「理由」を考えるという順序を大切にしてほしいと思います。
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教師VS子ども その1「発想力」

 フィンランド・メソッドで注目される5つの能力、「発想力」「論理力」「表現力」「批判的思考力」「コミュニケーション能力」を、教師自身はどのように身に付け、指導することができるようになるのか、そういうことを考えてみようと思います。

 まず、「発想力」ですが、フィンランドでは「カルタ」(日本語で言えば連想図)、日本では国語や総合的な学習の時間の学習活動で用いられる「ウェビング(・マップ)」、トニー・ブザンの「マインドマップ」が発想力を育てる効果的な方法になっています。
 (なお、「発想力」は、教師のコンピテンシーモデルでは、「論理統合力」「論理創発力」「情報追求力」などに関わる能力です。)
 たとえば、「学力」「学力向上」というキーワードを中心においたとき、どんな言葉が連想されていくでしょう。
 研修はこんな活動から始める方法もあります。

 私が勤務していた学校では、総合的な学習の時間の開設に際して、教師がグループをつくり、それぞれのテーマを研究して、生徒を対象にしたワークショップを行う、という実践を行いました。
 大きな共通テーマは「地域の未来」で、「環境」「歴史・伝統」「まちづくり」などの小テーマごとにプレゼンテーションを行いましたが、この実践を通して、「問題解決的な学習」のモデル(「型」)を生徒に示したわけです。
 ただ、「調査の実現可能性」など、先がある程度見通せてしまう教師の場合は、あまり自由で独創的な発想が出ずに、ありきたりの「地域紹介」になってしまうきらいがありました。
 それに対し、実際に個別のテーマ設定が始まってからの子どもの発想は非常に豊かなものでした。

 「発想力」では、子どもに軍配が上がりそうです。
 だからこそ、「可能性」への挑戦ができ、「有意義な失敗」を学ぶチャンスにもなるわけですね。
 課題設定の段階で、「そんなことは調べられるわけないよ」と片付けないのが、指導上の留意点でしょう。
 課題の設定場面では、想像力を可能な限りふくらませてあげて自ら取捨選択ができるようにしてあげるとよいわけです。

 ・・・・で、こういう経験がない教師、そしてこういう指導を受けた経験がない生徒の場合は、「発想力」が問われる問題に出くわすと、路頭に迷ってしまうわけです。
 「人がたくさん集まる公園づくり」をテーマにした生徒は、さまざまな壁にぶつかりながらも、遊具などの施設だけでなく、ゴミ箱の設置はどうするか、ベンチの配置や樹木の種類はどうするか、歩道をどうつくるか、子ども向けと高齢者向けは両立するか、など、非常に多面的な考察ができていました。

 「子どもが学習相談、教育相談を目的に入ってきやすくなる職員室の環境とは?」というテーマで何か考えられないでしょうか。・・・忙しいのに、入ってきてもらいたくないから考えたくないよ・・・という教師も出てくるでしょうが・・・。
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フィンランド・メソッドへの批判の内容からわかる「批判的思考力」

 「フィンランド・メソッド」に関する専門書は読んだことがなかったのですが、つっこみどころがありそうだった河野庸介著『「フィンランド・メソッド」で我が子の学力を伸ばす」(主婦の友社)を読んでみました。
 著者は国語の先生なので、予想通り、国語教科書に素材として使われている文章の読解に関する説明が中心でした。
 フィンランド・メソッドを「発想力」「論理力」「表現力」「批判的思考力」「コミュニケーション力」の五つの能力を伸ばす、「型」を用いた指導方法ととらえ、そのポイントを解説してくれていますが、親として本当に「我が子の学力を伸ばそう」と思ったら、相当の努力が必要そうです。
 国語教育の専門ではないですが、以前、このブログで「何でもいいから思ったこと、感じたことを発言しなさい」などと問われる国語の授業では、学力は向上しないし意欲も高まらないだろうという趣旨のことを書きました。
 教師は、思うように子どもが発言しないときに、よくこの「何でもいいから自由に発言して」という「北風指示」を発します。
 フィンランド・メソッドは、「自ら問う」姿勢、「批判的読み」の力が身に付く指導方法であり、一方、今までの日本の教育ではそれらの育成が十分にできなかった(総合的な学習の時間でようやく育成されつつある)こと、今後はそのような能力がますます求められると信じられているからこそ、導入しようとする学校が増えているわけですね。
 ただPISAの結果がよかったから真似をする、という話ではなく(調べもしないでそういう批判をする人がいること自体が余計に日本の教育の問題性を浮き彫りにしています)、必要とされる力を十分に身に付けさせてこなかったからこそ、日本でできそうな方法にアレンジして取り入れようとしているわけです。
 いずれにせよ、教師が学校でしっかり身に付けさせることも、身に付けさせないこともできるのが、上記の5つの能力です。家庭の役割も重要ですが、まずは教師の側の共通理解がほしいところです。
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キャリア教育における教師の最大の弱点

yamamotosanさんからキャリア教育について考えるヒントをいただきました。
 教師が果たせる役割、その弱点を改めて考えてみると、一つ、思い当たることがありました。
 yamamotosanさんは、子どもに対して、

今の社会はどうなのか、醜いことも、正しいことも、現実も理想もすべて伝え、どうあるべきなのか、どうしたいと考えるのか、それを考える力を知識として学ぶとともに、現場で考え、実行する訓練も積んでほしい

という願いをお持ちです。
 たとえば、このことについて教師の最大の弱点は、「意思決定」の機会が非常に少ない、ということなのではないか、そんなことを考えました。
 だから、教師に「意思決定力」が身に付かず、子どもにも「意思決定力」が育たない。
 「話し合いで決めればいいでしょう」という話になる。
 私がここで言いたい「意思決定」は、たとえば、話し合いで決着がつかないケースでの意思決定をさしています。
 教師は、小さな「意思決定」だけは、毎分、毎秒といったサイクルで実施しています(今、授業中なのに寝ているAという生徒にどう声をかけるか? 発問に対して、5人挙手しているが、どのような順にあてるか? 今、Bという生徒から、人を傷付ける発言が出された。そのことについてどんなコメントをするか? 後でBという生徒にどんな指導をするか? 対象となったCという生徒にはどのようなフォローをするか?)。
 学校の「意思決定」は管理職じゃない、みんなでするものだ、と反論される方がいらっしゃるかもしれませんが、私がここで言いたい「意思決定」とは、繰り返しになりますが、たとえばある施策を実施しようとしたとき、企画案が3つ出された。どの企画案にも長所・短所があり、どれを採用しても、喜ぶ人、悲しむ人がいる。話し合いが平行線で収拾がつかない・・・こういうケースで管理職が行うべき意思決定のことです。
 普通はこのような意思決定は管理職が行うのですが(それができなかったので職員会議の位置づけも法令で定められたわけですが)、こういう経営に関わる場面で、教師は民主主義の原理にこだわり、「多数決」で決めようとするのが普通です。・・・と言っても、結局は声の大きい人の主張が通ってしまったりもします。
 あるいは、何でも「今まで通りでいきましょう」と逃げていく。
 多数決は、リスクを避け、責任を回避するという意味で有効な手段になってしまう場合があります。
 そんなことを子どもが学び続けたら・・・。
 強力な説得力や責任感を持っている(意思決定力をもっている)管理職なら問題ないのですが、多くの反対者がいるのに決定を下す勇気のある人は少ないので、学校にはそもそも「意思決定」自体がなかったりする。
 ある学校では、一人の教師の猛烈な反対である事業ができなくなったが、実施するはずの年度になったらその教師は異動でいなくなっていた、ということがありました。「やるやらないのあの長い話し合いの時間は何だったの?」という話です。
 以上のようがことが、学校では教師のリーダーも、子どもたちのリーダーも育ちにくい原因になっているのではないか、という連想につながります。
 メンツにこだわったり、我を通したり、などという低レベルの問題ではなく、確固とした自信をもって意思決定ができる人は学校現場にいるのか。
 意思決定が行われない環境で育った子どもは、社会人になって、現場でその力を磨くしかないのか・・・・。
 そんなことをふと思いました。
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キャリア教育に関する教師の盲点

  yamamotosanさんからコメントをいただきました。
 ありがとうございました。
 キャリア教育に関するブログを立ち上げていらっしゃる方のようですね。

(子どもは)どうして勉強しなければならないのか??
子供の納得がないままに学校では、指導要領と先生の価値観によって授業が進行します。あたかも、子供に教えることができるのは教師の特権でもあるかのように。
私は思うのですけれど、教師は知識と同じぐらい子供に生き方を見せてあげたいのです。
経験もさせてあげてほしいのです。
勉強することの意味を教えてあげてもらいたいのです。
子供の自己肯定感を育ててあげてほしいのです。
自分で立って、歩き出せるよう、人生の勇気と意味を教えてあげてもらいたいのです。
家庭、地域社会、行政、経済社会。すべて子供を取り巻くものの存在は、「より良い将来のため」というキーワードに沿って、協力関係にあることが望まれます。

 もし中学校に「哲学」の科目があったとしたら、「子どもが思索にふけっている間は、他の教科の授業中でも教師は指名してはならない・・・」などの規定ができるのでしょうか。
 あまり特定の教科の学習に興味がわきすぎると、それを追究する誘惑に勝てず、他教科に力が入らなくなるという問題がおこってきます。
 そういう点でも、義務教育の学習には大きな限定がかかっているような気がします。
 しかし、「授業を休んで1ヶ月間の職業体験を実施可能(ただし実施者は補習を○○時間受けること)」なんていう教育があってもいい気がしますがどうでしょう。
 「知・徳・体」の調和のとれた教育が最もバランスよく実践できるものの一つがキャリア教育であることはわかっていても、今のカリキュラムの範囲内で、どれくらいのインパクトがある教育が可能であるかは、何とも言えません。
 私自身は、自分が教師になったことを考えると、自分が受けてきた学校教育そのものがキャリア教育でもありました。もちろん私だけではありません。教師はみんなそうです。
 という話で言えば、どういう教師の教育を受けてきたかが、自分の教師生活にも大きな影響を及ぼしそうですが、他の道に進んだ方々にとってはどうなのでしょう。
 その点は、教師にとっては盲点になっています。
 教師がキャリア教育の上で果たしていた役割は何なのか。
 一つ前の「死活的に重要なこと」が、あらゆる子どもに大きな影響を及ぼしていることは、私の直観にすぎないかもしれませんが、その直観が誤りであったとしても訴えたいことになっています。
 社会の変化に抵抗し、飲み込まれたり、溺れたり、逆行したりしている教師が「良い機嫌で子どもに接し、良い気分を味わわせている」保障はありません。
 社会の変化に迎合せず、コントロールされず、先を見通していける教師が求められていると信じています。
 コメントをきっかけとして、キャリア教育について、改めて考えさせていただきました。
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学力向上のために「死活的に重要なこと」とは?

 ドラマでは、現場の士気を低下させるようなお役所や上司の姿勢にめげず、必死に現場で努力している人物が主人公としてよく描かれます。
 このようなドラマを教育でつくろうとすると、「悪役」は文科省か教育委員会、校長や教頭という立場の人間になり、一般の教師が主人公になります。校長ならまだしも、指導主事が主役になるようなドラマは絶対につくられないでしょう。
 このようなドラマの図式は、実は現場の実際の教師たちにも都合がよいものになっています。
 「行政がとてもたくさんの書類を書かせるから、教材研究の時間が減っている」という事実が、どれくらいの教師にどの程度あてはまるのかはわかりませんが、それを「言い訳」にすれば、「何とかして時間をさいてでも、教材研究をしようとするなどという意欲はない」事実が隠蔽できます。
 「余計なこと」「雑務」に時間をとられたとしても、「本務」は「本務」として実践できる環境がある(授業をさぼって試験問題をつくるわけにはいかない・・・でも小学校では、自習をさせておいて問題の採点をしている教師はいますね)以上、結果を残さなければならないのが教師のつらいところです。
 現場の教師が困ってしまうのは、士気が高まるようなこと、たとえば「何でもみなさんの自由におかませします」「今まで通りでいきましょう」と言われてしまうことでしょう。
 結果がついてこないと逃げ場がなくなり、あとは子どもか学習指導要領のせいにするしかなくなります。
 責任を持たされることは、教育への情熱を高める上でも必須の要素なのでしょうが、責任をとる気がない、あるいは、責任をとる手段がない人にとっては、効き目のないことです。
 
 今、どうしてこんなことを書いているかというと、何度か引用している内田樹「こんな日本でよかったね」(バジリコ)の、「日本の教育がひどいことになっているのは、教師たちが構造的に不機嫌にさせられているからである。」という一文にひっかかったからです。
 教育ブログを読んでいても、そのような「不機嫌さ」を露骨に表現している記事が多いのです。
 その一文には批判的な私ですが、次の内容はその通りであり、自分もそのように実践してきたことを記事でもふれてきました。
 

膨大なペーパーワークに文科省や教育委員会からの締め付けに保護者からのクレームに勉強どころか基礎的な生活習慣さえ身についていない生徒たちに囲まれて、それでも「機嫌良く」仕事をしろというのが無理な注文であることは私にもわかっている。
 でも、そういうときだからこそ「機嫌よく笑ってみせる」ことが死活的に重要だと私は思う。

 この「機嫌よく笑ってみせること死活的に重要だ」という表現に、私は強く同意します。
 以下の部分の引用でその理由の説明になると思います。
 
要するに教師自身の心身がアクティブな状態にあって、「気分がいい」ということだけが確保されれば、初等中等教育の基礎としては十分なのである。・・(中略)・・
 教師が知的な向上心を持っていて、それを持っているせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちにはそれが感染する。教師たちが専門的な知識や技能を備えていて、そのせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちは自分のそのような知識や技能を欲望するようになる。

 齋藤孝の著作にも同様な表現がありました。
 もっと古い教育学者の著作も、直接的な表現ではありませんが、「教師自身が学ぶことを、授業を通して楽しんでいること」が大事だという主張は数多く見られます。
 教師を含めて人間は、不機嫌にさせられてしまうのは非常に簡単なことですが、どんな状況でも機嫌よくいられる、というのは、その効果の絶大さを認識している人にしかできないことかもしれません。
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「日本代表」に対する「プロ」の意地

 「名誉」「栄誉」という言葉ほど、「星野ジャパン」に対してプレッシャーがかかるものはないでしょう。
 日本代表の強化試合第2戦では、2対11の惨敗。
 プロ野球観戦(テレビも含めて)から遠ざかって何年もたちますが、この結果には意外性を感じ、ニュースを読んでしまいました。
 壮行試合が代表の単なる景気づけのためのものでなかったことに驚きを感じるとともに、「1球の怖さ」を改めて身に染みて中国に向かえることになったことは、代表選手にとってもよい刺激だったと思いました。
 日本チームの健闘を祈ります。
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北京五輪報道と教育の「寛容・多元主義」

 北京オリンピックは開幕したばかりですが、日本のメディアは報道の自由を中国に訴えるキャンペーンも同時に行おうとしているようです。
 政治テロを防止するため、大量の人員と監視カメラを投入した厳戒態勢がとられている中国。
 北京を訪れている外国人の中には、テロ行為の目的が明確であり、対象が(武装)警察官であるという「安心感」があるのかもしれませんが、警備の「物々しさ」には感じるところがきっとあることでしょう。
 報道の自由、表現の自由は、「都合の悪いことは知らせない」という立場の人から多くの人の利益を守るという一面があります。
 ある立場の人にとって「都合の悪い」ことが別の立場の人には「都合がよい」こととなり、その他の多くの人の利益とは関係のない事実というのもあります。
 「報道」も「歴史」と同じように、無数の事実の中から「発信者」がその価値観に基づいて抽出したものが発表され、残されていくことになります。
 ですから事実の「選択」の傾向によって、「発信者」の価値観や立場が明確になることがありますが、価値観や立場が多様な人々からの情報が収集でき、それを各個人が改めて自分の価値観によって解釈していける社会が望ましいことを、教育現場では子どもに伝えていきたいと思います。具体的には、異なる価値観に基づく意見や考えの尊重です。あまり明確ではなかったかもしれない、より上位の価値観に気づかせる効果が期待できます。
 ただ、教育現場には教育現場の価値観・・・たとえば、子どもたちは「時間割」にそって各教科の学習を行っていくべきである・・・があり、その価値観を受け入れることができない子どもの学習をどのように保障してあげられるか、といった問題があります。
 不登校生徒の状況・・・中学校は約3%・・・が発表になりましたが、この子どもたちへの教育のあり方を考えるためには、「1年間に30日以上の欠席」というだけのくくりだけの統計ですますことなく、ほぼ全欠席(200日以上)はどのくらいなのか、その生徒たちの学習はどのように行っているのか、社会参画を学ぶ機会はどうなのかなどをふまえて「学校ができること」「保護者ができること」「地域ができること」「行政ができること」などを考えていく必要があると思います。
 学校とは異なる価値観で「学び」を保障する支援組織と学校との連携など、教育にも「寛容と多元主義」が強く求められる時代になったのかもしれません。
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佐藤優著「世界認識のための情報術」

 自らを「右翼で国家主義者である」としている佐藤優が、『週刊金曜日』で連載した内容をまとめた本を出版しました(「(株)金曜日」が出版しました)。
 以下はまだ公開されていませんが私が作成したレビューです。
 記事の内容はもちろん参考になるのですが、レビューでも紹介した「多元主義に向かうための五つのテーマ」のうち、「右翼と左翼の既成概念にとらわれない」ことに、強い共感を覚えています。
 もともとこの言葉のおこりは、フランス革命にさかのぼりますが、佐藤優がわかりやすくまとめているので引用させてもらいます。
 

国会の議長席から見て、左側に座っている議員が左翼である。この人々は、理性を信頼する。万人には等しく理性が付与されているので、完全情報と時間があれば、人々の認識は一つに収斂すると考える。従って、真理は一つとなる。
 理性に基づいて、理想的な国家や社会を建設することが、原理的に可能と考える。従って、構築主義、設計主義に傾きやすい。
 これに対して、議長席から見て右側に座っている人々が右翼である。この人々は、理性には限界があり、人間は偏見から逃れられないと考える。従って、真理が一つに収斂することはない。複数の権利的に同格の真理が存在する。従って、右翼の世界観の基本は多元性になる。多元性は、他者の真理を尊重しなくては成り立たない概念なので、多元主義が右翼の基本になる。
 また、神、国王、宗教、神話、伝統など、理性の言語で説明できない存在や事柄を「いままで続いている以上は何か意味があるはずだ」と受け入れる。その意味で右翼は基本的に保守的だ。

 教育界で乗り越えていくべき壁とは何かを考えるヒントになります。
 
amazonへのレビュー 佐藤優著「世界認識のための情報術」(金曜日)
『週刊金曜日』を舞台とした佐藤優の「思想的営為活動」が読める本 By kurazoh
 「週刊金曜日」を定期購読されている方に必要な情報:巻頭の「『週刊金曜日』への私の想い~序論として」と巻末の「世界をできるだけリアルに認識するために~あとがきにかえて」が書き下ろしで、あとは連載「飛耳長目」の第1回(2006年3月10日号)から第27回(2008年5月14日号)までの内容が収録されています。
 「週刊金曜日」をご存じない方への情報:「はじめに」より~右翼で国家主義者である筆者を『週刊金曜日』の執筆陣に加えることだけでも、編集部はリスクを負う~・・・と佐藤優が表現している雑誌が『週刊金曜日』です。
 巻末の書き下ろしに、「多元主義に向かうための五つのテーマ」が掲げられています。
 「その1」で、「もはや有効性を喪失している右翼と左翼の既成概念にとらわれないこと」とし、「その5」で「より根源的な問題意識として、日本人にとっての超越性の問題を解き明かしたい。その意味で、左翼的アプローチが重要だ。構築主義、設計主義を徹底的に詰めるところから、『命がけの飛躍』の必然性を感じ取るのだと思う。このようにして感じ取った超越性が、寛容と多元主義の根拠になるのだ。」と述べていますが、このことが、「疑似争点についての論争で、無駄なエネルギーを費やすことではなく、新自由主義とファシズムに対する耐性をつけるための思想的営為に全力を投球したい」という意気込みをもって『週刊金曜日』に佐藤優が連載をもっている理由です。
 機密費、日露関係、イラン問題、靖国問題、「慰安婦」決議、集団自決、プーチン流イデオロギーなどについて関心のある方は、佐藤優流の切り口を堪能できると思います。
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北京オリンピック報道の見所?

 北京オリンピックの開催に際して、もちろんメダルの行方は気になりますが、なぜか私の強い関心はスポーツよりも中国の人々のマナーの方にあります。
 発行されたばかりの辻康吾(元毎日新聞北京支局長)著「中国人、中国人を笑う 中華人民笑話国」(小学館)を読んで余計に気になってしまいました。
 この本は、中国関係のジョーク集で、アメリカ人は~、イギリス人は~、ロシア人は~、韓国人は~、日本人は~・・・などと他文化の特徴と合わせて中国独自の問題を浮き彫りにしています。
 この中で、中国では「行列をつくる」「整列して待つ」という習慣がなかったので、自国のメンツをつぶさないように、オリンピックの開催が決まって以来、「礼儀を守ろう(=講文明)」をスローガンとして、「行列(=排隊)」を推奨してきたそうです。
 世界のマスコミがスポーツとともに、中国の生活文化などをどのように報道していくか、日本のマスコミはどうするか、何かをきっかけにしてまた反日運動がおこらないか、など、見所?がたくさんあるような気がします。
 社会科の教材になりそうな題材も抱負です・・・国際問題、人権問題、環境問題、衛生問題、・・・。
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京都府の「地理」授業不足問題

 京都新聞に中学校の社会科授業で、「地理的分野」にあてるべき授業時間が約20時間ほど少なかった(ということは歴史的分野に20時間余分にかけた)ことがわかり、補習を行うことになった、という記事が掲載されました。
 「子どもが地理がわからないと言っている」という訴えを保護者がおこしていなかったら、全国に京都府の中学校名が知られることはなかったはずですが、記事を読んでいて興味深かったのは、実態を把握するのに取られた手段が、「生徒らに調査」というものだったことです。
 担当する教諭は「地理、歴史とも十分に授業を行った。未履修はない」と言っているということですが、標準時数の8割しか実施しないで「十分な授業」と表現できるところが、公立学校の教育の問題を物語っているわけです。
 (そもそも、現行の地理的分野の学習は「学び方・調べ方」の習得と活用に重点が置かれており、その趣旨をふまえた指導が行われているかどうか、という問題もあります。)
 こういう一つの記事によって、京都府はおそらく全校に調査をかけることになるでしょう。
 他県の教育委員会はどうでしょうか。
 京都府のこの学校だけの問題でしょうか。
 文科省は

 中学校の地理と歴史については、学習指導要領の原則に反してザブトン型(地理を1年、歴史を2年で学習)で教えている学校が多い自治体があったり、歴史が中2で終わらずに中3に食い込んで、公民的分野の学習が遅れがちになったりする問題があります。
 
 そしてさらに混乱しそうなのは、次の指導要領では、各分野とも授業時数が増えるのですが、地理が105時間から120時間、歴史が105時間から130時間、公民が85時間から100時間という増え方で、歴史の学習が中3の1学期までかかることになり、「現状に近い」ことが正しい指導になっていく、そういう問題もあります。
 
 今後の動向に注目しています。
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PISA型学力と教育の「超越性」

Psycheさん、コメントありがとうございます。
 日本人は基本的に「ものまね」が好きですよね。
 教員研修でも、すぐにそのまま真似ができるような内容が教師からは好まれます。
 しかし、記事の本文中にあったフィンランドの教師の言葉からわかるように、教育は表面をなぞったような活動だと、ちょっと不測の事態があったときに教師は対応ができません。
 そのためにも、教師はさまざまな理論で武装し、最適なものをその場で瞬時に組み合わせて実践する能力が求められています。
 教育実習が思い通りにいかなかった理由を「大学での教職課程」のせいにしたくなる気持ち、「もっと現場で(すぐに)役に立つスキルや知識を教えてほしい」という気持ちはわかりますが、マニュアル主義を求めること自体、教育そのものを誤解していることになるのですね。
 これは「いちろう」さんがコメントされている趣旨と同じです。

 理論(知識)自体が無駄であるわけではなく、その使い方がわかっていない・・・・これは学校教育で教えていることも同じことです。
 「使いみち」を入試に限定すると、その「使い方」をよく知っている子どもは有利です。
 では、入試が終わった後はどうなるか・・・・。
 PISA型の学力は、「答えが一つとは限らない実生活、実社会を想定した知識や技能の使い方が身に付いたかどうか」に重点がおかれているので、それが重視されている最近の状況は歓迎すべきことかもしれません。
 しかし、フィンランド型の学習を実験したある学校で、「日本でそのまま実施するのは難しいが、総合的な学習の時間でやってきたことが生かせる」という報告が出ているのに、その総合の時間はカットされていく・・・。
 現行の学習指導要領では、学校の教師集団の叡智を結集した総合学習が可能でしたが、新学習指導要領では、その学習を教科内で実施することになりますので、教師一人一人の力量に左右されることになりました。
 そして、結局は、「入試への使いみち」が問われる時期が目前になっていて、かつそれが十分に身に付いてない状況があれば、教師は何を学ばせようとするのか・・・。

 佐藤優の言葉に、「構築主義、設計主義を徹底的に詰めるところから、『命がけの飛躍』の必然性を感じ取るのだと思う。このようにして、感じ取った超越性が、寛容と多元主義の根拠になる」というものがあります。
 教育の「超越性」に教員養成の過程で気づかせることができるのか、教育現場で気づくことができるのか、それはやはり本人の「教養」と「直観力」次第でしょうか。
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教員養成カリキュラムに「学校取材」の導入を

 教師の社会的地位が医者と同等とも言われるフィンランド。
 教師が非常に尊敬されている存在であるフィンランド。
 高校生のなりたい職業のトップであるフィンランド。
 大学の教員養成学科の人気が高く、入試倍率が10倍にもなるフィンランド。
 増田ユリヤ著「教育立国フィンランド流 教師の育て方」(岩波書店)は、主に優秀な教師へのインタビューと現地の教育の実態を紹介している本です。
 そういう意味では「当たり前のことが当たり前にできている国」という理想を描きたくて、取材先が偏っている?というイメージはぬぐいきれません。
 

「私は教師の仕事が本当に好きです。この仕事は同じ日がひとつとしてありません。子どもたちの様子も毎日違うので、それぞれにあった学びを探す努力を続けていかなくては。教師の仕事に終わりはありませんね」
・・・というのが、フィンランドでは「普通の教師」なのかどうか。
 学校教育に希望を見出そうとする傾向は、著者の経歴が高めていたようです。
 
「学校以外の社会を知る機会(NHKのリポーター)を得た私は、そこで初めて学校の仕事を楽しいと思えるようになった。自分がいかに未熟だったか、ということに気づかされたのである。インタビュー取材をするようになって初めて、自分が子どもたちと『会話』ができていなかったことに気づいた。」

・・・そんな一節を読んでふと、教員養成のカリキュラムの中に、特色のある学校を取材し、その成果や課題を肌で感じてくる、そしてその取材結果や自分なりの分析と改善プランのプレゼンを行う、なんていうのがあるといいかなと思いました。
 よく教育実習を終えた大学生が残すコメントに、「理論や知識というのは実践ではまるで役に立たないことがわかった」というのがあります。
 本当は「理論や知識を役に立たせるような実践方法がわからなかった」という意味なのでしょうが、実習を終えてこのレベルのコメントですんでしまわないように、「学校取材」をカリキュラムに組み込む・・・。
 実はここでの「インタビュー内容のセンス」が、授業では「発問センス」として反映されてくることになるのでしょう。
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「教育立国フィンランド流 教師の育て方」の内容

 増田ユリヤ著「教育立国フィンランド流 教師の育て方」(岩波書店)を読みました。
 教育書の多くに感じることとして、書名と内容がしっかりマッチしていないものが多いことがあります。
 売れる本にするために出版社側が考えてつけるのでしょうが、この本を教員養成プログラムの参考にしようとして購入した(私のような)人は「あれ?」と感じてしまうと思います。
 以下、amazonへのレビューです。
 

著者はPISAで世界一の学力を維持したフィンランドという国について、世界最大のシェアを誇る携帯電話会社のある国、ウィンドウズと拮抗するOSソフトを生んだIT先進国、サウナやキシリトール、ムーミンを生んだ国、人口が北海道と同じくらいの国、学校の夏休みの長さ、ソ連崩壊当時は失業率が20%に達した国、大学はすべて国立・・・といった冒頭のインフォメーションで親近感を高めてくれた。
 そして肝心の「教師の育て方」だが、特色の一つとして、日本とは比べものにならないくらい長時間の「教育実習」が紹介されている。
 本書は、タイトルだけにひかれて「教員養成プログラム」の参考にしようとすると、期待はずれに終わるだろう。
 実質的には、著者によるフィンランドの各種学校のルポである。
 タイトルとしては、「優秀な教師が育つフィンランド流学校教育」の方が適切だったかも?

 私としては、20代、30代で校長になって、しかも十数年も同じ学校を経営している人がいることに驚きました。しかも、学校経営の悩みは日本と似たようなものがあり、研修の内容にも興味がわきました。
 「子どもの変化」についても日本と同様なことがおこっているようで、果たして「授業」の質の高さがどの程度まで維持できるのか、5年、10年先のフィンランドにも関心を持ってしまいます。
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教職志望動機と「使命感」

 教師を目指す動機。
 採用試験の面接では必ず問われることではないでしょうか。
 私の場合は人から言われた「ひとこと」なのですが、それではインパクトが足りない(またはそこをつっこまれると言いたくないことも言わなければならないので困る)と考えたせいか、別のことを言ってしまった気がします。
 採用側としては、何が受験者から語られても、そこに教育への「使命感」「責任感」が嗅ぎ取れるかどうかが勝負になると考えられます。
 
 「使命感」によって「働かずにはいられないで働く」ような職業というのがありますよね。
 こういう職業は、公務員の場合、職につくまでの幻想に惑わされていた人が、現実の厳しさを知って「使命感」を喪失した後も、よほどのことがない限り失職しないですむという問題がありますが・・・。
 教師の場合は、使命感を喪失させられた原因が子ども(「いちろう」さんがいつもおっしゃるように、一番の原因は本人なのでしょう。ここでは本人以外で影響を与えた人物をさすことにします)でも、失った使命感を取り戻させてくれる存在も子どもであるというラッキーな職業です。
 どんな理由で教師になったにしろ、現場で教育にたずさわっていれば、本当の「使命感」に気付くことができるのが教職というものだと私は考えています。
 何度も挫折を味わうことで、自分自身が成長できるのも教師であり、同じように挫折を体験した子どもにも、そこから次のステップに進ませてあげるのが教師です。
 教師は、立場上、子どもの評価はいつもしていますが、自分自身へのふり返りや次のステップへの目標づくりをすることも、教師には求められています。
 たとえば毎年の人事考課、サイクルは長くなりますが免許更新講習等がその機会になります。
 そのようにして成長していった教師のライフスタイルを公表できる自治体が出てくるとおもしろいかもしれません。
 目標とするロールモデルが見つかるとすると、教師志願の有力な動機になるのではないでしょうか。

 できたら、そこに「指導教諭」「主幹」「管理職」「指導主事」等になったロールモデルも入れてほしいものです。
 というのは、いきなり管理職になりたくて教師を目指す人は少ないのでしょうが、何年経っても「管理職」の仕事は「他人事」と考え続ける教師ばかりでは困るので、一応、あらかじめ、そういう道があり、そのような道を選んだ人がどのような成長を遂げていったのかを知っておくことは意味のないことではないと考えられるからです。
 
特に、世の中で最も「明るい印象のない」のが「副校長」という管理職ではないかと考えます。
 実際、精神的にも体力的にもつらい経験もする立場ではあります。しかし、「副校長」は(基本的には)ゴールではないので、その経験が校長になってどう生きたとか、校長と教諭の間でどのような仕事が最もやりがいがあったとか、何かプラスのイメージの発信がほしいところです。
 余計なことですが、副校長が「職務遂行上の負担」として最も感じているのが「仕事量の多さ」で、その中でも大きな量を占めているのは、「調査もの」と、「だれにふったらよいかわからない」仕事だそうです。
 この担い手が主幹になる、と考えられてしまっては、主幹のなり手もいなくなってしまうでしょう。
 「使命感」のみが原動力・・・なんていうのも寂しい話です。
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情熱がわかない4つの原因

 「教育への情熱」をどのように高めたらよいのか。
 様々な立場の人から、教師へ、教師志願者へ、保護者へ・・・様々な立場の人へ、それが十分でないときに求められる問いです。
 岡潔集第四巻にある言葉です。
 

目標があまり遠くては情熱はわかない。
 目標が正しくなくても情熱はわかない。
 また、全然責任を感じないときにも情熱はわかない。
 やさし過ぎても情熱はわかない。

 はっとさせられるのは、三つ目の指摘です。
 教育への責任というのを、教師や保護者はいつどのようにして感じることができるのか。
 事件や事故を起こしたときだけか。
 
 一方、子どもの勉強へのやる気、学習への情熱のことを想定すると、あまりそこに子ども自身の「責任」という「重荷?」をもたせてこなかったのが、今までの教育ではないか、と思われてきました。
 ここに、教育という語への永六輔の反発が理解できる立場が生まれます。
 「教え育てる」行為の主体は子どもではなく教師や保護者などの大人。
 そちら側には、教育の責任がある。
 では、子どもの側には?
 「教育」と言ったら、やはり「受けるもの」「受けさせられる」ものでしょうか。
 「教育基本法」ではなく「学習基本法」を、という提唱をしている「働くための学習」(学文社)の著書、田中萬年。
 
 「~を身に付けなければならない」という言われ方をすると、当然子どもは反発するのでしょうが、
 「~を身に付けさせることとする」とされていても、それが十分にできていない状況をどう考えたらよいのか。
 こんなことが面接の質問で聞かれたら、教師志願者の方は何とお答えになるのでしょう。
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教職志願者を増やす方法とは?

 ある新聞のコラムで、「教職志願者が減ったのは、教師が夏休みに休めなくなったからだ」と書いている人がいてびっくりしました。このコラムは筆者の好きなように書かせている(編集の手が加わっていない)ようで、ときどきとんでもない偏見が飛び出します(通常は自分の実践の正しさの強調)。
 たしかに、私が初任者のころは、プール(水泳)指導の担当者を決めるのに四苦八苦していた記憶があり、考えてみるとその理由は、プール(水泳)監督をして責任を持たされるのが嫌というより、単純に学校に来たくない(来ない)教師がいたからだったような気がします。
 休みがないとは言っても、毎日8時間ずっと部活動や会議をしているわけではないので、授業の準備や研修がいくらでもでき、かつ、年休を取ろうと思えば実際に取れる期間があるのですが、最近は「夏休みでも休みがない」という宣伝をしたがる教師が多いようです。
 「楽をしているわけではない」ということが言いたいのだと思いますが、過密スケジュールで塾の講習と部活動を両立させている生徒と比べると、明らかに学期中よりは楽になっているのはたしかでしょう。
 勤務時間中に趣味の歴史小説を読んでいても、社会科の教師なら「研究と修養のため」という理由がついてしまいます。
 さて、本題は「教職志願者を増やす方法」です。
 昔は、本当に「夏休みが40日も取れるから」という理由で教師になった人がいたのでしょうか?
 教師の子どもが教師を目指すことが少なくないようですが、そういう人が、「自分の子どものころ、随分家にいて、一緒に遊んでくれた」という記憶があり、「私の子どものためにそうしたい」と思ったりしているのでしょうか。
 一般の公務員よりも給料が高い、そういうことが一定の志願者数を支えているのでしょうか。
 そうすると、教師の給与水準をもう少し上げると、志願者が今より増えるのでしょうか。
 いずれにせよ、私が考えている「教職志願者数を増やす方法」は、単純なことで、大学時代までに、「教職につきたい」という願望を強く持ってもらうようにすること、これに尽きます。
 そして、そのために重要なのは、早ければ児童・生徒の段階から、この仕事への魅力を実感してもらうことです。
 それは、教師自身が、日々やりがいを持って仕事にのぞむ授業を楽しそうに行うなど)とか、この仕事をしていてよかった、という気持ちを児童・生徒に伝えるとか、さまざまな方法があります。
 教師の場合は、自分の能力の向上、自分の成長だけでなく、子どもの能力が向上し、成長してくれることも「仕事の報酬」になります。
 「お金ではない」報酬で心が満たされる職業は他にもたくさんあるのでしょうが、教師の場合はこれが格別で、行政では事務方から教育長になったような人が、教員系の人によくこう言うのです。
 「卒業した後も、相手がどんなに偉くなっても、いつまでたっても先生、先生と慕われるのがうらやましい。」
 後者の報酬が教師ならではのものであり、子どもに「恩義」「感謝」の気持ちが生まれることで、卒業後も「教え子」と「世話になった先生」という関係が続くことになります。
 教えた当時の自分の年齢を超えた「教え子」たちに、当時の教育への暖かい批判を浴びたりするのが年中行事になっている教師も少なくないでしょう。
 教職志望の人たちにがあるとすると、「どうしてそんなたいへんな職業につかなければならないんだ」「もっと出世できて高収入が得られる仕事の方がいいんじゃないか」と反対する親の存在でしょうか。
 教師になってからも、「組合に入らないといじめられるんじゃないか」とか、「親からいろんな要求をつきつけられてまいってるんじゃないか」「結婚相手を探す暇はあるのか」などと心配をかけます。
 そんな親を安心させる方法も、日々やりがいを持って仕事にのぞむことしかありません。
 卒業させるごとに増えていく「色紙」や「感謝のことば」などを見て、徐々に安心させていくことができていくのでしょう。
 大学の教職課程に欠けていることが何かは多くの方が実感できるのではないでしょうか。
 蛇足ながら、都道府県の教員採用試験の倍率をいかに上げるか。
 その答えも同じであるとすると、現職の教師の役割も非常に大きいものになっていきます。
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「弱さ」が最強の「武器」になる社会

 「守り」ではなく「攻め」の精神科医・・・と区別することがあるとしたら、その代表として、中嶋聡(『「心の傷」は言ったもん勝ち』新潮新書の著者)、香山リカ(『うつ病が日本を滅ぼす!?』創出版の著者)の二人が挙げられると思います(たまたまその2冊の本を読んだというだけの理由ですが)。
 2冊の書名からも明らかなように、二人が危惧している社会への共通の問題意識があります。
 香山リカは、
 

今の30代、40代が『われもわれも』とばかりに“心の病気”を訴え始めているように見える。そして、この状態が続くと、どこかで企業のモラルや社員の士気が一挙に崩壊し、それが社会にも深刻な影響を与えるのではないか、と半ば本気に思っているのだ。
 
 
自尊心が強く自分幻想も大きく、他人からの評価には傷つきやすく、落ち込んだかと思うと時には攻撃的になることもある人たちが、ちょっとした挫折をきっかけとして、少し耐えて乗り越えようとすることもなく、次々と「私、うつ病です」と戦線離脱していくと、会社も役所もそのうち成り立たなくなるのではないか。
(以上、「あとがきにかえて」から抜粋)
 
 中嶋聡は、
 
人一倍努力して、少しでも自分を向上させる。そしてその結果、少しでも世の中の役に立つような仕事をする。そのことの価値を疑う人は、ほとんどいませんでした。しかし現在では、そのような考え方は、ださく、格好悪いことのように受けとめる人が多いようです。

 
被害者の立場の極端化を許しうるような、ある共通の構造があることを指摘しています。そしてそのような構造にもとづいて、訴えさせすれば被害者の主張がそのまま認められ、加害者とされた人が一方的に断罪されてしまう現代社会のありかたを、「被害者帝国主義」と名づけました。
 「時代が変わった」と人はよく言います。それは、仕方のないことなのでしょうか。変わってしまった価値観は、すべて受け入れ、適応していかなくてはならないものなのでしょうか。

(以上、「はじめに」から抜粋)

 昔なら「弱い」立場だった人が、これからは、その「弱さ」を武器とすることで「最強」の存在になってしまう。
 香山リカが当惑している最近のうつ病患者は、かつては考えることができないほどある意味ではタフで、強い自己愛や万能感をもった人たちだそうです。
 企業のジレンマは、「弱い」人を守るためには、競争力の低下は絶対に避けなければならない。しかし、「弱さ」を容認すると、競争力が低下し、「弱い」人を守れなくなる・・・。
 ある経営者は、「ゆっくり休みながらやりなさい」と言うと、若者は本当に休んでしまうので、最近はあえて「とにかく辛抱してがんばりなさい」と言うことにしているそうです。
 しかし、「しっかりしろ」「がんばれ」はうつ病の人への禁句になっている・・・。
 香山リカの場合は、自分は「戦後民主主義教育」と「80年代的サブカルチャー」をよりどころとする人間だと言っています。
 「80年代原理主義者」とよばれて批判された経験がある彼女の価値観とは、
自由、平等、反権力が何より重要
オトナよりコドモ
強いものより弱いもの
金儲けより人助け
多数派より少数派
構築より解体
管理より自律
整理より混沌
体系的より散発的

などというもので、「ああ自分にもあてはまる」という人も多いでしょう。
 その香山リカの違和感を、どう捉えたらいいのか。
 
 中嶋聡の場合は、「被害者帝国主義」という造語からもわかるように、やや過激です。
 「タイミングのよい体罰は容認する」という、「○×式」ではない、あいまいな部分を残すことに重きをおこうとしていることに特徴がありますが、反発される方も多いでしょう。
 私が二人に注目したのは、自分も感じている近年の「問題行動」や「家庭の対応」の質の変化の問題を考えるヒントになると考えたからです。
 「ギャンブル依存症は病気なんだから!」と非常に強い態度に出る人。こういう保護者への対応はどのようにしたらいいのか。
 「~のせい」にする能力が非常に高まっている生徒。なかなか納得させられないで困るケースもありました。
 時間をおいて少し考えてみようと思います。
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歴史は繰り返すのか?

 岡潔の『春風夏雨』の中の一節です。

ここに一人の非行少年があると思ってほしい。これを治すことがどんなにむずかしくても、治せるかどうかわからなくても、ぜひ治さなければならない。めいめいが勝手なまねをしてよいというのではなく、だれ一人として踏みにじられることのないようにというのが民主主義の本義なのだから。
 なるべく親たちと先生たちの手で治してほしい。一人を治してみて、どんなに治しにくいか、実際にわかったら、そして人々がそれを聞き知ったら、それを重ねていくうちに、だんだんいまのように心を軽視しないようになるだろう。

 ・・・童心の時期の家庭的環境に起因する非行少年に対しては、人の持つ最高のものである愛と誠実を以て、長期間にわたって接し続けるほかないのではなかろうか。・・・心の病は肉体の病よりも遙かに治しにくいと昔からいわれており、もし本当に病んでしまっていたら、・・・絶えざる細心の注意と、強靱な意志を以て、長期間にわたって徐々に治してゆくほかなかろうと思われる。また、これは癖であって、癖はもう治ったかと思っていると、またしても出る。そしてその頻度がだんだん減っていって治ってゆくというものなのだから、・・・

 もし教える内容量の多い「詰め込み教育」が子どもの非行や問題行動に強い影響を与えていたとしたら、移行期以後、量が増えるこれからの学習指導要領下では、またこれらの問題が頻発することになるでしょう。
 ちょうど、校内暴力がピークだったころの人たちが、学齢期の保護者になっています。
 加害者になってしまった親、被害者だった経験がある親、嵐が過ぎるのをじっと耐えていた親、・・・さまざまな立場の親が、今の子どもたちを家庭で守っているわけです。
 当時と今では学校環境のどこが最も異なっているかというと、当時は大量採用の教師たちが若手だった。そして今は、教師の高年齢化が進んでいる。当時の若手の先生方は、あと数年で現場を去ろうとしている。
 体罰は即、処分につながる可能性が高くなっている。
 子どもの数はかなり減少している。
 当時はインターネットもなかった。
 コンピュータも普及していなかった。
 では社会は・・・
 環境の変化をどう評価するかは、また何年かたってからでないと難しいかもしれません。
 しかし、当時よりも10年先が読みにくくなっていることは確かかもしれない。
 犬の寿命が人間の7分の1くらいであることから、変化の激しい社会で使われる言葉に「ドッグイヤー」があります。
 梅田望夫が書いていた記事によると、インターネットのサービスの黎明期から現在まで、ドッグイヤーではちょうど100年がたとうとしている、ということでした。
 この間に、教育の何がどのように変わったのでしょう。
 何をどれだけ残し、何をどれだけ削ったり増やしたりして、どんな新しい課題に取り組めばよいのでしょう。
 社会の大きな変化への対応力、がキーワードになっています。
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教員採用の望ましいあり方について

 大分県の教員採用汚職事件を受けて、政府の教育再生懇談会(座長、安西祐一郎慶応塾長)がまとめた緊急提言の中に、教員採用・昇任プロセスの透明化を図るため、試験問題の公開を行うなどが盛り込まれたそうです。
 また、教育委員会の閉鎖性を解消するため、事務局幹部職員に教員出身者以外からの積極登用などを訴えているようです。
 政治的には正しい判断なのかもしれませんが、現実には多くの困難と新しい問題が浮上しそうです。
 まず、試験問題についてですが、採用試験の問題分析を行った経験から言うと、全国的に「問題の質が低い」ことは明らかです。古い大学入試問題のパクリのようなものまであります。
 場合によっては、「こんな程度の問題で採用を決めているのか」「この程度の問題ができると教職につけてしまうのか」という批判が新たに浮上するおそれがあります。
 また、当然採点基準の問題が出てきて、自由に伸び伸び書ける論文ほど採点が難しくなり、結果として、見え見えのことばかりしか問えない問題が増えて、そういう問題しかつくれない教師をどんどんつくりだしていくことになります。
 私の考える解決策は、教員免許の有無では資質・能力の適性はほとんどわからないので、司法試験や医師国家試験のようなタイプの資格試験を1次として導入し、各自治体が面接等を中心とした2次試験を行うようにすればよいのではないでしょうか。地方公務員としての身分の問題などがあり、難しいのはわかりますが、各自治体で採用試験をつくるコストというのは日本全体で見れば無駄のような気がしています(外部に委託している自治体もあります)。 
 次の事務局幹部職員の教員出身者以外からの積極登用もけっこうなのですが、結局は問題をつくったり教育の専門的なことに関する判断をするのは教員系の人間です。
 そもそも事務方の採用に教員採用汚職のようなケースがあるかないか、調べないでも予想はつきます。
 ペーパーで点をとる能力はなくても、地元を愛する心があればOKなんて理屈は、「わたくしども空間」重視の日本ならありがちなことでしょう。
 「緊急提言」というものは所詮この程度のレベルのものです。
 教員採用についての意見は、過去にも書いておりましたが、改めてまとめてみようと思います。
 子どもの立場で考えると、「裏金でなった先生?ああ、でも、自分の力で受かったかもしれない先生より、100倍授業はわかりやすく、生徒思いでみんな大好きだったのに・・・」なんてコメントが聞かれる恐れがあることは、封印したいのですがどうしても出てきてしまうかもしれません。
 不正は不正としてきちんと裁かれるべきことは言うまでもありません。
 現場に立つチャンスをたった1年間でも失った人の無念さは痛いほどよくわかります。
 しかし、充電期間が増えたことは、きっと後の子どものためになっていくと思います。
 教師になりたい人は、素直に応援(ヤジも含む)したいです。
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校長への評価の基準とは何か

>(私のコメント)教育を子どもの
 立場になって考えるとき、そこ
 には上からや下からという角度
 はありません。

>(いちろうさんのコメント)上の
 立場のものが一方的に評価
 するのではなく、評価される
 側のものが、評価する人を評
 価する。
 簡単にいうと、相互評価のし
 くみが必要でしょう。
 そこから逃げて、きれい事を
 並べても、ただの管理のため
 の手段になってしまう。

 学校評価の中で、最も子どもの立場に近くできるのが教育課程の実施状況に関する評価です。
 校長先生の中には、「先生方は何でも自由に伸び伸びと教育なさって下さい。何かのときの責任はすべて私がとりますから」という人がいて、その言葉を「真に受けて」喜んで「手を抜いて」しまう教師も多いのですが、やはり責任は校長を含めてすべての教師が担ってほしいものです。
 一時期、「説明責任」という言葉が教育現場でもはやりましたが、それは校長だけの仕事ではありません。
 とにかく大事なのは、教育課程で示した教育がきちんと実施されているのかどうか、目標に照らして子どもの現状はどこまで成長したのか、していないのか。
 これを多くの目で見て、だれがどこをどのように改善すべきなのかを明らかにしなければならないわけです。
 教師に対して一番その指摘がしやすいのは校長なわけで、教師から校長への評価を行うとすれば、自分に対してどのくらい真剣に指導してくれたか、本音で叱ってくれたか、褒めてくれたか、そういうことが評価の根拠になるのでしょう。
 360度評価については過去に記事でも何度かふれてまいりました。
 冒頭のいちろうさんの考えには、私は全面的に賛成の立場です。
 ちょっと古い記事ですが、ご紹介させていただきます。
教師として成長するためのコンピテンシー(2005年10月)
教育の場を戦場にたとえると・・・(2007年1月)
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望ましいリーダーの特徴

 リーダーシップに関連する著作は非常にたくさんありますが、「望ましいリーダーの特徴」について複数回答による調査をした結果、次のような順(回答率が高い順)になった(長期間の調査で、上位の項目にはあまり変動がない)という事例が紹介されている本(中谷彪著「信頼と合意の教育的リーダーシップ」晃洋書房)がありました。
正直
前向き姿勢
有能であること
人を鼓舞すること
聡明(知的)
公正
寛容
応援してくれる
率直
信頼できる
協力的
決然とした
想像力に富んだ
大望がある
勇気がある
思いやりがある

(以下略)
 アメリカ合衆国を中心に、6大陸の国々での調査を集計したものだそうですが、国別の特徴別順位を比べてみると、興味深い点が見つかります。
 それは、「望ましいリーダーの特徴」として「正直」を選んだ人が、他国と比べて日本はダントツに低いということです。
 原典にあたってみないと、その分の回答がどこにまわったかわからないのですが(もしかしたら「思いやり」か?)、アジア諸国と共通して低いものもある一方で、日本は「正直」であることを「望ましいリーダーの特徴」として選ぶ人が少ないことは非常に目立ちます。
 逆に考えると、欧米諸国などは「正直でない」「嘘をつく」リーダーが多いこと、日本では基本的に「正直」であることは当たり前のこと、などのことからくる回答結果なのかもしれませんが。
 「有能であること」や「前向きな姿勢」はどの地域の国でも回答率が高い。
 また、「人を鼓舞する」ことは、アジア地域がアメリカやカナダ、オーストラリアより低い(日本はその中でも最低)。
 この後半の傾向については、私の場合は何となく納得してしまいます。
 これらの「特徴」(=「長所」)は、何も企業のリーダーに限らず、日本の学校経営者にも、そして教師自身にも止められるべき資質であるとも考えられます。
 「人を鼓舞する」「応援する」リーダーや教師は好ましいことは確かですが、問題はそれを行う「タイミング」と「」です。
 以前ご紹介した林壮一著「アメリカ下層教育現場」(光文社新書)では、著書が受けたアメリカのユース・メンターリング(「若者への助言・指導」)のプログラムでインストラクターが示した「状況に応じて使い分ける20種類の褒め方」というのが紹介されていました。
 こういう言葉がぽんぽん飛び出している教育現場って日本ではあまり想定できません。
 しかし、当然、こういう表現があることを学んで、本当に言われて相手がうれしく感じるとき、効果が大きいタイミングというのをねらって言えることは大事なことだと思います。
 英語の方がニュアンスが通じやすいと思いますが、訳語で紹介されているので半分くらいを抜粋します。
「素敵だね!」
「素晴らしい考えだ」
「いい仕事をしたね」
「キミがその仕事を出来るって、こちらは分かっているよ」
「トライし続ければ、必ずやり遂げられるさ」
「まさに、その通りだね!」
「キミがどうやって、それをやったのか僕にも見せてくれるかな?」
「それこそが、進む道だね」
「僕はキミを誇りに思うよ」
「完璧だ!」 
「立派だ!」 
 
 管理職試験や教員採用の面接で、特定の状況を説明した後、何と言ってどのように褒めるかを演じてもらうような選考内容があってもいいかもしれませんね。
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個性に共感できる子どもと教師

 岡潔の『対話 人間の建設』の一節から、個性への共感について考えてみたいと思います。
 

各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。・・・・そういういろいろな個性に共感がもてるというのは、不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。

 子どものことで言えば、「いいものに素直に共感することができる力」には欠けている部分があるのではないか、というのが多くの教師の印象でしょう。
 個性に共感する普遍性を育てる(こういう対象は普遍性とは言わない?)ために、さまざまな方策が工夫されても、プロセスの中では多くの葛藤や対立があり、一見すると結果として失敗したように見えることもあります。
 しかし、それが成功への第一歩になっていたことに、後から気付くこともある。
 また、今の生徒たちは「空気を必死で読む」ために、個性を「正しく出せていない」(そっくりそのままの個性ではなく、飾ったり本質をぼかしたりした表現になってしまう?)ことが、共感を得にくい原因になっているのではないか、という気もします。
 クラスによっては、うまくいっているようでも、そっくりそのままでない見せかけの個性を尊重するため、共感を欠いたドライな人間関係が固定化しているところがある。
 だから多少の衝突は覚悟の上で、その人の「いいもの」を探したり、自ら「いいもの」を追求していける人になってほしい。人それぞれ、きっとその人にしか出せない「いいもの」があるはずである。人に共感できる人になることが、人から共感される人になることにもつながる。
 そのいうメッセージを込めた指導の事例を過去にご紹介いたしました。
 教師にも、同僚に対して、管理職に対して、このような姿勢を持つことが求められている、というのが一貫した私の考えです。
 一人一人の教師の「いいもの」を共感し合える教師集団の力は、はかりしれない偉大なものになるはずです。
 たまたまコンピテンシーディクショナリーを作ってくれた教師がいましたが、これは今でも私の宝物になっています。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より