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« 学校の活気はどこから感じられるか? | トップページ | 学校経営者としての5つの壁 »

学校経営者としての5つの悩み

 雑誌プレジデントの記事から、経営者が抱いている5つの悩みを学校の教育管理職にあてはめてみると、どういうことが言えるか、考えてみました。
悩み1:管理職としての能力に対する不安
 「学校経営についての自分の判断は正しいのだろうか」
 「学校経営について自信を失い、校内でも孤独感を募らせているが、その悩みを相談できる人がいない」
悩み2:組織運営に対する不安
 「自分の(教育長の)経営理念が校内の教師たちに伝わらない」
 「教師たちが主体的に動かない」
悩み3:教育の成果に関する不安
 「指導に工夫を加えていっても、なかなか成果があがらない」
悩み4:人材育成に関する悩み
 「主任級の人材がいない、育たない」
 「異動では優秀な人材が流出し、課題がある教師が入ってくるおそれがある」
悩み5:自分自身の存在意義に対する不安
 「この学校の教師たちにとって自分とは何か」
 「自分はこの学校のために何ができているのか」

 問題解決は、「問い」からスタートするので、何の不安も抱いていない管理職というのは怪しいわけですが(しかし、特に校長がまとう鎧はかなり強固なものでしょう)、これらの解決のために、その当事者(管理職)以外の人たちにできることとは何でしょうか。
 雑誌記事では、「心の軍師」と呼ぶべき存在、エグゼクティブ・コーチが必要だと説いています。
 校長にとっての「心の軍師」たり得るのは、教育界ではだれでしょうか。
 行政には「指導室長」「教育課長」という教員系の中間管理職がおり、教育長をトップとする教育委員会と現場の校長のパイプ役となっていますが、この人たちは「心の軍師」にふさわしいエグゼクティブ・コーチングのノウハウをもっているでしょうか。
 これは現場の校長に聞くしかありませんが、次のようなことを校長にできる課長は、よほど胆力と実力のある人でないと難しいかもしれません。
 コーチングのポイントは、まずは校長に「自分のなりたい姿」を明確にイメージさせる。
 次に、自分の現状はどうであるかを徹底的に認知させる。
 そして、どのようにしたらギャップを埋められるのか、対話を通してしつこく追求する。
 校長自身の長所はよく分かっているはずなので、それを最大限に引き出せるように、本人に気付かせ、やる気にさせる
 操作主義の心根は捨てて、校長の成功と成長を心から願い、自分がもっている経験や技量を惜しみなく与える(が、おしつけない)。
 校長の人材育成能力、リーダーシップ、コーチング力も、これと同じことです。
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教育」カテゴリの記事

コメント

pig
>真の勝利者とはそういうことができるひとを指します。

ここが問題なんじゃないの?
すべての人が勝利者を目指しているわけじゃない。
自己の利益や名誉以上に、
大切なものがあるんじゃないの?

>あなたの大好きなkurazohさんは素晴らしいと思います。

まぁ、頓珍漢で意味不明なことも多いが、
ここ最近出会った中で唯一、
先生なんだろうな、と思っています。

いちろうさん

そう、自己分析は一番至難なものでもあります。
素直に自分のこころを覗き込む姿勢は自己を省みる第一歩ですね。
私も。あなたも。どなたであっても。
真の勝利者とはそういうことができるひとを指します。
そういう意味ではあなたの大好きなkurazohさんは素晴らしいと思います。

happy01
>常に言い訳を携帯し、逃げ道を模索することに終始する臆病さ
>自分の最良と思ったことにいつまでも固執するアイディアの固さ
>他人の成功を常に妬む度量の狭さなど
>打ち勝たねばならぬ真の強敵は自分自身ですから。

な〜んだ。
他人のブログへ来れば、自分の分析ができるんだ。
素直が一番だね。 (^-^)v

結局人材育成能力に優れた人というのは、まず自分自身の育成能力に優れた人といえるのでしょう。
常に言い訳を携帯し、逃げ道を模索することに終始する臆病さ
自分の最良と思ったことにいつまでも固執するアイディアの固さ
他人の成功を常に妬む度量の狭さなど
打ち勝たねばならぬ真の強敵は自分自身ですから。
それを超える強さを身につけた人は、真に優しいし、だからこそ他人を育成できるのでしょう。
それにしてもトップとは孤独なものだと思います。

pig
なんか、違っていない?

>「学校経営についての自分の判断は正しいのだろうか」

みんなで決めればいいじゃない。営業(先生)の声を聞かずにするのか? 営業の声を年長者の経験と知識で方向性を持ってまとめれば、ほぼ失敗はないと思うのだが? どうも、暗象の文章からは、学校の先生たちに信頼関係が成り立っていないというのは読みとれる。 校長個人の責任ではなく、組織体としての責任じゃないのか?

>「自分の(教育長の)経営理念が校内の教師たちに伝わらない」

先生にさえ伝えられないものが校長になっているのか? 暗象的には、伝わらないのではなく、伝えらる力のない問題教師なんじゃないのか? そんなのが校長してたらダメだろう。 あれっ? それ以前に、校長じゃなく教育長なのか? 

>指導に工夫を加えていっても、なかなか成果があがらない

それは「指導」とはいいません。「指」です。

>主任級の人材がいない、育たない

指導者たるもの、育たないと言うのはただの逃げです。自らの力で育てるものです。

>自分はこの学校のために何ができているのか

そんなことを本気で思うのなら、お辞めになるのが子どもたちのためです。

というのが暗象が他の先生に向けている目なのに、

>これらの解決のために、その当事者(管理職)以外の人たちにできることとは何でしょうか。

なんで上の人なら助けなきゃいけないんだ?
こんな程度の、商品券を配ったり、
ゴマをすってなったような校長は、
辞めていただくのが一番の方策でしょう。
それが暗象の意見じゃなかったのか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より