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道徳的価値に気付かせる教師の役割とは?

 「自分より実力のある人間とつき合いなさい」という指導について、madographosさんとしょうさんからかなり突っ込んだご意見をいただきました。誠にありがとうございます。
 「生徒の善良さや優秀さを前提とした,かなりリスクのある指導法」というのは、一定の評価をいただいたと考えてよろしいのでしょうか。
 そして、私が「当たり前の指導言」とよばせていただいた「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい」についてなのですが、madographosさんやしょうさんは、教師が子どもに「誰とでも」という形で言葉を投げかけたとき、子どもがどんなニュアンスでその「」を受け取る可能性があるか、お考えになったことはありますでしょうか。
 子どもが本来のその意味に到達するまで、どのような壁を乗り越えていく必要があるのでしょう。
 そして、その壁を乗り越えさせる教師側の指導言とは何でしょうか。
 同じ言葉を繰り返し子どもに投げかけることでしょうか。
 「貴殿自身が誰とでも分け隔てなくつきあうということの道徳的価値を本当には理解なさっていないから,そう思われるのでは」というmadographosさんのご指摘についてですが、私のまわりにはいくつかの壁を越えてそういう道徳的価値をつかみとった子どもたちがいっぱいいますから、ご心配いただく必要はございません。
 ストレートにその価値に到達している子どももいます。しかし、私の目からは、壁にぶつかっていない子どもの現状にはあまり楽観視できないものがひそんでいるように見えます。
 「誰とでも分け隔てなくつきあう」ためには、何が必要か。
 「でも先生、人の悪口ばかり言うあの人とはつきあいたくないですよ」という訴えに、教師はどう答えればよいのでしょうか。
 教師の役割は、選挙演説のように当たり前の指導言を連呼することではなくて、そのような道徳的価値に気付かせ、つかみとらせることができる環境を設定することではないでしょうか。
 しょうさんにご紹介いただいた記事はそのパターンの一つでしょう。
 
 さて、madographosさんからご指摘いただいているもう一つの問題、「盗む」という言葉についてです。
 悪い言葉は悪い。よい言葉はよい。
 このような単純な思考が、子どもから豊かな創造力を奪い、堅い殻をつくったり、物事を固定観念によってとらえたりしているという危惧を私が抱いており、自由で伸びやかな発想力をつけさせるために、利用する言葉のパターンの一つがこの「盗む」というものでしょう。
 また、プライドの高い子どもは特に、人の「まね」をすることには一種の抵抗感をいだいています。
 泳ぎ方が上手な生徒がいたとして、そうでない生徒に、「まねをすればよい」と言っても、何も始まらないわけです。
 よい行いはどんどん「まね」をしていきましょう。これも当たり前の指導言なのですが、こういう言葉は、繰り返し述べるように、「そういうあなたはそれができているのですか?」という質問を受けると困ったことになってしまう人もいる。また、簡単にできる「まね」には創造力が必要ありません
 一方、「盗む」ことは一種の芸術なのです。
 これはその道のプロをたたえて表現しているわけではありません。
 私は大学まで野球部にいたので、たとえば盗塁をするために、ピッチャーの投球動作の癖を盗むことは必須の課題でした。相手の監督のサインを盗むこともあれば、すきをみて次の塁をねらうというのは、常に選手に要求されている課題です。
 「人の所有物を盗む」ことがいけないのは当たり前のことです。
 しかし、「心を盗んだ」ルパン三世など、言葉には必ず広がりというものがあるわけです。
 私は社会科の教師ですが、漢字の成り立ちについて説明することもよくあります。
 「盗」の「次」という字は、本当はにすいではなくさんずいであったこと、それはよだれを示すものであったことなどを話すと言葉へのイメージも広がっていきます。
 どうしても子どもに「盗んでもいいものがある」などというなぞなぞみたいな話もさせたくないと思われるのであれば、「まねる」というより「取り入れる」という言葉の方が私のイメージには近いものがあります。
 繰り返しになりますが、「これは批判のしようのないいい言葉」「これは口に出して言うことすら忌まわしい悪い言葉」とその価値を固定化することの方が危険であると私は認識しています。
 本日も、100名を超える方々にご覧いただきまして、ありがとうございます。
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教育」カテゴリの記事

コメント

madographosさん、コメントありがとうございます。
また以前と同じ誤解を読者に抱かせてしまったとしたら、申し訳ございません。
madographosさんはご自分の感想を綴られているだけで、私の投げかけや質問にはお答えいただいていないので、私としては「議論」として成立しているやりとりだとは感じておりません。
読者の方も、誤解されているようでしたら、その点をどうぞ配慮なさってください。
私が申し上げたいのは、成果が上がる指導であれば、単純なものでいっこうにかまわないということです。
ただ、こうすれば必ず成功する、などという法則のようなものはありません。
成果が上がらないのに、同じ指導方法だけに固執するのは、「子どものため」という教師の視点だけの指導になってしまい、「子どもの立場」で指導のあり方を見直そうとしない教師が陥る課題であります。
一般法則というのはそうあありませんが、こうすれば成功してきた、という経験的にわかっていることはあります。
そのことを述べているにすぎません。
私は数多くの学校や教師を観察させていただいたり、自分の指導の経験をもとに「単純ではすまない道徳的価値認識の指導」の一方法について述べただけで、記事が指導のすべてでもありませんし、「リーダーを育てる」という趣旨以外にもたくさんの指導すべき課題に直面してもおります。
madographosさんが「強弁」と非難されるのは、「AとはBであるべき」という認識パターンが中心なので仕方がないと理解しております。私が申し上げているのは、「AはBであるが、CやDという面もあることにも目を向けていこう」という認識を子どもにも持たせたい、ということです。
ただ、一つの言葉に引っかかって先に進めなくなる生徒もいることは重々承知しております。
何もあえてその生徒に反感を買うような指導を行う必要はありません。
また、生徒指導は、一人で行うものではありません。子どもは、多くの教師の指導観や価値観、教育観に実際にふれることで、それらの多様性に気づき、自分たちなりの生き方を探っていきます。
別に論理を展開しているわけではなく、経験を綴っているものとご理解ください。

「自分より実力のある人間とつき合いなさい」とする貴殿の指導にしたがって,コメントを書くことはそろそろやめにしましょう。
 さて,今回のエントリーを読ませていただいても,私の貴殿の指導の在り方に対する疑念は全く解消されません。弱論を強弁なさっているようにしか見受けられないのです。
 貴殿の議論は,「選挙演説のように当たり前の指導言を連呼する」とか「このような単純な思考」とか,「簡単にできる「まね」」とか,相手の主張をことさらに単純化し貶めることによって展開されていく傾向があり,そのことが貴殿自身の論理の曇りを生んでいます。誠に残念なことです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より