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リーダーを育成する学校と教師

 「自分より実力のある人間とつき合いなさい
 このことは、「生徒から学ぶ生徒」「生徒が生徒を育てる学校」という伝統がある私の勤務校では、昔から教師が口を酸っぱくして生徒に語りかけてきた言葉です。
 この「力」というのは、もちろん「学力」だけとは限りません。たとえ一言で「学力」と言っても、それがさす「力」は非常に広がりがあるものです。
 あえて誤解を避けるように言えば、「自分より個性の豊かな人間とつき合いなさい」という表現になるでしょうか。
 「実力」「個性」とは、たとえば包容力なんてものもあっていいし、忍耐力、協調性、雑学博士、運動センス、・・・さまざまな「力」が子どもたちには備わっており、また、伸ばしていっているのです。
 人は、自分が優越感を感じられるように、自分と同等か、似たようなタイプ、自分が優位に立てる自信があるようなタイプの人間とは容易につき合うことができます。
 しかし、自分より優れていると見えてしまう人で、自分が下に見られそうだなと思ってしまうと、自分から近づいていくことは難しくなる。人が人から学ぶというのは、言うのは簡単でも、実際には難しいものです。
 自治のさかんな学校というのは、そういう場面がたくさんできるよう、あらかじめプログラムされているというか、代々そういう経験ができるようなしくみができあがっています。
 学校が「リーダー育成」を声高に目標に掲げると、「格差拡大を目論むつもりか!」という反論が出てきそうですが、子どもにリーダーシップが備わると、たとえば危険な行動をとっている仲間に対して、子どもの側から「危ないぞ!」「そんなことはやめろ!」という注意が促されるものです。
 単純な一例ですが、リーダーがそういう態度に出たとき、「おまえは教師の犬か!」などと非難されるような学級経営をしているようでは、具体的な対案も出さずに世の中を批判することしかできない人間ばかりが増えてしまうことでしょう。
 「子どもにそんな責任感をもたせる必要があるのか」と問われると、教師の力量に多大な疑問を抱えている私などにとっては、「あるどころの話ではない。それが学校を救えるかもしれない」とまで言い切ってしまいます。
 以前に若干ふれた、「学校再建」「学校正常化」の最大のコツは、そこにありました。教師の力ももちろん必要でしたが、生徒が生徒を救ったのです。
 公立中学校にいたときは、「学級委員ができるレベルの生徒が少なくなった」という嘆きをよく耳にしました。
 こういうとき、即、「学級委員が育てられる教師が少なくなった」と読み替えられるかどうか。
 公立中学校のピンチの背景として、子どもと教師、どちらに大きな比重をおくか。
 私のスタンスは、これをあくまでも教師におくという前提で考えをまとめていくというものです。
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教育」カテゴリの記事

コメント


暗象さん
ここへの回答も「誠意をもって対応」して欲しいんだけど。
なんで自分に都合のいいところへ引っ張っていくことしかしないのか?
しかも、あちこちに矛盾をばらまきながら‥。

頑張れ!! 誠意大将軍!!

もう一点指摘しておきます。

〉子どもに強調する第一点が「長所を学び、盗んでいこう」ということになります。

ぶっそうな指導ですね。なぜ,そこで,「盗んでいこう」になるのですか。相手の長所に対する敬意や自分に対する謙虚さがみじんも感じられない表現です。「盗む」とは,相手の所有物をひそかに奪い取ることです。せめて「まねる」ぐらいの表現が適切なのであって,なぜあえてここで「盗む」を使うのか,疑問に思います。おそらくは,職人が親方の技を「盗む」というところからの類推であろうと思いますが,そのような表現を対等であるべき友人関係に使うところに,貴殿の指導の危うさを感じます。

>なぜ論理矛盾と感じてしまうのか。
それは、「実力」を固定的にとらえたり、その幅の広がりに目がいかなかったりする、人間観の貧弱さが原因なのです。

 お答えになっていませんね。論理矛盾は,「自分より実力のある生徒とつきあいなさい」という言葉そのものに内在しているのであって,「実力」の捉え方とは関係がありません。もし,私を論駁なさりたいのであれば,私の指摘した矛盾が成立しないということを同じ論法を用いて証明なさらなければいけません。決して,教育観などに関わる問題ではなく,純粋に貴殿のご主張の論理性の欠如を指摘しています。
 教育観の差異に関しては,お互いに相容れないことが明白なので,貴殿と議論する価値を感じません。
 批判の重要性を指摘し,情緒に流れるよりも論理性を重んじておられる貴殿ならば,きちんと批判されている論理性の問題に正対すべきではないでしょうか。

>「自分より実力のある人間とつき合いなさい」

これって、差別を生むんじゃないのか?
友だちというか‥、
周囲の人たちを“実力の有無”でランクづけ?
しかも“実力”ということばの曖昧さ。
あらゆる価値基準で、差別を増幅?

暗象さんは、だれにも相手にされなくならない?

学校って、そんなところなのか?
なんだか‥、イメージが崩れる。
暗象さんの主張する学校って、
どう読んでいても、殺伐としている。
いじめが横行、登校拒否だらけ‥じゃないの?

madographosさん、ご感想ありがとうございます。
ご指摘いただいた疑問の第一点は、子どもたちにも必ずぶつかってもらう壁です。
なぜ論理矛盾と感じてしまうのか。
それは、「実力」を固定的にとらえたり、その幅の広がりに目がいかなかったりする、人間観の貧弱さが原因なのです。
自分より優れたものをもっている人とのつきあい方が上手でないために、損している人はたくさんいます。
環境自体が誰とでも分け隔てなく活動するようなシステムになっている私の学校では、子どもに強調する第一点が「長所を学び、盗んでいこう」ということになります。
「気の合う」友達づきあいというのは、黙っていても子どもは勝手に始めるものですし、その中ですでに「学び合い」をしているかもしれません。
また、「つきあい」には、メル友になるようなレベルのものもあるでしょうが、班、係、委員会、部活動、当番活動・・・など、子どもたちには「つきあい」だらけの毎日を過ごします。
ただ、そういうつきあいをしていると、子どもの中には、相手の欠点ばかりに目がいって、ときにはそれを攻撃の材料にしたり、自分と共通した欠点を互いに慰め合う材料にしたりするものです。いじめ問題も、多くの場合、「相手より優位に立ちたい(立ち続けたい)」という願望が引き起こしていると私は考えています。
ですからあえて教師の側では、「力のある生徒とつきあおう」というわけです。
自尊心が高すぎる生徒にはその鼻の高さを調整する指導を入れることがありますし、理想が高すぎて自己肯定感が弱い生徒には、友だちからのはたらきかけによってその感覚を高めさせる指導を入れることもあります。
「長所に目を向けさせる」教育。
人によっては、それが短所への攻撃性を高める原因になっているとお感じかもしれませんが、もし実際の攻撃があったときこそ、その生徒への「人間教育」の指導の糸口になるのです。
madographosさんの教育観と私の教育観のズレは、あと少しで明白になってくるような気がします。
なお、このコメントはざっと思いをつづったものですので、後ほど推敲し、記事としてリライトして再UPします。

TBありがとうございました。こちらで感想を述べさせていただきます。

>「自分より実力のある人間とつき合いなさい」

たいへん興味深い指導ですが,論理矛盾があるように思えます。仮に,文字通りこの指導を受取るとすると,学校の中では友だちはつくれないということになりませんか?

この言葉は,自分より実力のある人間と,自分より実力のない人間が存在することを前提としていますが,仮に先生の指導を忠実に守ろうとするA君が自分よりある面で実力のあるB君とつきあおうとしても,これまた先生の指導を忠実に守るB君は,自分よりもその面で実力の劣るA君とのおつきあいを断らざるを得ません。したがって,この言葉を忠実に守る限り,友だちは得られないことになります。

〉「実力」「個性」とは、たとえば包容力なんてものもあっていいし、忍耐力、協調性、雑学博士、運動センス、・・・さまざまな「力」が子どもたちには備わっており、また、伸ばしていっているのです。

そうおっしゃるのならば,「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい。誰でも自分より優れた面をもっているものです。その優れた面を認め合い,学び合う関係をつくっていきなさい」とでも,指導した方が矛盾がないと思いますが。むしろ,貴殿の学校でも協調性や思いやりの心などを重視しておられることと思いますが,リーダー性を強調しようとするあまり,それらの教育方針の根幹のところを読み誤ってはおられないでしょうか?

おそらく優秀な生徒が多いのであろう貴殿の学校では,そのあたりの論理矛盾は割り引いて受け取ってくれているのでしょうね。

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
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  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より