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許せなかった子どもへの「悪口」

 私は1~3ヶ月ごとにまとめて新聞のスクラップをする癖があるので、それくらい前の「ふり返り」をします。
 いちろうさんが、繰り返し私が書き込んだすずめ先生のブログ記事へのコメントに対する批判をなされているので、それに対する説明をさせていただきます。
 すずめ先生もふり返りの記事を書かれており、私もすずめ先生のブログでは「もうこの件については・・・」とコメントしたような記憶がありますが、ニュースをよく見ておらず杉並区教委の見解も知らないので、もう少しふれておきたいと思います。
 当時から、以下のように書いておけばと後悔もしていますが、なぜ批判したのかという原因だけは明らかにしておく必要がありそうです。
 私がすずめ先生に対して批判を行った主な原因は、すずめ先生が

 たとえ教師が最後の瞬間に気づいて「危ないから降りなさい」と声をかけていたとしても、「大丈夫」と飛んだり跳ねたりをやめなかったんじゃないか

と、亡くなった子どもへの「悪口」とも取られかねないことを書いたことがきっかけになったのではないかと、今では考えています。
 「指導しても無駄だったでしょうよ」という言い訳をする教師は本当に多いんですよ。
 そういうのは「指導」ではない、というのは言われなくてもわかっていることなのでしょうが。
 ところで、亡くなった子どもに、「天窓の強度に問題がある」という認識がなかったことが、「危険察知能力がない」とこととイコールであるかどうか。
 今までに乗って遊んでいた子どもたちがいたということ、教師が厳重な注意をしてこなかったということから、「乗ってもそんなに危険はないのではないか」と合理的な判断をしていた可能性もあるわけです。また、危険はわかっていたけど、それくらいのことをしないと、先生の注意は引けない、先生の気を引きたかった、なんて可能性もあるでしょう。
 それなのに、すずめ先生は
>危険を判断する能力が育っていなかったことはほぼ間違いがない。

と決めつけている。注意は聞かない、危ないことに気づかずにやってしまった結果そうなった、これでは亡くなったのは子どもが悪い、ということになってしまうでしょう。
 亡くなった子どもばかりか、
>就学前に,大人の言うことをきちんと聞く姿勢と,危険を察知する能力を親の責任で育てて・・・

と保護者にも批判の矛先を展開していました。それは、教師の良心として、「亡くなった子どものせいだ」とは言えないから当然の道筋なのでしょうが。
 大人が大人の悪口をいうのは見過ごすことができますが、教師が子どもや保護者の悪口を言うことは見過ごせなかった、というのが今の私が当時をふり返ってみた「言い訳」です。
 私のコメントの後に続くいちろうさんの批判は、
 親の責任とは言いませんが

とあるので、よく考えればこれはすずめ先生擁護ではありませんでしたね。
 その後、(危険察知能力が)身につかなくなった社会が悪い→管理主義や過保護が原因(教師が指導してしまうから危険察知能力が低下する?)→世の中すべての教師が、kurazohさんであれば防げた事故かもしれません(?)→そういう教育(過保護・過干渉・管理主義)は、良い社会を形成する大人を育てる教育になるのか?と言葉が続きました。
 「事故は管理で防げる」ことを認めつつ、「管理で事故が防げるような教育」に?マークをつけられたわけですね。この点についてはまだ議論になっておりません。
 私の「能力主義」的なものの考え方についても同様です。
 私には、教師に備わっていてほしい能力を訴えるとき、それは確かに指導主事としての立場のような発言もありますが、保護者としての立場も当然あり、また教師として、「今の子どもは注意しても聞かないよね、親のせいだよね」と責任転嫁する同僚は子どもの立場から見ても許せないし、とにかく「許せないものは許せない」という発想がありますね。
 お答えにはなっていないかもしれませんが、私の批判が「悪口」であると捉えられるようなことがあったら、今後もぜひご指摘をいただきたいと思います。改善できる見込みがあれば、という条件を設けるつもりもございません。
 中には、私が子どもに指導した「自分より能力の高い人とつき合いなさい」という原則に忠実に則ってコメントされない方もいらっしゃいますが。
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教育」カテゴリの記事

コメント

しょうです。「よたよたあひる言語論」に関する「批判的考察」をようやくまとめました。トラックバックさせていただきます。
 うまくいかなかったものと勘違いして何回も送ってしまいました。ごめんなさい。(重複した分は削除してください。)基本的には「前回の記事の結論を再確認」することになりましたが、ご覧おきいただければ、と思います。

私からすれば「注意しても聞かないんです」と言うこと自体、非常に恥ずかしいことのように感じてしまうのですが……。「聞かない」のではなく「聞かせる」という先生の姿勢が見えません。

私のブログのコメント欄にてコメントを書かせていただきましたが、この記事へのコメントなのでここにも同じような内容を書かせていただきます。

何がそうさせたのか。
なぜこだわりを感じたのか。
どうしてその視点に譲れないものがあったのか。

ひとそれぞれ価値観の異なるところと思います。
あなたのおっしゃることは非常に同感であり、納得できるものです。
いつも第一優先の視点がぶれない点にも共感と尊敬を感じます。
私も最初彼女の記事を読んで、あなたと同じ感じ方をもって疑問を持ちました。

後付けの論理での疑問とは感じられない自然に沸き起こった気持ちと理解できます。
後にあなたは「自分にしては珍しく感情的になってしまった」とおっしゃったことのほうが私には不思議な違和感を感じました。
全く後ろめたさを感じるようなものではなく、真っ当な疑問や批判と感じられましたから。今でもそう思ってはいます。

ただいろいろお話しているうちに、別の懸念が見えた気がしたので、当初と今の自分の立ち位置に微妙な変化は起こっていますが。

>私の批判が「悪口」であると捉えられるようなことがあったら、今後もぜひご指摘をいただきたいと思います。

pig 本当に困った人たちだ‥
すずめさんに対する
暗象さんの理屈にも、忘却くんの理屈にも、
特に批判しことはないと思うが?
如何なものか。

私は、暗象さんも忘却くんも、
姿勢を批判しているのです。
今回も長々と説明文を書いていますが、
私にとっては、どうでもいいことなのです。
今回もまた、やっちまっているけど、
麻雀でいうところの「後付け」ですよ。
チョンボ‥、知っている?

暗象さんが最初に書き込んだときは、
ただ違和感を感じて、なんだこりゃ!!
っていう程度の思いでコメントを書いたんじゃないの?
私に批判されてから、対抗するために
すずめさんの記事を読み込んで、
論理的な批判をはじめたけど、
順番が違うでしょ。‥ということ。

そういう部分が、嫌な先生なんだよ。
ただひと言注意すりゃすむ程度のことを、
叱られる奴の態度が悪いといって
だんだんテンションを上げていく先生。
そういうタイプと“読みとれる”んだよな。

なんで、ここまでピントがズレるのかが、不思議。
頓珍漢?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より