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「しつけの問題」?・・・子どもの行動を左右するものとは

 はるえもんさんのブログで、「しつけの問題」って言われても・・・(1)という記事がUPされていたので、その趣旨を受けつつ、以下のようなコメントさせていただきました。

はじめまして。
私は小学生と赤ん坊の父親で、教師です。
教師による教育ブログでも、このような発言(「しつけの問題」)が散見されますよね。
教師が「親の」しつけの問題、親が「教師の」指導力の問題として子どもの課題を捉えてしまえば、「教育」という行為はそこに生まれません。
問題は、親が自分のしつけの問題、教師も自分の指導力の問題だと気付いたときに、この親と教師にはどのような会話が成り立つのかということです。
私が実際に経験した三者面談で、保護者と私が互いに謝り合うという場面がありました。
間に入った子どもの表情は、うれしいような、恥ずかしいような、微妙なものでしたが、両者が自分のことに責任を感じて教育してくれているんだなあということを肌で実感してくれたのでしょう。
ある時期まで「手がつけられなかった」子どもは、「生まれ変わった」「見違える」ように頼もしく成長していきました。
保護者として、教師として、今後もそういう関係づくりをしていきたいと考えています。

 私が接してきた子どもの場合は、親や教師のはたらきかけよりも、小さい頃からの友達関係、交友関係によって、その行動がかなり大きく左右されているようでした。
 本当に荒れて荒れて仕方がなかった男子も、ちょっと優等生っぽい彼女ができてからは、何だかお行儀よくなってみたり。
 そこでもともとリーダー性の高かったその女子生徒を学年のまとめ役として鍛え上げ、「教師の指示は聞けなくても、○○さんの言うことなら聞く」という環境の中で、(直接的には見えない教師の働きかけで)本来中学生が学んでいくべきことを積み上げていった経験がありました。
 要は、「○○の問題」として片づけずに、「自分なら何ができるか」「自分以外のだれならうまくいくか」を考え抜いていく習慣が必要だということでしょう。
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教育」カテゴリの記事

コメント

まずろさん、コメントありがとうございます。
はるえもんさんのブログはおっしゃる通りのスタンスですね。
まだご紹介できずにいた「日本人の『役』認識喪失の問題」に関する記事を早くまとめたいと思います。

子どもに限らず人間は、大切に思う人間や、また大切にしたい関係にある人間の影響を非常に強く受けるものです。
友達、それも人間関係の多くを占める学校での友達の影響力ははかりしれません。
そういった関係をも考慮に入れながら、子どもをよりよく伸ばすためにさまざまに工夫してくれる大人が側にいてくれる子どもは幸せです。

該当ブログでのやり取りを見ていないのでなんともいえないのですが、彼女のブログは発達障害の子どもやその親に寄り添うスタンスでの場所であったように記憶しています。(私もワーキングメモリでの話題で一度だけコメントに訪れたことがあります)
そういった意味で比較的やりにくい子ども、(器官の気質的な事情で)しつけのしにくい子どもをもつ親御さんへの言葉だからこそと、認識し配慮して考える必要もあるかと愚考します。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より