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常識的な学力観と下層釘付けの論理

 一ヶ月ぶりの「休日」がようやくとれました。
 いちろうさん、コメントありがとうございます。
 「常識的な学力観」を再確認しておきたいと思います。

>暗象さんの「学力」は「テスト」で
 計れるのか?
 このあたりが、他の人たちの主張と
 異なるのでは?

 学力には、テストで測定が可能な部分と、テストでは測定が難しい部分があります。
 学力に関する国際調査では、テストで測定が可能な部分の学力低下と、テストでは測定できない部分である「学習意欲」の低下の両方がデータとして表れたので、危機感が高まったわけです。
 テストで測定できる学力というのは、客観的な数字で表せるため、入学選抜などの公平性を求められる場で活用されることになります。
 学校のカリキュラムは、塾などとは異なって、「テストで測定できる学力」の育成に全面的に注力しているわけではないことは明らかであり、ほとんどの教師は(私も含めて、自分自身のある程度のコンプレックスも抱えながら)「点数がすべてではない」ことをよく実感しながら指導していると思われます。
 しかし、テストで測定できる学力を向上させたいという欲求は、かつてはどの子どもにも現実的にはあった(今でも多くの子どもはそれを望んでいる)と思われます。
 私が行った問題提起は、かつては「テストで測定できる部分の学力が低いこと」は自己評価を下げる要因であったものが、逆に「合理的な生き方をしている自分」というプラス評価の材料に転化し、それが将来の働く意欲の低下などにつながっているのではないかということです。
>しかも、
 「だから、テストの点数を上げる
 必要はない・」
 と続くのを逆読みしたら‥。
 人間の価値はテストの点数だ
 から、テストの点数を上げる
 ことに尽力しろとも読める。
 この思想は、正しいのか?

 人間の価値はテストの点数で決まるものではありませんが、テストの点数と全く無関係であるわけではありません。
 資格試験や採用試験にはその前提が当然必要になっています。
 (当然それらの試験も、ペーパーだけを重視するものではないことは明らかです)
 テストの点数を上げることに価値を見出すニーズがあるから、塾や予備校といった教育産業が成り立っているわけです。
 私自身もそうですし、私が接してきたほとんどの保護者は「テストの点数より人間性を高めてほしい」と願っていることを口にする一方で、「でもテストの点も高くなってほしい」と心の中では感じている。
 私は、「でもテストの点も高くなってほしい」という気持ちが保護者や子どもから失われつつあることに危惧を抱いているわけです。
>上からのものを
 垂れ流していると書いたら
 反論していたが、そのことと、
 テストの点数至上主義は
 並立するのか?

 繰り返しになりますが、私は「テストの点数至上主義」を説いたことは一度もありません。
 行政が進めている学力調査も、あくまでも「テストで測定できる学力の調査」であり、質問紙調査などとセットにして教育環境の実態把握をするようにつとめています。
 そこで浮かび上がってきたのが、「テストの点数では人間の価値は測定できないのだから、点数を上げる必要はない」という考え方の人(子どもも含めて)が増えてきていることでした。
 マスコミは、テストで測定できる学力の低下や格差の拡大を大きなテーマとして取り上げていますが、私が問題としているのは上述のことです。
>私は歴史好きだが、子どもの教科書
 を見ると、つまらない。とりあげて
 いる事柄がどのように決められて
 いるのか、誰が決めたのか‥。
 そう考えると、暗象さんが何の
 教科を教えているのか知らない
 が、自ら教科書やテストを作成し、
 主体性を持ってやっているのか

 教科書は学習指導要領に準拠して作成されます。
 歴史の教科書の場合は、ご存じのように現在の政治的な要請も入り込んできるものではあります。
 どのように授業を構成し、テスト問題を作るかということについては、コンピテンシーの記事の中でふれてきました。
 「わたくしども空間」とも重なる部分がある「下層釘付けの論理」は、教師の世界にも流れているものであり、その危険性を今後も考えていきたいと思います。
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教育」カテゴリの記事

コメント

おバカタレントについてはウィキペディアでもキレイにまとめてありますね。
彼らのキャラクターの生命線は、珍解答や珍発言を大きな声で繰り出す純粋さにあります。
序盤で正解が分かってもそれを示してはならないキャラクターです。
「計算されていない反射的な珍発言」は、お笑いタレント以上の「好感度」を視聴者に与えており、今では出版活動や歌手活動にも進出しているタレントがいるのはご存じの通りです。
このキャラクターがもつ社会的な意義を分析した社会学者がいるかどうか知りませんが、「成績優秀者」が注目を浴びるクイズ番組から、珍解答の方に大きな価値がおかれる番組へと変化したきっかけには、マスコミ自体が取り上げていた「学力低下問題」があるとも言えるのではないでしょうか。
「バカで何が悪い」と開き直るわけでもなく、ただただ「素」で珍解答が言えてしまい、司会者から「バカさ加減」をいじられてもさっぱりとしているキャラクターの魅力は、「低い学力へのコンプレックス」の解消法を提起している点にあると思われます。
「わざとらしさ」が見えてしまうときがキャラクターとしては危機なのでしょうが、この新しいタイプの流行には注目しています。
なお、テレビ関係者からお聞きした話の相手方のソースまでは確認できませんのでご容赦ください。
私が出演したテレビのときもそうですが、「偶然」「驚き」といった場面の撮影はすべて計画通り、シナリオ通り、悪く言えば「やらせ」でした。
台本からはみだしておもしろさを追求するイメージが強いわけで、もちろん発言の自由度も保障された形(おもしろくなければ編集も可能、放送禁止用語や配慮すべき用語を発言した場合も)で撮影は進んでいると思われます。

shock
ごめんね。私、頭悪いんだ。
上の記事、何を書いてあるのか、全然わからない。

そんなことより、
ヘキサゴンのおバカタレントの話は答えてくれないの?
せめて情報元ぐらい教えて欲しいな。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より