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« 学習意欲低下に拍車をかけている?言葉 | トップページ | 常識的な学力観と下層釘付けの論理 »

常識を教える毅然とした指導

 常識とは何かを、いちろうさんからのコメントをもとに、少し考えたいと思います。
 なお、いちろうさんがコメント中で「暗象さん」と呼んでいるのは、私のことです。
 太文字は、私のコメントです。

内容によっては非常識が常識に移り変わっていくのも時間の問題かも知れません。

>暗象さんの思考のベースが間違っていると思う。  昔からあるものや、上の人が言うことを、  無条件に受け入れて、下へ流そうという思考。  「内容によっては非常識が常識に」とありますが、  暗象さんの考えている「常識」が、  人としての常識なのかどうか疑うことをしないの?  実は、これまで常識と思っていたことが、  非常識だったのかもしれませんよ。
 このブログで私の「上の人」から言われたことを記事にしたことはほとんどありません。  また、私には「」も存在しません。  なお、教育公務員という立場を明示して述べておりますので、法令遵守という原則に従っております。  ただ、学習指導要領などの問題点については指摘をさせていただいております。   「無条件に受け入れて」いるなら、まだましなのでしょうか?  さまざまな情報については、そのままを提示するのではなく、必ず自分なりの考えを添えながら述べておりますので、そこで引っかかりが生じるのではないでしょうか。  私が「常識」と呼んでいるのは、「私の考えていること」ではなくて、多くの人が必要だと捉えている一般的な知識や知見のことです。
>先のコメントで引用した部分もそうですが、  日本に昔から言われている「常識」のベースは、  封建道徳によるものが多くあり、  平等社会に合わないものが見られます。  すべての人の人権を尊重する社会として、  求めていることが「常識」か「非常識」かを  考えずに、  他人に強制(教育)することに怖さを感じませんか?
 お年寄りに席を譲る、贈り物をいただいたら御礼をいう、挨拶されたらこちらも挨拶する、などは疑いようのない常識ですが、それができない人がいます。  「すべてのことに優先し、自分の欲望を果たす主義」から、人は非常識な行動に出る場合があります。  そういう人に対しては、いちろうさんがおっしゃるように「すべての人の人権を尊重する社会」の一員として、とるべき行動を「常識」として教えることは、教育(家庭、学校、社会)の役割だと考えています。

>「礼儀」のあり方もずい分変化しそうですね。

>同様に、  礼儀の本質は何かを考えるべきでは?  相手に応じて態度を変えることを強制する  そういう礼儀って、何だろう‥と。
 「強制」という表現は強すぎると思いますが、やはり相手と同様に、TPOに応じた態度を教えることは大事です。  映画館で次のシーンの種明かしを大声でしゃべっている子どもがいましたが、親はにこにこ笑っているだけ。  一言注意せざるを得ません。  相手が何をしているか、どういう状況にあるか、などを考えて働きかけの仕方を考えるのは、「すべての人の人権を尊重する」ために欠かせないことです。

>「常識」というのは自らが描いているものではなくて、多くの人やその世界の関係者が持っているべき当たり前の知識や知見のことですが、「べき論」を嫌う方とは、一つ一つの事例について丁寧に議論していくしかないのかもしれません。

>全然わかっていない。
 会社役員に対しても、派遣社員に対しても、
 同じ“人として尊重”する姿勢が大事。
 でも、日本社会の「常識」や「礼節」は、
 それを“違う人”として扱うことを求めている。
 それは、これからの「非常識」じゃないのか?
 そういう意味なんだけど?

 木端役人や中間管理職的な思考を捨て、
 人としてこうあるべきだ‥という
 スタンスを確立していないから、
 人間味が感じられないんだよなぁ〜。


 いちろうさんが・・(略)・・とされた部分が大切なところだったので、補足して示しました。
 「AはBすべき」「AはBであるべき」、と断定的に人に示すと、不快になる方もいるでしょう。
 「AはBすべき」「AはBであるべき」が、疑いようのない「常識」だった場合には、余計に不快になるかもしれません。
 電車内で大音量で音楽を聴いている人を注意した人が、逆ギレされた場面を何度か見たことがあります。
 「早く宿題をやりなさい」と言われて子どもがやる気をなくすのは、そうしなければならないことがわかっているからでしょう。
 
 問題行動をおこした生徒に指導する場面では、教師は「人を尊重できる人」にまだなっていない人(「違う人」)だから、「人を尊重できる人」(同じ人)になってほしいという願いを込めて指導するわけです。
 
 「人として尊重する態度」とは、「ああ、大きな音で音楽を聴くのは楽しいよね・・・」という共感を持ちながらも、「しかしそれは今ここでしていいことではないよね。」という毅然とした姿勢で諭すことで示すことができます。

 いちろうさんは、「常識」をもたない人、「常識」から「自由」な人と「常識」をもたせようとする人の対立・緊張関係、上下の関係を指摘されているのでしょうが、私の場合は、相手の人(子どもたち)が「将来、人として尊重されないリスク」を軽減するためにおこす自分の行動が、ある程度の緊張関係を生むことは避けられないと思っておりますし、あえてその場面で自分が「人として尊重されないリスク」をとらなければならないケースも過去にたくさんあったと記憶しています。
 廊下でしゃがんで通行を妨害している生徒に、何も声をかけられずに通り過ぎてしまう教師がいます。
 残念なことです。
 子どもをキレさせないようにびくびくしながらわざと優しそうな声をかける教師もいます。
 子どもが軽蔑のまなざしを向けるのを見るのは嫌なものです。
 こういう生徒の中には、注意すると「ウザイな」と言いながらもうれしそうな表情をする子どももいます。
 わかっていることを注意されることが、不快になったり満足感をもてたりもする。
 また、人に迷惑をかけていること、人から信頼されないことをしているのが、全く分からない子どももいる。
 さらに、人に迷惑をかけ、信頼されなくても、自分の好きなように生きていくのが最優先だという子どももいる。
 私は、このような子どもがやがて誤った「自己責任」論で見捨てられていくことに耐えられないので、毅然として「常識」を教える指導をします。
 ブログの世界でも私が同じような態度をとっている部分があることが、いちろうさんには不愉快で仕方がないのかもしれませんが、それでも記事をお読みになってコメントをくださることはありがたいことです。
 いちろうさんも私と同じ使命感をお持ちだからでしょうか。
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教育」カテゴリの記事

コメント

いちろうさんがお持ちの教育観は、永六輔の「教育」拒絶論に近いのではないかと想像いたしております。
永六輔は、「教育」という言葉自体が「教え育てる、という思い上がった発想」であり「上から下」という方向性しかもっていない、といって批判し、それよりはましな「学習」という言葉を重視するとしています。
「先生も、親も、子どもに学べる」学習という共同の空間は大事だと私も考えていますが、一方で、やはり教師や親には「子どもに伝えたいもの」がたくさんある。そのなかには、「社会で生きていくための知識」「現代社会とはどのような社会か」など、教科で実際に扱っているものもあれば、ある程度の期間をとった職場体験などでふれさせているものもあります。
しかし、教師自身は学校という特殊な空間以外の実社会(企業社会など)で生きた経験がない(少ない)人が多いので、子どもが「教師から学べる」ことはあまり多くないだろうと考えてしまう自信のなさというのがあることは確かでしょう。
学校での職場体験より、保護者の職場をまる一日体験するとか、そういう機会を持たせてあげてもいいような気もします。
いずれにせよ、子どもが旅立つ先の「社会」は非常に多様なものなので、教師としてはその世界への先入観や偏見をもたせることだけはしたくない、と強く願っていると思います。その分、生涯教育等に十分な力が入らなくなっている可能性はあります。
多様な価値観をもち、個性を生かせる職場でがんばれる子どもを育てるために、「打たれ強さ」を身に付けさせることに力を入れたりもしています。

weep
>多くの教師はバトンした先のことまで見る余裕がないので、いっしょにいられるうちにできるだけのものを身に付けさせようと努力します。

それはそれで、そうなんだろうとは思うが、
バトンの先を意識せずに教育ができるのか?
社会人をつくる教育になっているのか?
そういう疑問があります。

学校が塾になっていくような気がします。
東京は私学が多いもわかりますが、
私学・私塾ではない思想で、
公教育が行われるべきでは?

同じことばを言っても、人によって違うように、
同じことを教えても、教える人の違いがある‥
そう思うのは、現実離れしているのでしょうか?

いちろうさんのお子さんは幸せですね。
子どもが社会に出るまで(あるいは出てからも)いっしょにバケツを持ってくれる親が、どのくらいいらっしゃるでしょう。
水の入ったバケツなど、重たくて持ちたくもない親や子どもは多いものですが、それが自分や子どもの未来のためなら、苦労を厭わない。そういう姿勢はすばらしいですね。
多くの教師はバトンした先のことまで見る余裕がないので、いっしょにいられるうちにできるだけのものを身に付けさせようと努力します。
自分がしていることは匿名のブログのため、詳しく述べられませんのでご容赦ください。

wobbly
私は労働運動の関係で、日教組の人を何人も知っているが、少なくとも私の知る範囲の先生は、子どもたちが出て行く社会を良くしようという努力をしている。(暗象だけではなく、日教組の看板を上げているすずめさんからもそういう部分が見られないが‥)
自分たちが一生懸命に育てた子どもたちだから、子どもたちの力で何とかするだろう‥というのは、本当に正しいのかな?
私は労働運動だけじゃなく、環境や障害者の市民団体などに関わり、わが子の出で行く社会を何とかしようと運動している。多くの子どもたちと関わることで、直接わが子が関わることだけじゃなく、より広く社会を何とかしようというエネルギーがでてくることが普通だと思っている。
そういう点で「バケツリレーの一人」という比喩は、暗象一人ががんばっても、水が目的地まで行くかどうかはわからないということを言いたかったのです。

いちろうさんへ。
>私は今の社会を、若者が大切にされて
 いない社会と位置づけている。
少子化でかつ若者が大切にされない社会
というのは本当に暗い社会ですね。
では、若者にはそういう暗い社会を明るく
する力はないのでしょうか。
どんなに多くの障害が待ち受けていても、
自分と仲間の力で乗り越えていく、そう
いう人間を育てようとしている学校が
多いでしょう。
私にはひきとめておきたい子どもがたく
さんいますが、未来は子どもたちのもの
ですし、未来を切り開くのは子どもたち
自身ですから、「明るい社会に変えていく
力」を信じて送り出しています。

>(私のコメント)どんな水をどのよう
 に運んでいたかが将来の子どもに
 とっては問われるのでしょう。

>そこなんだよなぁ‥。
 大事に運べば運ぶほど、その先が
 気になりませんか?
 もしかしたら受け取った人が、
 ジャバジャバこぼしていたら
 どう思うのかという問題。

「子ども」「若者」の立場で言えば、
バケツの水は、いっしょに運ぶ人が
入れかわっていくということ。
運び方ががらっと変わってしまうと、
子どもは戸惑うかも知れませんが、
環境の変化に対応する力も若者には
求められています(というより、
若者にはそういう力が備わっていると
信じています)。

gawk
>どんな水をどのように運んでいたかが将来の子どもにとっては問われるのでしょう。

そこなんだよなぁ‥。
大事に運べば運ぶほど、その先が気になりませんか?
もしかしたら受け取った人が、ジャバジャバこぼしていたらどう思うのかという問題。

私は今の社会を、若者が大切にされていない社会と位置づけている。そういう社会へ子どもたちを出していいのかという迷いが生まれたりしないのか? 
ということ。
暗象からは、明るい社会が見えないんだよ。

いちろうさんへ。
ご感想ありがとうございます。
「バケツリレー」で運んでいるのはいちろうさんにとってはただの水かもしれませんが、ただの水でもいっしょに苦労して運んだ人々のことを子どもは忘れないものです。
リレーですから教師は水といっしょに子どもについていくわけにはいきません。しかし、どんな水をどのように運んでいたかが将来の子どもにとっては問われるのでしょう。

shock
えらい長くなったね。

記事内容とはずいぶん変わってきたので、
最後のコメントへの感想を一言。

「バケツリレーの一人でいいのか?」
暗象の考えをどれだけ聞いても、
結局は、バケツリレーの途中の一人なんだよな。
小学校から受け取ったバケツを高校へ渡すだけ。
あれっ? 中学校だっけ? まぁいいや。
で、子どもたちの卒業後に興味がある?
大人になった子どもたちが、どんな生活している?
子どもたちの出て行く社会に目を向けている?
会社にも部署の専門家がいるけど、
結局は、他の部署に興味のない人の意見って、
重視されないんだよ。

いちろうさんへ。
特別支援学校では、個々の児童・生徒の能力を踏まえて、個別指導計画を作って実践しています。中には、生徒個々一つ一つ違うテストを作っている先生もいるかもしれません。
基本的には、学校教育は、全員がB(おおむね満足できる学習状況)とすることを目標としているわけですが、軽度の障害をもっている生徒も含めて、全員を同じレベルに引き上げることは至難の業です。
小、中、高と「7・5・3」というたとえが使われるのは多くの人が理解できることでしょう。
しかし、「そのレベルに引き上げることは不可能であるから何もしない」わけではなく、たとえばBのレベルに達しない子どもにはスモールステップの課題を用意したり、補充授業を行ったりもしています。
「能力に応じた教育」は法令の規定だからという前提以前に、多くの教師たちは自分の使命感に基づいて現場では実践していると思います。
人事考課による評価では、「全員をBにすることができなかった」から低い評価になるわけでなく、たとえばBに達しなかった子どもの「生きる力」のどこを伸ばすことができたとか、どのような働きかけがよかったとか、そういうことも総合的に判断していきます。
本人の目標設定が大きな前提ですが、これは子どもたちが社会に出たときも同じでしょう。
まさか新入社員が「来年社長になる」という目標を立てることがあり得ないように、それぞれがそれぞれの能力に応じた仕事の成果を求めていくことになるわけです。
これを「役割意識」という言葉で何度か説明してきております。

shock
>成果主義を重視するというもので、能力主義ではないことを改めてご確認ください

本気で書いている?
「私は、生徒が80点以上とれるようになることを重視しているだけで、個々の生徒の能力にはこだわっていません」と書きなおせば、変だと思わない?
それとも、テストは生徒個々一つ一つ違うのをつくって、すべての子が努力さえすれば、80点以上とれるようになっているの?

>誤解を招くような表現、誤った表現があったとしたら、修正していきたい

誤解じゃないんだよ。
あなたの求めている成果は、すべての子どもたちが達成できないでしょう‥という意味で、知的障害者の件を聞きました。人事評価は先生のことで、子どものことではない、との主張ですが、あなたが教えている子どもたちも、何年かしたら人事評価される社会に出るんじゃないの?  その時、知的障害のある人は、どういう位置づけなの‥ということ。

crying
参りました!!

>この言葉を文字通りにしか解釈できないで、記事へのコメントをやめた方もいらっしゃるので、教育の限界というのもとても理解しやすくなりました。

何か‥、禅問答ですか?
しめのことばが、全く意味不明なんだけど‥。
唯一わかるのは、暗象さんの粘着質的性格だけ。

いちろうさんへ。
私の立場としては成果主義を重視するというもので、能力主義ではないことを改めてご確認ください。
ウィキペディアから直接引用してしまいますが、「日本においては、"成果を出す=能力が高い"という考え方が根強いことから、成果主義と能力主義が混同されることがあるが、能力主義とは結果に結びつかない潜在能力をも評価対象にするものであり、概念上は全く異なる」ものです。
もし誤解を招くような表現、誤った表現があったとしたら、修正していきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

いちろうさんへ。
いつも私の生徒たちへの深い愛情・ご心配を示していただいてありがとうございます。
これを読んでいる生徒たちがいたとしたら、いちろうさんの言葉をかみしめながら、私に足りないところを教えてくれると思います。
いちろうさんのご懸念は、以前にご紹介させていただいた「自分より実力のある人間とつき合う」指導についてでしょうか。
このことは、「自分より実力のある人間とつき合う」努力をしてみると、どんなことがわかるのか。自分は、「実力」を固定的にとらえていないか。勉強のできる子ばかりを探そうとしていないか。その幅の広がりに目が向いているか。自分は豊かな人間観・友人観をもっているか。子どもたちは、さまざまなことを気付かされる・・・などと書かせていただいた通り、子どもの到達点としてはおそらくいちろうさんも想定されているところになります。
この言葉を文字通りにしか解釈できないで、記事へのコメントをやめた方もいらっしゃるので、教育の限界というのもとても理解しやすくなりました。

weep 確かに部外者だよ。でもね‥。

>具体的な進路指導に対する解答を求めていらっしゃるのでしょうか。

というのは、先生として寂しすぎないか?
暗象の教えた子どもたちも、
大人になって、社会を形成していくんじゃないのか?
理想の社会を語れない先生に教えられるって、
不幸なことじゃない?

暗象の教育観のようなものはわかったけど、
「立身出世」のための努力と、
「尊卑名分」のための道徳(常識)では、
排他的な能力主義の社会、
能力のある者が偉くなり敬われる社会、
そういう社会をつくることにしかならない。
そういう社会では、弱者は生き辛いだろう‥と。
だから、知的障害者の位置づけを聞きました。

>私が成果主義等について述べていることは、主に教師が対象であるということもご確認ください。

はいはい。
でも、この間のやりとりで、
子どもに対しても能力主義を貫いていることは、
自覚されましたか?

振り返りがお好きなようですから、
私が最初の頃に、暗象をどう評したか、
読み返していただけると、
回答しやすいと思いますよ。

いちろうさんへ。
コメントありがとうございます。
>これからの社会をつくる子ども
 に対して、何を教えているのか
 
 記事でお答えしているつもりなのですが、いちろうさんは特別な支援が必要な子どもへの具体的な進路指導に対する解答を求めていらっしゃるのでしょうか。
 私が実践している範囲は、特別支援学校との交流くらいですので、「相互理解」の枠から大きくはみ出ない程度のことしかできておりません。
 繰り返しになりますが、私が成果主義等について述べていることは、主に教師が対象であるということもご確認ください。

shock
どうしたものだか‥。

>さまざまな人が、その能力に応じてできるかぎりのことに取り組み、生きがいをもって生きていくことができる社会にしたいというのが私の考えです。

試験の模範解答ですか?
これと、暗象が「常識」として求めるものは、
両立できるのですか?
とりあえず、知的障害者であれば、編集者や記者、
作家にもなれないのはわかるけど、
暗象の「常識」は、求める人によって違うのか?

関係性をベースとして、
常識的な対応ができるかどうかが、
よい子の基準なんだよね。戦前は。
「尊卑名分」というんだけど、
先生なら知っているよね。
暗象が求めているものが、
封建道徳であるという自覚を持つべきだし、
封建道徳は、平等思想とは相容れないこと、
それに対応するには、
努力だけではなく、能力が必要なこと、
それくらいはわかっていて欲しいのだか?

わけのわからないプライバシーなんて、
知りたくもないよ。
それに、
学校での指導を聞いているんじゃないよ。
社会へ出たときにどうなるのか、
これからの社会をつくる子どもに対して、
何を教えているのか、という疑問がある。

いちろうさんへ。
プライベートなことは一切書かないつもりでおりましたが、一言だけふれさせていただきます。
私の父はすでに他界しておりますが、障害をもっておりました。
何より人に尽くすことが好きで、亡くなったその日も保護司のレポートを3通ほど書いていました。
私は多くのことを父親から学んでいると思っています。
さまざまな人が、その能力に応じてできるかぎりのことに取り組み、生きがいをもって生きていくことができる社会にしたいというのが私の考えです。
その人その人の立場によって、求められる能力は異なりますし、その把握も違う世界の人から見れば難しいものでしょうが、私は自分の職業としている教師として求められている能力はある程度わかっておりますから、どうしたらその能力をより高めていけるかを日夜考えております。
指導主事をしていた頃は、特別な支援が必要な子どもへの教育にもかかわっておりました。現場の先生方は、個別指導計画を作成して実践しながら、本当にきめの細かい教育をしています。個人差が大きい分、本当に一人一人を大切にする実践を通して、教育の原点を肌で感じることができました。

shock
暗象さんのことは、
当初から能力主義者と批判していたと思うが‥?

>人間の本質的価値に「上下関係」はなくても、その社会的な責任や役割分担から、上司と部下などという現実的な社会関係は存在しています。

こういうことを、しゃぁしゃぁと書く人間の
社会観を知りたいな。
私は、自分が子どもの時、
身近に知的障害者がいた。
最近、身近に知的障害者を見るようになった。
その様子から、社会は進んできたんだなぁ‥と。
ある種、感慨のようなものもあり、
すべての人が生きやすい社会をつくることは、
大切なことだと考えるようになりました。

で、暗象さんの描く社会に、
知的障害者は、どのように位置づけられるのか?
保護の対象として、隔離されるのか?
友人の一人が脳梗塞で倒れ、
一命はとりとめたが、かなり思い障害が残った。
彼は、あなたの描く社会の中では、
どう位置づけられるのか?
一生、病室で看護師の世話になるのか?
社会へ出たいと望むことは、非常識なのか?

暗象の理屈に付き合っていると、イライラするが、
社会的弱者といわれる人たちを、
どのように位置づけているのかを知りたい。

いちろうさんへ。
コメントありがとうございます。
私のコメントは、実践の前提となる考え方と、実践上必要となる考え方を分けて示しております。

取材を申し込む側と受ける側、編集に責任を持つ側と書き手、互いに尊重しあうために、何が必要か。

「役割意識」というのが、立場によって異なるのは当然のことです。
「教師」と「生徒」も同じです。

人間の本質的価値に「上下関係」はなくても、その社会的な責任や役割分担から、上司と部下などという現実的な社会関係は存在しています。

実践をしようとすると、そこを無視しては「指導」が成り立ちません。

>自分の判断が正しく、下々は
 それに従うべき、逆らう奴は、
 非常識であり、礼儀を知らない‥。

 生徒が教師の指導に「従うべき」かどうかは、教師の判断の「正しさ」によることでしょう。「指導されること」がすべて「非常識で礼儀を知らない」ことばかりとは限りません。

pig
>無意識ながら、そういうことに目配りをして、引用できていたことを再確認できました。

そこなんだよなぁ。

>取材を申し込む側と受ける側、編集に責任を持つ側と書き手、互いに尊重しあうために、何が必要か。

この一文の中には、平等の意識がないんだよな。
関係性の中での上下関係に立脚しているのに、
「互いに尊重しあう」と思うところが、
暗象と私の一番の違いだね。

だから、どこまでいっても上から目線を肯定する。
親と先生、子どもと先生という関係の中では、
自分が指導者であり、
自分の判断が正しく、下々はそれに従うべき、
逆らう奴は、非常識であり、礼儀を知らない‥。

常々そう思っていることが感じられて嫌だったが、
ここまでハッキリ書かれると、
ますます嫌な奴だと思ってしまう。

ねぇ、あなたのクラスに障害児がいないの?

>非常識を常識だと言って押しつける
オヤジほど嫌な奴はいない。
暗象さんがそうなっているんじゃ
ないの?
自らを振り返りなさいという、
親切心のコメント。

 ご心配いただいてありがとうございます。
 取材を申し込む側と受ける側、編集に責任を持つ側と書き手、互いに尊重しあうために、何が必要か。
 無意識ながら、そういうことに目配りをして、引用できていたことを再確認できました。
 ありがとうございます。

pout
○×しかないかのような頭だから、
ロボットみたいと言うんだよ。

「常識」を教えるなとは言っていない。
「常識」を疑い、
これからの世の中に必要な「常識」を、
自らの強い信念の下で教えろと言っている。
その基準が、人権尊重だということだが?

長々と書かれた文は、
暗象さんの思い込み(私へのレッテル)が強すぎ。

この上の文であれば違和感が少ないが、
以前の文の引用では、

>「若い世代に受け継がれていないのではないか」と危惧を覚える取材と執筆のルールとその常識

として、

>取材前の資料読みをきちんとこなしてきた形跡がない。
>掲載紙誌を送ってこない。
>原稿を送付したのに何の連絡もしてこない。

などをあげてあるが、
この「常識」は、平等思想に裏打ちされてる?
偉そうに語る割には、
杜撰で薄っぺらい気がしたので、
先のコメントになっています。

非常識を常識だと言って押しつけるオヤジほど
嫌な奴はいない。
暗象さんがそうなっているんじゃないの?
自らを振り返りなさいという、親切心のコメント。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より