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ありがた迷惑な問題解決

 「ありがた迷惑」なことをやってしまった経験が何回かあります。
 それは、いろいろな問題を指摘する(愚痴る、糾弾する、などさまざまな表現が可能なケースがあります)方がいるのでそれを聞かせてもらった後、本人はそれを解決、改善してほしいのだなと勝手に思ってしまい、こちらが行動に出て、問題を解決してしまった後、あまりその方がうれしそうな顔をしてくれないケース。
 本人に断らないでやってしまうのがよくなかったのかもしれませんが、他にも、改善策を提示してしまって、じゃあ、これで行きましょう、と話が進んだ直後、「待って下さい」と止められてしまうケース。
 どちらも決して少なくないケースでした。
 経験を重ねた後でわかったことは、本人は、不平・不満を述べていることに満足を感じている(?)だけであって、問題がなくなってしまうとその方法によって満足できるきっかけがなくなるために不機嫌になるパターン。
 人の悪口を言うのが好きな生徒や教師というのはけっこう多いのですが、「あなたの方が間違っている」と言えるケースは少なく、悪口というか非難に筋が通っていて、すぐに改善へ動き出した方がよい、と判断できるのに、悪口を言っている本人にはあまり悪口の対象を改善させようとする意欲がない
 こういうのは、保護者や管理職、政の仕事への批判、非難をよくするタイプの教師に多いのです。
 「なぜ直接言わないのか?なぜ他の教師に他人の批判や非難を聞かせるのか?」と思ってしまうのですが、本人は言っても無駄だとわかっているのか、あえてそのように批判や非難を続けられるような環境を維持したいのか、・・・後者の人が多いことは、教育の世界に入ってから気付かされたことです。
 さすがに教師対教師では、同じ職場内での和を重視すれば言いにくいのでしょうが、生徒などはどの先生がどの先生の悪口を言っているという情報とか雰囲気を敏感にキャッチして、いろいろなウワサとして流しているものです。
 身近な問題からどんどん解決していく姿勢。これを一般の方が聞くと「角が立つことばかり・・・」と思われるかもしれませんが、いじめ発生の背景になり得る生徒間のいざこざも、教師と管理職の対立も、みんな同じに見えてしまう私には簡単には止められません。
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教育」カテゴリの記事

コメント

そりゃそうだろう。

>悪口を言っている本人にはあまり改善させようとする意欲がない。

「悪口」として言っているんだから。
「批判」ならば、自身へ向くことがあるけど、
「悪口」を公言する人間は、自身へ向かない。
その観点から“あのコメント”は、
「悪口」であり「攻撃」だと認定した。

暗象の「批判」の矛先が、
忘却くんに向かないのは、
「批判」じゃなく
「悪口」だからと自己認識しているから?

子供に接する間に色々指導者として学ぶことは多いですね。そして自分の成長を感じられるのは嬉しく、数十年後の自分はどこまで成長できるだろうかとよく考えます。子供の頃はお金を払って教育を受けてきましたが、今はお金をもらいながら教育を受けていると考えると愚痴る気持ちが少し減ってしまいます。不思議なものです。

カウンセラーは自分の事例を話し、客観的認知に努める制度があるのですよ。スーパーヴァイズというのですが。ただ、カウンセラーが精神病になってしまえばすぐに病院に行くしかないですね。自分となるべくつながりのない精神科医に診てもらう必要があります。まず第一に精神病は脳という器官の病気であり、薬物によって治療可能な病ですから。悩みを吐露するだけで回復するのなら、配偶者や恋人にでも聞いてもらえばよいのではないでしょうか?(笑)もちろん人気のいないところというのは最低条件で。居酒屋で事例について話そうものなら最悪ですからね。

しかしそう考えると、やはりカウンセラーは人の悩みを一時的に抱える(傾聴する)形になるのですから、自我が強い人間でないと難しいでしょうね。人の悩みを聞き続けるというのはシンドイと思いますよ。私は生徒に恋愛相談を続けられると、鬱陶しいなぁと思ってしまいます(笑)いえ、そこに彼女たちのかわいらしさを感じるのですが。

Psycheさん、いつもコメントありがとうございます。
教師は、子どもに教える前に、子どもよりずっとずっと学ぶべきことが多い人間です。
話はずれるかもしれませんが、私が赴任していた地域にスクールカウンセラーが配置されるとき、「もしカウンセラーがカウンセリングを必要とする事態になったら、だれが話を聞いてあげればよいのか」と真剣に考えたことがありました。
専門家とはどういう人間のことなのでしょうかね。

「カウンセラーは、カウンセラーである前にひとりの人間である」という考えについて、あなたの考えを述べなさい。

これは私が大学院進学のため勉強していた頃、出会った記述問題です。私は先生方がこのタイトルの「カウンセラー」を「教師」に置き換え、どのような考えを論述されるのか非常に興味があります。ブログにおいて、教師も人間だから愚痴も言うという意見が何度か見られたことが印象的でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より