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「よいこと」を具体的に示す問題点

 「よいこと」「長所」とは何か。
 これを分析的に考えるようになったのはいつ頃からでしょうか。
 観点別学習状況の評価は今でも混乱が続いていますが、この問題については「終わり」の「始まり」の時期なので、しばらく様子を見ようと思います。
 岡潔の言葉に、以下のようなものがあります。

 いいことをしましょうといったってできはしません。悪いことするなです。悪いことするのと、よいことするのとでは、ずいぶん開きがあります。悪いことの反対が、よいことだと観念的に考える。たとえば親孝行ですが、ひどい親不孝というのがすぐわかる。そしてそれは見分けがつきますし、それをしないということはできる。が、本当に親孝行しようと思ったら、親の心も知っていなければならないし、行為した結果が畢竟どうなるか、横に全体を見、縦に長い時間を見てでなければ本当に親孝行できないでしょう。そんなこと子供にできるものですか。

 「よいこと」を具体的に示せば、示してもらったことに従属してしまうこと、示されたとおりに動いたことによる評価を求める心理、そのような余計な付属物が生まれてしまって、本質的に「よいこと」ができにくくなる、そういう発想の方は、特に教育界には多いようです。
 道徳の授業に力が入らなかったり、「子どものために」という掛け声だけになってしまったりという教師が多いのもそのためでしょうか。
 道徳が教科化されようとしたとき、評価の問題、たとえば具体的な評価基準というのができるのか、という問題が真剣に論議されたようです。
 コンピテンシー理論はそこに真っ正面から取り組んでいるものですが、価値観の違いというものにどのような折り合いをつけていくのか。そこが実践上の課題であるわけです。
 (人事考課制度では、その「折り合いをつける過程」が面接等で用意されています。)
 「具体的な指示をしてくれる先生と、しれくれない先生、どちらがいい先生でしょうか
 道徳もそうですが、このような一つの問いがあったとき、その問いへの答えは決して一つとは限りません
 これこれこういうケースでは、具体的な指示が必要。でも、たとえば行動のきまりが配られていて、それを見れば何時に何をするかがわかるのに、いちいち先生に聞いてくる生徒に対して、「すぐに教えてしまう先生の姿勢はどうかな?」という問いも考えられます。
 世の中で起こりうる様々な環境、状況を想定し、それぞれのケースに応じた「正しい判断」ができるようにすること、これもいわゆる「生きる力」の一つなのでしょうが、学校ではそういう資質を育てることが可能です。
 実際に教育されているかどうか。
 子どもが判断して行動すればよいところに、教師が首をつっこんでいないか。
 いちろうさんが指摘されたような、教師の「過保護」「過干渉」的な指導は行われていないか。
 これを問うてみる価値は高いと思われます。 
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教育」カテゴリの記事

コメント

happy02
>管理できていないことによる問題への対処に追われ

管理には際限がないよ。
どこまで管理できるかが問題じゃなくて、
どこまで子どもの判断に委ねるかが問題じゃないの?

なんで休日に子どもの姿が見えないのかが不思議。
ここ10数年、公園で遊ぶ子どもたちが激減した。
活き活きした子どもが子どもが減っているのは、
イメージだけじゃない気がする。

ここのブログを読んでいて、
ここで描かれる学校環境の中に、
自分を子どもとして置くと‥
依存的で小さな楽しみの中に身を置く人間になりそうです。
自身の子どもの頃は、夢があった気がします。
非現実的な様々な夢、様々な興味があった。

でも、夢を現実世界へ引きずり下ろし、
大人の手のうちでウダウダしていることが、
子どもの役割になっているような学校像が浮かびます。

卒業するまでの子どもじゃなく、
子どもが大人になり、年老いて死んでいくまでの、
そういうスパンで教育を考えられないか?
そう考えたら、
学校の中でしか通用しない管理主義は、
ただの自己満足のためだと思えるんじゃないのか?

いちろうさん、コメントありがとうございます。
管理主義を自己批判できるレベルに学校が到達すればよいのでしょうが、残念ながら、まだ多くの学校は管理できていないことによる問題への対処に追われ、その余裕がありません。
教育委員会等も同様です。

sad
>子どもが判断して行動すればよいところに、教師が首をつっこんでいないか。

バランスの問題として、過ぎれば過保護だろう。
危険を避ける教育は大切だと思うが、
個々個別に理由をつけて危険を教えすぎると、
自分で判断しなくなる。
危険の種は無限にあるのに、
自分で判断しなくなるから、
危険に目に遭うと、
教えてくれない親や先生が悪い‥となる。
今の社会がそうなっているのは、
先生の責任じゃないのか?

管理主義を自己批判する時にきたんじゃないの?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より