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子どもの安全管理と教師の人事管理

 いちろうさん、コメントありがとうございます。

>管理には際限がないよ。
>どこまで管理できるかが問題じゃなくて、
>どこまで子どもの判断に委ねるかが問題じゃないの?

 私のブログで「管理」について展開している考えは、教師を対象とした人事管理経営管理の問題が中心です。
 たとえば転落死亡事故は、本人の過失責任自己責任)、保護者の責任もあるという考え方があるのはわかりますが、屋上への立ち入り禁止措置防護柵その場の指導等によって防ぐことができたであろう事故です。
 「なぜ事故を防ぐことができなかったのか
 そういう事故が起こった直後に、
 「なぜ子どもや保護者の責任を問うような態度、かつ教師をかばうような態度を教師がとるのか
という疑問が問題提起のスタートでした。
 具体的には触れることができませんが、過去に同じようなケースで子どもが重度の障害を抱えてしまったり、大けがを負ったり、他人に大けがを負わせてしまったのを見たり体験したりしているので、行政や学校、教師が果たすべき責任とは何か、ということは常に考えておりました。
 また、すずめ先生とは以前に人事考課の問題について見解が対立していた経緯があり、「評価は同僚性をくずす」というすずめ先生の主張に対し、私には「同僚性を高めるというのも評価規準の一つである」という主張があって、「同僚性」を「逃げ」のために使おうとする姿勢への疑問もありました。
 目標管理ができない教師たちのために、苦しんでいた子どもたちがどれだけいたことか。
 「子どものため」のいいながら、本当に自分本位の教育・・・「やっとけ系」「(気に入った生徒、部活の生徒だけを)かわいがる」「“普通”の生徒、優秀な生徒は放っておいて、問題行動を繰り返す生徒だけを相手にする」「親が悪いから仕方がないと諦める」などの教師を見てきた経験から、責任逃れと取られるような言動には非常に敏感になってしまっているのです。
 学校は、安全で安心に活動ができる場でなければなりません。
 きっと、転落事件がおこったとき、「自分の子どももあんなことをしそう」と思った保護者は少なからずいたのではないでしょうか。でも、「実際に落っこちて死んでしまったら、本人の責任だからあきらめよう」なんてことを思う親はいないはずです。
 ところで、「自己責任」論というのは、あらゆるケースに適用してしまうと、非常に危険なものです。
 イラク人質事件が起こったときなどは、日本中がマスコミを通して「自業自得」「自己責任」という言葉に触れることになり、「なるほどその通りだ」という印象をもった方が多かったのではないかと思います。
 政府から退避勧告の出ている危険地帯ではあるが、人質となった民間人は個人の自由意思で出かけていったのであり、それなりの覚悟はできていたはずだ、という考え方です。
 しかし、もし、個人が自由な意思で行動した場合の結果責任はすべて個人が負うべきだというような単純な論理を教師や学校側がとったとしたら、それは自己免責のための予防線にしか見えませんし、教師や学校の役割とは何かという説明がつかなくなってしまいます。
 いちろうさんが「子どもの判断に委ねる」とおっしゃるケースが、どのような教育活動を想定されたものかよくわかりませんが、子どもの判断に委ねることを教師が決定したら、その責任は子どもだけでなく、教師も負っていくことは当然のことです。

>なんで休日に子どもの姿が見えないのかが不思議。
>ここ10数年、公園で遊ぶ子どもたちが激減した。
>活き活きした子どもが子どもが減っているのは、
>イメージだけじゃない気がする。

 いちろうさんのご家庭にも、文部科学省が子どもを通して配付した「生きる力」という小冊子がございますでしょうか。そこには、学校外での一日の過ごし方の課題、自然体験の機会の不足、体力・運動能力の低下がデータとして示されています。
 データが証明していることは確かにあります。 

>ここのブログを読んでいて、
>ここで描かれる学校環境の中に、
>自分を子どもとして置くと‥
>依存的で小さな楽しみの中に身を置く人間になりそうです。
>自身の子どもの頃は、夢があった気がします。
>非現実的な様々な夢、様々な興味があった。
>でも、夢を現実世界へ引きずり下ろし、
>大人の手のうちでウダウダしていることが、
>子どもの役割になっているような学校像が浮かびます。
>卒業するまでの子どもじゃなく、
>子どもが大人になり、年老いて死んでいくまでの、
>そういうスパンで教育を考えられないか?
>そう考えたら、
>学校の中でしか通用しない管理主義は、
>ただの自己満足のためだと思えるんじゃないのか?

 いちろうさんは、教師を対象とした人事管理、経営管理の問題と教師が子どもに対して行う指導や管理を混同されてはいませんか。
 混同されていらっしゃるとしても、教師のコンピテンシーで紹介しているさまざまな能力を、子どもにも求めていくことは誤りでしょうか。
 学校という組織の中には、さまざまなタイプの「困った人々」がいるわけです。
 私の主張するコンピテンシーは、おそらくいちろうさんが主張される「よくないニュアンス」としての管理主義を否定しています。
 教条主義、瑣末主義、セクショナリズム、事なかれ主義、事大主義、権威主義、マンネリズム、ご都合主義はブログの記事の中でも批判対象になっています。
 コンピテンシーは、教師の自己満足ではなく、子どもの立場で常に教育を考え、子どもにとって何が必要かという問いへの答えの一つになっていると信じています。

*関連記事を再掲します。


「事大主義が事大主義を生む」

 自主性なしに勢力の強い者につき従う事大主義・権威主義は,外見上は,強いチームワークで結びついている状況と同じように見えます。
 中学生になると行事などで子どものリーダーシップを発揮させることがあります。ここで難しいのは,教師のリーダーシップのコントロールです。それは,子どもを動かす力と同時に,教師集団を動かす力も必要だからです。
 個々の教師がバラバラだと,混乱を招く場合があります。
 行事で,子どもが学年の教師に「○○はどうしたらいいのでしょうか」と聞いてきた場合,返事の仕方は何通りもあります。
1 わかりません。
2 それは,自分たちで決めなさい。
3 それは,こうしなさい。
4 それは,担当の○○先生に聞きなさい。
5 それは,担当の○○先生と相談して決めなさい。
6 それは,先生方で話し合って決めるから,それまで待っていなさい。

 一般的には,行事の担当者であってもなくても,「あなたはどうしたいのか」「みんなはどうしたいと考えているのか」をまず聞き,どういう目的で話しかけにきたのかを判断してから対応します。
 こういうケースで,官僚主義的でない,個人プレーOKの教師集団だと,A先生はこういった,B先生は正反対のことを言った,C先生はあてにならない,・・・などと,子どもから見た教師はバラバラな個人に見えてしまいます。
 一方,子どもたちからだけでなく,教師からも何でもたよりにされる教師がいると,その他の教師に子どもはよりつかなくなります。
 子ども自身に事大主義,権威主義,ご都合主義が染み付いている集団に出会うことがありますが,これは教師集団が育てた資質でしょうか。
 教師集団にとって,リーダーシップの役割分担というのは意外と重要なものかもしれません。(07/08/03)


 「困った教師」と官僚主義

 教育現場しか知らない教師から見ると、行政というところは官僚主義、お役所主義の固まりのように思えてしまうかもしれませんが、行政から教育現場を見ると、これがなかなかお役所主義的な部分をかなりもっています。
 現場も行政も信用できない一般の人は、その原因を解明して、安心して子どもを預けられる教育をしてほしいと願っているかもしれません。
 ただ、安易な解決方法・・・最も手っ取り早いのは、カリスマによる支配ですが・・・は、より大きな犠牲を強いることになる場合があるので、結論を急がないでほしいですね。冒険主義やラジカリズムのような非日常の理想郷を求めることではなく、日常の中の現実を見すえ、問題の本質を探らなければなりません。
 一見合理的に思えた「実力主義」「成果主義」は、評価のコストが高くつきすぎるなどの問題があり、教育現場で活用するには十分な知恵や配慮が必要です。学力調査の問題性は教育ブログで話題になっていますが、これは別の機会に考えることにします。
 さて、現場の教師ですが、校内では最大で5つのセクトに属しています。
 教科、学年、分掌、部活動、組合です。(実質的に1つのセクトにしか属していない教師もいます。)
 小学校では、ここに学級という一人しか構成員のいない困ったセクトも存在します。
 普通の小中学校では、学年セクトが最も強力です。それは、移動教室などの行事を運営するためにプロジェクトとしての機能が必要だからです。ある学年だけ特別なことを実行しようとすると、他学年からストップがかかったりします。他に、教務部と生徒部(生活指導部)がいがみあうこともあります。高校では、教科セクトが強くなります。
 それぞれのセクトでは、自己の利益を主張する場面があり、行政と同じ図式になることがあります。
 規則や慣例をたてに、プロジェクトの邪魔をする教条主義者、やるべき指導・監督をおこたる事なかれ主義者、ころころと主張を変えるご都合主義者、カリスマをたよる権威主義者、機嫌取りばかりの事大主義者、新しいことだけにやけにはりきる冒険主義者、担任のクラスや受け持ちのクラブの都合しか考えないセクショナリスト、細かいことばかりにこだわって水をさしてばかりいる瑣末主義者、前年度のまるうつししかしないマンネリスト・・・1校当たり、それぞれ最低1人ずつはいるのではないでしょうか。そういう教師ばかりなんていう学校はないでしょうか。
 ただ、官僚制のもとでは、教師たちのそのような行動は必ずしも「困ったもの」ではありません。だからことが進む、という判断の結果であったりします。官僚制は非効率の面ももちながら、大きな不公正や失敗を回避するよさももっています。
 「お役所仕事」という言葉のニュアンスはマイナスのイメージが強いわけですが、そこには確実で公正な仕事という当たり前のプラスの価値が隠れていることを認識すべきかもしれません。
 以上のことをふまえて、学校教育で最も大きな課題は、「十分な学力を身に付けさせていない」ことでしょうか。
 官僚制を、「与えられた目的を遂行するために組織された、権限と責任が明確にされた専門職のシステムのこと」と定義づけすると、学力をつけるという学校の最大の目的、その権限とは何か。責任とは何かを明確にしなければなりませんね。また、そのための学校という組織に課題があるとすれば、それをどうしなければならないか、追究する必要があるということです。(07/08/03)
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教育」カテゴリの記事

コメント

shock
忘却くん、
この記事の論点にそったコメントなのか?
焦っているの?
共通の敵をつくって囲い込みをするのは、
情けない気がするんだけど?
ネット上ぐらい、一人で闘えよ!!

暗象さん
直接忘却くんに書き込めない状態なので、
失礼しました。

今回の議論についてはkurazohさんなりに振り返り記事を上げておられますが、よたよたあひるさんに対する見解のみが私とは異なるので正直どのように考えておられるのか気になるところです。しかしあなたなりに考え、配慮し、下された結論に異議を唱えるつもりはありません。また時間が経ったとき、あるいは個人的に話す機会がもしあれば、そのときにでも教えていただきたく思います(笑)

gawk ん‥
やっと一般論に近づいてきたと思っていたのに‥。

>屋上への立ち入り禁止措置、防護柵、その場の指導等によって防ぐことができたであろう事故です。

そういう管理の手法が、
空き地や小川から子どもたちを遠ざけ、
そのために失われているものが多くないですか?
‥ということ。

一方で、

>学校外での一日の過ごし方の課題、自然体験の機会の不足、体力・運動能力の低下がデータとして示されています。

として、
盛んにサマーキャンプなどが企画されたり、
体力テストをするとか言って競争させられる。
先日、隣県でNGO団体主催の自然体験で、
子どもが川で亡くなりました。
保護者もついていました。
防ぐ手立てを考えて尚、自然体験を進めるべきか?
そうした場合、完全に大人の管理下に置かれ、
それを自然体験と称していいものかどうか。
すでに半ば疑似体験になっているのに、
いっそバーチャルにした方が安全ではないのか?
暗象さんの進める管理主義の徹底の結果(到達点)が、
良いものとは思えない。


>人事考課の問題

厚生労働省でさえ否定しているし、
大企業はほとんど失敗しているのに勧めているの?
先生たちの社会はわからないことが多いけど、
商品券をあげて校長になった人に、
評価されるって、どういうこと?
商品券で先生になった人だから、それでいいのか?

素朴に、
先生には、自らの良心と哲学に基づいて、
人として接して欲しいと思うのは、
チーム(集団)としては成り立たない論理なのか?
長々とした記事を読んで思うのは、
管理されたロボット的な先生像で、
人間的な幅が狭められていく気がします。
そのうち、
人と触れ合う体験が不足しているので、
夏休みには、人が集まるところへ出かけて、
いろんな人と触れ合う体験をしましょう‥ってなる?
あ、老人ホームや保育園へ行くのの延長か。
職場体験と称してやっているのもあるな。
ギャグにもならないや。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より