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教師と保護者の意識格差の拡大

 みなさんからのコメントへのご回答が遅くなり、申し訳ございません。

 いちろうさんのコメントから、改めて現行の学習指導要領をはじめ、国の教育政策の趣旨がほとんど保護者に伝わらない(教師にさえ伝わっていないことを何度も記事にしてきてもおりますが)ほど、学校の指導の実態や情報公開の遅れが深刻であることが実感できました。

>細かな「こうあるべき」の積み重ねで、
 価値観まで狭められ、
 画一的な人間をつくってきた成果だと思う。
 テストの点をとることに価値を置きすぎ、
 直接点数に結びつかないものを無駄と言い続けた結果、
 他へ向かうべき興味が抑えられ、
 結局、テストのための勉強と、安易な娯楽(ゲーム)
 だけの人間をつくっているのでは?

 このご意見をお読みになった保護者の中には、「テストのための勉強だけでもしてくれればいいのに!」「いつまで部活命が続くのかしら?」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。
 平成10年版からの「生きる力」の意味自体が、きっとほとんど浸透していないのでしょう。
 
>中小企業の場合は、
 人事考課がうまくいっている例が多い。
 ただ、学校に適用するには、
 そこまで共同体として育っているのか?
 他の学校との整合性は?
 という観点が加わり、大企業と同じ失敗をしそう。
 という危惧です。

 しょうさんとのやりとりも含めて、人事考課制度については過去の記事を参考にしていただきたいのですが、裁判への対応という意味も含め、自治体ごとにかなり客観的な基準で評価は行われます。公立学校は中小企業のようなもので、かつそれぞれの教師の力は見えやすいですから、評価そのものは困難ではありません。問題は、「教師の力」とは何かについて、共通認識がもてるかどうかです。
 学校の場合は、年収800万円を超えるベテランも、その半分以下の若手もほとんど同じ業務をしている(若手の方がよく働いている場合もある)特殊な職場なわけで、企業の人事考課とは全く別物だとお考え下さい。
 当然、800万円の方が昇給停止になって「くさって」しまい、ますます若手に仕事がたくさんまわってくるのは防がなければならないのですが、その方が子どものためになるという場合もあるので、難しいところです。
 学校の人事考課は「能力開発型」であることが最大のウリですから、それを実現させるための方策は絶対に必要です。
 
>特殊な例を基準にきまりをつくると、
 息苦しい社会になるというのは、歴史の常識です。
 特殊な社員を制御するためのきまりは、
 時として、普通の社員の自由をうばいます。
 そういう視点がありますか?

 学校には、必ず「特殊な社員」はいるものですが、「普通の社員」の資質・能力も同時に問われています。

 「社員の自由」とは、創意工夫とか、創造性とかいう話でしょうか。
 今のところ、お金がかかることを除けば、学校ほど創意工夫ができる場所は他にないと思います。

>さらに、
 自らの過保護(自己満足)の口実を、
 親に求めていませんか?
 「この子は何もできなくて‥」と、
 あらゆることをしてあげて、
 結局、自分では何もできない子どもにしている‥
 そういう親と同じ思考回路じゃないですか?

 今は、だれだれの役割はどこからどこまで、と明確に線引きできるような社会ではなくなっています。
 「親ができない部分」を教師が肩代わりし続け、それがパンク寸前かすでにパンクしている状態にある学校がある一方で、「教師ができない部分」を地域や保護者が肩代わりしているケースもあります。

 学校から危険をなくすことが「自己満足」であるという主張が、子どもの安全を考えず、少しでも仕事を減らしたいという教師から出るなら理解できますが、保護者という立場である方から発せられるのはとても意外なことです。

>専門家ではないので何とも言えないが、
 頭の中でシュミレーションをすると、
 暗象さんより、すずめさんの方が“魅力を感じる”
 という程度のこと。
 一連の騒動で読み返して感じたのは、
 人としての“魅力”を削る方向の
 コメントじゃないのか‥ということ。

 人としての魅力とは何でしょうか。
 上から目線を感じさせないこと。
 誠意があること。
 弱みをみせること。
 ・・・人によって感じ方はさまざまであると思われます。
 「教師としての魅力とは何か」というテーマに過去の記事でふれたことがありますが、この点についてはもう少し考えてみたいと思います。
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教育」カテゴリの記事

コメント

shock
>平成10年版からの「生きる力」の意味自体が、きっとほとんど浸透していないのでしょう。

何が「生きる力」なのかわからないけど、
私の主張は「生きる力」に合致していないのか?
「こうあるべき」という指導(?)の積重ねで、
価値観が狭められるというか、
半ば多様性を否定するような指導で、
「生きる力」がつくのか?
というより、それが本当に「生きる力」なのか?

>「普通の社員」の資質・能力も同時に問われています。

人事評価制度の失敗原因一つにあげられています。
チームで目標達成のエネルギーが薄れる中で、
部課としての業績が低下してくる原因を、
特定個人に求めるようになると‥。
学校って、人を排除するところなのか?
人を育てるところじゃないのか?
育たないのは、自己責任なのか?
暗象は、本当に人を育てることができるのか?

>学校から危険をなくすことが「自己満足」であるという主張が

なんで都合よく矮小化するかな。
総論で語るときは総論、
各論で行くときは各論にしてほしいな。
これは、わざとなのか意図的なのかが読めない。
引き算がどうのこうのとあったけど、
あれと同じで、自分に都合よく解釈しているだけ?
天然なら、頓珍漢だよな。

>人としての魅力とは何でしょうか。

個々一人ひとりの違いもあるだろうけど、
方向性としてあるのは、まぎれもない事実だろう。
そういうことって、学校教育では無視されるのか?
ヘキサゴンという番組が好きだけど、
お馬鹿タレントを見ていて、何か感じることはない?

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より