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子ども・教師の役割意識について

 「いずれ記事にしたい」と申し上げていたことが、最近参加した授業研究のテーマに関連していたので、ここにまとめようと思います。
 授業では、徳川家康の命令によって、外様大名が江戸城の増築に必要な巨石を運ぶのですが、競い合うように船で運び込もうとしている、これはなぜか、ということがテーマになっていました。
 同時に、「社会科好きの子どもをどう育てるか」ということも主題になっていました。
 授業中に、熱心に発表する子どももいれば、それを聞いているだけの子どももいます。
 私の見方では、熱心に石を運ぶ大名も、発表しようとする子どもも、似たようなねらい、理由があるわけです。
 それは、家康や先生に気に入られる、ということもあるでしょうが、大事なのは「能力に応じた仕事をする」という意思がある、ということです。

 「仕事の報酬」とは何か、と聞いたら、子どもなら何と答えるでしょう。
 大人になってからのことではなく、今の自分の場合です。
 当然、「お金」ではありません。
 では、「先生からの評価」か。「ほめられること」か。
 私は、子どもたちに対して、「仕事(=授業なら、学習活動)の報酬は、能力の向上、作品、自分の成長の3つだ」と教えたい(実感してもらいたい)と常々考えています(田坂広志の本の受け売りですが)。
 大人になると、仕事をすればお金がもらえるので、お金を報酬と考えるのが普通になってしまいます(人事考課もそこがネックです)が、その問題点についてはここではふれません。
 その邪魔が、子ども時代にはない(お小遣いを増やしたり、ご褒美を買ってあげたりしてしまう邪魔は入りますが)。そこを生かして、ぜひ自分の成長自体を「ご褒美」と感じられる経験を持たせてあげたいのです。
 
 話を戻すと、外様大名たちは、石高に応じた加役を果たすために石を運ぶのですが、その石が、それぞれの藩の「作品」=仕事として残るわけです。メンツの問題もあります。
 ここが、我先に、と発言したがる子どもによく似ています。
 輸送・運搬能力や築城技術の向上というねらい、大坂城より大きな城をつくるという幕府の「権威」を示すねらい、軍令違反に改易などで対処し、法令遵守を徹底したいというねらい、外様大名の経済力をそぐことなど、幕府側の目的も果たされる一方で、大名は大名なりに一生懸命はたらく。
 このことを、「役(やく)」という観念に注目して近世社会の特色として示したのが尾藤正英でした(「江戸時代とはなにか」(岩波現代文庫)参照)。
 「」は、「労役」「苦役」のように、「エキ」として読む用法がありますが、「ヤク」と読む場合は、社会の中で個人が担当する役割と、その役割にともなう責任とを合わせた意味として用います。
 「石高に応じた加役」の「加役」は、「カエキ」ではなく「カヤク」と読みます。 

 ・・・石高は、武士にとっては軍事上・行政上の「役」を負担するために必要な経済的基礎の量を、また農民にとっては貢租と夫役という「役」の負担の量を、それぞれ算出するための数量的な基準であり、しかもそれは全国に統一的に設定されたという意味で、国家的な基準であっといえる。(前述の書より)

 尾藤正英は、「役」の体系としての社会の組織を作り上げることによって、270年近くの平和の持続を可能にしたという説を述べています。
 
 子どもたちが、「ここからここまで次の時間までに読んでおきなさい」と教師から指示を受けたとします。
 これを、「役(ヤク)」と捉えるか、「役(エキ)」と捉えるかが、学習が好きになっているかどうかの違いになります。
 ヤクと捉えている子どもは、しっかり予習し、授業では、学んだことを生かして発言するという役割が果たせます。
 エキと捉えている子どもも、読んでくれば質問には対応できるでしょうが、やはり苦痛な課題になってしまっているのでしょう。
 子どもだけでなく、このようなことは教師や保護者にもあてはまります。
 ヤクなのか、エキなのか。
 教師の役割とは何か? 保護者では?
 私の危惧は、それぞれの「役割意識」がおろそかになってはいないか、ということです。
 「社会科好きの子どもを育てる」には、授業中、発言する機会のない、本当に興味もわかない子どもを放っておくのではなく、何らかの「役割」を与えていくべきだと私は考えています。
 「とぼけたことを言ってみんなを笑わせること」が役割だと割り切っている子どももいます。それはそれでいいのでしょう。
 「だまっておとなしくして(耐えて?)いれば無事に(?)授業が終わる」ような環境はつくるべきではありません。
 子どもにとっては、学習をして能力を高めることが社会の中で果たすべき役割である。
 その報酬は、自らの成長である。
 そういうことを堂々と言える環境を広げていきたいと考えています。
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より