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新・教員団塊の世代誕生へ向けて

 朝令暮改の発想・その5は、「『先手を打つ』より変化に対応して『朝令暮改』ができる方が大切」という考え方です。
 本のタイトルに使われている「朝令暮改」の意味は言うまでもないことだとは思いますが、要するに、たとえ朝決めたことであっても、間違いだと気づいたなら、直ちに変更することには、臆することなく徹すべきだということです。
 しかし、世の中には、以前の趣旨と違うことを発言すると、「前と意見が違う」ことを理由に朝令暮改を責める人々がいます。著書にあるように、変化の時代だからこそ、むしろ朝令暮改が必要になる(あるいは避けられない)わけです。

世の中がこれほど変化している以上、前に正しかったことがいまも正しいとはかぎりません。雨が降ってきたら傘をさすのが当然です。晴天から雨に変わって傘をさしたからといって、『晴れていたときと違うではないか』と責める人はいないでしょう。

 学校組織にも「朝令暮改」ができる部分が必要だと考える私は、仮説と検証を柔軟に重ねていける学校のあり方こそが、今の教育に求められていると主張しています。
 もちろん、企業の商品開発のような超短期のサイクルの話をしているわけではありません
 文部科学省は「朝令暮改」と位置づけている訳ではないのですが、ほぼ10年1サイクルで新しくなる学習指導要領ができあがるまでには、かなりの人数の現場の教師も携わって、さまざまな社会の変化に対応できる内容を検討しているのです。パブリックコメントの募集や集約・公開も進められています。
 学習指導要領の改訂が「混乱」の原因だと主張されている方がいらっしゃいますが、私の目から見て、改訂が原因の「忙しさ」をはるかにうわまわる別の「混乱」原因が学校には山積しています。
 もし教師が学習指導要領を読んでいないとしたら、「混乱」の原因はどこにあると言えるのでしょう。
 その山積している問題への対処のあり方について、学習指導要領は、法令に準じるものとしてはかなり限界に近いところまで具体的に表現するようになっています。
 ですから改訂はむしろ停滞している学校改善のカンフル剤としても使えますし、子どもや保護者への「本当に教育したいことは何か」という学校からのメッセージを伝えるのにいい機会にもなっているのです。
 子どもの立場からは「ころころ変わってこまる」という発想は見えてきません。(ただ、移行期間は学校の対応力・教師の指導力による混乱が見られる場合があります。)
 基本的に、改訂の趣旨が十分理解できるものであるなら、改訂するのは当然のことですし、「何があっても改訂しないですむものがほしい」「そもそもなくすべき」という無理な相談は、教師の立場の発想であって、今後ますます変化の激しい社会を生きる「子どもの立場」からの発想ではないでしょう。
 とにかく現実問題として、現行の学習指導要領では、その趣旨(昔からの内容も含めて)をよく理解できずに目標を実現できない学校が多かったことが、改訂の趣旨を考える上では欠かせない前提となっています。
 これまでの繰り返しになりますが、私の大きな関心は、教える側の大きな変化として、「大量採用の団塊の世代」が抜けるのと同じタイミングで採用される「新・教員団塊の世代」が生まれたときの学校がどうなるのか、ということです。
 倍率が下がるだけで、どれだけ資質に課題のある教師が増えていくのか。
 現行の学習指導要領に基づく教育を受けた新規採用の教師たちが、どれだけ「生きる力」を身に付けているか。

 免許更新制は現在の教師の問題だけでなく、将来の資質問題への備えとして想定されますが、行政の側には、「自分たちは教師の資質の向上を保障する場を設けることは設けた」という言い訳ができることになり、「だから教師の資質低下は本人たちの問題だ」ですまされてしまうおそれがあるのです。
 「生きる力」が身に付いている教師なら、そのハードルは容易に乗り越えることができるのでしょうが・・・。
 なお、ある先生は、「総合的な学習の時間の運営については、他校から転任してきた教師より、初任者の方がよっぽど役に立つ」とこぼしていました。
 転任してきた教師の場合、前任校より「手のかかる」総合を実施していると、「めんどうだな」と思われてしまう傾向があるそうです。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より