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非常識な人が生まれる原因

 さまざまな職場で「常識が通用しなくなった」「非常識な人が増えた」という声がよく聞かれます。
 教育の現場では、もともと常識がない(机上整理をしないなど)部分もありますが、子どもや保護者の非常識さの陰に隠れて、教師の非常識さが目立たないという問題も大きい。
 子どもや保護者には遅れがちな提出物の催促をする一方で、自分の事務処理は遅い・・・(いつまでたっても指導要録に手をつけないなど)。
 ジャージにリュックサックという出で立ちで通勤するくらいなら問題はない?のかもしれませんが、学校に入って一番感じるのが、「挨拶ができない」「挨拶をしない」ことでしょうか。
 民間企業より、新人教育などで弱い面が、そのあたりに顕著に表れてくるのでしょう。

 ・・・さて、ここでは教育の世界を少し離れて、ノンフィクション作家の野村進が著書「調べる技術・書く技術」(講談社現代新書)で紹介している「若い世代に受け継がれていないのではないか」と危惧を覚える取材と執筆のルールとその常識をとりあげてみたいと思います。

 ~取材編~
○インタビューを申し込んでおきながら遅刻する。
○取材前の資料読みをきちんとこなしてきた形跡がない。
○無断でいきなり録音機器のスイッチを入れる。
○貸した資料をなかなか返却しない(ひどいのになると紛失する)。
○こちらが発言していない事柄を会話体で記す。
○すでに公表されている事実を、そも自分が発見したかのように書く。
○掲載紙誌を送ってこない。

 ~編集者編~
○原稿を送付したのに何の連絡もしてこない。

 子どもたちのネット上でのコミュニティーでは同じようなマナー・ルール違反がおこり、トラブルの原因になっているな・・・と思い当たるものもいくつかありました。
 相手を尊重する念というか、時間をさいてもらって申し訳ない、という気持ちが、「その分の報酬を払ってるんだからいいだろう」という考え方によって、相手に伝わらない、そういうことでしょうか。
 それとも、自分の思い通りに相手が反応するのが当たり前、という思考回路をもっているのは、ゲーム世代の影響でしょうか。
 幸い私は、仕事をしやすい編集者の方々ばかりとしかおつきあいしていませんが、中には依頼状だけ送ってきて、「何卒」などとある紙だけで書かせようとする殿様商売の出版社もあります。
 他にいくらでも書ける人がいるので当然全部断ってしまいます。

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教育」カテゴリの記事

コメント

いちろうさんへ。
コメントありがとうございます。
いちろうさんの社会観がようやくわかりかけてきました。
お子さんへの教育の理念も強く伝わってきます。
保護者として同じようなスタンスであることを言葉で伝えきれていないことが残念でなりません。

pout
>内容によっては非常識が常識に移り変わっていくのも時間の問題かも知れません。

暗象さんの思考のベースが間違っていると思う。
昔からあるものや、上の人が言うことを、
無条件に受け入れて、下へ流そうという思考。

「内容によっては非常識が常識に」とありますが、
暗象さんの考えている「常識」が、
人としての常識なのかどうか疑うことをしないの?
実は、これまで常識と思っていたことが、
非常識だったのかもしれませんよ。

先のコメントで引用した部分もそうですが、
日本に昔から言われている「常識」のベースは、
封建道徳によるものが多くあり、
平等社会に合わないものが見られます。
すべての人の人権を尊重する社会として、
求めていることが「常識」か「非常識」かを
考えずに、
他人に強制(教育)することに怖さを感じませんか?

>「礼儀」のあり方もずい分変化しそうですね。

同様に、
礼儀の本質は何かを考えるべきでは?
相手に応じて態度を変えることを強制する
そういう礼儀って、何だろう‥と。

>「常識」というのは自らが描いているものではなくて‥(略)‥一つ一つの事例について丁寧に議論していくしかないのかもしれません。

全然わかっていない。
会社役員に対しても、派遣社員に対しても、
同じ“人として尊重”する姿勢が大事。
でも、日本社会の「常識」や「礼節」は、
それを“違う人”として扱うことを求めている。
それは、これからの「非常識」じゃないのか?
そういう意味なんだけど?

木端役人や中間管理職的な思考を捨て、
人としてこうあるべきだ‥という
スタンスを確立していないから、
人間味が感じられないんだよなぁ〜。

garakuta_artさん、コメントありがとうございます。
非常識さに無反応な人間が増えると、非常識な行動が常識的な行動へと変化してしまうかもしれませんね。
いちろうさんのおっしゃるように、内容によっては非常識が常識に移り変わっていくのも時間の問題かも知れません。
今日も電車から降りようとする人を押し込みながら乗り込んで行った家族連れがいました。こういうのは怒りを買ってトラブルになるまで気が付かないかもしれません。

いちろうさん、コメントありがとうございます。
「礼儀」のあり方もずい分変化しそうですね。
社会の変化をそのまま当然の流れだという受け止め方が主流になれば、ますます教育の果たす役割が大きくなり、教師の負担も増大するでしょう。
「常識」というのは自らが描いているものではなくて、多くの人やその世界の関係者が持っているべき当たり前の知識や知見のことですが、「べき論」を嫌う方とは、一つ一つの事例について丁寧に議論していくしかないのかもしれません。

wobbly
>さまざまな職場で「常識が通用しなくなった」「非常識な人が増えた」という声がよく聞かれます。

それを社会の変化というんじゃないの?
社会の変化で「常識」が変化したのに、
過去の「常識」に固執しているだけでは?
自らが描く「常識」がすべからく正しく、
それを守れないことを「非常識」と断ずるのは、
尊大な自己中人間だと思う。

例えば、

>原稿を送付したのに何の連絡もしてこない。

一筆、着いたら知らせてくれと書けばすむのに、
自分を偉く思い(相手を見下して)それをしないで、
できていない者をさして、
それが常識だろうというのは、どうかと思う。
先生のことばでなくてよかったが、
こういう文を紹介する先生というのも、
どうかと思う。

なんだか最近特に感じますね、若者だけじゃなく中年も老人も非常識な人が多く目立ってきてます、私も意外ときずかないで非常識やってるかもしれません、企業も利益ばかりを優先して常識とかマナーとかあまり指導してないような気もします、それと指導するほうもすぐ切れたりふてくされたりで扱いずらくなってるのも事実です、

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より