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« 子どもの安全管理と教師の人事管理 | トップページ | 教師と保護者の意識格差の拡大 »

届きにくい保護者へのメッセージ

 いちろうさん、ご回答、ご意見ありがとうございます。

>そういう(事故防止の)管理の手法が、
 空き地や小川から子どもたちを遠ざけ、
 そのために失われているものが多くないですか?
 ‥ということ。

 私の住んでいる都市ではかなり前から空き地も小川もなくなっているので、そういう自然体験は間違いなく今の子どもたちからは失われていますね。
 もう親も自然体験の少ない世代になっています。
 
 子どもの数が多かった頃は地域の「子ども会」がさかんで、私も毎年キャンプに行っていました。
 私の父親は、自分の子どもの面倒よりも他人のお子さんの面倒をよく見ていました。

>完全に大人の管理下に置かれ、それを自然体験と称していいものかどうか。
 すでに半ば疑似体験になっているのに、
 いっそバーチャルにした方が安全ではないのか?
 暗象さんの進める管理主義の徹底の結果(到達点)が、
 良いものとは思えない。

 「平成17年度青少年の自然活動体験等に関する実態調査報告」(調査対象は小学2,4年生と中学2年生)によれば、平成10年と平成17年を比べると、「チョウやトンボ、バッタなどの昆虫をつかまえたことがほとんどない」が18.7%から34.9%へ増加、「太陽が昇るところや沈むところを見たことがほとんどない」が33.6%から43.1%、「キャンプをしたことがほとんどない」が38.2%から52.8%になっています。
 「生きる力」の育成を目指した学習指導要領が告示されてからの期間も見ても、この変化です。
 事故の危険性が低い自然体験等について見てもこの通りの結果です。
 
 「海や川で泳いだことがほとんどない」は9.8%から26.0%に増加しています。
 これらの数字の変化は、「管理主義の徹底の成果」なのでしょうか。
 
>人事考課の問題
 厚生労働省でさえ否定しているし、
 大企業はほとんど失敗しているのに勧めているの?

 失敗しないですむ方法については、記事でご紹介しています。

>先生たちの社会はわからないことが多いけど、
 商品券をあげて校長になった人に、
 評価されるって、どういうこと?
 商品券で先生になった人だから、それでいいのか?

 人事考課は具体的な評価基準に基づき、実績等を根拠に行うもので、かつ面接による情報交換もありますので、恣意的な評価を行えばそれが証拠として残ってしまいます。
 人事考課の仕組みについては、記事でご紹介しています。

>素朴に、
 先生には、自らの良心と哲学に基づいて、
 人として接して欲しいと思うのは、
 チーム(集団)としては成り立たない論理なのか?

 成り立ちます。コンピテンシーのところでご紹介しています。 

>長々とした記事を読んで思うのは、
 管理されたロボット的な先生像で、
 人間的な幅が狭められていく気がします。

 この件についても、コンピテンシーのところでご紹介しています。
 実際の指導でそのような教員しか養成できない大学、育成できない学校や管理職等、自己教育力をもたない教師は、もちろん高い評価を受けることはないでしょう。

>そのうち、
 人と触れ合う体験が不足しているので、
 夏休みには、人が集まるところへ出かけて、
 いろんな人と触れ合う体験をしましょう‥ってなる?
 あ、老人ホームや保育園へ行くのの延長か。
 職場体験と称してやっているのもあるな。

 学校がこのような体験活動を取り入れているのは、核家族化や家庭の教育力の低下等が背景にあります。
 学校は、こんなことまで家庭によびかける時代になってしまいました。
 「そんなことは文部科学省がやらなくてもよい」とお考えの人も多いかもしれませんが、本当に何もしない親が増えているんですね。

 文部科学省の小冊子「生きる力」より

 みなさんの家庭ではいかがですか?
□学校での出来事について子どもと話をしている
□「おはよう」「ただいま」「おやすみ」などのあいさつをしている
□早寝早起きを心掛けている
□子どもは毎日朝食を食べている
□子どもが手伝う家事の分担を決めている
□テレビやゲームの時間にルールを決めている
□家で読書や勉強する時間をとっている
□子どもと一緒に地域の活動に参加したことがある
 
 ただの呼びかけなので、家庭によっては実効性が薄い(まず冊子を読まれなければ何も始まりません)施策ですが、「恥の文化」がよみがえり、「役割意識」が復活すれば、子どもたちは「恥」を知り、役割意識がもてる人間に家庭教育によって育てられることになるでしょう。

 私自身は「管理主義」という言葉を使いませんが、人事管理や経営管理の目標には、いちろうさんがおっしゃるような「魅力のある教師」の育成も含んでおります。
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教育」カテゴリの記事

コメント

pig
>中心のねらいは教師の資質・能力の向上です。どのようにそれらを高めるか。

評価を与えることが資質や能力の向上につながる?
木端役人だからしょうがないんだろうけど、
導入の目的が、リストラとコスト削減であり、
その口実が人事評価なんだから、
どれだけきれい事を言っても、
結果は目的につながるんじゃないの?
会社は、社員に投資しなかったことが、
人事評価の失敗の原因として、改めつつあるよ。
今の公務員は、そういう状況じゃないだろうに‥

しょうさんへ。以下のコメントは、あとで整理して記事として再構成する予定です。

人事考課制度については、評価の正当性・客観性や給与の増減ばかりに視点がいってしまいがちですが、中心のねらいは教師の資質・能力の向上です。どのようにそれらを高めるか。現場で、研究会で、どのような役割をそれぞれの教師が果たしていけるか。
「あなたの役割は何ですか」という問いにどのような答えができるかで、ある程度の評価はできてしまうでしょう。
教師に限らず、仕事の報酬は仕事である。資質・能力が高まり、人間として成長することである。そういう仕事観がもてるかどうかが、職業人には問われていることでしょう。
お金や地位は、自分が求めようとして手にするものではなく、結果としてついてくるものです。
人事担当者も、管理職も、評価される教師も、そういう立ち位置を誤ってはいけません。

いちろうさん、yukiさん、コメント&ご意見の交換ありがとうございます。
私は未熟な教師ですから、保護者の方への信頼には、子どもの成長をもってしか応えることができないと考えております。
上から目線でも何でも、足りないことは足りないこととしてはっきり言ってもらった方が納得するという保護者もいらっしゃれば、逆にいちろうさんのように反発される方もいらっしゃる。しかし、そもそも教育ブログを読まれる方もそうですが、上から目線に反発できる方の場合は、子どもの教育にはそれだけの責任と自負を感じられているわけですから、何の問題もない、と考えてしまいます。
私は実践によってならともかく、文章によって教師としての魅力を感じてもらおうとするつもりはいっさいありませんし、文章自体に魅力をもたせるつもりもありません。
ただ、ご質問などについてはできるだけ丁寧にお答えしたいと思います。
あとは基本的に、自分の考えていることを法令や事実に則して述べていくだけです。

kurazou先生、何度も失礼します。

なるほど、いちろうさんのおっしゃりたいことはわかりました。
私が勘違いしていました。
特殊な例というのは、特殊な事例のことではなくて、特殊な保護者の事を指すのですね。
しかし、kurazou先生がおっしゃるには、何もしない親(=特殊な親)保護者が増えているとのことですから、
特殊が一般化しつつあるということではないでしょうか。
なので、特殊な保護者ではなく、一般化しつつある保護者であると思います。

親も万能ではなく、教師も万能ではありませんから、
家庭の役割に教師が口を出し手助けすることは、過保護というよりは、時代の要請だと思います。
核家族が増えて、家庭の教育力が下がっていますから。
学校が過保護になったのではなく、社会が学校に求めているのだと思います。
学校が、手助けしなかったら、それこそ「社会の崩壊」につながりかねないと思います。
家庭の教育力が下がり、学校も手助けしなかったら、はたしてどうすればよいのでしょうか・・・
学校が介入せず、家庭の教育力を上げる妙案は、何かございますでしょうか?いちろうさん。

good
>「ごくごく当たり前のことしない親」の事を指すと思います。

私もそう思います。
でも、それを先生が管理し補うということは、
先生による過保護であると考えています。

しないことを理由にして、してあげるのは、
過保護じゃないですか?
しかも、この対応を突きつめると、
子どもだけじゃなく、
親に対しても、上から目線じゃないの?
どんだけ偉いんだか‥、先生というのは。

  本当に何もしない親が増えているんですね。
      =
    特殊な例を基準にきまりをつくる


このようにはならないと思います。
本当に何もしない親というのは、
「ある特殊なことをしない親」ではなく、
「ごくごく当たり前のことしない親」の事を指すと思います。
「あいさつ、朝食、お手伝い」は特殊なことではなく、ごくごく当たり前の事ですよね。

flair
>この違いはなんだろうと考えたのですが、

暗象さんにも援軍があらわれましたね。wink
でも、ことばの背後にある思想の是非に厳しい
暗象さんなら、自己批判をしていることと思います。
こういう一文をとりあげて書き手を否定することが、
一般の思考として正しいかどうかというのは、
yukiさんの出現で、少しは理解できたのでは?
特にこのブログは
“吟味されたことば”で構成されているハズだからね。

しょうです。横から失礼します。

>特殊な例を基準にきまりをつくると、
>息苦しい社会になるというのは、歴史の常識です。
>特殊な社員を制御するためのきまりは、
>時として、普通の社員の自由をうばいます。

 実は、この点に関してはほぼいちろうさんの意見に賛成なのです。正直Kurazohさんも推奨される「人事考課」の流れには私自身息苦しさを感じています。なかなかエネルギーが高まらないのです。

 自主的な教育研究サークルの活動や、先輩教員の実践に刺激を受けつつ(エネルギーをもらい)育てられてきた、という体験も背景にあるとは思いますが・・・。

 いわゆる人事考課の問題についてもKurazohさんとは多少意見交換をしましたが、私としては一つのアンチテーゼのつもりで、民間教育研究団体での自らの体験をご紹介しましたね。
 http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/?ctgy=17

 そこでいただいた書き込み「Win-Winの関係になる成果主義」には共感できたのですが、「困った教職員」に焦点をあてた「人事考課」の流れはなかなか自分自身のモティべーションを高めることにつながりにくい、というのが実感なのです。

 来週は、私の所属する「高生研」の全国大会がありますので、たくさんエネルギーを持ち帰りたいと思っています。

>本当に何もしない親が増えているんですね。

こう言われると、保護者としてはドキッとしますが、何故でしょうか、素直に(もっときちんとしないといけないな)と自分を戒める気持ちになります。
もし、同じ言葉を、「学校事故は生徒の自己責任」と言い放つ教師などが言ったとするならば、(何を偉そうに、学校側も何もしてないでしょう)と頭にくると思います。
この違いはなんだろうと考えたのですが、
おそらくkurazou先生は、きちんと学校の役割に責任を持っておられ、常に、学校側の努力と研鑚を怠らず、子供側の視点に立って考えておられる先生だとわかり、信頼できるから、素直に先生の言葉を聞けるのだと思います。
生徒のせいにする教師だったら、せっかくの良い言葉も白々しく聞こえてしまうんですよね。

いろんな保護者がいると思いますから、先生という職業も大変でしょうね。
kurazou先生の魅力と誠意をわかっている保護者は、きちんとわかっていますから、いろいろな雑音などお気になさらぬよう・・・

smile
>これらの数字の変化は、「管理主義の徹底の成果」なのでしょうか。

ある意味、管理主義の帰着点だと思う。
細かな「こうあるべき」の積み重ねで、
価値観まで狭められ、
画一的な人間をつくってきた成果だと思う。
テストの点をとることに価値を置きすぎ、
直接点数に結びつかないものを無駄と言い続けた結果、
他へ向かうべき興味が抑えられ、
結局、テストのための勉強と、安易な娯楽(ゲーム)
だけの人間をつくっているのでは?

>人事考課の仕組みについては、記事でご紹介しています。

中小企業の場合は、
人事考課がうまくいっている例が多い。
ただ、学校に適用するには、
そこまで共同体として育っているのか?
他の学校との整合性は?
という観点が加わり、大企業と同じ失敗をしそう。
という危惧です。

>本当に何もしない親が増えているんですね。

特殊な例を基準にきまりをつくると、
息苦しい社会になるというのは、歴史の常識です。
特殊な社員を制御するためのきまりは、
時として、普通の社員の自由をうばいます。
そういう視点がありますか?
さらに、
自らの過保護(自己満足)の口実を、
親に求めていませんか?
「この子は何もできなくて‥」と、
あらゆることをしてあげて、
結局、自分では何もできない子どもにしている‥
そういう親と同じ思考回路じゃないですか?

>いちろうさんがおっしゃるような「魅力のある教師」の育成も含んでおります。

専門家ではないので何とも言えないが、
頭の中でシュミレーションをすると、
暗象さんより、すずめさんの方が“魅力を感じる”
という程度のこと。
一連の騒動で読み返して感じたのは、
人としての“魅力”を削る方向の
コメントじゃないのか‥ということ。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
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    「楽毅」第1巻より
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    「歴史の活力」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より