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« 「強さ」が導く潜在的な「いじめ」 | トップページ | 文科省への提案 ~解説への解説は映像(動画)で~ »

その問いへの究極的な答えとは・・・。

 ずい分以前に読んだ本でしたが、スティーブン・R・コヴィー著『原則中心リーダーシップ』(キングベアー出版)を読みかえして、
 傍線を引いていた箇所の意味を改めて噛みしめています。
 

恐ろしいほど複雑な世の中で、どうしたら一貫性を持つことができるのだろうか?

 予期せぬ突然の変化によって、優れた地図(戦略とプラン)でさえ役に立たなくなる現代の荒野で、どうしたら方向感覚を失わずにいられるのだろうか?

 どうしたら非難と自己正当化ではなく、同情と理解をもって人間の弱さを見守ることができるのだろうか?

 どうしたら偏見を捨て、尊敬と探求の精神をもって他人の学習と達成を促し、長所をのばすことができるのだろうか?

 どうしたら変化と進化への強い熱意を持つことができるのだろうか?

 多元性と多様性の価値を認め、尊敬の念を持って相手を賞賛できるような人間になるにはどうしたらいいのだろうか?

 何からはじめたらいいのだろうか?どうしたら心のエネルギーを充電して学習、成長、進歩への情熱を持ちつづけることができるのだろうか?


 これらに共通して言える答えとは・・・。究極的には、教育の世界の私たちは、「子どもの立場」になって常に考える、ということです。
 私が教師に対して常に批判的であるのは、「そんなことを言われたり、書かれたりしたら、子どもはどう考えるのか」「子どもはどんな教師のどんな指導・授業をのぞんでいるのか」という問いから始まってしまうからでしょう。
 もちろん、自分も教師ですから、同僚への「同情や理解」はリアルな世界では非常に優先順位が高いものです。
 しかし、子どもが被害を受けているとしたら話は別です。
 「自分より実力のある生徒とつきあいなさい」という指導言に対してさまざまな直言をいただきましたが、それが言える人間関係・信頼関係の構築にどれだけ力が入れられているかまでは、ネット上では伝えきれません。
 批判的思考力を育ててある子どもというのは、必ず教師の指導言の「意図」を読み取ろうとしてくれています。
 単なる教科書的な知識や社会的な常識だけを教えてくれるのが学校や教師ではないんだなと子どもに実感してもらう教育を目指しています。
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教育」カテゴリの記事

コメント

「相手を選別」する目について、今の子どもたちは非常に鋭いものがあります。教師たちですら、さまざまな基準で「選別」されています。
掲示板を読むと、本当にすさまじい世界です。
そこにあえて「自分より実力のある生徒とつきあおう」という言葉を投げかえる意図は以前にご説明しました。
子どもの中には、虐待を受けて育った子、DVを見ながら育った子、親の愛情を感じられない子などがいて、自己肯定感や自尊心が育っていないケースが多いのです。
こういう生徒の気を引こうとして近づいていく教師の多くが失敗する原因は、自分がその経験をしていないことに由来する部分が大きい。そしてかつ、教師には自尊心や自己肯定感の塊のような人も多い。それが実績に裏打ちされているか、そうでないかを子どもは一瞬で見抜いてしまうのです。
厳しいようですが、中学生段階では、とかくだれだれがどうした、こっちではどうだ、とか、他人の言動への評価ばかりを言わせるのではなく、自分自身をしっかりと見つめさせる指導が欠かせないと考えています。
そのきっかけをどうつくるか。
それが、愛情と誠意に裏打ちされた戦略であります。

>愛情を注ぐ相手を選別するところから、
いじめがおきるのでは?
輪の中にいるいないが、
愛情と誠意を持って接するかどうかの境目なら、
まさに、いじめの構図として語られていることと
同じなのではありませんか?<

相手を選別?なぜそんな発想になるのでしょう。
どの子も周りの多くの大人の惜しみない愛情に浴することがこの上ない望みです。
親、教師、社会を構成する多くの大人たちに。
輪の中にはじかれてしまっている子どもがなくなることが理想ですが、もし不幸にも一時的にはじかれるような場面があっても、この愛情をたくさん受けてきた子どもは、こういった逆境につぶされずにいられるのではないかと思います。
だから

>これこそがいじめへの最終的根本的な対処法とも思っています。

と言ったのです。
いちろうさんはどうお考えでしょうか。
周りの子どもたちに愛情をたくさんそそいであげてくださいね。

ふと思い出した。
暗象さんは気づいていないようだけど、
私が突っかかった最初のコメントを
覚えていますか?

>身近にも、「私はやめろと注意したんですけど子どもが聞かなくて・・・」と言い訳をする教師がいました。
それは「指導」ではなくて「指(ゆび)」ですねと指摘せざるを得ません。
言い訳であることが自覚できない教師は多いのでしょう。

このコメントに込められた攻撃性に対して、
批判したのが最初でした。
すずめさんへの攻撃性に対して、
忘却くんへの甘さに不公平感を抱いていましたが、
今回のコメントで馬脚をあらわしましたね。

今後も“あなたの成長のために”寄らせてもらいます。

まず、この考え方に問題性を感じています。

>受け止め方の問題として、「愛情や誠意」を素直に感じ取れない子どももいます。

これは、言い訳じゃないのか?
私が悪いんじゃない、相手が悪いんだ。
それは、相手が素直じゃないからだ。
素直な人ならわかってくれるはずなのに、
それが伝わらないなんて‥‥。

そういう思考を、これまで散々に非難していませんでしたか?

>さまざまな戦略的行動をとることが求められています。

こういうことばが、
何のためらいもなく出るところが、尊大なんだよ。
「戦略的行動」って、どういうことよ。
世の中の人がみんな、
暗象の描く世界にいるわけじゃないよ。
暗象は、すべての人の思考や行動がわかるのか?
もちろん吟味されたことばを使っているんだと思うが、戦略的ねぇ〜。
ひとつ指摘しておくね。
論理的という問題じゃない、上から目線です。

>表現を変えると「常に愛情と誠意を持って接する」ともいえます。

自己責任を放棄し、他者に責任転嫁し、
他の人を見下す上から目線の解説を加え、
その結論が「愛情と誠意」だから、
私は暗象さんを誠意大将軍と揶揄しています。

文字を並べて文を作っても、
これじゃ真意は伝わらない。
これを、ただの「きれいごと」ととるか、
集団の雰囲気を悪くする迷惑人間ととるかが、
評価の分かれ目かな。

「愛情や誠意」は指導上大きな前提の一つでしょうが、受け止め方の問題として、「愛情や誠意」を素直に感じ取れない子どももいます。
教師不信、大人不信で凝り固まっている子どもや保護者の場合には、そういう目で見られているということをこちらが意識していると、かえって態度で示すことが逆効果になってしまうことがわかります。
このような子どもや保護者に対しては、結果で示すしかありません。
結果として、愛情や誠意を感じ取ってもらえるようなさまざまな戦略的行動をとることが求められています。
そのためには、子どもの立場で常に考えることができているかどうかが鍵だと思います。

>「常に愛情と誠意を持って接する」ともいえます。
そしてこれこそがいじめへの最終的根本的な対処法とも思っています。

言うは易く行うは難し

愛情を注ぐ相手を選別するところから、
いじめがおきるのでは?
輪の中にいるいないが、
愛情と誠意を持って接するかどうかの境目なら、
まさに、いじめの構図として語られていることと
同じなのではありませんか?

究極の答えは「子供の立場になって常に考える」ですか。
簡単そうで難しいものですが、常に意識し目標にすべきものと思います。
自分以外の他者の立場になるということはその立場に立ったつもりの想像力が問われます。
頭もですが心の柔らかさこそが決め手になると思われます。
表現を変えると「常に愛情と誠意を持って接する」ともいえます。
そしてこれこそがいじめへの最終的根本的な対処法とも思っています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より