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« 「しつけの問題」?・・・子どもの行動を左右するものとは | トップページ | 子どもが自らつかむ道徳的価値とは? »

総則の冒頭に改訂のエッセンスがあります

 教育制度改革についての具体的な提言をするわけでもなく、ただ現行の学習指導要領等に対する不満(批判ではない?)が述べられている記事が散見されますが、このこと自体が、現在の学校教育が抱えている大きな問題の顕著な傾向であると考えられます。
 教育課程編成の大原則を理解せずに(下手をすると自分の学校の教育課程も知らずに)、そしてその内容への批判や自己評価をせずに、現在そして近未来の学校教育の課題を語ることに意味はあるのでしょうか。
 現行の学習指導要領の総則の1「教育課程編成の一般方針」では、「学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、生徒に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り、個性を生かす教育の充実に努めなければならない」とありました。
 ところが、「自ら学び自ら考える力の育成」の具現化が十分に図れなかったばかりか、内容を減らした基礎的・基本的な内容も確実に定着させられないことが明らかになったため、「自ら学び・・・」の部分が、以下のように改訂されるようになりました。
 ・・・創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で、基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむとともに、主体的に学習に取り組む姿勢を養い、個性を生かす教育の充実に・・・
 「定着」が「習得」に、「自ら学び自ら考える力」が「基礎的・基本的な知識及び技能を活用して課題を解決する力」=「思考力、判断力、表現力その他の能力」、「主体的に学習に取り組む態度」となり、
 さらに、
 「生徒の発達の段階を考慮して、生徒の言語活動を充実するとともに、家庭との連携を図りながら、生徒の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない」
という文言が加えられました。キーワードは、「言語活動」の充実と「学習習慣」の確立です。
 学習指導要領総則の「教育課程編成の一般方針」の第一に掲げられたこの内容については、学校だけではなく、家庭にも周知されるよう、文部科学省及び各教育委員会、学校は努力すべきであることは言うまでもありません。
 「習得」と「活用」への理解に関する課題は、これまでも記事にしてきましたが、また後日ふれることがあると思います。
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教育」カテゴリの記事

コメント

しょうです。すみませんが、前回のコメントにミスがありましたので訂正します。

(いちろうさんが)最後の段落で述べておられることは、kurazohさんというよりわれわれ教職員が「陥りやすい落とし穴」」「自戒すべき点」でもありますので「ひとごとではない指摘」として受け止めたいと思います。


⇒いちろうさんが後半で展開されている指摘、例えば
>批判を聞く耳を持つと言いながら、論破することに終始する…。
は、kurazohさんというよりわれわれ教職員にとって「陥りやすい落とし穴」…「ひとごとではない指摘」として受け止めたいと思います。
 聞く耳を持つ事が大切といいながら、(生徒を)一方的に説得しようとする自分はいなかったか、と。

いちろうさんへ
 私のコメントに対して現時点で「合意できない」と思われる点、いちろうさんの一連のコメントの意図、については明確に述べておられるのでよくわかりました。
 最後の段落で述べておられることは、kurazohさんというよりわれわれ教職員が「陥りやすい落とし穴」「自戒すべき点」でもありますので「ひとごとではない指摘」として受け止めたいと思います。
>願わくば、冷静になった後、日々の主張通りに自らを省みて欲しいものです。
 少なくとも貴方の目からどのように見えたか、という点については受け止めていかれると思いますよ。
 あなた自身の上記のコメントも「あきらめ」の表白というより「期待」の表明ですよね。

>犯罪的と言うか…
 すずめさんのブログ記事とkurazohさん、Psycheさん、そしてまずろさんによる批判、その後のやり取りについては「よたよたあひるさん」が振り返りの記事を書いておられますので、私の見解も書かせていただきたいと考えています。

しょう さんへ
あなたのブログへ行けばいいのかもしれませんが、これ以上書くこともないので、ここに書かせてもらいます。

>「相手が誰であろうとJSミルが提起したような『議論において守るべき道徳』を大切にしてほしい、確かに困難かもしれないがぜひともこのモラルを共有したい」

総論として否定はしないが、あなたと私との間に共通の道徳があるとは感じていない。
例えば、

>「“意図的に”彼らがやっていることを少々誇張して見せただけだ」と言われるかもしれませんが、わたしは「自分が嗅ぎ取った(見抜いたと信じる)相手の姿を戯画として突き出していくという“戦略”」を是認することはできません。

私は、彼らに自覚を促すのにはこれしかないと思っている。ことば遊びは嫌いだと言いながら、ことば遊びに終始し、批判を聞く耳を持つと言いながら、論破することに終始する…。
私の手法は、あなたの道徳では否定されることだと思いますが、私の道徳に照らせば許容の範囲内です。前提として、あなたは彼らを異論を持つ一個人と捉えているのに対して、私は、犯罪的と言うか…どの程度意識しているのか…未必の故意と言うか、そのように捉えています。
忘却くんには投稿制限を受けているし、暗象さんは無視を決め込んでいるので、これ以上のことをする気はありませんが、願わくば、冷静になった後、日々の主張通りに自らを省みて欲しいものです。私のような対応をする人間は、千人のうちに数人だと思いますが、私と同じように感じる人は、数十人に1人はいると思います。先生と言う立場であれば、多くの人を相手にしているわけで、確率的には一般人とは比較にならないくらいに、様々なタイプの人に対応しなければいけないハズです。そう考えると、素直に大人的態度を受け入れられない人間の思考を知らしめることも使命かとも思いました。
初期の目的は果たしたので、以後コメントをつけるときは、普通に対応しようと思っています。

いちろうさんへ
>私の意識の中では、一般論ではなく、個々への発信だったのですが・・・
 貴方とkurazohさんの頻繁なやり取りの真最中に私が「ブログでの意見交換とJSミルの『自由論』」をトラックバックさせていただいたことに対する感想(一般論で片付けないでほしいという感想)ですね。
 私もこの間のやり取りはかなり気がかりで、いくつものブログを読ませていただきました。貴方は「まずろ」さん「kurazoh」さん「Psyche」さんそれぞれに対してニュアンスの異なるコメントを書き込んでおられますので、貴方なりに相手を判断して(嗅ぎ分けて?)対応しておられることはわかります。
 しかしながら、私が「ブログでの意見交換・・・」をトラックバックさせていただいたのは「相手が誰であろうとJSミルが提起したような『議論において守るべき道徳』を大切にしてほしい、確かに困難かもしれないがぜひともこのモラルを共有したい」という気持ちからです。
 あなた自身まずろさんに対するコメントの中で「嫌いだと思っている人に対してコメントをつけるときには、充分な配慮が必要で、文言を精査しないと逆効果にしかならない‥」と述べておられますね。「仮に嫌いだと思っている人であればなおさら充分な配慮が」という意味であれば賛成です。しかし、あなたは「kurazoh」さん「Psyche」さんに対してその主張と反対のことをなさっているようです。
 「“意図的に”彼らがやっていることを少々誇張して見せただけだ」と言われるかもしれませんが、わたしは「自分が嗅ぎ取った(見抜いたと信じる)相手の姿を戯画として突き出していくという“戦略”」を是認することはできません。
 確かに、生徒はわれわれ教職員の「人間味」とか「教師くささ」をよく嗅ぎ分けるところがあり、貴方は非常に「勘の鋭い」生徒だったのかもしれませんし、その嗅覚は鈍っていないとお考えなのでしょう。また、私は情緒も大切であると考えています。情緒(怒りにせよ反発にせよ)は必ず「なにものかに対する怒り・反発」であり対象があるわけですから、「情緒的だ」といったkurazohさんの反応にも貴方は説得力を感じないかもしれません。
>ロボットみたいに“正論を吐く先生”は大嫌いだった
>あなたにそういう資格がないだろ
 そのように確信される背後にはいちろうさんなりの(学生時代の)体験があるわけですね。しかし、kurazohさんが「学校は、教職員はこうあるべきだ」と確信をもって述べられる背後にも、本人の述べておられるような体験があるのです。
 この確信やそれに基づいた「意見表明の態度」を問い直すことは極めて困難なことです。しかし、kurazohさんは、この記事をめぐるやり取りの中で「私のコメント」も受け止めつつ「自分の体験」を背景に「むきになってしまう自分」を問い返しておられると思うのですが・・・。
 教員というのは「正論を吐いて生徒からの反発を受けるような体験もしつつ、悩みながら成長していく場合」が多いと思いますし、kurazohさんにもそのような体験があると思うのです。そして、「生徒の気持ちを無視したそんな決め付けるような指導ではダメだ」と同僚に対しても厳しく発言できるような人だと思っています。
 よたよたあひるさんもご自身のブログのコメント欄でkurazohさんを魅力的な先生と述べておられます。(やはり勘の鋭い方だと思うのですが、すずめさん・kurazohさんという全く異なる両先生を評価しておられますよね。)
 別の評価はあって当然でしょう。ただ、一貫して「心の問題」にこだわってこられた貴方は「心は外から断定できない」ものであることは百も承知ではないでしょうか。組合役員も経験した私は「上位下達的な姿勢・臭い」にやや過敏に反応するところがあるかも知れません。こと「指導要領」の問題に関してkurazohさんと意見交換をするのは難しいかな、と思っていたことも事実です。しかし、あくまでも「意見交換を通して学びあえるのではないか」という「信頼」はブログにおけるコメントのやり取りも含めて討論のもっとも大切な要素だと思うのです。この点、私はまずろさんのご意見に賛同いたします。

 またしてもながながと失礼いたしました。

しょう さんへ

>あなた自身の強い倫理意識を背景に「教職員はかくあるべきだ(意識変革が大切だ)」という意見を発信されることが、そのような危険性を含んでいるということは、何度か感じたことがあります。

「強い倫理意識」と表現されるとどうかと思うが、
劣等生として生きてきた経験上、
先生も一人の人間として自分をさらし、
人として、子どもの前にたって欲しいのです。
鎧兜と仮面を付けて、
ロボットみたいに“正論を吐く”先生が、
大嫌いだった。
だから、そういう匂いのする人に、
突っかかっているだけです。

少なくとも、
>「教職員はかくあるべきだ(意識変革が大切だ)」という意見を発信
というより、
“あなたに、そう言う資格はないだろう”という
思いの発信です。
だから、暗象さんのところには、暗象さんにむけ、
忘却くんのところには、忘却くんにむけ書いています。
私の意識の中では、一般論ではなく、
個々への発信だったのですが、
確かに、第三者的には一般論ですね。


>学習指導要領は、まさに現場の改革も求めています。
>一番変えなければならないのは教師の意識です。
>いちろうさんも、熱心にそれを行おうとしていただいております。

暗象さん
失礼だとは思うが、これは私への回答か?

>キーワードは、「言語活動」の充実と「学習習慣」の確立です。

子どもに求める前に、
暗象さん自身に必要なんじゃないの?
問いへの答えにもならないのはよくあることだが、
日本語にさえもなっていないのでは?
何かの暗号なのか?

 誠意ある応答、ありがとうございました。  正直な話「受け止めていただけるだろうか」という不安を以前は持っていたのですが、貴方に対する「不当な色眼鏡」だったということが確認できました。大変失礼いたしましたが、同時にとてもうれしく思います。
 先のコメントを書かせていただこうと決めたきっかけは、今“よたよたあひるさん”が振り返りをしていらっしゃる「一連のやりとり」を通しての「私なりの学び」であったことも告白しておきます。

しょうさん、本当に具体的なご指摘をいただいてありがとうございました。
なぜ学習指導要領改訂にかかわる記事に熱が入ってしまうか。
それは、指導主事をしていた時期が、ちょうど総合的な学習の時間の試行や実施が始まったころで、とにかく教科書がないので「何をどうやったらいいかわからない」という学校に、自分の実践や理論などをもとに具体的に各学校を指導しつつ、「どうしてこんなにめんどうくさいのが導入されたのか」「仕事を増やしてくれるな!」という反発に対しては「今の子どもたちにつけさせたい力とは何か」を考えてもらいながら、学習指導要領の趣旨を理解していただた経験が大きいのでしょう。
その際、「学習指導要領なんて俺は読んだことがない!」などと誇らしげ(?)に語るベテラン教師がいらっしゃると、詳しく実践例などを聞き取りして、「先生のご指導はすでに新学習指導要領のこの趣旨とこの趣旨を具現化されていらっしゃるものです。ただ、ここの点に配慮していただくと、より先生のねらいが達成されやすくなり、子どもの学習意欲も高まるでしょう」などと言いながら、学習指導要領を手にとっていただく努力をしたものです。
今はそういう指導助言の仕事はまわってこないので、その意味でやりたいことはブログで書くことしかできません。
少なくとも、学習指導要領の改訂版を読んでいただきたい、そんな気持ちが先走ってしまうばかりで、効果が低いのはしょうさんのご指摘を受けてよくわかりました。
しかし、自分の癖の改善はなかなか難しそうです。
改訂が繰り返されても、ほとんど変わっていない文言というのもけっこうあるのですが、その基本的なことすら、学校が考慮していない例もあります。
どうしても一言余計なコメントを入れてしまう癖は抜けそうもありません。
「自己変革力」に課題あり、ですね。

 続けておじゃまします。正直「指導要領」の内容に関してkurazohさんには太刀打ちできないかな(笑)と思ってコメントを控えてきたところもあるのですが、もしかしたら貴方への色眼鏡もあったかなと反省しつつ・・・。

>学習指導要領は、まさに現場の改革も求めています。
一番変えなければならないのは教師の意識です。

 釈迦に説法かもしれませんが、根本において大切なのは「学校内外で協力して公教育を創造していくこと」であり「学校内の職員」と「学校外の人たち」の学びあいや意識の「相互変革」ではないでしょうか。その場合、「学校現場における職員の具体的経験や具体的感覚」を軽視して望ましい展望が開けるとは思えないのです。

(「相互に学び」「相互に意識変革していく」ために微力を尽くせたら、と言う気持ちから私も今年息子の保護者としてPTAの学年長を受けることにいたしました)

>教育制度改革についての具体的な提言をするわけでもなく、ただ現行の学習指導要領等に対する不満が述べられている記事・・・

 そのような不満の表明は全く無意味であり、具体的内容を徹底的に検討した上での「提言」こそが有意味である、というご意見は確かに正論かもしれません。
 しかし、わたしはそのような「不満」の表明も全く無意味であるとは考えていません。「不満」さえも口にできず「沈黙している」状態から一歩踏み出し、たとえ不十分であってもまず意思表示することは大切だと思うのです。(逆に「正論」を立て続けに発信されることが必ずしも「実践的に有効」であるとは言えないでしょう。)

 以前ブログ記事「悲鳴をあげる学校」でも引用しましたが「教育改革病」(全国各地で進められた高校改革も含めて)に現場は振り回されている、という実感を私も持っています。

>①「自ら学び自ら考える力の育成」の具現化が十分に図れなかったばかりか、②内容を減らした基礎的・基本的な内容も確実に定着させられないことが明らかになったため

①の原因には言及されていないわけですが、(鳥取県教育委員会はともかく)文部科学省による「ゆとり教育(総合的な学習の時間など)」に対する教職員増などの条件整備は決定的に不足していたと思います。
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/200801300000/

②についても、論議の余地は充分あると思っています。例えばベネッセの次のようなデータがりますね。http://benesse.jp/berd/center/open/report/gakuryoku_jittai/dai/jittai_dai2_1a.html

 仮に、このたびの改定の背景に文部科学省が「成果のあがらなかった原因を棚に上げて」「『学力低下批判』に右往左往していた」状況があるとすれば、現場はそれに振り回されるのではなく、一貫して大切なことを追求していくべきだ、とも考えられるのです。

 確かに、新学習指導要領は「ゆとり教育から詰め込み教育の回帰だ」などと単純にはいえないわけですが、私自身は「その文言を徹底的に勉強する」ことよりも例えば次のような竹内氏の発言に学べるところが大きいのです。
「憲法知識を教えるとしても、それをできあがったものとして教えるのではなく、憲法の言う『不断の努力』に参加するものとして(憲法を学ぶことが同時にそれを解釈・創造していくことであるような学びとして)憲法条項が教えられなければならないということになる。」
http://sky.geocities.jp/shchan_3/syudoujissenn1.htm

 貴方の主張自体にはなかなか反論の余地がないのですが、「こうするべきだ」という正論に対して「そのとおりにしよう」と思えないのは私だけでしょうか。

>世の中の常識と、学校のあり方には、
大きな乖離がある。
・・・乖離を拡げていませんか?

 上記のようにいちろうさんは述べておられますが、あなた自身の強い倫理意識を背景に「教職員はかくあるべきだ(意識変革が大切だ)」という意見を発信されることが、そのような危険性を含んでいるということは、何度か感じたことがあります。
 長々と失礼いたしました。

 

いちろうさん、コメントありがとうございます。
学習指導要領は、まさに現場の改革も求めています。
一番変えなければならないのは教師の意識です。
いちろうさんも、熱心にそれを行おうとしていただいております。

私は細かな具体はわからないけど、
ものごとに対する姿勢として、
違和感がある。

御上から賜ったものを理解し流布する姿勢が変。
少なくとも、世の中は現場主義であり、
教育における現場は学校であり、
顧客が子どもたち、先生は営業でしょう。
なぜ、現場中心の改革をしないのか?

世の中の常識と、学校のあり方には、
大きな乖離がある。
暗象さんは、乖離を拡げていませんか?
と問うています。

いちろうさん、コメントありがとうございます。
制度改革が新たな問題を生む。これも当然あり得ることです。
どんなにいい薬にも副作用というものがあります。
何が理想か、現状のどの問題を最優先に解決すべきか、ということも人によって考えがまちまちですから、制度への評価もさまざまでしょう。
私自身もパブリックコメントにさまざまな意見を上げています(ブログでもご紹介しています)。
ただ、改革をチャンスに学校を変えること、組織を変えること、子どもの問題を解決することを教師たちは前向きに考えていかなければなりません。
さまざまな現場での経験から、学習指導要領の趣旨を十分にふまえないで実践している教師が多く、「ここをこうしたらもっとねらい通りになるのに」ということが多いのです。
そういう話の趣旨は、実はほとんどが学習指導要領に書かれていることが基本なのです。
「制度が悪い」「学習指導要領が悪い」では、何も始まらないし、結果として教師の責任回避の口実になってしまいます。
いちろうさんのように、教師の立場になって、行政の取り組みに積極的な批判をされる「保護者」は教育の世界には絶対に必要ですし、できればより具体的な提案をPTAとして、市民・国民として、「制度のどこがなぜ問題か」「学習指導要領の内容のどこが悪いのか」などを指摘していただくことを応援したいと思います。

>教育制度改革についての具体的な提言をするわけでもなく、ただ現行の学習指導要領等に対する不満(批判ではない?)が述べられている記事が散見されますが、このこと自体が、現在の学校教育が抱えている大きな問題の顕著な傾向であると考えられます。

それはそうだと思うが、
教育制度改革自体、正しいのか?
懐古主義者なのかもしれないが‥。
改革改革と叫ぶけど、
だんだん悪くなっていくということは、
改革の方向性が間違っているんじゃないの?

上からの指導を無批判に垂れ流す
暗象のような人間が学校を混乱させているんじゃないのか?

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「沈黙の王」より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より