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「おバカタレント」の活躍と教育の問題

 学力低下報道キャンペーンが一巡して、その問題への対応として授業時数の増加などを盛り込んだ新しい学習指導要領が告示されたタイミングと、「おバカタレント」ブームの盛り上がりが同一であることに、教育関係者である自分としてはどうしても注目せざるを得ません。

 「おバカタレント」たちは、クイズの解答者という立場から、さらに多方面へ活動範囲を広げています。

 Geogle検索で「おバカタレント」上位のページを調べてみると、

 ウィキペディアではその「元祖」から現在のタレントの特徴までよく分析された結果が示されています(「中立性を担保されていない、出典不明で正確性を欠く独自研究的な記述となっているため、修正・推敲」が求めているようですが・・・)。

 livedoor リサーチでは、このようなタレントをどう思うか?というアンケートに対しては、
興味がない」(23%)を除いた答えとして、
本当はおバカではなく、そういったキャラクターを装っているだけだと思う」(15%)、
好感は持てるが、おバカキャラなタレントがもてやはされている現状については疑問に思う」(14%)
というやや否定的な回答が上位になっているようです。

 Yahoo知恵袋では、具体的な意見や憶測が書き込みされています。
 他にも、実際に「おバカタレント」に会って話をした方が、
 「本当に会話が成り立たなくて驚いた
 「しかしこの人が意外なほど高額な報酬をもらっていることを子どもたちが知ったら、まじめに勉強する気が失せるのではないか」などとも書かれています。

 「視聴者が珍解答に優越感を感じられること」が「好感度」の最大の原因だという意見もあれば、
 「うさんくさい
 「難しい問題を答えてもすごいね、で終わるより、こいつバカだなで笑いを取るほうが受けるということでしょうかね。でもいずれは必ずマンネリ化してくる(はず)」という見解もありました。

 いずれにせよ、20%もの高視聴率を稼ぐ番組の中心的存在(司会者の力も当然必要ではありますが)である「おバカタレント」の命は、予測がつかない「珍解答」を反射的に堂々と答え、かつ、それをいじられることへの不快感を感じさせない爽快さ?「天然色」です。
 「成績優秀者」をたたえるようなクイズ番組が飽きられて、「珍解答・間違った解答」に大きな価値が与えられることへ転換したことを、教育現場ではどのように捉えればよいのか。
 
 計算してもってきたような自分の話で申し訳ありませんが、以前、「勉強に興味を持てない子を授業で生かすにはどうしたらいいか」という質問に、「どういう形でもとにかく生かすことが必要」という話から、過去の経験として、「珍解答」を最初に披露させ、いわゆるムードメーカーにしていくことが手っ取り早い、しかし、後で「いじり」「いじめ」の対象になりやすいので注意が必要、などというアドバイスをしたことがありました。
 そんな「天然色」を持ち、堂々と発言できる子どもたちばかりではないでしょう、というのも確かですが、「間違った答えでも発言する権利はあるし、他の人が考えるヒントを導く間違いというのもあるから、どんどん発言しよう」というムードをつくることは大事です。

 このようにプラスの面で捉えることもできるのですが、懸念がないわけではありません。
 それが、「学力(測定可能な学力という意味です)下層グループの釘付け効果」という問題です。

 これまでは、「学力が低い」というのは自己評価を下げる要因になっていたのが、今ではそれがプラス評価に結びつこうとしています
 「人間の価値はテストの点数で決まるものではないのだから、テストで高い点数をとれるように努力する必要はない」という発想が見られるようになってきました。

 さすがに心の中では「でも点数は高い方がいい」と感じていると思いきや、心底から「そんな必要はない」「ゲームをして楽しんでいる自分が本当の自分で、机に向かって勉強するなどという偽りの自分を演じない本当に合理的な存在だ」という自己肯定感をもっている子どもが表れている。そういう気がしてなりません。
 「人に迷惑をかけなれければ自分はどうあってもかまわない」という新自由主義の影響かもしれません。

 大人としても、「そういう生き方はいいなあ」というのは感じないでもないですが、だからといって「学習も仕事もしなくていいよね」というわけにはいきません。
 「社会的責任」の自覚がしにくくなっている子どもの存在が、今後、大きな課題として問われてくるのではないか。
 そんな危惧を抱いています。
 「おバカタレント」は、場を盛り上げるムードメーカーとしては素晴らしい資質をもっていると考えられますが、その役割だけに特化した生き方は難しい・・・・それが、タレントの活動範囲の拡大(視聴率稼ぎに利用されているという見方もできるのでしょうが)からもわかる・・・という気がします。
 
 「笑える非常識」が「笑えない非常識」に転換するときが、いつか。
 「笑える非常識」の世界から抜け出す必要を感じるタイミング、実際に抜け出すタイミングは、いつか。
 ・・・もちろん「常識を疑う」姿勢も大事です。しかし、当然ながら、「非常識」を疑う姿勢も同時に必要でしょう。
 メディアの世界との駆け引きが、教育の世界には強く求められていると考えています。
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教育」カテゴリの記事

コメント

shock
どうすればいいんだろう?

>これは新自由主義ではなくて、リバタリアニズムが正しいですね。

いやっ、
「人に迷惑をかけなれければ自分は
 どうあってもかまわない」って、
ただの個人主義だろう。
他人の人権を侵害するところまでいけば、
利己主義だろうけど、
個人主義はダメなのか?
それは、世界の常識なのか?

>「非常識」と思われたことが、そこまで常識的ではないことではない、そういうことがあり得る、という意味です。

引用、間違えているかな‥
全く意味不明で理解できないんだけど?
常識非常識の判断基準は、
“人権思想”でいいんじゃないの?
文化や立場で変わるものは、
他人に求めるべき「常識」ではないでしょう。

>細かいところまで読んでご指摘いただいて、ありがとうございます。

細かなところと、大まかなところの差は不明だが、
新自由主義を、
ことばのイメージだけで捉えちゃダメだろう。
難しいことばが好きなようだけど、
ある程度(学校の先生)の知識は必要なのでは?

いちろうさん
いつも細かいところまで読んでご指摘いただいて、ありがとうございます。
>「人に迷惑をかけなれければ自分は
 どうあってもかまわない」という新
 自由主義
とありましたが、これは新自由主義ではなくて、リバタリアニズムが正しいですね。
この部分の表現は、現場での実感を踏まえて述べたものです。

>笑いで受け入れられる非常識が常識に
 なる?まさか、そんなバカな話では
 ないと思うが、正直、私の頭では理解
 不能な文章です。

 非常識が常識になるとは書いておりません。「日本の常識は世界の非常識」という言葉のように、常識と非常識が文化や立場で逆転する場合もありますが、「非常識」と思われたことが、そこまで常識的ではないことではない、そういうことがあり得る、という意味です。
 非常識でないことがすべて常識であるわけではなく、常識ではないことがすべて非常識であるわけではないですよね。
 わかりにくい表現ですみません。

cryingcrying
書き忘れがもう一つあった。

>「非常識」が笑いで受け入れられる風潮があり、この「笑える」ことの意味を考えて、場合によっては価値観を変える必要性もあるかもしれないと感じているという意味です。

これは何を言いたいのか?
笑いで受け入れられる非常識が常識になる?
まさか、そんなバカな話ではないと思うが、
正直、私の頭では理解不能な文章です。

crying
もしかしたら、真面目に応えている?
本当に困ったなぁ‥

局のディレクターの話をもとに、
台本ベースで頭がいいと言っていたものが、

>「おバカタレント」の命は、予測がつかない「珍解答」を反射的に堂々と答え、かつ、それをいじられることへの不快感を感じさせない爽快さ?「天然色」です。

になり、

>優等生的に選ばれた学級委員がその路線に疲れたときに感じる感覚に似ています。

が、

>「おバカタレント」は、場を盛り上げるムードメーカーとしては素晴らしい資質をもっていると考えられますが、その役割だけに特化した生き方は難しい・・・・それが、タレントの活動範囲の拡大(視聴率稼ぎに利用されているという見方もできるのでしょうが)からもわかる・・・という気がします。

こうなると、話が違わない?

私は、一部のおバカタレントに
「天然の人間的魅力」を感じとり、
同じようなおバカでも、嫌なのはいる。
正答率の高いタレントでも、
人として魅力のある者と、そうでない者がいる。
人としての魅力というのは、
成績の善し悪しとは離れたところに、
あるのではないですか?
そういうことを学校は分析せずに、
無視しているのですか? ‥と問うています。


尚、新説ですか?

>「人に迷惑をかけなれければ自分はどうあってもかまわない」という新自由主義の影響かもしれません

勝手なイメージに違う用語を当てるのは、
学校の先生として、正しくないんじゃないのか?

あまりにも稚拙で解釈するのにも疲れるんだけど‥

いちろうさん、コメントありがとうございます。
>伝聞のように「台本ベース」
 と書かれていたので、その
 出どこをがどこなのか?

 情報のソースは局のディレクターです(ヘキサゴンの担当ではありませんので、彼のソースまではさかのぼれません)。

>「キャラクターづくりに疲
 れた雰囲気が読みとれる」
 とあったので、先生として、
 どこをどうみてそのように
 読みとったのかを、嫌みっ
 ぽく聞いたのですか?
 
 「素」であることが最大の売りなのに、今は売れすぎて「素」であることを通すのが難しくなっているからです。
 ちょっとニュアンス的にご理解いただくのが難しいかもしれませんが、優等生的に選ばれた学級委員がその路線に疲れたときに感じる感覚に似ています。
 あくまでも私自身の感覚に基づいたコメントですから、その考えを他人におしつけるつもりはありません。

>自らの哲学に従って常識非常識
 を判断し、非常識であれば、毅
 然と対応しなきゃダメなんじゃ
 ないの?
 
 私が「非常識」を疑うといったのは、「非常識」が笑いで受け入れられる風潮があり、この「笑える」ことの意味を考えて、場合によっては価値観を変える必要性もあるかもしれないと感じているという意味です。

typhoon
この話題の最初を覚えている?

暗象からは人間的な魅力が感じられないこと。
人間的な魅力は、どこにあるのか?
ヘキサゴンのおバカタレントを例に、
魅力的な人間という方向性があるのではないか?
学校では、魅力的という部分は無視されているのか?
このようなことを問うたら、

暗象は、
・台本がベースで、頭が良い人たちだ
・あれはキャラクターで、役者だから仕方ない
・演出のコツとして、バカに見せている
このような返答をしたと記憶しています。

それに対して、
伝聞のように「台本ベース」と書かれていたので、
その出どこをがどこなのか?
「キャラクターづくりに疲れた雰囲気が読みとれる」とあったので、先生として、どこをどうみてそのように読みとったのかを、嫌みっぽく聞いたのですか?

その回答が、上の記事ですか?
私の質問に、何か答えていますか?
今回も、頓珍漢な回答ですよ。


ついでに一つ、

>当然ながら、「非常識」を疑う姿勢も同時に必要でしょう。

これは違うだろう。
自らの哲学に従って常識非常識を判断し、
非常識であれば、
毅然と対応しなきゃダメなんじゃないの?
暗象の日々の書き込みが真意であれば。
‥こんなことを書いてくるから、嘘っぽいんだよ。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より