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2008年7月

学校経営者としての5つの壁

 いちろうさんから、「学校経営者としての5つの悩み」の記事に関する批判(「なんか、違っていない?」)をいただいておりますので、ここでお答えしたいと思います。

>「学校経営についての自分の判断は正しいのだろうか」
みんなで決めればいいじゃない。営業(先生)の声を聞かずにするのか? 営業の声を年長者の経験と知識で方向性を持ってまとめれば、ほぼ失敗はないと思うのだが? どうも、暗象の文章からは、学校の先生たちに信頼関係が成り立っていないというのは読みとれる。 校長個人の責任ではなく、組織体としての責任じゃないのか?

 学校経営の判断に迷っているケースというのは、当然、「みんなで決めて済んでいること」を指すわけではなく、たとえばAという教師が提案して、4割方の教師の賛同を得ているのだが、6割は反対している。
 このようなとき、校長の力量が問われてくるわけです。
 おわかりいただけると思いますが、経営判断は、「多数決」をもとに決めるものではありません。
 6割の反対があっても、提案の内容によっては、実施に踏み切るのは校長の判断です。
 かたいことを言えば、上司である校長は部下に対して職務命令を出すことができます。この命令に違反すると教職員は法令違反で処分の対象になります。・・・でも普通は、こんな形で教育の指導は成り立ちにくい。
 校長は、その提案を実施した後、子どもがよかったと評価してくれ、子どもに力がつき、当初は反対していた教師も子どもの成長をみて「やってよかった」と思える、そういう自信や信念のようなものがあるから、実施に踏み切るわけです。
 単純な例でしたが、校長が簡単に判断できずに困るケースというのはけっこうあるものです。
>「自分の(教育長の)経営理念が校内の教師たちに伝わらない」
先生にさえ伝えられないものが校長になっているのか? 暗象的には、伝わらないのではなく、伝えらる力のない問題教師なんじゃないのか? そんなのが校長してたらダメだろう。 あれっ? それ以前に、校長じゃなく教育長なのか?

 上記のケースでは、教師の中で「うまくいきっこない」「仕事が増えるから嫌だ」「私の専門ではないからやりたくない」という考えをもつ人が反対にまわるわけです。
 「子どものためになることをしたい」という校長の希望は、どうしても教師の負担増というものに直結しがちです。
 その負担を自分の成長のためにもぜひ引き受けたい、という教師ばかりではない。
 レベルは低くなりますが、たとえば、「研究授業」をやりたくない、と駄々をこねる教師は必ずいます。
 校長が経営理念に、教師が互いに切磋琢磨しあい、よりよい授業とは何かを校内研究で追求していけるようにしたい、と考えていても、最も切磋琢磨の必要がある教師ほど、「授業を人から見られること」から逃げたがる
 研究部では「持ち回り」というルールをつくって、わがままを許さないように工夫しても、どうしても「私はできません」という人が出てくる。
 こういう教師には、とにかく結果として「成功体験」にもっていけるよう、細心の準備を怠らずにいかなければならないのですが、コミュニケーションが不足していると、うまくいきません。 
>指導に工夫を加えていっても、なかなか成果があがらない
それは「指導」とはいいません。「指」です。

 おっしゃるとおりです。
 「指導」になっていない実践が学校には非常にたくさん見られます。
 間違った(それもとても明らかなミス)漢字にも大きな花丸がついて帰ってきたりする。
 校長の苦情対応の件数を集計したデータはどこかにあるでしょうか。
 苦情の内容を整理すれば、「言いがかり系」「非常識系」のものもありますが、教師の資質・能力にかかわるものも多いのです。
 教師の指導力の向上というのは、どの時代も同じかもしれませんが大きな経営課題になっています。
>主任級の人材がいない、育たない
指導者たるもの、育たないと言うのはただの逃げです。自らの力で育てるものです。

 教師の資質・能力にかかわる課題を、現状では、異動で調整している部分があります。
 フラットな学校現場では、年配でも主任経験のない教師がいますから、若い教師に「どうしても自分が仕事をたくさん覚えておかなければならない」「いつかは自分もそういう立場にならなければならない」というプレッシャーを感じない人がいるのでしょう。
 「(主幹になっても)どうせ給料はたいして変わらないのだから、今のままでいい」という教師はどう育っていくのか。そもそも教師には「育つ」という感覚があるのか。
 この問題で頭を悩ませているのは、もちろん校長だけではありません。
>自分はこの学校のために何ができているのか
そんなことを本気で思うのなら、お辞めになるのが子どもたちのためです。

 校長はPTAとのつきあいが多いですから、「子どもにとっての校長」という視点を失いがちです。
 「この学校」の中心に「子ども」が位置していることが校長職につく大前提であることは言うまでもありません。
>これらの解決のために、その当事者(管理職)以外の人たちにできることとは何でしょうか。
なんで上の人なら助けなきゃいけないんだ?
こんな程度の、商品券を配ったり、
ゴマをすってなったような校長は、
辞めていただくのが一番の方策でしょう。
それが暗象の意見じゃなかったのか?

 子どもには担任や教職員、教師には同僚や管理職がつねにサポート可能な存在として身近にいますが、校長というのは孤独なものです(まずろさんのおっしゃるとおりです)。
 主幹職の位置づけが法令に明確になったにしろ、校長は現場と行政(そして子どもやPTA、世論も)の板挟みで、非常に厳しい状況においこまれることがありますが、学校にもエグゼクティブ・コーチングの必要性が検討されてもよいかもしれない・・・という認識をもっています。
 もちろん、自己教育力等でカバーできればよいのですが。
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学校経営者としての5つの悩み

 雑誌プレジデントの記事から、経営者が抱いている5つの悩みを学校の教育管理職にあてはめてみると、どういうことが言えるか、考えてみました。
悩み1:管理職としての能力に対する不安
 「学校経営についての自分の判断は正しいのだろうか」
 「学校経営について自信を失い、校内でも孤独感を募らせているが、その悩みを相談できる人がいない」
悩み2:組織運営に対する不安
 「自分の(教育長の)経営理念が校内の教師たちに伝わらない」
 「教師たちが主体的に動かない」
悩み3:教育の成果に関する不安
 「指導に工夫を加えていっても、なかなか成果があがらない」
悩み4:人材育成に関する悩み
 「主任級の人材がいない、育たない」
 「異動では優秀な人材が流出し、課題がある教師が入ってくるおそれがある」
悩み5:自分自身の存在意義に対する不安
 「この学校の教師たちにとって自分とは何か」
 「自分はこの学校のために何ができているのか」

 問題解決は、「問い」からスタートするので、何の不安も抱いていない管理職というのは怪しいわけですが(しかし、特に校長がまとう鎧はかなり強固なものでしょう)、これらの解決のために、その当事者(管理職)以外の人たちにできることとは何でしょうか。
 雑誌記事では、「心の軍師」と呼ぶべき存在、エグゼクティブ・コーチが必要だと説いています。
 校長にとっての「心の軍師」たり得るのは、教育界ではだれでしょうか。
 行政には「指導室長」「教育課長」という教員系の中間管理職がおり、教育長をトップとする教育委員会と現場の校長のパイプ役となっていますが、この人たちは「心の軍師」にふさわしいエグゼクティブ・コーチングのノウハウをもっているでしょうか。
 これは現場の校長に聞くしかありませんが、次のようなことを校長にできる課長は、よほど胆力と実力のある人でないと難しいかもしれません。
 コーチングのポイントは、まずは校長に「自分のなりたい姿」を明確にイメージさせる。
 次に、自分の現状はどうであるかを徹底的に認知させる。
 そして、どのようにしたらギャップを埋められるのか、対話を通してしつこく追求する。
 校長自身の長所はよく分かっているはずなので、それを最大限に引き出せるように、本人に気付かせ、やる気にさせる
 操作主義の心根は捨てて、校長の成功と成長を心から願い、自分がもっている経験や技量を惜しみなく与える(が、おしつけない)。
 校長の人材育成能力、リーダーシップ、コーチング力も、これと同じことです。
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学校の活気はどこから感じられるか?

 「学校の活気」はどのようなところから感じられるか。
 廊下での挨拶、休み時間の生徒の行動、放課後の部活動・・・さまざまありますが、職員室における教師たちの姿についてはいかがでしょう。
 研修会の講師やPTAの役員さんなど、外部の方が職員室に入ってきたとき、すぐ近くにいるのに(挨拶や要件を聞くために)席を立たない教師がいることに心当たりはないでしょうか。
 「挨拶のときは、(相手が立っていたらこちらも)席を立つ」という常識が、学校ではあまり定着していないのではないか。そんな問題提起をしている教育ブログを見かけました。 
 腰を浮かす動作が全くないために、「あっ、そのままでけっこうです。お仕事中に、失礼いたしました」というコメントを言うきっかけ自体がない。実は私もそういう経験をして、いつも違和感を感じていました。
 「いやいや、そんな常識は学校には必要ない。学校は私企業、サービス産業ではないのだから」という意見もあるのでしょうが、来校目的を知っているはずの教師たちが、座ったままでしかも無視?しているのは寂しい気持ちがあります。
 この話とは関係ありませんが、廊下で生徒が暴れ始めたとき、席を立ったのが自分一人だったという苦い経験もちらっと脳裏をかすめたりもして・・・。 
 「教室ではいつも立っているから、職員室というのは座って休むところ」という考え方の教師もいるかもしれません。
 私は、教育行政の世界に入ったときに、とにかくずっとイスに座り続けるという拷問が苦手で、電話ですむ用事でも何かと理由をつけて直接相手の方に話に行くことが多かったような気がします。
 「教師はフットワークのよさが勝負」などという言われ方が認知されているとしたら、まず職員室に外部の人が入ってきたら、近くの教師は立って挨拶をする(知り合いだったら遠くても立つ)、という習慣がほしいものですが、いかがでしょうか。
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最も不快な解釈を選ぶ権利

 いちろうさん、もう少し説明させていただきます。
 私の「自分より実力のある人間とつき合おう」という言葉を「文字通りにしか解釈できないで、記事へのコメントをやめた方もいらっしゃるので、教育の限界というのもとても理解しやすくなりました。」
という書き込みについては、まずろさんのブログへのコメント内容ともかかわりますので、少し再構成してまとめてみると、次のようになります。なお、このコメントは内田樹著「こんな日本でよかったね 構造主義的日本論」(バジリコ株式会社)の一部を参考にしています。

 普段から尊敬したり、好意を抱いていたりするAさんが書く「バカ」という言葉は何気なくやり過ごせるのに、敵意を抱いているBさんが書く「バカ」には、過敏に反応して非難する(当然と言えば当然のこと)。
 非言語的メッセージ(前後の文脈、表情、身振り、声のトーン、その人のオーラなど)が送受信できないブログでは、書き手の発信した情報は表層的な言語レベルのメッセージに限られるため、無限の誤解の可能性に開かれています
 そして、相手を批判・非難・否定したくてたまらない人々は、メッセージの受信者として、複数の解釈から自分にとって最も不快な解釈を選ぶ権利が与えられ、そのことが知的なふるまいであると見なすことができるわけです。
 さまざまな解釈が可能でも、「そうとしか考えられない」という断定的な表現がセットになっている人は立場が非常にわかりやすい
 リアルの世界でも、コミュニケーション感度の低い人たちがこの考え方に支えれ、相手を批判・非難・否定することが活発に行われ、「モンスター」扱いされても意に介さず、自分の主観を堂々とぶつけていける「開かれた社会」になっていることを危惧する人もいますが、ネット上で問題となったこととこのことは一応、切り離しておきます。
 自分自身もそんな存在ではないかと疑わなければいけないことも当然なのですが、その分析もおいておきます。
 教育活動というのは、あるいは教育に関する議論というのは、基本的な信頼関係がお互いの根底にあるかないかでその効果が大きく左右されてしまう
 これも当たり前と言えば当たり前のことなのですが、日本ではある一定期間は、
「教師は子どものことを真剣に考えて教育してくれる」
「教師は公務員であるから、法令に反するようなことをするわけはないし、法令をしっかり勉強してやるべきことはやってくれる」
・・・そして、「子どもの学力・さまざまな能力が伸びなくても、それはある程度は子どもや保護者の責任であって、どうしても補充したければ塾や家庭教師を利用すればいいのだから、教師を非難する必要はない」
・・・というような考え方が一般的でした。
 しかし、現在は
「教師は子どものことより自分の労働環境をよくすることに執着している」とか、
「教師は公務員だが不適切な行動で懲戒免職される人が後を絶たず、その資質自体が疑わしい」
「教師は学力低下を家庭の教育力のせいにして、自分の責任を果たそうとしない」
という見方も増えてきている。
 そういう不信の中で信頼を得られる教育活動をするにはどうしたらいいのか、ということを考えるとき、あえて不信感をもつような話から始めたらどうなるか、という実践事例が思いついたわけです。
 ただ本当に不信に固まった人は論を待たずに関係打ち切り。こんな失敗は現場では許されないかな・・・と。
 逆に現状で失敗が目に見えていないのは、今のところ、「否定のための解釈」ではなく、「正しい解釈」に向かって子どもが歩んでくれているんだという安堵感もある。
 ・・・こんな意味だったのですが、また余計に難しくなってしまったでしょうか。
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教育の大前提は覆るか?

 毛利衛が2007年9月4日の日本経済新聞「経済教室」で、科学者の目から経済学を批判する内容の記事(普遍性追求 新たな発想で~「合理的個人」脱却を 地動説的な視点、経済学も~)を書いています。
 

自然科学は、価値観のコペルニクス的な刷新を何度も経験している。経済学の進化が乏しいのは、個人の行動がきまぐれなのに、合理的個人の大前提を墨守しているからのように見える。人類が地球上で相対的な存在であることをかみしめ、経済学も「地動説」的な発想が必要だ。

 以上のような趣旨のことを、教育の世界にあてはまめてみるとどうなるか。
 
 教育の世界の大前提とは何か。
 その中の一つに、広い意味の学力を身に付けることがあることは言うまでもありません。
 そして、その学力の中には、テストで測定することができない「知的好奇心」のようなものが含まれていることも、異論のないことだと思います。
 さらに、子どもたちは、狭い意味でも広い意味でも、その時点での能力の格差はあるにしろ、「勉強はできないよりできる方がよい」という欲求を誰もが持っているもの、という前提がありました。
 これらの大前提が、揺らいだとき、教育はどのような進化をとげる可能性があるのでしょうか。
 これらの大前提が、「天動説」である、という考え方はできないでしょうか。

 そのヒントの一つを、毛利衛が経済学への批判として提供してくれています。

 人類が大きなエネルギーを扱うようになり、空気、水を含む地球資源の限界と人口爆発の下での経済活動に伴う地球環境の破局的な変化を具体的に予測できるほど科学が進んだ現在、従来の経済学を推し進めていく限り、我々の絶滅は早まっていくのみであろう。

 「個人の尊厳」より優先度を高く、重視すべきものはあるのか。あるとしたら何か。
 「持続可能な開発のための教育」実践などから学べることを、考えていきたいと思います。
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「ピークアウト」しない教師であるために

 成果主義への反発は、「評価者への不信」と「守りの気持ち」から生まれると言います。
 「評価者への不信」は、よほど管理職が人間として尊敬に値するか、人から好かれるタイプでないと、なかなか払拭するのは難しい。評価プロセスをオープンなものにすることで、信頼性を高める工夫ができますが、「嫌いな人」からの評価にはどうしても拒否反応が出てしまいます。
 一方、「守りの気持ち」は、「自らがピークアウトしたと、うすうす感じている場合」に現れるものです(柴田励司著『「仕事力」のある人、ない人』PHP研究所)。
 自分の実力に課題があること、その力がピークアウトしていることを、人はなかなか認めにくい。
 スポーツ選手の場合には、数字がすべてを物語るわけで、「引退」のタイミングだけの問題ですが、教師の場合は、基本的に毎年給料が上がっていってしまうのに、いつか「もう自分もこの程度どまりだな」と思っていまう時期が来る人がいる。
 学習すること、成長することへの意欲を失う人間になりがちなのは、教育現場の特殊な事情も背景にあります。
 前掲書には、次のような話が紹介されています。
 

ピークアウトは年齢的なものよりも「同じ仕事を同じ環境下で長く続けてしまう」ことで起きます。だから、「学習しなくてもなんとかなってしまう」ところに、長くいてはいけないのです。
 ・・・多くの人は慣れてくると、その「楽な環境」をエンジョイしてしまい、気がつかないうちにピークアウト状態になってしまうものです。そこに、新たなリーダーによる新しい方針が出てくると、たちまち「守り」モードに入ってしまいます。悪意なく、組織の進化の足かせになります。
 
 今は教務主任や生活指導主任などは主幹職がつくようになっているのでだれでもはできませんが、たとえば「学年主任」になったことがないベテラン教師。
 行事主任を一度もつとめたことがない教師。
 研究大会等で発表をしたことが一度もない教師。
 担任をもたない教師。
 これらの教師の中にも、リーダーのフォローを中心に重要な役割を果たしている人がいるかもしれませんが、「いつもと違う環境」で仕事をしないと、人は「守り」モードに入りやすい。
 そういう意味では「異動」は大切ですが、「異動先」でも同じようなサイクルで生活していては意味がありません。
 能力開発型の人事考課は、教師を「ピークアウト状態(学習し成長する意欲を喪失した状態)」におかないためにも大きな意義を果たすことができそうです。
 人事考課では評価も意識するのは仕方がないとしても、主眼はあくまでも自分の新たな目標設定であり、その目標の実現に向けての実践であり、成果と課題を見極めてさらに課題を修正したり新たな課題を発見するそのプロセスです。
 このプロセスを失わない限り、教師(だけとは限りませんが)に「ピークアウト」は訪れません。
 
 学校現場では、管理職のピークアウトは許されるのでしょうか。
 それが許される現場では、学校経営や人事考課がうまくいかないのは目に見えています。
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「おバカタレント」の活躍と教育の問題

 学力低下報道キャンペーンが一巡して、その問題への対応として授業時数の増加などを盛り込んだ新しい学習指導要領が告示されたタイミングと、「おバカタレント」ブームの盛り上がりが同一であることに、教育関係者である自分としてはどうしても注目せざるを得ません。

 「おバカタレント」たちは、クイズの解答者という立場から、さらに多方面へ活動範囲を広げています。

 Geogle検索で「おバカタレント」上位のページを調べてみると、

 ウィキペディアではその「元祖」から現在のタレントの特徴までよく分析された結果が示されています(「中立性を担保されていない、出典不明で正確性を欠く独自研究的な記述となっているため、修正・推敲」が求めているようですが・・・)。

 livedoor リサーチでは、このようなタレントをどう思うか?というアンケートに対しては、
興味がない」(23%)を除いた答えとして、
本当はおバカではなく、そういったキャラクターを装っているだけだと思う」(15%)、
好感は持てるが、おバカキャラなタレントがもてやはされている現状については疑問に思う」(14%)
というやや否定的な回答が上位になっているようです。

 Yahoo知恵袋では、具体的な意見や憶測が書き込みされています。
 他にも、実際に「おバカタレント」に会って話をした方が、
 「本当に会話が成り立たなくて驚いた
 「しかしこの人が意外なほど高額な報酬をもらっていることを子どもたちが知ったら、まじめに勉強する気が失せるのではないか」などとも書かれています。

 「視聴者が珍解答に優越感を感じられること」が「好感度」の最大の原因だという意見もあれば、
 「うさんくさい
 「難しい問題を答えてもすごいね、で終わるより、こいつバカだなで笑いを取るほうが受けるということでしょうかね。でもいずれは必ずマンネリ化してくる(はず)」という見解もありました。

 いずれにせよ、20%もの高視聴率を稼ぐ番組の中心的存在(司会者の力も当然必要ではありますが)である「おバカタレント」の命は、予測がつかない「珍解答」を反射的に堂々と答え、かつ、それをいじられることへの不快感を感じさせない爽快さ?「天然色」です。
 「成績優秀者」をたたえるようなクイズ番組が飽きられて、「珍解答・間違った解答」に大きな価値が与えられることへ転換したことを、教育現場ではどのように捉えればよいのか。
 
 計算してもってきたような自分の話で申し訳ありませんが、以前、「勉強に興味を持てない子を授業で生かすにはどうしたらいいか」という質問に、「どういう形でもとにかく生かすことが必要」という話から、過去の経験として、「珍解答」を最初に披露させ、いわゆるムードメーカーにしていくことが手っ取り早い、しかし、後で「いじり」「いじめ」の対象になりやすいので注意が必要、などというアドバイスをしたことがありました。
 そんな「天然色」を持ち、堂々と発言できる子どもたちばかりではないでしょう、というのも確かですが、「間違った答えでも発言する権利はあるし、他の人が考えるヒントを導く間違いというのもあるから、どんどん発言しよう」というムードをつくることは大事です。

 このようにプラスの面で捉えることもできるのですが、懸念がないわけではありません。
 それが、「学力(測定可能な学力という意味です)下層グループの釘付け効果」という問題です。

 これまでは、「学力が低い」というのは自己評価を下げる要因になっていたのが、今ではそれがプラス評価に結びつこうとしています
 「人間の価値はテストの点数で決まるものではないのだから、テストで高い点数をとれるように努力する必要はない」という発想が見られるようになってきました。

 さすがに心の中では「でも点数は高い方がいい」と感じていると思いきや、心底から「そんな必要はない」「ゲームをして楽しんでいる自分が本当の自分で、机に向かって勉強するなどという偽りの自分を演じない本当に合理的な存在だ」という自己肯定感をもっている子どもが表れている。そういう気がしてなりません。
 「人に迷惑をかけなれければ自分はどうあってもかまわない」という新自由主義の影響かもしれません。

 大人としても、「そういう生き方はいいなあ」というのは感じないでもないですが、だからといって「学習も仕事もしなくていいよね」というわけにはいきません。
 「社会的責任」の自覚がしにくくなっている子どもの存在が、今後、大きな課題として問われてくるのではないか。
 そんな危惧を抱いています。
 「おバカタレント」は、場を盛り上げるムードメーカーとしては素晴らしい資質をもっていると考えられますが、その役割だけに特化した生き方は難しい・・・・それが、タレントの活動範囲の拡大(視聴率稼ぎに利用されているという見方もできるのでしょうが)からもわかる・・・という気がします。
 
 「笑える非常識」が「笑えない非常識」に転換するときが、いつか。
 「笑える非常識」の世界から抜け出す必要を感じるタイミング、実際に抜け出すタイミングは、いつか。
 ・・・もちろん「常識を疑う」姿勢も大事です。しかし、当然ながら、「非常識」を疑う姿勢も同時に必要でしょう。
 メディアの世界との駆け引きが、教育の世界には強く求められていると考えています。
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常識的な学力観と下層釘付けの論理

 一ヶ月ぶりの「休日」がようやくとれました。
 いちろうさん、コメントありがとうございます。
 「常識的な学力観」を再確認しておきたいと思います。

>暗象さんの「学力」は「テスト」で
 計れるのか?
 このあたりが、他の人たちの主張と
 異なるのでは?

 学力には、テストで測定が可能な部分と、テストでは測定が難しい部分があります。
 学力に関する国際調査では、テストで測定が可能な部分の学力低下と、テストでは測定できない部分である「学習意欲」の低下の両方がデータとして表れたので、危機感が高まったわけです。
 テストで測定できる学力というのは、客観的な数字で表せるため、入学選抜などの公平性を求められる場で活用されることになります。
 学校のカリキュラムは、塾などとは異なって、「テストで測定できる学力」の育成に全面的に注力しているわけではないことは明らかであり、ほとんどの教師は(私も含めて、自分自身のある程度のコンプレックスも抱えながら)「点数がすべてではない」ことをよく実感しながら指導していると思われます。
 しかし、テストで測定できる学力を向上させたいという欲求は、かつてはどの子どもにも現実的にはあった(今でも多くの子どもはそれを望んでいる)と思われます。
 私が行った問題提起は、かつては「テストで測定できる部分の学力が低いこと」は自己評価を下げる要因であったものが、逆に「合理的な生き方をしている自分」というプラス評価の材料に転化し、それが将来の働く意欲の低下などにつながっているのではないかということです。
>しかも、
 「だから、テストの点数を上げる
 必要はない・」
 と続くのを逆読みしたら‥。
 人間の価値はテストの点数だ
 から、テストの点数を上げる
 ことに尽力しろとも読める。
 この思想は、正しいのか?

 人間の価値はテストの点数で決まるものではありませんが、テストの点数と全く無関係であるわけではありません。
 資格試験や採用試験にはその前提が当然必要になっています。
 (当然それらの試験も、ペーパーだけを重視するものではないことは明らかです)
 テストの点数を上げることに価値を見出すニーズがあるから、塾や予備校といった教育産業が成り立っているわけです。
 私自身もそうですし、私が接してきたほとんどの保護者は「テストの点数より人間性を高めてほしい」と願っていることを口にする一方で、「でもテストの点も高くなってほしい」と心の中では感じている。
 私は、「でもテストの点も高くなってほしい」という気持ちが保護者や子どもから失われつつあることに危惧を抱いているわけです。
>上からのものを
 垂れ流していると書いたら
 反論していたが、そのことと、
 テストの点数至上主義は
 並立するのか?

 繰り返しになりますが、私は「テストの点数至上主義」を説いたことは一度もありません。
 行政が進めている学力調査も、あくまでも「テストで測定できる学力の調査」であり、質問紙調査などとセットにして教育環境の実態把握をするようにつとめています。
 そこで浮かび上がってきたのが、「テストの点数では人間の価値は測定できないのだから、点数を上げる必要はない」という考え方の人(子どもも含めて)が増えてきていることでした。
 マスコミは、テストで測定できる学力の低下や格差の拡大を大きなテーマとして取り上げていますが、私が問題としているのは上述のことです。
>私は歴史好きだが、子どもの教科書
 を見ると、つまらない。とりあげて
 いる事柄がどのように決められて
 いるのか、誰が決めたのか‥。
 そう考えると、暗象さんが何の
 教科を教えているのか知らない
 が、自ら教科書やテストを作成し、
 主体性を持ってやっているのか

 教科書は学習指導要領に準拠して作成されます。
 歴史の教科書の場合は、ご存じのように現在の政治的な要請も入り込んできるものではあります。
 どのように授業を構成し、テスト問題を作るかということについては、コンピテンシーの記事の中でふれてきました。
 「わたくしども空間」とも重なる部分がある「下層釘付けの論理」は、教師の世界にも流れているものであり、その危険性を今後も考えていきたいと思います。
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常識を教える毅然とした指導

 常識とは何かを、いちろうさんからのコメントをもとに、少し考えたいと思います。
 なお、いちろうさんがコメント中で「暗象さん」と呼んでいるのは、私のことです。
 太文字は、私のコメントです。

内容によっては非常識が常識に移り変わっていくのも時間の問題かも知れません。

>暗象さんの思考のベースが間違っていると思う。  昔からあるものや、上の人が言うことを、  無条件に受け入れて、下へ流そうという思考。  「内容によっては非常識が常識に」とありますが、  暗象さんの考えている「常識」が、  人としての常識なのかどうか疑うことをしないの?  実は、これまで常識と思っていたことが、  非常識だったのかもしれませんよ。
 このブログで私の「上の人」から言われたことを記事にしたことはほとんどありません。  また、私には「」も存在しません。  なお、教育公務員という立場を明示して述べておりますので、法令遵守という原則に従っております。  ただ、学習指導要領などの問題点については指摘をさせていただいております。   「無条件に受け入れて」いるなら、まだましなのでしょうか?  さまざまな情報については、そのままを提示するのではなく、必ず自分なりの考えを添えながら述べておりますので、そこで引っかかりが生じるのではないでしょうか。  私が「常識」と呼んでいるのは、「私の考えていること」ではなくて、多くの人が必要だと捉えている一般的な知識や知見のことです。
>先のコメントで引用した部分もそうですが、  日本に昔から言われている「常識」のベースは、  封建道徳によるものが多くあり、  平等社会に合わないものが見られます。  すべての人の人権を尊重する社会として、  求めていることが「常識」か「非常識」かを  考えずに、  他人に強制(教育)することに怖さを感じませんか?
 お年寄りに席を譲る、贈り物をいただいたら御礼をいう、挨拶されたらこちらも挨拶する、などは疑いようのない常識ですが、それができない人がいます。  「すべてのことに優先し、自分の欲望を果たす主義」から、人は非常識な行動に出る場合があります。  そういう人に対しては、いちろうさんがおっしゃるように「すべての人の人権を尊重する社会」の一員として、とるべき行動を「常識」として教えることは、教育(家庭、学校、社会)の役割だと考えています。

>「礼儀」のあり方もずい分変化しそうですね。

>同様に、  礼儀の本質は何かを考えるべきでは?  相手に応じて態度を変えることを強制する  そういう礼儀って、何だろう‥と。
 「強制」という表現は強すぎると思いますが、やはり相手と同様に、TPOに応じた態度を教えることは大事です。  映画館で次のシーンの種明かしを大声でしゃべっている子どもがいましたが、親はにこにこ笑っているだけ。  一言注意せざるを得ません。  相手が何をしているか、どういう状況にあるか、などを考えて働きかけの仕方を考えるのは、「すべての人の人権を尊重する」ために欠かせないことです。

>「常識」というのは自らが描いているものではなくて、多くの人やその世界の関係者が持っているべき当たり前の知識や知見のことですが、「べき論」を嫌う方とは、一つ一つの事例について丁寧に議論していくしかないのかもしれません。

>全然わかっていない。
 会社役員に対しても、派遣社員に対しても、
 同じ“人として尊重”する姿勢が大事。
 でも、日本社会の「常識」や「礼節」は、
 それを“違う人”として扱うことを求めている。
 それは、これからの「非常識」じゃないのか?
 そういう意味なんだけど?

 木端役人や中間管理職的な思考を捨て、
 人としてこうあるべきだ‥という
 スタンスを確立していないから、
 人間味が感じられないんだよなぁ〜。


 いちろうさんが・・(略)・・とされた部分が大切なところだったので、補足して示しました。
 「AはBすべき」「AはBであるべき」、と断定的に人に示すと、不快になる方もいるでしょう。
 「AはBすべき」「AはBであるべき」が、疑いようのない「常識」だった場合には、余計に不快になるかもしれません。
 電車内で大音量で音楽を聴いている人を注意した人が、逆ギレされた場面を何度か見たことがあります。
 「早く宿題をやりなさい」と言われて子どもがやる気をなくすのは、そうしなければならないことがわかっているからでしょう。
 
 問題行動をおこした生徒に指導する場面では、教師は「人を尊重できる人」にまだなっていない人(「違う人」)だから、「人を尊重できる人」(同じ人)になってほしいという願いを込めて指導するわけです。
 
 「人として尊重する態度」とは、「ああ、大きな音で音楽を聴くのは楽しいよね・・・」という共感を持ちながらも、「しかしそれは今ここでしていいことではないよね。」という毅然とした姿勢で諭すことで示すことができます。

 いちろうさんは、「常識」をもたない人、「常識」から「自由」な人と「常識」をもたせようとする人の対立・緊張関係、上下の関係を指摘されているのでしょうが、私の場合は、相手の人(子どもたち)が「将来、人として尊重されないリスク」を軽減するためにおこす自分の行動が、ある程度の緊張関係を生むことは避けられないと思っておりますし、あえてその場面で自分が「人として尊重されないリスク」をとらなければならないケースも過去にたくさんあったと記憶しています。
 廊下でしゃがんで通行を妨害している生徒に、何も声をかけられずに通り過ぎてしまう教師がいます。
 残念なことです。
 子どもをキレさせないようにびくびくしながらわざと優しそうな声をかける教師もいます。
 子どもが軽蔑のまなざしを向けるのを見るのは嫌なものです。
 こういう生徒の中には、注意すると「ウザイな」と言いながらもうれしそうな表情をする子どももいます。
 わかっていることを注意されることが、不快になったり満足感をもてたりもする。
 また、人に迷惑をかけていること、人から信頼されないことをしているのが、全く分からない子どももいる。
 さらに、人に迷惑をかけ、信頼されなくても、自分の好きなように生きていくのが最優先だという子どももいる。
 私は、このような子どもがやがて誤った「自己責任」論で見捨てられていくことに耐えられないので、毅然として「常識」を教える指導をします。
 ブログの世界でも私が同じような態度をとっている部分があることが、いちろうさんには不愉快で仕方がないのかもしれませんが、それでも記事をお読みになってコメントをくださることはありがたいことです。
 いちろうさんも私と同じ使命感をお持ちだからでしょうか。
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学習意欲低下に拍車をかけている?言葉

 「人間の価値は学校のテストなんかの点数ではかることはできない
 という言葉に対して、否定的な印象を受ける人は少数派でしょう。
 しかし、もしこのような言葉が、学力の低下に拍車をかけているとしたら、どう思われるでしょうか。
 教育社会学者は、「自らの学力の不足に対して、無意味な努力をしないという合理的な判断をしている自分への満足感の根拠としている子どもたち」の増加を統計データで示しています。
 人間の価値は学校のテストなんかの点数ではかることはできない・・・だから、テストの点数を上げる必要はない・・・このような思考回路が、おそらくは「努力してもできるようにならない」「努力したくない」と思っている子どもたちの心を安定化させる装置になっており、それはいずれ「うまく働くことができない若者たち」へと「成長」していく背景にもなっているのではないでしょうか。

 昔から、「先生は、勉強ができない子どもの気持ちがわかるんですか?」という言葉がよく使われています。
 この発想は、現代的に言えば、「格差社会の本質と構造についての洞察は、格差社会の最底辺にいる人間がもっとも深い」というロジックと同じ(内田樹著『こんな日本でよかったね~構造主義的日本論~』バジリコ株式会社)です。

 「お前は格差社会の実情を知らないが、私は知っている」という「知的優越」のポジションを検証抜きで前提にしている。

 学力の課題や格差社会への批判的な態度は、下位にとどまっていることで担保されるため、学力向上、階層の上昇のチャンスを自ら手放してしまっていることになります。
 もし教師が、「勉強ができない子どもの気持ち(私には、「勉強ができるようになりたい!」という強い叫びに聞こえてしまいますが)」を読み誤り、できる方へと勇気づける指導ができずに、「他のことでがんばればよい」というだけの態度をとれば、学習意欲の低下に拍車がかかってしまう、こんな仮説を立ててみましたが、いかがでしょうか。
 もしもこの仮説に共感されるような方がいらっしゃいましたら、以下のいずれかをクリックして下さい。
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非常識な人が生まれる原因

 さまざまな職場で「常識が通用しなくなった」「非常識な人が増えた」という声がよく聞かれます。
 教育の現場では、もともと常識がない(机上整理をしないなど)部分もありますが、子どもや保護者の非常識さの陰に隠れて、教師の非常識さが目立たないという問題も大きい。
 子どもや保護者には遅れがちな提出物の催促をする一方で、自分の事務処理は遅い・・・(いつまでたっても指導要録に手をつけないなど)。
 ジャージにリュックサックという出で立ちで通勤するくらいなら問題はない?のかもしれませんが、学校に入って一番感じるのが、「挨拶ができない」「挨拶をしない」ことでしょうか。
 民間企業より、新人教育などで弱い面が、そのあたりに顕著に表れてくるのでしょう。

 ・・・さて、ここでは教育の世界を少し離れて、ノンフィクション作家の野村進が著書「調べる技術・書く技術」(講談社現代新書)で紹介している「若い世代に受け継がれていないのではないか」と危惧を覚える取材と執筆のルールとその常識をとりあげてみたいと思います。

 ~取材編~
○インタビューを申し込んでおきながら遅刻する。
○取材前の資料読みをきちんとこなしてきた形跡がない。
○無断でいきなり録音機器のスイッチを入れる。
○貸した資料をなかなか返却しない(ひどいのになると紛失する)。
○こちらが発言していない事柄を会話体で記す。
○すでに公表されている事実を、そも自分が発見したかのように書く。
○掲載紙誌を送ってこない。

 ~編集者編~
○原稿を送付したのに何の連絡もしてこない。

 子どもたちのネット上でのコミュニティーでは同じようなマナー・ルール違反がおこり、トラブルの原因になっているな・・・と思い当たるものもいくつかありました。
 相手を尊重する念というか、時間をさいてもらって申し訳ない、という気持ちが、「その分の報酬を払ってるんだからいいだろう」という考え方によって、相手に伝わらない、そういうことでしょうか。
 それとも、自分の思い通りに相手が反応するのが当たり前、という思考回路をもっているのは、ゲーム世代の影響でしょうか。
 幸い私は、仕事をしやすい編集者の方々ばかりとしかおつきあいしていませんが、中には依頼状だけ送ってきて、「何卒」などとある紙だけで書かせようとする殿様商売の出版社もあります。
 他にいくらでも書ける人がいるので当然全部断ってしまいます。

民間企業と公立学校の人事考課の違い

 いちろうさんからのコメントには、
 コメント欄ではリンクがはれないので、こちらでお答えします。

>何が「生きる力」なのかわからないけど、
 私の主張は「生きる力」に合致していないのか?
 「こうあるべき」という指導(?)の積重ねで、
 価値観が狭められるというか、
 半ば多様性を否定するような指導で、
 「生きる力」がつくのか?
 というより、それが本当に「生きる力」なのか?

 ウィキペディアにも「生きる力」は登場しておりますが、初出は1996年の中教審第一次答申です。
 今の文科省のHPはこちらをご参照ください。
 →http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/idea/index.htm

>「普通の社員」の資質・能力も同時に問われています。
 人事評価制度の失敗原因一つにあげられています。
 チームで目標達成のエネルギーが薄れる中で、
 部課としての業績が低下してくる原因を、
 特定個人に求めるようになると‥。
 学校って、人を排除するところなのか?
 人を育てるところじゃないのか?
 育たないのは、自己責任なのか?
 暗象は、本当に人を育てることができるのか?

 私は人事考課を行う立場ではありませんが、実施するとしたらどうする、という方策をこのHPでご紹介しております。
 能力開発型の人事考課というのは、まず教師が自己の目標を設定するところからはじまります。
 役割の明確化ですね。
 それから、管理職から「果たしてほしい役割」「果たすべき役割」についての指導助言をもらって、「チーム力」が発揮しやすくなるようにします。
 主任レベルだと、分掌や学年の組織的指導力を高める、などの目標を設定します。
 指導力の低い教師を放置しておくと、自分の目標が達成できなくなり、自分の評価が下がります。
 当然、指導力の低い教師をどう育成するかも方策に含まれるようになります。
 学校は、人を排除したり、育てないようにする目標が設定しにくいところです。

>評価を与えることが資質や能力の向上につながる?
 木端役人だからしょうがないんだろうけど、
 導入の目的が、リストラとコスト削減であり、
 その口実が人事評価なんだから、
 どれだけきれい事を言っても、
 結果は目的につながるんじゃないの?
 会社は、社員に投資しなかったことが、
 人事評価の失敗の原因として、改めつつあるよ。
 今の公務員は、そういう状況じゃないだろうに‥
 
 繰り返しますが、民間企業の人事考課と学校のそれとは異なります。
 評価を与えることが資質・能力の向上につながるわけでなく、目標を設定し、実現への方策を考え、時には(教科指導など)個人の力量を最大限に発揮し、時には(生活指導など)組織力を発揮して、目標の達成・実現に努める。その結果、どのような成果が出たか、出なかったかを評価する、そして改善策を新たに練る、・・・以上のことのサイクルによって教育実践の質を高め、子どもを成長させつつ、自己の指導力も向上させる。
 これが能力開発型の人事考課制度のねらいです。
 評価とは結局、子どもへの教育活動がどれほど充実したものになったかが問われるわけです。
 ある一定レベルまでは「点数主義」という批判を受けやすい指標が基準になってしまう(同じ能力の集団で、A先生は全員の評定が3か4になるのに対し、B先生は全員が2か3、では困るからです)かもしれませんが、だんだん数値化が難しい個々の発達や到達度への満足感・成就感といったものも評価材料に入ってきます。

 なお、極端な指導力不足教員の配置転換には、本人の十分な納得が必要であり、人事考課はそのデータを客観的に示すものとして大事なのですが、この意味での対象者はごくごくわずかです。
 コスト面等については、公務員ですから、年数さえ重ねればよほどのことがない限り能力が高くなくても自動的に昇給してしまう今の制度をやめ、能力給にしてしまうほどの改革はできません。
 「じゃあ、何のためにやるの?」と聞かれたら、資質・能力の向上のため=子どもへの教育実践を充実させ、成果を高めるためであるというのが答えになります。
  
 以下の記事もご参照下さい。
 日本の教師式「チームワーク」の落とし穴

 教師の「後輩の育て方」とは?

>お馬鹿タレントを見ていて、何か感じることはない?

 基本的には台本がベースになっているようですが、相当に頭がよくないと、演技がわざとらしすぎて放送向きにならなくなりますね。
 キャラクターづくりに疲れた雰囲気が読み取れますが、役者だから仕方がありません。
 視聴者受けする演出のコツは「本物のお馬鹿に見せる」ことでしょう。
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子ども・教師の役割意識について

 「いずれ記事にしたい」と申し上げていたことが、最近参加した授業研究のテーマに関連していたので、ここにまとめようと思います。
 授業では、徳川家康の命令によって、外様大名が江戸城の増築に必要な巨石を運ぶのですが、競い合うように船で運び込もうとしている、これはなぜか、ということがテーマになっていました。
 同時に、「社会科好きの子どもをどう育てるか」ということも主題になっていました。
 授業中に、熱心に発表する子どももいれば、それを聞いているだけの子どももいます。
 私の見方では、熱心に石を運ぶ大名も、発表しようとする子どもも、似たようなねらい、理由があるわけです。
 それは、家康や先生に気に入られる、ということもあるでしょうが、大事なのは「能力に応じた仕事をする」という意思がある、ということです。

 「仕事の報酬」とは何か、と聞いたら、子どもなら何と答えるでしょう。
 大人になってからのことではなく、今の自分の場合です。
 当然、「お金」ではありません。
 では、「先生からの評価」か。「ほめられること」か。
 私は、子どもたちに対して、「仕事(=授業なら、学習活動)の報酬は、能力の向上、作品、自分の成長の3つだ」と教えたい(実感してもらいたい)と常々考えています(田坂広志の本の受け売りですが)。
 大人になると、仕事をすればお金がもらえるので、お金を報酬と考えるのが普通になってしまいます(人事考課もそこがネックです)が、その問題点についてはここではふれません。
 その邪魔が、子ども時代にはない(お小遣いを増やしたり、ご褒美を買ってあげたりしてしまう邪魔は入りますが)。そこを生かして、ぜひ自分の成長自体を「ご褒美」と感じられる経験を持たせてあげたいのです。
 
 話を戻すと、外様大名たちは、石高に応じた加役を果たすために石を運ぶのですが、その石が、それぞれの藩の「作品」=仕事として残るわけです。メンツの問題もあります。
 ここが、我先に、と発言したがる子どもによく似ています。
 輸送・運搬能力や築城技術の向上というねらい、大坂城より大きな城をつくるという幕府の「権威」を示すねらい、軍令違反に改易などで対処し、法令遵守を徹底したいというねらい、外様大名の経済力をそぐことなど、幕府側の目的も果たされる一方で、大名は大名なりに一生懸命はたらく。
 このことを、「役(やく)」という観念に注目して近世社会の特色として示したのが尾藤正英でした(「江戸時代とはなにか」(岩波現代文庫)参照)。
 「」は、「労役」「苦役」のように、「エキ」として読む用法がありますが、「ヤク」と読む場合は、社会の中で個人が担当する役割と、その役割にともなう責任とを合わせた意味として用います。
 「石高に応じた加役」の「加役」は、「カエキ」ではなく「カヤク」と読みます。 

 ・・・石高は、武士にとっては軍事上・行政上の「役」を負担するために必要な経済的基礎の量を、また農民にとっては貢租と夫役という「役」の負担の量を、それぞれ算出するための数量的な基準であり、しかもそれは全国に統一的に設定されたという意味で、国家的な基準であっといえる。(前述の書より)

 尾藤正英は、「役」の体系としての社会の組織を作り上げることによって、270年近くの平和の持続を可能にしたという説を述べています。
 
 子どもたちが、「ここからここまで次の時間までに読んでおきなさい」と教師から指示を受けたとします。
 これを、「役(ヤク)」と捉えるか、「役(エキ)」と捉えるかが、学習が好きになっているかどうかの違いになります。
 ヤクと捉えている子どもは、しっかり予習し、授業では、学んだことを生かして発言するという役割が果たせます。
 エキと捉えている子どもも、読んでくれば質問には対応できるでしょうが、やはり苦痛な課題になってしまっているのでしょう。
 子どもだけでなく、このようなことは教師や保護者にもあてはまります。
 ヤクなのか、エキなのか。
 教師の役割とは何か? 保護者では?
 私の危惧は、それぞれの「役割意識」がおろそかになってはいないか、ということです。
 「社会科好きの子どもを育てる」には、授業中、発言する機会のない、本当に興味もわかない子どもを放っておくのではなく、何らかの「役割」を与えていくべきだと私は考えています。
 「とぼけたことを言ってみんなを笑わせること」が役割だと割り切っている子どももいます。それはそれでいいのでしょう。
 「だまっておとなしくして(耐えて?)いれば無事に(?)授業が終わる」ような環境はつくるべきではありません。
 子どもにとっては、学習をして能力を高めることが社会の中で果たすべき役割である。
 その報酬は、自らの成長である。
 そういうことを堂々と言える環境を広げていきたいと考えています。
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教師と保護者の意識格差の拡大

 みなさんからのコメントへのご回答が遅くなり、申し訳ございません。

 いちろうさんのコメントから、改めて現行の学習指導要領をはじめ、国の教育政策の趣旨がほとんど保護者に伝わらない(教師にさえ伝わっていないことを何度も記事にしてきてもおりますが)ほど、学校の指導の実態や情報公開の遅れが深刻であることが実感できました。

>細かな「こうあるべき」の積み重ねで、
 価値観まで狭められ、
 画一的な人間をつくってきた成果だと思う。
 テストの点をとることに価値を置きすぎ、
 直接点数に結びつかないものを無駄と言い続けた結果、
 他へ向かうべき興味が抑えられ、
 結局、テストのための勉強と、安易な娯楽(ゲーム)
 だけの人間をつくっているのでは?

 このご意見をお読みになった保護者の中には、「テストのための勉強だけでもしてくれればいいのに!」「いつまで部活命が続くのかしら?」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。
 平成10年版からの「生きる力」の意味自体が、きっとほとんど浸透していないのでしょう。
 
>中小企業の場合は、
 人事考課がうまくいっている例が多い。
 ただ、学校に適用するには、
 そこまで共同体として育っているのか?
 他の学校との整合性は?
 という観点が加わり、大企業と同じ失敗をしそう。
 という危惧です。

 しょうさんとのやりとりも含めて、人事考課制度については過去の記事を参考にしていただきたいのですが、裁判への対応という意味も含め、自治体ごとにかなり客観的な基準で評価は行われます。公立学校は中小企業のようなもので、かつそれぞれの教師の力は見えやすいですから、評価そのものは困難ではありません。問題は、「教師の力」とは何かについて、共通認識がもてるかどうかです。
 学校の場合は、年収800万円を超えるベテランも、その半分以下の若手もほとんど同じ業務をしている(若手の方がよく働いている場合もある)特殊な職場なわけで、企業の人事考課とは全く別物だとお考え下さい。
 当然、800万円の方が昇給停止になって「くさって」しまい、ますます若手に仕事がたくさんまわってくるのは防がなければならないのですが、その方が子どものためになるという場合もあるので、難しいところです。
 学校の人事考課は「能力開発型」であることが最大のウリですから、それを実現させるための方策は絶対に必要です。
 
>特殊な例を基準にきまりをつくると、
 息苦しい社会になるというのは、歴史の常識です。
 特殊な社員を制御するためのきまりは、
 時として、普通の社員の自由をうばいます。
 そういう視点がありますか?

 学校には、必ず「特殊な社員」はいるものですが、「普通の社員」の資質・能力も同時に問われています。

 「社員の自由」とは、創意工夫とか、創造性とかいう話でしょうか。
 今のところ、お金がかかることを除けば、学校ほど創意工夫ができる場所は他にないと思います。

>さらに、
 自らの過保護(自己満足)の口実を、
 親に求めていませんか?
 「この子は何もできなくて‥」と、
 あらゆることをしてあげて、
 結局、自分では何もできない子どもにしている‥
 そういう親と同じ思考回路じゃないですか?

 今は、だれだれの役割はどこからどこまで、と明確に線引きできるような社会ではなくなっています。
 「親ができない部分」を教師が肩代わりし続け、それがパンク寸前かすでにパンクしている状態にある学校がある一方で、「教師ができない部分」を地域や保護者が肩代わりしているケースもあります。

 学校から危険をなくすことが「自己満足」であるという主張が、子どもの安全を考えず、少しでも仕事を減らしたいという教師から出るなら理解できますが、保護者という立場である方から発せられるのはとても意外なことです。

>専門家ではないので何とも言えないが、
 頭の中でシュミレーションをすると、
 暗象さんより、すずめさんの方が“魅力を感じる”
 という程度のこと。
 一連の騒動で読み返して感じたのは、
 人としての“魅力”を削る方向の
 コメントじゃないのか‥ということ。

 人としての魅力とは何でしょうか。
 上から目線を感じさせないこと。
 誠意があること。
 弱みをみせること。
 ・・・人によって感じ方はさまざまであると思われます。
 「教師としての魅力とは何か」というテーマに過去の記事でふれたことがありますが、この点についてはもう少し考えてみたいと思います。
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届きにくい保護者へのメッセージ

 いちろうさん、ご回答、ご意見ありがとうございます。

>そういう(事故防止の)管理の手法が、
 空き地や小川から子どもたちを遠ざけ、
 そのために失われているものが多くないですか?
 ‥ということ。

 私の住んでいる都市ではかなり前から空き地も小川もなくなっているので、そういう自然体験は間違いなく今の子どもたちからは失われていますね。
 もう親も自然体験の少ない世代になっています。
 
 子どもの数が多かった頃は地域の「子ども会」がさかんで、私も毎年キャンプに行っていました。
 私の父親は、自分の子どもの面倒よりも他人のお子さんの面倒をよく見ていました。

>完全に大人の管理下に置かれ、それを自然体験と称していいものかどうか。
 すでに半ば疑似体験になっているのに、
 いっそバーチャルにした方が安全ではないのか?
 暗象さんの進める管理主義の徹底の結果(到達点)が、
 良いものとは思えない。

 「平成17年度青少年の自然活動体験等に関する実態調査報告」(調査対象は小学2,4年生と中学2年生)によれば、平成10年と平成17年を比べると、「チョウやトンボ、バッタなどの昆虫をつかまえたことがほとんどない」が18.7%から34.9%へ増加、「太陽が昇るところや沈むところを見たことがほとんどない」が33.6%から43.1%、「キャンプをしたことがほとんどない」が38.2%から52.8%になっています。
 「生きる力」の育成を目指した学習指導要領が告示されてからの期間も見ても、この変化です。
 事故の危険性が低い自然体験等について見てもこの通りの結果です。
 
 「海や川で泳いだことがほとんどない」は9.8%から26.0%に増加しています。
 これらの数字の変化は、「管理主義の徹底の成果」なのでしょうか。
 
>人事考課の問題
 厚生労働省でさえ否定しているし、
 大企業はほとんど失敗しているのに勧めているの?

 失敗しないですむ方法については、記事でご紹介しています。

>先生たちの社会はわからないことが多いけど、
 商品券をあげて校長になった人に、
 評価されるって、どういうこと?
 商品券で先生になった人だから、それでいいのか?

 人事考課は具体的な評価基準に基づき、実績等を根拠に行うもので、かつ面接による情報交換もありますので、恣意的な評価を行えばそれが証拠として残ってしまいます。
 人事考課の仕組みについては、記事でご紹介しています。

>素朴に、
 先生には、自らの良心と哲学に基づいて、
 人として接して欲しいと思うのは、
 チーム(集団)としては成り立たない論理なのか?

 成り立ちます。コンピテンシーのところでご紹介しています。 

>長々とした記事を読んで思うのは、
 管理されたロボット的な先生像で、
 人間的な幅が狭められていく気がします。

 この件についても、コンピテンシーのところでご紹介しています。
 実際の指導でそのような教員しか養成できない大学、育成できない学校や管理職等、自己教育力をもたない教師は、もちろん高い評価を受けることはないでしょう。

>そのうち、
 人と触れ合う体験が不足しているので、
 夏休みには、人が集まるところへ出かけて、
 いろんな人と触れ合う体験をしましょう‥ってなる?
 あ、老人ホームや保育園へ行くのの延長か。
 職場体験と称してやっているのもあるな。

 学校がこのような体験活動を取り入れているのは、核家族化や家庭の教育力の低下等が背景にあります。
 学校は、こんなことまで家庭によびかける時代になってしまいました。
 「そんなことは文部科学省がやらなくてもよい」とお考えの人も多いかもしれませんが、本当に何もしない親が増えているんですね。

 文部科学省の小冊子「生きる力」より

 みなさんの家庭ではいかがですか?
□学校での出来事について子どもと話をしている
□「おはよう」「ただいま」「おやすみ」などのあいさつをしている
□早寝早起きを心掛けている
□子どもは毎日朝食を食べている
□子どもが手伝う家事の分担を決めている
□テレビやゲームの時間にルールを決めている
□家で読書や勉強する時間をとっている
□子どもと一緒に地域の活動に参加したことがある
 
 ただの呼びかけなので、家庭によっては実効性が薄い(まず冊子を読まれなければ何も始まりません)施策ですが、「恥の文化」がよみがえり、「役割意識」が復活すれば、子どもたちは「恥」を知り、役割意識がもてる人間に家庭教育によって育てられることになるでしょう。

 私自身は「管理主義」という言葉を使いませんが、人事管理や経営管理の目標には、いちろうさんがおっしゃるような「魅力のある教師」の育成も含んでおります。
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子どもの安全管理と教師の人事管理

 いちろうさん、コメントありがとうございます。

>管理には際限がないよ。
>どこまで管理できるかが問題じゃなくて、
>どこまで子どもの判断に委ねるかが問題じゃないの?

 私のブログで「管理」について展開している考えは、教師を対象とした人事管理経営管理の問題が中心です。
 たとえば転落死亡事故は、本人の過失責任自己責任)、保護者の責任もあるという考え方があるのはわかりますが、屋上への立ち入り禁止措置防護柵その場の指導等によって防ぐことができたであろう事故です。
 「なぜ事故を防ぐことができなかったのか
 そういう事故が起こった直後に、
 「なぜ子どもや保護者の責任を問うような態度、かつ教師をかばうような態度を教師がとるのか
という疑問が問題提起のスタートでした。
 具体的には触れることができませんが、過去に同じようなケースで子どもが重度の障害を抱えてしまったり、大けがを負ったり、他人に大けがを負わせてしまったのを見たり体験したりしているので、行政や学校、教師が果たすべき責任とは何か、ということは常に考えておりました。
 また、すずめ先生とは以前に人事考課の問題について見解が対立していた経緯があり、「評価は同僚性をくずす」というすずめ先生の主張に対し、私には「同僚性を高めるというのも評価規準の一つである」という主張があって、「同僚性」を「逃げ」のために使おうとする姿勢への疑問もありました。
 目標管理ができない教師たちのために、苦しんでいた子どもたちがどれだけいたことか。
 「子どものため」のいいながら、本当に自分本位の教育・・・「やっとけ系」「(気に入った生徒、部活の生徒だけを)かわいがる」「“普通”の生徒、優秀な生徒は放っておいて、問題行動を繰り返す生徒だけを相手にする」「親が悪いから仕方がないと諦める」などの教師を見てきた経験から、責任逃れと取られるような言動には非常に敏感になってしまっているのです。
 学校は、安全で安心に活動ができる場でなければなりません。
 きっと、転落事件がおこったとき、「自分の子どももあんなことをしそう」と思った保護者は少なからずいたのではないでしょうか。でも、「実際に落っこちて死んでしまったら、本人の責任だからあきらめよう」なんてことを思う親はいないはずです。
 ところで、「自己責任」論というのは、あらゆるケースに適用してしまうと、非常に危険なものです。
 イラク人質事件が起こったときなどは、日本中がマスコミを通して「自業自得」「自己責任」という言葉に触れることになり、「なるほどその通りだ」という印象をもった方が多かったのではないかと思います。
 政府から退避勧告の出ている危険地帯ではあるが、人質となった民間人は個人の自由意思で出かけていったのであり、それなりの覚悟はできていたはずだ、という考え方です。
 しかし、もし、個人が自由な意思で行動した場合の結果責任はすべて個人が負うべきだというような単純な論理を教師や学校側がとったとしたら、それは自己免責のための予防線にしか見えませんし、教師や学校の役割とは何かという説明がつかなくなってしまいます。
 いちろうさんが「子どもの判断に委ねる」とおっしゃるケースが、どのような教育活動を想定されたものかよくわかりませんが、子どもの判断に委ねることを教師が決定したら、その責任は子どもだけでなく、教師も負っていくことは当然のことです。

>なんで休日に子どもの姿が見えないのかが不思議。
>ここ10数年、公園で遊ぶ子どもたちが激減した。
>活き活きした子どもが子どもが減っているのは、
>イメージだけじゃない気がする。

 いちろうさんのご家庭にも、文部科学省が子どもを通して配付した「生きる力」という小冊子がございますでしょうか。そこには、学校外での一日の過ごし方の課題、自然体験の機会の不足、体力・運動能力の低下がデータとして示されています。
 データが証明していることは確かにあります。 

>ここのブログを読んでいて、
>ここで描かれる学校環境の中に、
>自分を子どもとして置くと‥
>依存的で小さな楽しみの中に身を置く人間になりそうです。
>自身の子どもの頃は、夢があった気がします。
>非現実的な様々な夢、様々な興味があった。
>でも、夢を現実世界へ引きずり下ろし、
>大人の手のうちでウダウダしていることが、
>子どもの役割になっているような学校像が浮かびます。
>卒業するまでの子どもじゃなく、
>子どもが大人になり、年老いて死んでいくまでの、
>そういうスパンで教育を考えられないか?
>そう考えたら、
>学校の中でしか通用しない管理主義は、
>ただの自己満足のためだと思えるんじゃないのか?

 いちろうさんは、教師を対象とした人事管理、経営管理の問題と教師が子どもに対して行う指導や管理を混同されてはいませんか。
 混同されていらっしゃるとしても、教師のコンピテンシーで紹介しているさまざまな能力を、子どもにも求めていくことは誤りでしょうか。
 学校という組織の中には、さまざまなタイプの「困った人々」がいるわけです。
 私の主張するコンピテンシーは、おそらくいちろうさんが主張される「よくないニュアンス」としての管理主義を否定しています。
 教条主義、瑣末主義、セクショナリズム、事なかれ主義、事大主義、権威主義、マンネリズム、ご都合主義はブログの記事の中でも批判対象になっています。
 コンピテンシーは、教師の自己満足ではなく、子どもの立場で常に教育を考え、子どもにとって何が必要かという問いへの答えの一つになっていると信じています。

*関連記事を再掲します。


「事大主義が事大主義を生む」

 自主性なしに勢力の強い者につき従う事大主義・権威主義は,外見上は,強いチームワークで結びついている状況と同じように見えます。
 中学生になると行事などで子どものリーダーシップを発揮させることがあります。ここで難しいのは,教師のリーダーシップのコントロールです。それは,子どもを動かす力と同時に,教師集団を動かす力も必要だからです。
 個々の教師がバラバラだと,混乱を招く場合があります。
 行事で,子どもが学年の教師に「○○はどうしたらいいのでしょうか」と聞いてきた場合,返事の仕方は何通りもあります。
1 わかりません。
2 それは,自分たちで決めなさい。
3 それは,こうしなさい。
4 それは,担当の○○先生に聞きなさい。
5 それは,担当の○○先生と相談して決めなさい。
6 それは,先生方で話し合って決めるから,それまで待っていなさい。

 一般的には,行事の担当者であってもなくても,「あなたはどうしたいのか」「みんなはどうしたいと考えているのか」をまず聞き,どういう目的で話しかけにきたのかを判断してから対応します。
 こういうケースで,官僚主義的でない,個人プレーOKの教師集団だと,A先生はこういった,B先生は正反対のことを言った,C先生はあてにならない,・・・などと,子どもから見た教師はバラバラな個人に見えてしまいます。
 一方,子どもたちからだけでなく,教師からも何でもたよりにされる教師がいると,その他の教師に子どもはよりつかなくなります。
 子ども自身に事大主義,権威主義,ご都合主義が染み付いている集団に出会うことがありますが,これは教師集団が育てた資質でしょうか。
 教師集団にとって,リーダーシップの役割分担というのは意外と重要なものかもしれません。(07/08/03)


 「困った教師」と官僚主義

 教育現場しか知らない教師から見ると、行政というところは官僚主義、お役所主義の固まりのように思えてしまうかもしれませんが、行政から教育現場を見ると、これがなかなかお役所主義的な部分をかなりもっています。
 現場も行政も信用できない一般の人は、その原因を解明して、安心して子どもを預けられる教育をしてほしいと願っているかもしれません。
 ただ、安易な解決方法・・・最も手っ取り早いのは、カリスマによる支配ですが・・・は、より大きな犠牲を強いることになる場合があるので、結論を急がないでほしいですね。冒険主義やラジカリズムのような非日常の理想郷を求めることではなく、日常の中の現実を見すえ、問題の本質を探らなければなりません。
 一見合理的に思えた「実力主義」「成果主義」は、評価のコストが高くつきすぎるなどの問題があり、教育現場で活用するには十分な知恵や配慮が必要です。学力調査の問題性は教育ブログで話題になっていますが、これは別の機会に考えることにします。
 さて、現場の教師ですが、校内では最大で5つのセクトに属しています。
 教科、学年、分掌、部活動、組合です。(実質的に1つのセクトにしか属していない教師もいます。)
 小学校では、ここに学級という一人しか構成員のいない困ったセクトも存在します。
 普通の小中学校では、学年セクトが最も強力です。それは、移動教室などの行事を運営するためにプロジェクトとしての機能が必要だからです。ある学年だけ特別なことを実行しようとすると、他学年からストップがかかったりします。他に、教務部と生徒部(生活指導部)がいがみあうこともあります。高校では、教科セクトが強くなります。
 それぞれのセクトでは、自己の利益を主張する場面があり、行政と同じ図式になることがあります。
 規則や慣例をたてに、プロジェクトの邪魔をする教条主義者、やるべき指導・監督をおこたる事なかれ主義者、ころころと主張を変えるご都合主義者、カリスマをたよる権威主義者、機嫌取りばかりの事大主義者、新しいことだけにやけにはりきる冒険主義者、担任のクラスや受け持ちのクラブの都合しか考えないセクショナリスト、細かいことばかりにこだわって水をさしてばかりいる瑣末主義者、前年度のまるうつししかしないマンネリスト・・・1校当たり、それぞれ最低1人ずつはいるのではないでしょうか。そういう教師ばかりなんていう学校はないでしょうか。
 ただ、官僚制のもとでは、教師たちのそのような行動は必ずしも「困ったもの」ではありません。だからことが進む、という判断の結果であったりします。官僚制は非効率の面ももちながら、大きな不公正や失敗を回避するよさももっています。
 「お役所仕事」という言葉のニュアンスはマイナスのイメージが強いわけですが、そこには確実で公正な仕事という当たり前のプラスの価値が隠れていることを認識すべきかもしれません。
 以上のことをふまえて、学校教育で最も大きな課題は、「十分な学力を身に付けさせていない」ことでしょうか。
 官僚制を、「与えられた目的を遂行するために組織された、権限と責任が明確にされた専門職のシステムのこと」と定義づけすると、学力をつけるという学校の最大の目的、その権限とは何か。責任とは何かを明確にしなければなりませんね。また、そのための学校という組織に課題があるとすれば、それをどうしなければならないか、追究する必要があるということです。(07/08/03)
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操作主義からの脱却策としての「共感」

 子どものリーダーや若い教師が陥りやすい失敗に、「操作主義」の「におい」をかぎつけられ、うまくいっている人と同じようにやっているのに、うまくいかないということがあります。
 それは「同じよう」なはたらきかけはできても、決して「同じ」はたらきかけではない。
 成功と失敗を分けるものは何なのでしょう。
 相手を動かしたい、というより、「操りたい」という願望をもってしまうと、その「におい」が相手をかたくなにさせる原因になります。
 どのようにしたら相手が自分の思うように動いてもらえるようになるのか、というのが、操作主義の発想です。
 相手に自分の気持ちを理解してもらえれば、相手が自分に共感してくれれば、・・・と必死に願うのですが、どうしてもうまくいかない。
 うまくいかないと、「どうして理解してくれないのだろう」となってしまいます(親が勉強しない子どもに「どうしていくら言っても聞いてくれないのだろう」と嘆くのも同じこと)。
 こういうとき、教育の大原則、「子ども(相手)の立場になって常に考えること」を適用すると、先が見えてきます。
 相手を自分に共感させようとしている人は、なかなか相手の共感が得られない。
 ではどうするかというと、自分が相手に共感すればよいのです。
 大事なのは、「共感を得よう」ではなく、「深く共感していこう」とする姿勢です。
 そうすれば、「共感し合える場」が生まれ、うまくいくときが多くなります。
 私は最近、よきリーダーの卵たちの成長の場面に立ち会うことができました。
 まだ道のりは半ばですが、「共感してくれる人」との出会いが、「共感を得よう」から「相手に深く共感していこう」という姿勢への転換を促してくれたように思います。
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人を動かすために使う「質問」

 子どもに限らず人はだれでも、他人の考えに従って動くことには抵抗感を持つことがありますが、自分の考えに従って動くことはできます。
 そこで「人を動かすために使う質問」の出番がやってきます。
 自立心の強い人ほど、「命令された」と感じられてしまうような指示には従いません。
 たとえば、「~しなさい」は命令ですから、自分がそれを行う気になるかならないかは何とも言えません。
 しかし、「どうすればいいか?」と質問され、自分が「~したほうがいいと思う」と答えた場合は、「では、~してください」という指示には比較的素直に従っていくでしょう。
 「~の仕事をあなたに任せます」という宣言では、自信のない人は動かないので、
 「なぜ私があなたにこの仕事を任せたと思いますか?
 「みんなはあなたに何を期待していると思いますか?
 「あなたがみんなの期待に応えるためには、どうしたらよいと思いますか?
 「任された仕事をして、どんなことにやりがいを感じましたか?
 「やりがいをたくさん感じられるようにするには、どうしたらいいですか?
 このような「質問」には、子どもにプラス思考をさせて能力を引き出す効果があると考えられます。
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教師をためして遊ぶ質問への反撃

 子どもの遊び?の中に、教師にちょっと変わった質問をして、まじめに考えてくれるかどうかをためすというものがあります。
 そこでふと、教師という職業の人間は、授業などでよく子どもに「発問」「質問」をしますが、本当に質問をするのが得意であると言えるのか?という問題が頭をよぎりました。
 教師がしている「発問」「質問」の効果とは何か?
 また、質問を受けたとき、それに答えることが得意であるのかどうか?
 私は試験問題でときどき、まとまった文章を読ませて、「この文章はどのような問いに対して答えられたものと考えられるか。その問いを書け。」と聞く問題を出します。
 論述問題はどうしても難易度が上がりがちですが、この問題もけっこうハードルが高く、ツボをしっかりおさえた「明確な問い」はすべての生徒が書けるわけではありません。
 しかし、問うことから学びは始まる、という原則を重視するためには、欠かせない出題となります。
 最初の話に戻りますが、「茶」という漢字以外で、「チャ」という読みの漢字はあるか?というのが生徒の質問でした。
 ちょっとひねって「キカイ」の「キ」の字と答えましたが、これは生徒の頭を悩ませる反撃材料になったようです。
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「するどい質問」ができる子どもの育成

 教育の世界では、子どもたちが教師に対し、その教育のあり方の本質を問うような(ある人から見れば非常に「攻撃」的な)投げかけを行うことができます。
 教え方に課題があり、「授業がわかりにくい」「つまらない」という共通認識をもたれ、教育相談的なはたらきもできず、部活動を行っている生徒より早く帰宅してしまう教師が、子どもから
 「なぜ教師になったのですか
と問われることは相当きついものです。
 異動が頻繁で、1校に2~3年しかいない教師が多い学校で、赴任したての教師が子どもから
 「先生は何年この学校にいてくれるのですか
と問われたら、どう答えたらいいのか。
 その問いへの答えとして必要な教師にとっての問いは、
 「この学校の子どもたちに必要な教育とは何か
 「この学校の子どもたちにとって必要なのはどのような教師か
というもので、これらの問いへの用意がなければ、「言葉につまる」というよく授業中に生徒が陥る状態に教師もなってしまうおそれがあります。
 今までの教育界では、そのような質問はタブーであったところがありました。
 もちろん本質とは異なる、まじめに答える必要のない質問もたくさんあるでしょう。
 「先生はどこの大学を卒業したのですか
 「中学校のときの成績はどのくらいだったのですか
 このような場合は、逆に教師が質問することで、質問の意図を確かめさせ、新しいコミュニケーションを探るきっかけにするべきです。
 「するどい質問」ができる子どもの育成、それに答えられる教師としての修養に励んでいきたいと思います。
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「質問」は学校教育を変えられるか?

 記事が作成できる環境に戻りました。
  「わからないことがあったら質問しなさい」と教師は子どもに指示することがあります。
 子どもの中には、「質問」とは、「わからないことを聞く」ために行うものだという固定観念にとらわれてしまう人がいるかもしれません。
 しかし、「質問」 によって達成がのぞめることは、他にもたくさんあることを子どもたちにはわかってほしいと思います。
 谷原誠(弁護士)著『するどい「質問力』(三笠書房)では、「質問」がねらうことのできる効果として、
 「問題を発見、解決する」
 「説得する」
 「相手の考えを誘発する」
 「決断を迫る」
 「コミュニケーションを円滑にする」
 「議論に強くなる」
 「自分の主張を明解にアピールする」
ことを挙げています。
 授業の「発問」も含め、「質問」のはたらきをしっかり見極め、相手やタイミング、そのときの状況をふまえて実践していける教師、子どもの「質問力」を養成できる教師になりたいと思っています。 
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「よいこと」を具体的に示す問題点

 「よいこと」「長所」とは何か。
 これを分析的に考えるようになったのはいつ頃からでしょうか。
 観点別学習状況の評価は今でも混乱が続いていますが、この問題については「終わり」の「始まり」の時期なので、しばらく様子を見ようと思います。
 岡潔の言葉に、以下のようなものがあります。

 いいことをしましょうといったってできはしません。悪いことするなです。悪いことするのと、よいことするのとでは、ずいぶん開きがあります。悪いことの反対が、よいことだと観念的に考える。たとえば親孝行ですが、ひどい親不孝というのがすぐわかる。そしてそれは見分けがつきますし、それをしないということはできる。が、本当に親孝行しようと思ったら、親の心も知っていなければならないし、行為した結果が畢竟どうなるか、横に全体を見、縦に長い時間を見てでなければ本当に親孝行できないでしょう。そんなこと子供にできるものですか。

 「よいこと」を具体的に示せば、示してもらったことに従属してしまうこと、示されたとおりに動いたことによる評価を求める心理、そのような余計な付属物が生まれてしまって、本質的に「よいこと」ができにくくなる、そういう発想の方は、特に教育界には多いようです。
 道徳の授業に力が入らなかったり、「子どものために」という掛け声だけになってしまったりという教師が多いのもそのためでしょうか。
 道徳が教科化されようとしたとき、評価の問題、たとえば具体的な評価基準というのができるのか、という問題が真剣に論議されたようです。
 コンピテンシー理論はそこに真っ正面から取り組んでいるものですが、価値観の違いというものにどのような折り合いをつけていくのか。そこが実践上の課題であるわけです。
 (人事考課制度では、その「折り合いをつける過程」が面接等で用意されています。)
 「具体的な指示をしてくれる先生と、しれくれない先生、どちらがいい先生でしょうか
 道徳もそうですが、このような一つの問いがあったとき、その問いへの答えは決して一つとは限りません
 これこれこういうケースでは、具体的な指示が必要。でも、たとえば行動のきまりが配られていて、それを見れば何時に何をするかがわかるのに、いちいち先生に聞いてくる生徒に対して、「すぐに教えてしまう先生の姿勢はどうかな?」という問いも考えられます。
 世の中で起こりうる様々な環境、状況を想定し、それぞれのケースに応じた「正しい判断」ができるようにすること、これもいわゆる「生きる力」の一つなのでしょうが、学校ではそういう資質を育てることが可能です。
 実際に教育されているかどうか。
 子どもが判断して行動すればよいところに、教師が首をつっこんでいないか。
 いちろうさんが指摘されたような、教師の「過保護」「過干渉」的な指導は行われていないか。
 これを問うてみる価値は高いと思われます。 
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「行事」から考える学校教育

 本日からしばらくの間は、書きためた内容を日時指定で公開してまいりますので、いただいたコメントへの回答ができませんが、ご了承ください。来週以降、できる範囲でご質問等があれば答えさせていただきます。

 記事が500を超えたころから、これらをきちんと整理する必要があると感じながらも、そこまでする時間が確保できないので、私がこだわっていることに関連する記事をブログ内検索で一覧にするといった単純な形でまとめをしてみたいと思います。
 教師の組織的な動き、子どもの成長が手に取るようにわかる活動として、「学校行事」の運営があります。
 「行事」という語句が含まれる記事を下に列挙いたしました。

 「行事」と私の経歴を教員採用時からふり返ると、
1 最初の赴任校
 とにかく行事に力が入る学校としてはトップレベルの環境でした。生徒の動きもそうですが、教師の組織的な動きに多くのことを学ばせられました。
 「教師が動くから生徒が動く」典型的な教育がそこにはありました。
 ストレートな「指導」で、厳しい面を指摘される方もいらっしゃいましたが、子どもたちの成長が教師のやりがいの糧になっていました。
2 二校目
 「教師が動かないから子どもも動かない」典型的な学校でした。
 1校目のノウハウを1年目から次々に導入しましたが、中でも学習活動をからめた「行事」(学習コンテストなど)によって学校が立て直せることがわかりました。
3 教育委員会
 多くの学校の行事を見学することができました。と同時に、そのときの教師の動きにも関心が及ぶようになりました。
4 現任校
 行事のほとんどは生徒の手によって運営されます。
 「生徒が教師を動かす」ことは、外部から見学される先生方から見るとカルチャーショックを受けるかもしれません。
 教師の手の入れ具合が難しく、「教師を頼る」意識を低く保つことが成功の秘訣なのですが、実際には、どのようなタイプの生徒が運営に加わったかに左右されます。
 教師の目から見た完成度は最初に赴任した学校を下回りますが、生徒の達成感、充実感ははるかに上です。
 失敗してもそこから多くを学び、また、実は失敗したかに見えたある時期の行事が、大きな成功の種をまいていたことに後の行事運営の中で気付かされることがあります
 行事が終わると直後にその反省を行いますが、3ヶ月前、1年前の行事で学んでいたことがあったことに後で気付けるように、ここは教師からの指導言、評価言が必要になります。
 短期的には「失敗」でも、長い目で見ればすべて「成功」の源になっているかもしれません。
 これを教師の無為無策の言い訳に使われないよう注意しながら、やはり短期・中期・長期のふり返りをきちんとしておくことは大事だと思います。

タイトル&投稿日
「役」意識を喪失し始めた日本人(序) 08/06/28
ブログから想像される教師像 08/06/23
教師のプレゼン能力向上指針 その1 08/06/06
不信拡大の悪循環からの脱却策 08/06/01
結局、給与が下がるのが気になるの? 08/05/21
教育にかかわる困りものの素人たち 08/05/14
「夏休み(夏期休業日)」の名称変更 08/05/05
土曜日授業の実施は国民の願い 08/04/24
起立拒否(国歌演奏時)で検挙・・・タイでのお話 08/04/24
校長は職人か、芸術家か? 08/04/19
日経新聞 学校だけでは力不足 08/02/19
残業なしの4%調整額は不正受給? 08/02/10
なぜ公務員の自覚が足りない教員が多いのか 08/01/19
『学校の絞め殺し学』第4回~直面問題近視眼症候群~ 07/12/23
ネット社会で可能になった透明人間 07/12/08
習慣に支配される3年目クライシス 07/09/17
奇跡を起こす7つの信念(⑥、⑦) 07/08/20
成功に向かってばく進する人がもつ7つの特性(④~⑦) 07/08/18
「子ども第一主義」を掲げる主義 07/08/05
事大主義が事大主義を生む 07/08/03
「困った教師」と官僚主義 07/08/03
子どもに甘える教師 07/05/10
齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその3 「場」の空気 07/01/28
教育の場を戦場にたとえると・・・ 07/01/20
Win-Win-Winの学校選択 05/11/05
悪口だけは一人前という悪口 05/11/04
密度を上げる ノットイコール 多忙になる 05/10/26
職員会議の評価方法は? 05/10/23
組織と呼べる条件は?
 今回の記事の中に、一部でも共感できたり参考になったりした箇所がおありでしたら、恐縮ですが、下のいずれかのバナーを1クリックお願いいたします。↓↓↓
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許せなかった子どもへの「悪口」

 私は1~3ヶ月ごとにまとめて新聞のスクラップをする癖があるので、それくらい前の「ふり返り」をします。
 いちろうさんが、繰り返し私が書き込んだすずめ先生のブログ記事へのコメントに対する批判をなされているので、それに対する説明をさせていただきます。
 すずめ先生もふり返りの記事を書かれており、私もすずめ先生のブログでは「もうこの件については・・・」とコメントしたような記憶がありますが、ニュースをよく見ておらず杉並区教委の見解も知らないので、もう少しふれておきたいと思います。
 当時から、以下のように書いておけばと後悔もしていますが、なぜ批判したのかという原因だけは明らかにしておく必要がありそうです。
 私がすずめ先生に対して批判を行った主な原因は、すずめ先生が

 たとえ教師が最後の瞬間に気づいて「危ないから降りなさい」と声をかけていたとしても、「大丈夫」と飛んだり跳ねたりをやめなかったんじゃないか

と、亡くなった子どもへの「悪口」とも取られかねないことを書いたことがきっかけになったのではないかと、今では考えています。
 「指導しても無駄だったでしょうよ」という言い訳をする教師は本当に多いんですよ。
 そういうのは「指導」ではない、というのは言われなくてもわかっていることなのでしょうが。
 ところで、亡くなった子どもに、「天窓の強度に問題がある」という認識がなかったことが、「危険察知能力がない」とこととイコールであるかどうか。
 今までに乗って遊んでいた子どもたちがいたということ、教師が厳重な注意をしてこなかったということから、「乗ってもそんなに危険はないのではないか」と合理的な判断をしていた可能性もあるわけです。また、危険はわかっていたけど、それくらいのことをしないと、先生の注意は引けない、先生の気を引きたかった、なんて可能性もあるでしょう。
 それなのに、すずめ先生は
>危険を判断する能力が育っていなかったことはほぼ間違いがない。

と決めつけている。注意は聞かない、危ないことに気づかずにやってしまった結果そうなった、これでは亡くなったのは子どもが悪い、ということになってしまうでしょう。
 亡くなった子どもばかりか、
>就学前に,大人の言うことをきちんと聞く姿勢と,危険を察知する能力を親の責任で育てて・・・

と保護者にも批判の矛先を展開していました。それは、教師の良心として、「亡くなった子どものせいだ」とは言えないから当然の道筋なのでしょうが。
 大人が大人の悪口をいうのは見過ごすことができますが、教師が子どもや保護者の悪口を言うことは見過ごせなかった、というのが今の私が当時をふり返ってみた「言い訳」です。
 私のコメントの後に続くいちろうさんの批判は、
 親の責任とは言いませんが

とあるので、よく考えればこれはすずめ先生擁護ではありませんでしたね。
 その後、(危険察知能力が)身につかなくなった社会が悪い→管理主義や過保護が原因(教師が指導してしまうから危険察知能力が低下する?)→世の中すべての教師が、kurazohさんであれば防げた事故かもしれません(?)→そういう教育(過保護・過干渉・管理主義)は、良い社会を形成する大人を育てる教育になるのか?と言葉が続きました。
 「事故は管理で防げる」ことを認めつつ、「管理で事故が防げるような教育」に?マークをつけられたわけですね。この点についてはまだ議論になっておりません。
 私の「能力主義」的なものの考え方についても同様です。
 私には、教師に備わっていてほしい能力を訴えるとき、それは確かに指導主事としての立場のような発言もありますが、保護者としての立場も当然あり、また教師として、「今の子どもは注意しても聞かないよね、親のせいだよね」と責任転嫁する同僚は子どもの立場から見ても許せないし、とにかく「許せないものは許せない」という発想がありますね。
 お答えにはなっていないかもしれませんが、私の批判が「悪口」であると捉えられるようなことがあったら、今後もぜひご指摘をいただきたいと思います。改善できる見込みがあれば、という条件を設けるつもりもございません。
 中には、私が子どもに指導した「自分より能力の高い人とつき合いなさい」という原則に忠実に則ってコメントされない方もいらっしゃいますが。
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ものの良さがわかるようにする指導

 数学者の岡潔の言葉のエッセンスが「情緒と日本人」(PHP研究所)にまとめられています。
 次の言葉の意味を、教師としてはどのようにとらえるべきでしょうか。

 ものの良さがわかるということは明治以来だんだんむずかしくなってきている。現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない、そんな風潮が支配している時代なのだから、学問の良さ、芸術の良さもなかなかわからない。しかし、そこを骨を折ってやってもらわねば、心の芽のいきいきとした子は決して育たない。教育というのは、ものの良さが本当にわかるようにするのが第一義ではなかろうか。

 教職課程の実践演習で、「この指導案の問題点を挙げよ」という課題を出すと、多くの大学生がかなりの問題点に気付く、ということは以前にふれました。
 では、どのようにしたら、よい指導案となるか。
 題材の指導案の延長線上では、問題点が隠れるような修正の仕方は可能なのですが、それだけでは「悪くない指導案」にはなっても、「よい指導案」とはならない。
 問題点がない指導案を次の題材とすると、「よい指導案」の条件には気付けるのですが、では自分で素材を選んでつくってみなさいというと、ほとんどできない。
 どうしても問題の解決には「問題の除去」が前提で、その次に「正しい指導」「望ましい指導」を想定してしまいます。
 それを飛び越えた「よい指導」というのはあるのでしょうか。できるのでしょうか。
 もし教師を指導する立場になったら、一貫して持っているべき姿勢は、常に授業を公開して参観してもらえるような条件を整えておくということだと考えています。
 「よい授業」でなくても「よい指導」になると言ってしまったら責任回避のように聞こえてしまいますが、「よい授業はどのようにしたらできるようになるか」の答えは、実際の授業の中にたくさんあり、その「よさ」に自ら気付いていく力をつけていってもらうことが結果として「よい指導」になるのではないでしょうか。
 引用した岡潔の「ものの良さがわかる」とは脱線してしまっていますが、教師は常に「よい授業」を心がけていくべきだというメッセージを、私はこの言葉から最初に受け取った気がします。
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ありがた迷惑な問題解決

 「ありがた迷惑」なことをやってしまった経験が何回かあります。
 それは、いろいろな問題を指摘する(愚痴る、糾弾する、などさまざまな表現が可能なケースがあります)方がいるのでそれを聞かせてもらった後、本人はそれを解決、改善してほしいのだなと勝手に思ってしまい、こちらが行動に出て、問題を解決してしまった後、あまりその方がうれしそうな顔をしてくれないケース。
 本人に断らないでやってしまうのがよくなかったのかもしれませんが、他にも、改善策を提示してしまって、じゃあ、これで行きましょう、と話が進んだ直後、「待って下さい」と止められてしまうケース。
 どちらも決して少なくないケースでした。
 経験を重ねた後でわかったことは、本人は、不平・不満を述べていることに満足を感じている(?)だけであって、問題がなくなってしまうとその方法によって満足できるきっかけがなくなるために不機嫌になるパターン。
 人の悪口を言うのが好きな生徒や教師というのはけっこう多いのですが、「あなたの方が間違っている」と言えるケースは少なく、悪口というか非難に筋が通っていて、すぐに改善へ動き出した方がよい、と判断できるのに、悪口を言っている本人にはあまり悪口の対象を改善させようとする意欲がない
 こういうのは、保護者や管理職、政の仕事への批判、非難をよくするタイプの教師に多いのです。
 「なぜ直接言わないのか?なぜ他の教師に他人の批判や非難を聞かせるのか?」と思ってしまうのですが、本人は言っても無駄だとわかっているのか、あえてそのように批判や非難を続けられるような環境を維持したいのか、・・・後者の人が多いことは、教育の世界に入ってから気付かされたことです。
 さすがに教師対教師では、同じ職場内での和を重視すれば言いにくいのでしょうが、生徒などはどの先生がどの先生の悪口を言っているという情報とか雰囲気を敏感にキャッチして、いろいろなウワサとして流しているものです。
 身近な問題からどんどん解決していく姿勢。これを一般の方が聞くと「角が立つことばかり・・・」と思われるかもしれませんが、いじめ発生の背景になり得る生徒間のいざこざも、教師と管理職の対立も、みんな同じに見えてしまう私には簡単には止められません。
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教師の「持ち味」とは何か?

 教師には、一人一人違った「持ち味」があります。
 そして、教育の現場は、それが必要とされている場所です。
 この「持ち味」という言葉を他の業界ではどのように使っているか調べてみたところ、Google検察のトップにあったのは、日本銀行の「新規採用情報」の「先輩行員に聞きました」というアンケート結果を公開したものでした。
 「持ち味」に括弧づきで「ウリ」という言葉が並んでいましたから、これが「自己認識としての長所」という性格のものではありますがコンピテンシーの一種であることがわかります。
 キーワードを拾ってみると、
 ・困難な問題に直面しても、あきらめずに解決するために継続的に努力することができる
 ・失敗から学び、次に活かすことができる
 ・几帳面
 ・飛躍のない議論をすることができる
 ・“明るさ”と“責任感の強さ”
 ・とにかくポジティブであまり落ち込まない
 ・リーダー的な役割を任せられる
 ・どこでも自分の空気は持っている
 ・誰とでもすぐに親しくなることができる
 ・色々なことに好奇心を持ち、チャレンジできる
 ・未知の分野があると、飛び込んでいくバイタリティーがある
 ・温厚な性格であり、協調性がある
 ・全てに対して“はっきり”とした性格である
 ・柔軟な思考力
 ・笑顔
 
 一人が全部をもっている必要はありませんが、職場がこのような持ち味をもっている人であふれていれば、とても活気に満ちた仕事ができるのではないかと思います。
 持ち味は人に教えられるか。
 自分になく、人がもっている持ち味を、自分が学びとることができるか。 
 そのような疑問がわいてきますが、少なくとも、そういう持ち味には価値があるということ、そういう持ち味を生かした仕事に価値があるということは、子どもたちにも気付かせたいと思います。もし気付いていない教師がいたとしたら、気付いてもらいたいと思います。
 また、そのような持ち味をもった大人になってほしいという願いを子どもに抱ける教師、できたらそんな持ち味を習得させられるような教育ができる教師が増えていってほしいと思います。
 日本銀行の新規採用情報のページには、続けて「これだけは譲れないもの(ポリシー)」が紹介されています。
 ・自分で納得できるまではあきらめないという頑固さ
 ・多様な意見を尊重し、自分の中に取り入れる姿勢をもつ
 ・自分の成長を頭のどこかで常に意識する
 ・Pressureをpleasureに!
 ・納得いくまでやり続ける「しぶとさ」
 ・柔軟かつ新鮮でありたい
 ・日本だけの狭い価値観に縛られない
 ・自分にしかできない事(役割)を必ず見つける
 ・「オンリーワン」になる
 ・自分に恥ずかしいことは絶対にしない
 ・小さな事で、くよくよしない
 ・オンとオフの明確な切り替え。やる時はやる! 遊ぶ時は遊ぶ!

 日本銀行はその業務の特性上、特殊な能力が必要かなと思ったりもしますが、それほど特別ではないですね。
 ただ、「つねに利用者の立場で考える」とかいう視点はこだわりの中にはないのでしょうか。
 教師にとって絶対に譲れないポリシーとは?
 私が示したのは、「子どもの立場で常に考える」で、もしこれに補足するとすれば、「~という価値に気付き、その価値観のもとでより価値のある行動ができる人間になってほしいという強い願いをもって」というのを前につけたいと思います。
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信頼回復に必要な議論

 よたよたあひるさんが、教育に関する議論の話題を続けて提供していただいています。
 記事に私がコメントさせていただいた内容を掲載します。 
 

学校現場での教師と生徒の関係は、「関係性への依存が大」で「論理的には強かったり弱かったりする」のが特徴でしょうか。ですからうまくまわるときはWin-Winの関係になり、保護者も含めていったんこじれると泥沼になりやすい。ですからリスクコントロールのために教員はチームを組んで動くべきなのです。
 マスコミ報道では、現場の問題を管理職や教育委員会が謝罪するというパターンしか見えないので、現場のチームワークがなかなか見えてこない。
 教育ブログでも見えにくい(これは守秘義務との関連もありますが)。
 一方のネットの世界では、精神的なダメージを除けば実害はなく、とても自由な世界だと思う反面、教師が書き手の場合はその言葉によって信用の喪失という問題が生じてきます。
 私のように「きれいごとばかり」と言われて批判される者もいれば、今回のすずめ先生のような場合もある。
 兎角この世は・・・のとおりです。
 教師間の議論の場というのは、これまであまりオープンにされませんでしたが、保護者や教育関係者の目から、さまざまな指導観にふれられる機会というのは貴重なものであり、そして互いに批判し合うこと、議論すること自体が、子どもからの信頼回復、そしてもしかしたら尊敬の念を生むきっかけになるかもしれませんね。

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教員採用にもみえた私共空間

 大分県の教員採用の問題は、すでに新聞や多くの方々が指摘されているように、日本独特の「私共(わたくしども)空間」ならではの慣習ですから、「やっぱりそうだったのか」という印象の方が多いのでしょう。

 笑えないのは、教師がよく批判するタイプの親が、実は校長先生自身だったりした、ということでしょうか。

 地方議会議員の役割は、公共空間ではなく私共空間からの票への奉仕に重点があるようで、一方の行政マンも市民の代表者には頭が上がりませんから、罪の意識がかき消されてしまい、言いなりになってしまうのでしょう。

 東京都のように、他府県からの受験者が多く、かつ倍率が非常に低いところと、地方のように倍率が10倍を超えていて不正があるところでは、どちらが教師の質が高いのかとふと思ったりもしますが、教師の力量は1校目で受けた教育と行ってきた実践によってその後が大きく左右されるといいますから、どの新任教師にも成長を期待したいと思います。

 いずれにせよ、ここまで信頼できない私共空間というのも珍しい。

 我々は、あくまでも「安心社会」であることを貫きたいのでしょうか。自問したいところです。

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教育改革への抵抗と提言

 私はある時期に、ビジネス書や自己啓発書をひたすら読みあさりました。
 これは、教育という狭い世界だけでなく、子どもたちが卒業後に羽ばたいていく世界がどんな価値観のもとで動いているのか、そういう世界で将来生きていく子どもたちのために、教育の現場でできることは何か、と考えたからでした。
 そこから付随的に、教師はどうあるべきか、という視点に広がり、コンピテンシーの活用という記事が生まれるにいたりました。
 教育の世界では、「新しい価値の創造」より「既存の価値の尊重」に重点がおかれており、その伝達や継承という任務があるのは重々承知しながらも、私というタイプの教師は、どちらかというと「新しい価値の創造」に目がいってしまうので、読む方の感じ方に違和感が生まれやすい原因になっているかもしれません。
 教師の中で、「新しい価値の創造」に重点をおくタイプとそうでないタイプの違いは、たとえば「総合的な学習の時間」の充実・発展にどのくらい尽くしてきたか、結果が出せたかという基準で評価することが可能だと思います。
 道徳や総合的な学習の時間、特別活動のように、教科書のない教育活動では、各学校の創意工夫が図れます。これらの活動を通して学校改革に取り組み、成功した事例は数多く紹介されています。
 朝令暮改の発想・その7は、「みんなが反対することはたいてい成功し、いいということは概して失敗する」ですが、私の経験上、教育現場でも新しいことをやるときの一般的傾向と同じです。
 企業の世界では、「過去の延長線上で考えても誰もが賛成することはおおむね未来の展望が乏しく、逆に反対されることは多分に可能性を秘めている」ことを、大きな成功を収めた人たちがよく指摘しています。
 逆に大失敗のケースも多いのではないかと思いますが。
 教育現場の場合、教師たちは、「やるべき価値は認めるが、仕事は増やしたくないからやりたくはない」と主張します。
 手元に、中教審教育課程部会の「審議経過報告」があり、資料として平成15年度の教育課程実施状況調査の結果が入っているのですが、アンケートの結果には、教師の姿勢(現状)がはっきりと映し出されています。
 いくつか例を挙げますと、教育改革の方策についての考えとして、「賛成・まあ賛成」の割合は・・・
 「年間の授業時間を増やす」ことについては、教師が4割弱で、保護者が7割弱
 「教科書に盛り込む内容を増やす」ことについては、教師が約4割で、保護者が5割強
 「選択教科などで学習内容の選択幅を広げる」ことについては、教師が約25%小学生、中学生、保護者が約50%
 「放課後や土曜日、夏休みなどに補習授業を行う」ことについては、教師が1割強で、保護者は6割強
 賛成しない理由は示されていないのですが、そこには「もし教員数が増えるならいい」「休みが取れるならいい」という考えもあることは予想できます。
 ただ、教育改革のいくつかが、教師の望まない方向にいっていることがはっきりしているわけです。
 この点を批判している方も大勢いらっしゃいますが、できれば生徒や保護者を納得させられるような方法を考えていきたいものです。 
 さて、一方で、教科指導に重点をおいた学校発の教育改革というのは、あまりピンときません。
 この原因は、一人一人の教師がもっている専門性に踏み込んでいく必要がこの改革にはあり、改革の過程で、一部の教師の「指導力」に関する課題が明確になってしまうおそれがあるからだと考えられます。
 過去10年間に、校内研修等で招いた教育の専門家が何人いるか。
 成果はまた別の問題として、このデータをとってみても、学校間格差だけの問題ではないことが明らかになるでしょう。
 教師の世界の学び合い環境を広げるために、一部の自治体・学校では、学校間交流が進められています。
 しかし、これがまた互いの悪口合戦に広がるおそれがあるために、実施が難しかったりもします。
 小学校に中学校、高校、大学、中学校に小学校、高校、大学の教師が訪問して授業を見学しあう機会は、時間とお金はかかりますが、長い目で見れば重要なことだと考えられます。
 批判はリアルな現場を知らずになされるケースが多いことは明らかですので、まずは授業を見合う。
 「都道府県名を知らない学生が多い」という課題を認識している大学の教師が、小学校や中学校を視察することは、決して無駄にはならないはずです。
 小学校の教師に対して中学校の教師が、「発言させるのもいいけど、もっとノートに自分の考えを書かせて!」と希望を言ったり、その逆に、小から中へは「もっと授業で発言させて!」と望むのはもっともなことですが、そういう場面で、「豊かな学習活動とは何か」「学習の質と習得について」などという専門的な指導が大学の先生などから入るのは貴重なことです。
 教育に携わる人々の相互交流の中から、教育改革のあるべき姿が提言されてくるかもしれません。
 小中連携、中高連携、高大連携には、授業参観、交流授業、さまざまな形がありますが、とにかくまずはリアルな授業を見合うことから始めてほしいと思います。
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批判してくださる方がいる恵まれたブログ

 いちろうさんからご指摘いただいた私のコメント等の問題性について、説明させていただきます。
 「受け止め方の問題として、『愛情や誠意』を素直に感じ取れない子どももいます。」
という私の表現について、いちろうさんは「言い訳」であるとご指摘されていますが、この言葉が「言い訳」になっている場合とは、愛情や誠意をもって接していることが逆効果になり、それが逆効果になったままで結果として子どもに不利益を与えたり、教師がその状態を放置している場合をさしています。
 たとえば、危険な行動をとっている生徒、明らかにその生徒自身の信頼が損なわれるようなことをしている生徒に、言葉だけで「注意したつもり」になって、その場を放置したり立ち去ってしまったりする場合のことです。
 子どもが素直に指導に従ってくれれば問題はないのですが、そうでなかった場合、「指導」は成り立っておらず、ただ「注意する」という教師の姿勢を示しただけ、「導く」ことのない「指」であるということになります。
 いじめに荷担している生徒に対しても、そのような行動をやめさせなければならないのですが、それは、いじめを受けている生徒の立場だけでなく、いじめをしている生徒のことも考えてのことです。
 いじめは被害者の心にも傷を残しますが、加害者も同じように傷ついていくことがわかっているからです。
 いじめをしている本人が、集団からの排除行動への正当性を強く感じている場合などは、「いじめをやめなさい」という単純な指導言ではうまくいきませんから、「さまざまな戦略的行動をとることが求められ」るわけです。
 いちろうさんは、「さまざまな戦略的行動をとることが求められている」という言葉が「何のためらいもなく出るところが、尊大なんだよ」とおっしゃいますが、教育の世界だけでなく、問題の解決には「愛情と誠意だけあればなんでもできる」というわけではないので、その現実を直接的に表現しているだけです。
 また、教育の世界で、教師が子どもを導く、指導する、という行為が教師の子どもに対する「上から目線」に見えてしまうのはやむを得ないことだと思います。
 集会で「きちんと整列しなさい」という指導する教師に対して「上から目線だ」と感じる子どももいるでしょう。
 「教師からの目線」は、さまざまなケースごとに、指導に適した角度があるのでしょうが、そのすべてを0度以下にする必要はないし、実際、できません。
 「自己責任を放棄し、他者に責任転嫁」する教師のパターンを、私はこのブログで具体的に指摘してきました。
 文部科学省や教育委員会を批判していた人はたくさんいたでしょうが、今まで、教師の立場から、そのような批判をしていた人は少なかったと思います。
 ですからいちろうさんもお読みになって驚かれた部分も多いと思いますが、私は指導力不足が認定されてしまうところまでいってしまう極端なケースだけでなく、身近にある教師の問題が何であり、それをどうしたら信頼回復までもっていけるのか、それはやはり結果で示すしかない、という主張を展開しているわけです。
 私がたとえばAさんの行動をAさんに対して直接批判するとき、私がブログで展開しているような言葉だけで行ったら、それこそ「上から目線」に感じられて、効果がないかもしれませんが、実際の場面ではもっとたくさんの言葉でお話するでしょう。
 「文字を並べて文を作っても、これじゃ真意は伝わらない。」のは、私の文章力の問題ですね。
 リアルの世界でもブログと全く同じ言葉のみ、あるいはそのような直接的な指摘を常に繰り返すわけではありませんから、他ブログでも「相当嫌われものになっているんじゃないか」というご心配をいただいていますが、私は「子どもに損をさせること」は絶対にしたくありませんから、その基準に立って行動しているということだけはご理解いただければと思います。
 異動した先で、「教師の側の問題点をしっかり指摘して、その解決方法を示し、全員の実践によって解決できた」事例も過去に紹介していますが、そういう「自慢系」「自己満足系」の記事を多く立てるより、問題を指摘して、その解決への関心を高めていただくことに精力を注いでいる状態です。
 もし教師の問題点を指摘し合う人間がいない学校、「問題を指摘する迷惑な教師」がいない学校があったとしたら、本当に迷惑しているのは子どもたちでしょう。
 いちろうさんのように指摘をしていただける人がいる私のブログは、環境としてはとても理想に近いのです。
 ブログの内容、ブロガーの姿勢に対する批判があるブログの方が、読者の方々が感覚を研ぎすまし、批判的に読んでいただけるからです。今後もさまざまなご指摘、ご意見をよろしくお願いいたします。
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いじめは「かわす」のが正解か?

 矢部武著「アメリカ発いじめ解決プログラム」(実業之日本社)に、心理学博士のカーラ・ギャリティが考案したHAHASOに基づく寸劇訓練というものが紹介されています。
 記事で紹介した「いじめ被害の回避方法」はHAHASO(Help、Assert、Humour、Avoid、Self-talk、Own itの頭文字)のうちの2つでした。 
 文科省の定義では、精神的な苦痛を自助努力で回避できた生徒への攻撃的な行動が、「いじめ」と認定されないわけですが、たまたまそのときは回避できたとしても、心の傷として残り、それがさまざまな形で後遺症の症状のようにして表れるのではないか、そういう仮説を立てることは可能だと思います。
①Help=いじめの被害にあったときに、他の生徒や先生、両親などに助けを求めることによって解決できた場合
②Assert=いじめっ子に対して断固とした態度をとることができた場合、
③Humour=いじめられてもユーモアのセンスを忘れずに応酬することができた場合、
④Avoid=いじめにあった現場をすぐに立ち去ることができた場合、
⑤Self-talk=いじめられた時に意識的に独り言を言って自尊心を維持することができた場合、
⑥Own it=いじめっ子に意地悪なことを言われても、ムキになって怒らず、「私も同感」などと言って受け入れてしまい、自尊心を守ることができた場合・・・
 もしいつか「いじめに関する調査」を行う機会があったら、過去にこのような方法でいじめを回避することができた経験があるかどうかを問うてもらいたいと思います。
 著書で紹介されているロールプレイによる訓練を実際にやるとなると、日本では相当の配慮が必要でしょう。
 特にユーモア、ジョークで切り返せるような子どもは日本ではあまり想定できません。そもそも対等な関係でないと難しいでしょう。
 かえって擬似的ないじめをたのしむ子どもが出てきてしまうおそれがあります。
 何も著者がこのような対処方法がいじめ解決の鍵だとまでは思っていないでしょうが、回避できた場合でも後の心のケアに責任をもつべきことを考えると、やはりいじるめ側と、傍観者に対するはたらきかけがいじめの予防には欠かせないことだと思われます。
 ただ、個人の「力」を重視するアメリカらしい、戦略的行動がとれる個人の育成という視点も大切であることは言うまでもありません。
 このブログも、そのような視点で教師の役割、能力、課題等を考えています。
 
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文科省への提案 ~解説への解説は映像(動画)で~

 昨日は、120名弱の方に記事をお読みいただき、いじめ関連のものについてでしょうか、10名くらいの方に応援のクリックをしていただきました。ありがとうございます。さらにお願いを申し述べさせていただくと、一言だけでも、ご感想をいただけると幸いです。
 メールアドレスが必須なのは、なりすまし防止のためですが、こちらからそのアドレスへ連絡をとらせていただくことはまずありませんし、公開もいたしませんので、ご遠慮なくお願いいたします。
 内容的に非常に重たいブログですが、一連の議論があったころから、毎日70~120名くらいの方にご訪問いただいております。以前は40~60名でしたから、単純に2倍に増えています。
 教師による教師批判・自己反省の内容ですから、お読みになってあまりいい気分のするものではないかもしれませんが、教育への関心と参画意欲の高まりが社会の未来を明るくするという信念で書きつづってきましたので、新しい訪問者の皆様には、お時間が許せば、過去の記事もぜひお読みいただいて、これもよろしければコメントを頂戴したく存じます。
 さて、ここでは、今私が抱いている教育への危機感の中で、かなり大きな比重を占めている問題について述べてみたいと思います。それは、教科指導の専門性が高い人間からの情報発信力が低下しつつある問題です。
 問題の発端は、週刊誌の記事でした。
 それは、文部科学省の教科調査官が、多くの出版社から執筆の依頼を受け、多額の原稿料を受け取っていたという問題です。
 東京都の場合はこれに先だって、平成15年頃でしたか、同じように指導主事が教科書会社などと結びつきをもち、原稿を書いて副収入を得ていたことが問題となり、以降はほとんど接触することができなくなりました。
 教科書会社や教材会社にとっては、よい原稿が書ける教員を探すわけですが、一番いい書き手は、教科指導の専門性が高い指導主事レベルの人材だったわけです。
 指導要領の解説本などは、それに携わっていた教科調査官を利用するのが一番てっとり早く、間違いがないということで、今まではそういう本が出るのは当たり前でした。
 しかし、中学校でも間もなく学習指導要領解説が公表されますが、今回はそれに関する解説本は別の人が書くしかなくなるように思います。
 そもそも、文科省が著作権をもち、一冊100円くらいで売り出される解説自体が不十分な内容だからさらに解説本が出されるのであって、改善の選択肢としては、「解説」の出版はやめてそこから民間にまかせるか、もっと詳しい解説を文科省がつくるかというものが考えられるのです。
 後者の方は、ほとんど「国定教科書」のようなものができてしまうと批判されてしまうため、文科省はより簡便な「解説」を出すのにとどめ、教科書づくりも大幅に弾力化させられる方向を目指すという選択肢もあります。
 あるいは、文科省できちんとQ&Aを作って、それを公開するか、伝達講習などはやめて、解説の映像をネットで公開して、だれもがその内容を聞いて質問することができるようにすればよいのです。
 事務方は、「教科調査官」という人材を、より学校や教科書会社のニーズに合う方で活用しなければいけないのです。今のままでは、東京都に指導主事のなり手がいなくなるのと同じように、教科調査官のなり手もいなくなります。
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その問いへの究極的な答えとは・・・。

 ずい分以前に読んだ本でしたが、スティーブン・R・コヴィー著『原則中心リーダーシップ』(キングベアー出版)を読みかえして、
 傍線を引いていた箇所の意味を改めて噛みしめています。
 

恐ろしいほど複雑な世の中で、どうしたら一貫性を持つことができるのだろうか?

 予期せぬ突然の変化によって、優れた地図(戦略とプラン)でさえ役に立たなくなる現代の荒野で、どうしたら方向感覚を失わずにいられるのだろうか?

 どうしたら非難と自己正当化ではなく、同情と理解をもって人間の弱さを見守ることができるのだろうか?

 どうしたら偏見を捨て、尊敬と探求の精神をもって他人の学習と達成を促し、長所をのばすことができるのだろうか?

 どうしたら変化と進化への強い熱意を持つことができるのだろうか?

 多元性と多様性の価値を認め、尊敬の念を持って相手を賞賛できるような人間になるにはどうしたらいいのだろうか?

 何からはじめたらいいのだろうか?どうしたら心のエネルギーを充電して学習、成長、進歩への情熱を持ちつづけることができるのだろうか?


 これらに共通して言える答えとは・・・。究極的には、教育の世界の私たちは、「子どもの立場」になって常に考える、ということです。
 私が教師に対して常に批判的であるのは、「そんなことを言われたり、書かれたりしたら、子どもはどう考えるのか」「子どもはどんな教師のどんな指導・授業をのぞんでいるのか」という問いから始まってしまうからでしょう。
 もちろん、自分も教師ですから、同僚への「同情や理解」はリアルな世界では非常に優先順位が高いものです。
 しかし、子どもが被害を受けているとしたら話は別です。
 「自分より実力のある生徒とつきあいなさい」という指導言に対してさまざまな直言をいただきましたが、それが言える人間関係・信頼関係の構築にどれだけ力が入れられているかまでは、ネット上では伝えきれません。
 批判的思考力を育ててある子どもというのは、必ず教師の指導言の「意図」を読み取ろうとしてくれています。
 単なる教科書的な知識や社会的な常識だけを教えてくれるのが学校や教師ではないんだなと子どもに実感してもらう教育を目指しています。
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「強さ」が導く潜在的な「いじめ」

 文科省の現在の「いじめ」の定義は、「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」(いじめをするのは仲間や友達)となっています。
 今の私の一番の関心は、そのときそのときで、「精神的な苦痛を感じている」と自覚しないように防衛している子どもはどうなるのだろう、という問題です。
 「いじめがある」という訴えを受けると、直接の当事者に事情を聞くことになるのですが、「いいえ、いじめられていません」と強く否定する子どもがよく見受けられます。
 こういう場合は、「いじめがある」という事実はないことになり、統計上の数字にもなりません。
 しかし、こういう場合こそ危ないのではないか、ということに気付いている教師はどのくらいいるのでしょうか。
 プライドの高い子どもほど、「自分はいじめられている」ということを認めたがらないものです。 10年くらい前のアメリカのいじめ解決プログラムに、「いじめに遭遇したときに有効な6つの対処方法」というのがあって、その中に、
 いじめられてもユーモアのセンスを忘れずに応酬する。
 いじめっ子に意地悪なことを言われても、ムキになって怒らず、「私も同感」などと言って受け入れてしまい、自尊心を守ること。
 というのがあります。
 こういう「自尊心維持システム」を作動してしまうと、そのときの「いじめ」は文科省の定義でいうと存在しないことになってしまうのです。
 しかし、実は心はすでに傷ついていて、その傷が痛み始めるのが1年後とか、10年後とかいう場合もあるのではないか。
 いじめられたその場で、「弱さ」を発揮してしまう方が、問題は解決しやすい学校が増えているのに、逆に子どもに防衛力がついてしまうと、その「強さ」が後々の大きな悪影響を生む・・・・。
 心理学の専門家の先生は、「いじめなんかされていません」という子どもには意識的に寄り添い続けるべきである。そうすると、徐々に本音が出てくるかも知れない・・そのような貴重なアドバイスをいただきました。
 今回の「いじめ問題」の記事の中に、一部でも共感できたり参考になったりした箇所がおありでしたら、恐縮ですが、下のいずれかのバナーを1クリックお願いいたします。↓↓↓
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「売れれば売れるほど失われる信用」の問題

 当ブログに対しても私の教師としての資質についても、積極的なご批判をいただいているおかげで、直接的に面と向かって議論や指導をしている相手方の目線に自分自身を置き換えてつつ、話を進めていくくせがついてきました。自分を批判的に見る自分がそこにいることを意識できることはすばらしいことです。
 いちろうさんはじめ、多くの方には本当に感謝申し上げます。
 当ブログは、教師が陥りがちな失敗に目を向け、それを改善するために必要なこと、あるべき姿を追究することを目的にしていますので、ここしばらくは願ったり叶ったりの状況が続いています。
 私が読者として基本的な対象としているのは教師でありますが、「教師にひどい目にあった」方々が「教育失敗学」というタイトルをふまえてご覧になることも考慮に入れて、なるべく記事を書いていこうと思います。
 私自身の理解力や表現力が及ばないために、私の教え子たちまでもが誤解されていることが無念でなりませんが、直接ご紹介して誤解を解くわけにはいきませんので、文章によって認識を改めていただけるよう努力をするしかありません。
 ひどい教師がいたら、その教え子はみんなひどい目に合っている、とか、子育てをろくにしない親の子どもは、みんなろくでもない・・・なんてことは決してないのですが、どうしても人間は何かの原因を人のせいにしないと気がすまないというか、そうやって精神の安定を図っていくものなのだと実感しております。
 朝令暮改の発想・その6は、「部下は『常に自己正当化する存在』だから追い詰めることも必要」という話です。
 教師も単純な話、「何で私がこんなに努力しているのに子どもは言うことを聞くようにならないのか。親はいったいどんなしつけをしているのだ!」と口に出しやすい存在ですが、「はい、そうですね。仕方がないですね」ではどうしようもないわけで、「自分はどのような仕事のやり方をしてきたのか。自分が生徒に教えてきたことを入学当初から整理するとどうなるか。どこに今、子どもが話を聞かない原因があるのか・・・」と追求していく姿勢が大切だと思うのです。そういう姿勢がなく、「そこそこ聞いているからいいでしょう」などという答えを返す教師に対しては、厳しい言葉を返していくことになります。
 セブンイレブンのチャーハンについて、部下の自己正当化を鵜呑みにしていたら、質の追求などとうてい不可能だ、という話が紹介されています。

 「(そこそこ)売れているからいいのではない。自分たちが納得できていない味の商品が売れていることにこそ危機感を持たなければならない。セブン-イレブンのチャーハンはこの程度かと思われては、売れれば売れるほど信用は失われていく」

 「教育とは答えを教えることではなく、部下に『気づき』を与えることです。部下が自己正当化を始めたら、本人の中で『これ以上は無理だ』と守りに入る意識が生まれ始めている表れです。しかし、限界を突破できれば自信がつきます。これを繰り返しながら部下は成長していくものです。・・・上司が『仕方がない』と思ったときから部下の成長は止まり、組織も停滞が始まります。」
 
 私のリーダー育成もふり返ってみれば同じことでした。
 しかし、このような働きかけが可能になる程度までまずは一人でも多くの生徒を成長させることが大切なのは、言うまでもありません。
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新・教員団塊の世代誕生へ向けて

 朝令暮改の発想・その5は、「『先手を打つ』より変化に対応して『朝令暮改』ができる方が大切」という考え方です。
 本のタイトルに使われている「朝令暮改」の意味は言うまでもないことだとは思いますが、要するに、たとえ朝決めたことであっても、間違いだと気づいたなら、直ちに変更することには、臆することなく徹すべきだということです。
 しかし、世の中には、以前の趣旨と違うことを発言すると、「前と意見が違う」ことを理由に朝令暮改を責める人々がいます。著書にあるように、変化の時代だからこそ、むしろ朝令暮改が必要になる(あるいは避けられない)わけです。

世の中がこれほど変化している以上、前に正しかったことがいまも正しいとはかぎりません。雨が降ってきたら傘をさすのが当然です。晴天から雨に変わって傘をさしたからといって、『晴れていたときと違うではないか』と責める人はいないでしょう。

 学校組織にも「朝令暮改」ができる部分が必要だと考える私は、仮説と検証を柔軟に重ねていける学校のあり方こそが、今の教育に求められていると主張しています。
 もちろん、企業の商品開発のような超短期のサイクルの話をしているわけではありません
 文部科学省は「朝令暮改」と位置づけている訳ではないのですが、ほぼ10年1サイクルで新しくなる学習指導要領ができあがるまでには、かなりの人数の現場の教師も携わって、さまざまな社会の変化に対応できる内容を検討しているのです。パブリックコメントの募集や集約・公開も進められています。
 学習指導要領の改訂が「混乱」の原因だと主張されている方がいらっしゃいますが、私の目から見て、改訂が原因の「忙しさ」をはるかにうわまわる別の「混乱」原因が学校には山積しています。
 もし教師が学習指導要領を読んでいないとしたら、「混乱」の原因はどこにあると言えるのでしょう。
 その山積している問題への対処のあり方について、学習指導要領は、法令に準じるものとしてはかなり限界に近いところまで具体的に表現するようになっています。
 ですから改訂はむしろ停滞している学校改善のカンフル剤としても使えますし、子どもや保護者への「本当に教育したいことは何か」という学校からのメッセージを伝えるのにいい機会にもなっているのです。
 子どもの立場からは「ころころ変わってこまる」という発想は見えてきません。(ただ、移行期間は学校の対応力・教師の指導力による混乱が見られる場合があります。)
 基本的に、改訂の趣旨が十分理解できるものであるなら、改訂するのは当然のことですし、「何があっても改訂しないですむものがほしい」「そもそもなくすべき」という無理な相談は、教師の立場の発想であって、今後ますます変化の激しい社会を生きる「子どもの立場」からの発想ではないでしょう。
 とにかく現実問題として、現行の学習指導要領では、その趣旨(昔からの内容も含めて)をよく理解できずに目標を実現できない学校が多かったことが、改訂の趣旨を考える上では欠かせない前提となっています。
 これまでの繰り返しになりますが、私の大きな関心は、教える側の大きな変化として、「大量採用の団塊の世代」が抜けるのと同じタイミングで採用される「新・教員団塊の世代」が生まれたときの学校がどうなるのか、ということです。
 倍率が下がるだけで、どれだけ資質に課題のある教師が増えていくのか。
 現行の学習指導要領に基づく教育を受けた新規採用の教師たちが、どれだけ「生きる力」を身に付けているか。

 免許更新制は現在の教師の問題だけでなく、将来の資質問題への備えとして想定されますが、行政の側には、「自分たちは教師の資質の向上を保障する場を設けることは設けた」という言い訳ができることになり、「だから教師の資質低下は本人たちの問題だ」ですまされてしまうおそれがあるのです。
 「生きる力」が身に付いている教師なら、そのハードルは容易に乗り越えることができるのでしょうが・・・。
 なお、ある先生は、「総合的な学習の時間の運営については、他校から転任してきた教師より、初任者の方がよっぽど役に立つ」とこぼしていました。
 転任してきた教師の場合、前任校より「手のかかる」総合を実施していると、「めんどうだな」と思われてしまう傾向があるそうです。
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反対意見へのアンテナ

朝令暮改の発想・その4は「本を読みながら傍線を引くなら『反対意見』に引く」です。
 ブログや自己啓発本などで自分も同感に思える意見に出会えば、心地よく、さらに共感するメッセージを相手に伝えることによって、交友の幅が広がったりもします。
 ただ、共感しているということは、自分もその考え方の域に達しているわけなので、そこから得るものは少なく、それ以上の自己の発展はあまり期待できない、というのが著書の考え方です。
 過去の成功体験によりかかり、それを鵜呑みにしている限り、自分自身も過去の経験から抜け出せなくなる可能性がある。
 一方、自分と異なる意見、反対意見と出会ったときは、
 どこが異なるのか、
 なぜそう考えるのか、
 根拠は何か、
 ひるがえって自分はなぜこう考えるのか
 
 などということを考えつつ、さらに自分を発展させたり、補正したり、補強したりすることができる。
 ・・・これは、本の読み方についての考え方の一つです。
 私の場合は、教育者の失敗事例に最大の関心があり、逆コンピテンシーを整理したいと考えているので、そのような情報に自然と目が行くようになってしまっています。
 アンテナにひっかかってくる情報の多くは、自己責任回避のパターン、「子どもの立場」での思考になっていないパターン、評論家的・抽象的で自分自身が何をしたいのかが伝わってこないパターンなどがあります。
 「もっと自分のことを考えろ」というご指摘もいただいておりますが、学校内でこのような指摘が双方向に行き交うことで、あるべき実践の本質が見えてきているように思います。これはあくまでも私の実感です。
 同じ指導言でも、性格や能力等の異なる子どもへの伝わり方は十人十色であり、能力を過信したり内面まで見通せなかったりすると、その指導は失敗に終わります。
 しかし、多くの道徳授業のように、いつまでも「失敗しないための指導」を続けていても、目標は達成されにくい。問題行動がおこってからスタートする「守りの生活指導」では、同じ問題は何度も繰り返されるでしょう。
 いずれにせよ、子どもへ「本当に成長してほしい」「強く正しい人になってほしい」「実力を伸ばしてほしい」というメッセージが響いていく指導ができるかどうか。それが成否の鍵を握っていると思います。
 テレビドラマの学園ものを私もよく批判していますが、この点だけは正しいかもしれない。
 子どもに「本当にこの先生は自分たちを成長させようと真剣に考えている」ことが伝わるかどうか。
 暴力に訴えるなど方法は大間違いでも、結果として上記の満足感が得られるので視聴率がとれる。
 むしろ失敗の危険性がある指導の方が、成功に結びつく可能性をもっているとも言えるのかもしれません。
 ただ、けっして失敗をおこしてはいけないので、リスクをコントロールするための人や道具を増やしておく必要があります。これは「同僚性」とか「チームワーク」とか「一枚岩の組織」とか呼ばれているものです。道具とは、指導法です。
 私の場合は、自分対数人の生徒(ここにはいくつかのタイプの生徒を選んでおく)で指導を行う場合、伝えたいことを伝え終え、個別に意見を聞き終えたら、生徒に話し合わせて再度生徒たちの意見を聞くようにしています。
 子どもなりにふり返る時間と機会を与えることが、リスクをコントロールする方法の一つになっています。
 指導の失敗も、子どもたち自身の自己教育力で救われたこともありました。
 10回の指導場面があれば、教師としても10回の学びの機会があり、数多くの学びがあります。
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「子どものために」ではなく「子どもの立場」で考える

 前回の記事の補足ということになりますが、私は「自分より実力のある人間とつき合いなさい」という指導をすべての学校で導入してほしい、などとは考えておりません。
 madographosさんはmadographosさんなりの、しょうさんはしょうさんなりの成功法則に沿って、実施していただければよいのです。 
 教育課程編成におけるこの大きな原則、「創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開」すること、「生徒の発達の段階を考慮して、適切な指導を行う」ことができずに、単なるものまねで失敗したり、無理な要求を子どもにも教師にもしてしまったりと、最初のボタンから掛け違えている学校というのがあるのです。
 このタイプの失敗をしてしまう学校の共通点は、子どもの視点からの検討が欠けているということです。
 ある指導言によって、子どもは何を感じるのか。何を学べるのか。それはなぜか。
 この問いを絶えず繰り返していくなかで、「子どものための」というより「子どもの立場を重視した」教育が展開していくのが理想だと思います。
 「朝令暮改の発想・その3」ということになりますが、「子どものために」ではなく「子どもの立場」で考える理由は、「子どものために」と教師たちが考えていながら、ほとんど目的は達成できないようなとき、たいていは、過去の経験などをもとにした「子どもとはこういうものだ(こういうものを求めているはずだ)」という思い込みや決めつけが背景になっていることが予想されるからです。
 「子どものために」とはあくまでも教師からの視点であって、生身の「子ども」が不在のまま主張が展開されてしまうおそれもあります。
 一方の「子どもの立場」で考えれば、たとえばこんな授業ならいらない、とか、こういう当たり前の話を聞くのはだるい、という発想が出てくるわけです。そういう発想を生かして授業改善に結びつけたり、生徒の誤解であるならそれを解いていきながら、子どもに持たせたいと教師が願っている力に気付かせる。
 ここに、各学校の創意工夫、生徒の実態に応じた教育が可能になるわけです。
 これはあくまでも視点を変えることで挑戦する価値が見えてくる例の紹介なので、「子どものため」という視点はもたなくてもよい、と言っているわけではありません。
 ただ、子どもの視点でものを書いている人と、「子どものために」という教師の視点だけで書いている人との意見はすれ違うばかりなので、私も考えなければならないと思っています。
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道徳的価値に気付かせる教師の役割とは?

 「自分より実力のある人間とつき合いなさい」という指導について、madographosさんとしょうさんからかなり突っ込んだご意見をいただきました。誠にありがとうございます。
 「生徒の善良さや優秀さを前提とした,かなりリスクのある指導法」というのは、一定の評価をいただいたと考えてよろしいのでしょうか。
 そして、私が「当たり前の指導言」とよばせていただいた「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい」についてなのですが、madographosさんやしょうさんは、教師が子どもに「誰とでも」という形で言葉を投げかけたとき、子どもがどんなニュアンスでその「」を受け取る可能性があるか、お考えになったことはありますでしょうか。
 子どもが本来のその意味に到達するまで、どのような壁を乗り越えていく必要があるのでしょう。
 そして、その壁を乗り越えさせる教師側の指導言とは何でしょうか。
 同じ言葉を繰り返し子どもに投げかけることでしょうか。
 「貴殿自身が誰とでも分け隔てなくつきあうということの道徳的価値を本当には理解なさっていないから,そう思われるのでは」というmadographosさんのご指摘についてですが、私のまわりにはいくつかの壁を越えてそういう道徳的価値をつかみとった子どもたちがいっぱいいますから、ご心配いただく必要はございません。
 ストレートにその価値に到達している子どももいます。しかし、私の目からは、壁にぶつかっていない子どもの現状にはあまり楽観視できないものがひそんでいるように見えます。
 「誰とでも分け隔てなくつきあう」ためには、何が必要か。
 「でも先生、人の悪口ばかり言うあの人とはつきあいたくないですよ」という訴えに、教師はどう答えればよいのでしょうか。
 教師の役割は、選挙演説のように当たり前の指導言を連呼することではなくて、そのような道徳的価値に気付かせ、つかみとらせることができる環境を設定することではないでしょうか。
 しょうさんにご紹介いただいた記事はそのパターンの一つでしょう。
 
 さて、madographosさんからご指摘いただいているもう一つの問題、「盗む」という言葉についてです。
 悪い言葉は悪い。よい言葉はよい。
 このような単純な思考が、子どもから豊かな創造力を奪い、堅い殻をつくったり、物事を固定観念によってとらえたりしているという危惧を私が抱いており、自由で伸びやかな発想力をつけさせるために、利用する言葉のパターンの一つがこの「盗む」というものでしょう。
 また、プライドの高い子どもは特に、人の「まね」をすることには一種の抵抗感をいだいています。
 泳ぎ方が上手な生徒がいたとして、そうでない生徒に、「まねをすればよい」と言っても、何も始まらないわけです。
 よい行いはどんどん「まね」をしていきましょう。これも当たり前の指導言なのですが、こういう言葉は、繰り返し述べるように、「そういうあなたはそれができているのですか?」という質問を受けると困ったことになってしまう人もいる。また、簡単にできる「まね」には創造力が必要ありません
 一方、「盗む」ことは一種の芸術なのです。
 これはその道のプロをたたえて表現しているわけではありません。
 私は大学まで野球部にいたので、たとえば盗塁をするために、ピッチャーの投球動作の癖を盗むことは必須の課題でした。相手の監督のサインを盗むこともあれば、すきをみて次の塁をねらうというのは、常に選手に要求されている課題です。
 「人の所有物を盗む」ことがいけないのは当たり前のことです。
 しかし、「心を盗んだ」ルパン三世など、言葉には必ず広がりというものがあるわけです。
 私は社会科の教師ですが、漢字の成り立ちについて説明することもよくあります。
 「盗」の「次」という字は、本当はにすいではなくさんずいであったこと、それはよだれを示すものであったことなどを話すと言葉へのイメージも広がっていきます。
 どうしても子どもに「盗んでもいいものがある」などというなぞなぞみたいな話もさせたくないと思われるのであれば、「まねる」というより「取り入れる」という言葉の方が私のイメージには近いものがあります。
 繰り返しになりますが、「これは批判のしようのないいい言葉」「これは口に出して言うことすら忌まわしい悪い言葉」とその価値を固定化することの方が危険であると私は認識しています。
 本日も、100名を超える方々にご覧いただきまして、ありがとうございます。
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子どもが自らつかむ道徳的価値とは?

 コメント欄で回答した内容を記事として整理する前に、madographosさんといちろうさんから新たなコメントをいただきましたので、コメントはそのままとして、ここにその内容を加筆・修正しつつ、ご指摘への回答をさせていただきたいと思います。
 私の記事は、「リーダーを育成する学校と教師」です。
 この内容について、madographosさんから、「自分より実力のある人間とつき合いなさい」という指導には論理矛盾があり、

「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい。誰でも自分より優れた面をもっているものです。その優れた面を認め合い,学び合う関係をつくっていきなさい」とでも,指導した方が矛盾がない

というご感想をいただきました。
 madographosさんのお考えは、道徳の副読本や「心のノート」に書かれているような、ごくごく当たり前の指導言ですね。これに反対する人は一人もいないと思います。
 しかし、そう教師に言われた子どもが、みんなそのように学び合う関係をつくっていけるか
 それができたらmadographosさんのおっしゃるように、「教育改革」なんて必要ありませんよね。
 教師は、「道徳で教えたでしょ!その通りにしなさい」などとは言わないでしょうが、そんな感覚を抱く人は少なくないと思います。
 子どもは、大人の「ごく当たり前の指導言」に出くわすと、何と思うか。
 「きれいごとばかり言って!」「大人のあなたはそういう関係がつくれているのですか?」
 道徳の授業が苦手な教師が多く、道徳の時間がくるのが待ち遠しいという生徒が少ない理由は、教師でなくても考えればわかることですよね。
 ポイントは、子ども自らが道徳的価値に気付けるような指導となっているかどうか。
 道徳の成否は、ごく当たり前の、常識的なことをわざとらしく答えなければならない授業ではなくて、それが「自ら学んだ」「自分で獲得した」価値となったかどうかにかかっています。
 そこで、ご指摘いただいた疑問へのお答えです。
 なぜ「自分より実力のある人間とつき合いなさい」などと教師が言うのか。
 子どもたちにも、必ず考えてもらいたい問いなのです。
 本当に素直にこの言葉を受け取って、じっくりと人間観察を始める子どももいます。
 なぜ「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい」という当たり前のことを言わないのか。そこに疑問や興味を感じる子どももいます。
 とりあえず、「自分より実力のある人間とつき合う」努力をしてみると、どんなことがわかるのか。
 自分は、「実力」を固定的にとらえていないか。
 勉強のできる子ばかりを探そうとしていないか。
 その幅の広がりに目が向いているか。
 自分は豊かな人間観・友人観をもっているか。 
 子どもたちは、さまざまなことを気付かされるのです。
 生徒たちに限らず、大人でも、自分より優れたものをもっている人とのつきあい方が上手でないために、損している人はたくさんいます。
 環境自体が誰とでも分け隔てなく活動するようなシステムになっている私の学校では、子どもに強調する第一点が、「長所を学び、盗んでいこう」ということになります。
 わざわざ、「あなたの長所をまねしたいのですが、いいですか」などと、断る必要はありません。
 どんどん盗んでいいのです。
 発表するとき、たとえや図を使いながら説明すると意味が伝わりやすいんだな。
 発言するときは、先生の方ではなく、教室の中央に向かって話すという方法もあるんだな。
 みんなの注目を集めるときは、ちょっとだけでもジェスチャーを入れるのが効果的なんだな。
 友達の失敗のフォローって、こうすると相手が傷つかないですむんだな。
 先生に質問するときは、あらかじめこういうメモをつくっておくといいんだな。
 テストで出そうな内容を質問するときのポイントはこれだな。
 この人のノートは見やすいっていうけど、ポイントはこのスペースの使い方なんだな。
 この人の話し方は、なんだか安心感を相手に与える。そのこつは笑顔とタイミングのいいうなずきかな。
 ・・・「学び慣れ」していくと、加速度的に長所が盗めるようになっていきます
 そして、最も「学び上手」の生徒が、よきリーダーとして育っていきます。
 さらに、「学び方」がわかってくると、それを他の生徒に教えることも得意になってきます。
 「気の合う」友達づきあいというのは、黙っていても子どもは勝手に始めるものですし、その中ですでに「学び合い」をしているかもしれません。
 また、「つきあい」には、メル友になるようなレベルのものもあるでしょうが、班、係、委員会、部活動、当番活動・・・など、子どもたちには「つきあい」だらけの毎日を過ごします。
 ただ、惰性のつきあいをしていると、子どもの中には、相手の欠点ばかりに目がいって、ときにはそれを攻撃の材料にしたり、自分と共通した欠点を互いに慰め合う材料にしたりするものです。
 いじめ問題も、多くの場合、「相手より優位に立ちたい(立ち続けたい)」という願望が引き起こしていると私は考えています。
 ですからあえて教師の側では、「力のある生徒とつきあおう」というわけです。
 自尊心が高すぎる生徒にはその鼻の高さを調整する指導を入れることがありますし、理想が高すぎて自己肯定感が弱い生徒には、友だちからのはたらきかけによってその感覚を高めさせる指導を入れることもあります。
 「長所に目を向けさせる」教育。
 子どもによっては、それが短所への攻撃性を高める原因になっているとお感じかもしれませんが、もし実際の攻撃があったときこそ、その生徒への「人間教育」の指導の糸口になるのです。
 人間が対等であるとか、敬意をはらうべき対象であるということは、子どもたちが道徳的実践の中で自ら気付いていくものです。「そういうものなんだから・・・」では、子どもを変えることはできません。
 「そんな言い方、おかしんじゃないか?」という興味・関心をひくことができただけでも、このような指導法の効果を実感していただけるのではないでしょうか。
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総則の冒頭に改訂のエッセンスがあります

 教育制度改革についての具体的な提言をするわけでもなく、ただ現行の学習指導要領等に対する不満(批判ではない?)が述べられている記事が散見されますが、このこと自体が、現在の学校教育が抱えている大きな問題の顕著な傾向であると考えられます。
 教育課程編成の大原則を理解せずに(下手をすると自分の学校の教育課程も知らずに)、そしてその内容への批判や自己評価をせずに、現在そして近未来の学校教育の課題を語ることに意味はあるのでしょうか。
 現行の学習指導要領の総則の1「教育課程編成の一般方針」では、「学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、生徒に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り、個性を生かす教育の充実に努めなければならない」とありました。
 ところが、「自ら学び自ら考える力の育成」の具現化が十分に図れなかったばかりか、内容を減らした基礎的・基本的な内容も確実に定着させられないことが明らかになったため、「自ら学び・・・」の部分が、以下のように改訂されるようになりました。
 ・・・創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で、基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむとともに、主体的に学習に取り組む姿勢を養い、個性を生かす教育の充実に・・・
 「定着」が「習得」に、「自ら学び自ら考える力」が「基礎的・基本的な知識及び技能を活用して課題を解決する力」=「思考力、判断力、表現力その他の能力」、「主体的に学習に取り組む態度」となり、
 さらに、
 「生徒の発達の段階を考慮して、生徒の言語活動を充実するとともに、家庭との連携を図りながら、生徒の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない」
という文言が加えられました。キーワードは、「言語活動」の充実と「学習習慣」の確立です。
 学習指導要領総則の「教育課程編成の一般方針」の第一に掲げられたこの内容については、学校だけではなく、家庭にも周知されるよう、文部科学省及び各教育委員会、学校は努力すべきであることは言うまでもありません。
 「習得」と「活用」への理解に関する課題は、これまでも記事にしてきましたが、また後日ふれることがあると思います。
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「しつけの問題」?・・・子どもの行動を左右するものとは

 はるえもんさんのブログで、「しつけの問題」って言われても・・・(1)という記事がUPされていたので、その趣旨を受けつつ、以下のようなコメントさせていただきました。

はじめまして。
私は小学生と赤ん坊の父親で、教師です。
教師による教育ブログでも、このような発言(「しつけの問題」)が散見されますよね。
教師が「親の」しつけの問題、親が「教師の」指導力の問題として子どもの課題を捉えてしまえば、「教育」という行為はそこに生まれません。
問題は、親が自分のしつけの問題、教師も自分の指導力の問題だと気付いたときに、この親と教師にはどのような会話が成り立つのかということです。
私が実際に経験した三者面談で、保護者と私が互いに謝り合うという場面がありました。
間に入った子どもの表情は、うれしいような、恥ずかしいような、微妙なものでしたが、両者が自分のことに責任を感じて教育してくれているんだなあということを肌で実感してくれたのでしょう。
ある時期まで「手がつけられなかった」子どもは、「生まれ変わった」「見違える」ように頼もしく成長していきました。
保護者として、教師として、今後もそういう関係づくりをしていきたいと考えています。

 私が接してきた子どもの場合は、親や教師のはたらきかけよりも、小さい頃からの友達関係、交友関係によって、その行動がかなり大きく左右されているようでした。
 本当に荒れて荒れて仕方がなかった男子も、ちょっと優等生っぽい彼女ができてからは、何だかお行儀よくなってみたり。
 そこでもともとリーダー性の高かったその女子生徒を学年のまとめ役として鍛え上げ、「教師の指示は聞けなくても、○○さんの言うことなら聞く」という環境の中で、(直接的には見えない教師の働きかけで)本来中学生が学んでいくべきことを積み上げていった経験がありました。
 要は、「○○の問題」として片づけずに、「自分なら何ができるか」「自分以外のだれならうまくいくか」を考え抜いていく習慣が必要だということでしょう。
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教育ブログでのスタンス

 「強き」リーダーを鍛え抜いている場面を見られ、「どうしてそこまで厳しくするの」と問われることがあります。
 私が厳しく指導するポイントはその生徒が自信をもっており、その部分をよりピカピカに磨いていこうとするときに行うことです。
 リーダーの中にもある弱い部分には、しっかり寄り添って自信に変える指導を行うようにしています。
 ただ、それぞれの指導にはタイムラグがあるので、「教師間の協力的指導」というのが威力を発揮するわけです。
 強さと弱さが同居しているのが人間であり、子どもならそのアンバランスさが心の不安定さも招いています。
 「弱い」部分を支えることに注力しすぎたために、いつも手助けを必要としてしまうような依存心の強い子どもが生まれるのだという批判を私も受けたことがありました。
 「強い」部分には度合いに応じた適当な刺激を
 これが私のモットーであり、教育ブログの中でのスタンスでもあります。
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歴史学習における名脇役と主役

 特定の課題の調査結果から、「主に学習過程でより強い印象をもった歴史的事象に引きつけられたこと」による習得場面での失敗が指摘されています。
 ある教科の1時間の授業で学べたことを家に帰って一言で表現させると、社会科などは、教師の雑談や脱線した内容しか覚えておらず、肝心の「習得すべき内容」がおろそかになっているのがわかることがよくあります。
 ここで大切なのはノートなのですが、ノート指導ができない小学校教師が担任になってしまっていたらもうおしまいです。
 小学校の教師は、子どもに「あきさせない」ために、さまざまな工夫をしてくれることがあるのですが、それが導入にとどまらず、主要な展開部分でも余計な話が入ることがあるため、学習内容に焦点があたらず、子どもも何が大切なのか、何をこの授業で学ぶべきだったのかがわからず、ピンぼけのまま終わってしまうことが多いのです。
 もちろん「話術」で子どもを引きつける中学校の社会科教師にも似たようなことが言えるでしょう。
 しかし、さすがに中学校ではノートをとらずに授業が終わるということはめったにないので、最低限、どのような用語が理解できていればいいのか、どのような概念がわかっていればいいのかが一目で復習できるようなしくみになっています。
 特定の課題の調査結果では、中学校の歴史的分野で、「関係図にまとめる学習を行っている生徒は正答率が高い傾向がある」ことが明らかになりました。これは、教師の指導の有無による影響が多いことは言うまでもないでしょう。
 関係図では、丸や四角、矢印の意味を明確にしておかないとかえって誤解を生む場合もありますが、それが書かれて初めて理解できるような内容もあるわけです。
 話を元に戻しますが、歴史学習では、非常に印象深い場面、絵画資料、エピソードなどが豊富にあります。
 それらを学習の主役ではなく、「特別出演」「友情出演」のような扱いにし、習得すべき学習内容の名脇役として子どもに認識させるような指導が求められているのだと言えます。
 もちろん、小学校段階では、「歴史的事象に興味・関心をもてるようになること」だけでも十分な気もしますが、学習指導要領に示された内容を重点的に指導し、簡単に子どもに説明させられるような授業を展開してほしいと思います。
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特定の課題に関する調査(社会)結果が公表されています

 国立教育政策研究所から、「特定の課題に関する調査(社会)」結果が公開されています。
 この調査は、
①社会科における基礎・基本となる知識・概念
②問題解決的な学習
に焦点を当てた調査を実施したもので、ペーパーテストの結果と学習に対する意識や学校における指導の実際等に関する質問紙調査の結果との関連も考察しています。
 学習指導要領の解説も出されてきますので、指導の改善に役立てる資料と捉えるならよいタイミングでしょう。
 基礎・基本に関する調査結果では、たとえば、中学校の歴史的分野の場合、正解率が高かった(80%以上)ものには、次の3つの特徴が挙げられています。
1.時代の転換にかかわる歴史的事象・・・鎌倉幕府太平洋戦争など。
2.用語から内容が推察されやすいもの・・・刀狩廃藩置県富国強兵世界恐慌冷戦など。
3.歴史的事象が視覚的にとらえやすいもの・・・甲骨文字古墳東大寺南大門の金剛力士像など。
 一方、正解率が低かった(60%以下)ものは、
1.主に語意や概念が似ている誤答と混同したと考えられるもの・・・国際連合に対する誤答は国際連盟
2.主に時期が接近している歴史的事象同士で、歴史の流れや内容の理解が不十分であるために混同したと考えられるもの・・・サンフランシスコ平和条約に対する誤答は日米安全保障条約
3.主に学習過程でより強い印象をもった歴史的事象に引きつけられたと考えられるもの・・・大和朝廷に対する誤答は邪馬台国
4.主に覚え間違いや曖昧なままの理解を続けていると考えられるもの・・・○世紀の意味。
などの特徴が指摘されています。
 質問紙調査からは、教師の指導方法によって子どもの理解度への影響が見られる内容があり、このような調査結果が現場の教師までわかりやすく伝えられる手段というのも求められていると考えられます。
 ちょっと読み続けるにはしんどいページ数がありますが、「ポイント」でおおまかな内容は判断できそうです。
 指導上の改善に役立てる内容もごくわずかですから、参考にしていただきたいと思います。
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リーダーを育成する学校と教師

 「自分より実力のある人間とつき合いなさい
 このことは、「生徒から学ぶ生徒」「生徒が生徒を育てる学校」という伝統がある私の勤務校では、昔から教師が口を酸っぱくして生徒に語りかけてきた言葉です。
 この「力」というのは、もちろん「学力」だけとは限りません。たとえ一言で「学力」と言っても、それがさす「力」は非常に広がりがあるものです。
 あえて誤解を避けるように言えば、「自分より個性の豊かな人間とつき合いなさい」という表現になるでしょうか。
 「実力」「個性」とは、たとえば包容力なんてものもあっていいし、忍耐力、協調性、雑学博士、運動センス、・・・さまざまな「力」が子どもたちには備わっており、また、伸ばしていっているのです。
 人は、自分が優越感を感じられるように、自分と同等か、似たようなタイプ、自分が優位に立てる自信があるようなタイプの人間とは容易につき合うことができます。
 しかし、自分より優れていると見えてしまう人で、自分が下に見られそうだなと思ってしまうと、自分から近づいていくことは難しくなる。人が人から学ぶというのは、言うのは簡単でも、実際には難しいものです。
 自治のさかんな学校というのは、そういう場面がたくさんできるよう、あらかじめプログラムされているというか、代々そういう経験ができるようなしくみができあがっています。
 学校が「リーダー育成」を声高に目標に掲げると、「格差拡大を目論むつもりか!」という反論が出てきそうですが、子どもにリーダーシップが備わると、たとえば危険な行動をとっている仲間に対して、子どもの側から「危ないぞ!」「そんなことはやめろ!」という注意が促されるものです。
 単純な一例ですが、リーダーがそういう態度に出たとき、「おまえは教師の犬か!」などと非難されるような学級経営をしているようでは、具体的な対案も出さずに世の中を批判することしかできない人間ばかりが増えてしまうことでしょう。
 「子どもにそんな責任感をもたせる必要があるのか」と問われると、教師の力量に多大な疑問を抱えている私などにとっては、「あるどころの話ではない。それが学校を救えるかもしれない」とまで言い切ってしまいます。
 以前に若干ふれた、「学校再建」「学校正常化」の最大のコツは、そこにありました。教師の力ももちろん必要でしたが、生徒が生徒を救ったのです。
 公立中学校にいたときは、「学級委員ができるレベルの生徒が少なくなった」という嘆きをよく耳にしました。
 こういうとき、即、「学級委員が育てられる教師が少なくなった」と読み替えられるかどうか。
 公立中学校のピンチの背景として、子どもと教師、どちらに大きな比重をおくか。
 私のスタンスは、これをあくまでも教師におくという前提で考えをまとめていくというものです。
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小学校学習指導要領解説が公開されています

 「少人数指導」というのは通称で、学習指導要領では「グループ別指導」とよんでいる指導のことです。
 「少人数」と言ってしまうと、それは何人以下の指導のことなのか、などと説明しなければならないのを避けるためでしょう。
 それは相対的な見方もできて、児童・生徒数が少ない学校で、学年に数人しかいない場合、40人学級から見れば常に少人数に見えてしまう学習集団が「グループ別指導」を行おうとすれば、3人と4人に分けたりすることができます。
 小学校学習指導要領総則で「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」の一つとして示されている「指導方法や指導体制の工夫改善など個に応じた指導の充実」については、現行と改訂版にほとんど変化はありません。(「教師」→「教師間」だけかな?)
 引用すると、以下の通りです。

 各教科等の指導に当たっては、児童が学習内容を確実に身に付けることができるよう、学校や児童の実態に応じ、個別指導やグループ別指導、繰り返し指導、学習内容の習熟の程度に応じた指導、児童の興味・関心等に応じた課題学習、補充的な学習や発展的な学習などの学習活動を取り入れた指導、教師間の協力的な指導など指導方法や指導体制を工夫改善し、個に応じた指導の充実を図ること。

 本日、文部科学省のHPに、小学校学習指導要領の解説がUPされました。
 よたよたあひるさんもふれている、「少人数指導」への配慮事項として、解説には以下のような内容があります。
 
こうした指導方法の工夫はすべての児童に対応するものであるが,学習の遅れがちな児童には特に配慮する必要がある。

 各学校で学習内容の習熟の程度に応じた指導を実施する際には,児童に優越感や劣等感を生じさせたり,学習集団による学習内容の分化が長期化・固定化するなどして学習意欲を低下させたりすることのないように十分留意する必要がある。また,学習集団の編成の際は,教師が一方的に児童を割り振るのではなく,児童の興味・関心等に配慮し,自分で課題や集団を選ぶことができるよう配慮することも重要である。その際,児童が自分の能力・適性に全く合致しない課題や集団を選ぶようであれば,教師は適切な助言を行うなどの工夫を行うことが大切である。
 また,保護者に対しては,指導内容・指導方法の工夫改善等を示した指導計画,期待される学習の充実に係る効果,導入の理由等を事前に説明するなどの配慮が望まれる。


 一般の方は学習指導要領の解説までは読まれないと思いますが、小中学校の教師でも、「総合的な学習の時間」の担当者以外で、総則の解説を読み込んでいる人はきっと少ないでしょう。
 各学校は独自の「教育課程」を編成しなければならないのですが、学習指導要領をしっかり読み込んでいかないと、教育委員会が受理するときにつっこまれた質問をされて答えられなくなってしまいます。
 受理する時、指導主事は、解説までしっかり読み込んでおかないと、つっこんだ質問ができません。
 学校が教育課程を編成するとき、教務主任や副校長だけが練るのではなく、学年や研究部の教師の意見がどれだけ反映できる仕組みになっているかが問われなければなりません。
 解説の以下の部分を知らないということにならないよう、徹底してほしいものです。
 かなりつっこんだ学校の指導体制のあり方を述べています。もちろん法改正の趣旨をふまえた内容です。
 昔からしっかりやってこれている伝統があるところは慌てる必要はないのですが。
 指導体制の工夫改善を進める上で校長の果たす役割は大きいので,校長は指導力を発揮して,指導体制の活性化を図るよう努めることが必要である。また,校長や副校長,教頭が授業の指導を行ったり参加したり,学習指導について経験豊かな指導教諭などの教師が他の学級の授業を支援したりするなど,様々な工夫をすること
が求められる。さらに,指導案の作成,授業研究などを学年会や教科部会,学校全体などで行い,広く意見を交わし合い,教師間で情報の共有を図るような機会を設けたり,それぞれの役割分担を明確にすることも,より効果的な指導を行うためには大切である。なお,教師が教材研究,指導の打合せ,地域との連絡調整などに充てる時間を可能な限り確保できるよう,会議の持ち方や時間割の工夫など時間の効果的・効率的な利用等に配慮することも重要であろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より