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反響の大きかった記事のコメントについて

 すずめ先生のブログへのコメントが反映されず、自分が書いたことが消えてしまったので、若干表現が変わってしまうかもしれませんが、こちらで発表したいと思います。少し加筆もしています。
 コメントを入れたのは、すずめ先生の「お騒がせしてすみません」という題の記事で、この件については私が多大な責任を負っており、その件についてお詫び申し上げるとともに、よりよい教育をつくりあげるために今後も何をすべきかを追求していきたいという趣旨のものでした。
 教育ブログの住人(ブロガー)というのは、程度の差こそあれ、だれもがこの国の教育のあり方、子どもの将来について心配ごとや課題意識があり、今自分が何をしているか、何をすべきか、何が求められているのか、理想の教育とは何かなどについて、高い関心をお持ちの方々だと思います。
 私のように、堂々と傲慢にも「教育は、教師は、どうあるべきか」と主張する人間もいれば、すずめ先生のように慎み深く、謙虚に記事を発表される方もいるのが、多様性を認め合う教育ブログらしさだと考えています。
 どちらかというと私が保護者や子どもの視点に立って、「教師にはどうあってほしいか」(今回の死亡事故への対応、反応という点についてもそういう視点でした)ということを中心に追求しているのに対して、すずめ先生は「教育の現場がどうなっているのか」を具体的にお示しいただいている、そんな違いがあるのでしょうか。
 決して、どの組織に入っているか、入っていないか、どのような人格の人間なのかということが問題なのではないので、立場や人間性についての批判を受けることは、だれも望んでいないし、意味がないことだと思います。
 私の学校では、頻繁に教育論議がおこっています。傍目から見ると喧嘩にしか思えないような言葉の応酬がありますが、決して相手の人格を傷付けようとする意図はなく、子どもに力を付けさせる理想の教育とは何かを渾身の力をこめて議論しあうときにあふれ出すエネルギーが、尋常ではないのです。
 そういうエネルギーが他人のブログのコメント欄にまで及んでしまったことは、お詫び申し上げなければならないことかもしれません。
 「有益でした」と言って下さる方はごく限られているのかもしれませんが、私がブログにコメントを入れさせていただくときは、そのブログから十二分に学ぶことがあり、その感謝の気持ちを込めての意見表明であることが多いです。気持ちをくんでいただける方には、本当に感謝申し上げます。
 人によっては、そのような教育へのエネルギーの向け方が、本来の目的とは違う形に流れてしまうということが、今回のブログへの反響を通してよくわかりました。
 ブログを誰にでも読める形で公開し、コメント欄を用意していても、批判的なコメントが寄せられることを極端に嫌がる方、そのようなコメントに対して、過剰に反応して反論される方、批判的なコメントに対してコメント欄で反論をされる読者、ブロガーを擁護するために批判される読者、その擁護を喜々として受け入れるブロガー、批判に正対し、自己の正当性を論理的に説明しようとするブロガー・・・この世の中に、「無益なつきあい」というのは究極的にはないと考えていますので、感情ではなくあくまでも論理にこだわっている場合には、ブロガーや読者と関係を切るようなことは避けたいと思います。
 今、教育現場は、教育基本法、学校教育法が改正された後の新しい学習指導要領が発表され、間もなく「解説」が公開されることで、移行期間を経ての新しい教科書に基づくさまざまな指導内容、指導方法、指導計画等を構想すべきタイミングにあります。
 もっと目の前のことで解決すべき課題、こなさなければならない業務も山ほどあるのですが、どの仕事も、すべて「子どもに本物の力をつけさせられるかどうか」にかかっているので、手を抜くことは許されません。
 プロの教師は、こういうことを、子どもに「そういう重責に追いまくられている忙しそうな存在」と感じさせず、いつでも余裕とゆとりがあるように思わせなければならないという存在でもあります。
 決して、言論の場と指導の場を混同されないよう
 このことは、「評論家になるな、実践家であれ」という教訓を受け継いでいる学校の教師だけでなく、どの世界の人にも共通して認識していただきたい原則であります。
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教育」カテゴリの記事

コメント

今回のやり取りの中で正攻法を取った人に対し、両者の橋渡しをするような感じですずめさん擁護の立場を取った方もいました。しかし矛盾は矛盾であり、当のすずめさんが肝心な説明をしない限り、擁護するには苦しい立場と思います。「振り返り力」でありならば、事実関係を明らかにするためにどうしてもその肝心な部分は、すずめさんに説明をいただくのが順当な立場と思われます。

Psycheさんが、すずめ先生のブログに書き込んでいらっしゃた以下の言葉、
>記事のすぐ下に反対意見があることの意味を強く感じます。
このことによって、教師というのは本物の力を磨いていくことができる・・・ぜひともこれから現場に入られる多くの若い教師たちにも大切にしてもらいたい言葉です。
もっと自由に、伸び伸びとした議論がしたいものですね。

公にブログを公開し、しかも人の目にとまりやすいランキングに参加しておれば、おのずと自らの言葉の影響力というものは大きくなります。もちろん、そうなれば反響も大きくなるのが当然なわけで、そういったことも含めての公開ブログなのではないかと。

もともと自分の言葉がきっかけなのですから、それに対する批判があっても私は基本的には受け止めたいと考えています。もちろん人間性への糾弾はこれにあたらないのは言うまでもありません。

ある記事のテーマに賛同意見だけでなく、批判的な意見もあった方が健全でしょう。言葉の影響力の大きさを感じた今回のやり取りでした。もちろん、論じ合えれば一番よかったのは言うまでもありません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より