ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 批判の海への航海で求めるもの | トップページ | 議論における「引き算」の効用 »

公教育への信頼性の確保について

 いちろうさん、わかりやすい内容のコメントありがとうございました。
 簡単で申し訳ございませんが、私の考えを述べさせていただきます。
1 ブログのコメント欄は何のためにあるのでしょうか
 私は、ある方への記事やその記事へのコメント、またそのコメントに寄せられたコメントから、自分のブログで自分の意見を述べることに問題はないと考えています。
 いちろうさんは「これを認めたら無限増殖しちゃうんじゃないの」とおっしゃいますが、それはその記事に関心のある人が考えを述べ合ったりいろいろな考えを知ることになったりする人たちの範囲に限定されます。
 「Psycheさんみたいに、同じ内容の批判をあちこちに書く人間が出てきたらどうなるんだろう?」については、そういう批判をしている方がいらっしゃることを多くの人が知る機会になり、その方への批判や、その方への共感をよぶことになるわけで、そもそもネットの世界はこういう敷居の低さに存在価値があるわけでしょう。
 「真に建設的な議論をしたいなら、認めるべきではないのでは?」というご意見については、寄せられたコメントが気に入らなければ管理人は自由に削除できるわけで、他人に対して「批判的な書き込みはするな」「他人のブログの記事を批判する内容は書くな」という要求をすることは、自由主義の国では認められないでしょう。
2 すずめ先生の発言への批判について
 このことについては、事故にあった子どもや保護者の立場をふまえて、強い憤りを感じたことは否定しません(この点については、私よりもPsycheさんの方がはるかに上でしょう)が、いくら「日教組の何が悪いのよ!」というタイトルのブログでも、教師という立場の人が「危険を察知する能力を育てなかった親の責任だ」という趣旨の発言はまずいのではないかと批判したわけです。こういう発言が、たとえ「内容を精選し一言一句考えて書いて」いない、論理性や整合性のないブログでも、公教育の信頼性を損ねる原因になる可能性があり、教師の中にはそういう発言を不適切だとはっきり言える人もいるのだということを示しておかないと、ますます信頼の低下を招いてしまうと危惧しているのです。
 いちろうさんと私の認識が完全に違うのは、私は「すずめさんの記事程度のこと」とは捉えておりません。
 すずめ先生は、実践のあり方について意見を問うような記事も書かれており、清掃指導のあり方など、自分がコメントできる範囲で書かせていただいたこともあります。
 そういう意味では、同じ教師としての同僚感覚があるのです。
 すずめ先生が謙遜しておっしゃるような、そんないい加減な先生だとは決して思っていません。
 だからこその批判なのです。
 すずめ先生を「導く」などという僭越なことはできませんが、疑義を呈することは許されると考えています。
 不適切なコメント、自分に都合の悪いコメントなら、それを削除する権限はすずめ先生にあるのです。
3 「生きづらい社会」と「生きやすい社会」の違い 
 「被害者の立場によりそうポーズをとり、二度と同じことがないように‥‥と、過剰対応を求めることが、今の『生きづらい社会』をつくっているんじゃないかな?」というご指摘については、まず「被害者の立場によりそうポーズ」という表現についてですが、実際に被害にあわれた方への配慮に欠けていると感じてしまいますし、学校で子どもの命が失われたことをショックに感じています。さらに、自分の子どもを学校の危機管理の甘さが原因の事故にあわせたくないという意識を強く持っていますから、決して「ポーズをとっている」わけではありません。
 近い記事で述べましたが、学校の安全点検の実施というは、決して「過剰反応」ではありません。やれば必ずどこかで問題が発見されます。
 「生きやすい社会」の中で命が奪われてしまうのなら、私は多少「生きずらく」ても生きることが確実に持続できる社会をつくっていきたいと思います。
 「生きずらい」・「生きやすい」はほとんど人それぞれの主観の問題であって、生活指導が厳しいことを不満に思う生徒もいるし、生活指導が甘いことを不満に思う生徒もいるわけです。
4 「“いじめ”“登校拒否”・・・といわれる問題の原因が、先生にある」ことについて
 この点については、私がこのブログの中でもふれてきていると思います。
 一つ一つの事例について、原因と結果、背景や影響、ことの経過をしっかり分析していけば、教師がここでこうすればよかった、ここでこうしたのはよくなかったなどということは、必ず出てくるでしょう。
5 教師の仕事には、論理性・整合性が求められる
 「人間は失敗を犯す、完全無欠ではない生き物である」・・・当然のことです。
 だからこそ人間には何が求められているのか。教師には何が求められているのか。
 これを、私は論理性や整合性だと捉えています。
 もし人の足を引っ張ることを考えれば、わざと失敗を失敗として認識せず、(おかしいと感じているのに)「私も同じ意見です!」と言えばいいのです。
 向上させようとする意思があるので、批判するのです。
 すずめ先生が、これを攻撃と捉えられたか、批判と捉えられたかは、ブログのコメントからしか判断できませんが、もし「攻撃と受け止められそうな言論を封じる」社会になったとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

« 批判の海への航海で求めるもの | トップページ | 議論における「引き算」の効用 »

教育」カテゴリの記事

コメント

いちろうさんへ
「先生は自分の間違いを認めない」という一般論は、私も「55の失敗」の中でふれました。
私が教えている生徒たちのために、たくさんのご心配をしていただき、ありがとうございます。
教師は、ときにどうしても「正論」を通さなければならない場合がありますので、一部の生徒の目から見て、「強引だな」と思われる部分があることは私も自覚しています。
そのため、私たち教師が使っている手段が、「自治の力を高める」ということです。
どうしても教師サイドが直接生徒に要求をしてしまうと、反発を受ける部分が多い。
そのようなことについては、生徒会や学級自治会で議論してもらい、「他者の考え」を受容する態度を徐々に養っていくのです。
未熟な子どもに大人と同じような「批判」「非難」をすることはありませんが、委員長や主将など、特定の立場の生徒には、より高いものを目指すように指導することがあります。
教育観は指導に反映される部分が多いことは確かですが、現場では、それがストレートに行われることはあまりありません。
それは、教育は「組織的」に行われているからであり、「個人の恣意」によって左右されるものではないからです。
ただし、私は以前からこのブログで紹介しているように、小学校という現場には、「個人の恣意」が通ってしまう環境があるので、注意は必要だと思います。

このブログの形態、書き込みが大変だね。
どこに書けばいいのかも掴みづらい。

どうも“誠実な回答”をしてくれそうもない。

>話の食い違いは、私のすずめ先生へのコメントがいちろうさんにとっては「不必要な“攻撃”」であるのに対し、私にとっては必要な“批判”だったということです。
>この点については平行線のままですね。
>私はあくまでも徹底した「引き算」で対応しております。

別に足しても引いてもいいんだけど、このブログを読んで「自身の中に原因を求めるタイプ」という雰囲気を読み取り、そういう人物かと思い時間を割きましたが、結局、「平行線」であり「徹底した『引き算』で対応」とあるので、以後は時間の無駄と感じます。
次は、madographosさんとでも遊んでください。madographosさんもあなたの“批判文”に辟易しているようですよ。
私は、すずめさんのシンパなので、あの書き込みを見て、攻撃的なコメントを書き込み、あなたの問題性を自覚させようと思いました。でも、あなたは、自分の文が他人にどうとられるのかに、あまりに無頓着というべきか、唯我独尊的な“偉さ”を振りかざしている自覚がなさすぎというか‥。
わかっていてする人と、わからずにする人の差がわかりますか?

で、最初の頃に書きましたが、先生としてというより、人として、あなたと身近に接する人が、あなたの無意識の言動で傷つけられてはいないのか?‥という疑問から、いじめや登校拒否の多いクラスなんじゃないのか?‥と聞いたのです。

あなたのおかげで、次々と表れた自称先生たちの人間としてのレベルの低さに驚く毎日です。確かにこれまでは「現場の教師にはたいへん同情的で、やさしい視線をあてていらっしゃる」と言われる対応でしたが、あなた方とのやりとりで、「先生は自分の間違いを認めない」「先生は詭弁強弁を駆使して逃げる」「先生は自分を偉いと思い他人を見下す」などと評されていたことが、現実のものとして表れ驚きとともに、これからは先生と言う人たちに、不信の目を向けるようになると思います。
ただ、先生も人だから‥と見ていた部分を批判的に見るようになることが、わが子の為になるのか、考えていきたいと思います。

忘却くんへ

>この態度こそ上から目線であり‥

上で書いた通り、私はわざとやっています。あなた方が自覚していない、もしくは自覚していても詭弁強弁で乗り切ろうとする態度に問題を感じています。

>kurazohさんと私は身内ではありませんので誤解のないようお願いします。

さっと読んだ感じ、ブログ内容にほとんど違いがなかったので、同類と思って書き込みをしましたが、対応に随分違いがありますね。
共通点は、自分よりバカな奴に批判されて、なんで自己を省みて正さなきゃいけないんだ‥という態度というか心根。自分より上の人に言われたらすぐに態度を改めるだろうに、自分より下と評価したものに対しては、自分の考えを押しつけて、相手を変えようと必死になる。ポリシーのない中間管理職的な人間だと思うよ。
子どものため‥みたいなことも書いているけど、本当に子どものためなのか? 自分のために子どものためとアピールしているかのように感じることもある。なぜそう感じるかは、もっと読み込まなきゃいけないだろうけど、今のところの印象として、自分のために「子どものため」ということばを利用していると感じている。

ここの記事は長くなりすぎたので、
次は違う記事にコメントをつけますね。

しょうさんへ
コメント&トラックバックありがとうございます。
私は、本当の意味で応援したい人、時間も限られているので、応援する価値がありそうな人にしか、意見などのコメントをしていません。
できれば意見をさしあげたご本人から、感想をいただきたいと考えているのですが、当然、そんな差し出がましいことはできませんので、持論をここで展開するしかありませんね。

Psycheさんへ
コメントありがとうございます。
いちろうさんは、「文章って、心の底にあるものが表出するもの」と自らおっしゃるほど素直な方です。
ただ書き言葉でのやりとりなので、どうしても誤解ばかり生んでしまいます。
話の食い違いは、私のすずめ先生へのコメントがいちろうさんにとっては「不必要な“攻撃”」であるのに対し、私にとっては必要な“批判”だったということです。
この点については平行線のままですね。
私はあくまでも徹底した「引き算」で対応しております。

いちろうさんへ
ご回答ありがとうございます。
いちろうさんのご質問にお答えします。
その前に、私は「100%をめざすタイプ」ではなく、「100%」とは何かを追究するタイプで、まだそれが何であるかははっきりわかっておりません。
コンピテンシーモデルは3×7の21項目もありますが、それでもまだ足りない感じです。
そして、あるタイミングでは100%だったことも、時機を逃せば80%になってしまっているかもしれません。
100%が何であるかがわかっていない以上、めざしているのは80%の世界かもしれません。
いちろうさんは何か完璧な状態があって、それを目指すことを大人社会に要求するのは、そこへ入っていけなくなる子どもを生んでしまう原因になっているというお考えでしょうか。
私の考えは、何が完璧かは常に流動的であり、大人社会ですらそれはつかみどころのないものです。逆に、そういう目標がつかめた人というのは力が発揮できるのです。
私は、教師の世界という大人社会に対してはコンピテンシー理論を導入しようとしていますが、それは、子どもが具体的な目標を目の前の大人からつかめるきっかけをもってもらうためであり、教師にはそういう「あこがれ」「模範」的なものを期待してもよいのではないかと考えています。
それは、笑顔が魅力的とか、教えるのが上手いとか、おもしろい研究をしているとか、何でもよいわけです。
たった一つでも、「教師が好きになった」というきっかけだけで、その教科が好きになり、得意になるというケースはたくさんあります。
いちろうさんは、現場の教師にはたいへん同情的で、やさしい視線をあてていらっしゃることがとてもよくわかりました。
そのような保護者をもつ担任教師は幸せでしょう。
ただ、特に若い教師の場合は、あまり甘やかすのはいかがなものかと常々感じています。

“しょう”です。
 トラックバックの記事を一部引用しながらコメントさせていただきます。
 前回、私はkurazohさん(そして“すずめさん”)のブログ等でどのようなやりとりがあったのか、ほとんど知らない状態で記事を書かせていただいたのですが、コメントの応酬を読ませていただいて、JSミルが100年以上前に述べていた議論のモラルがどれほど大切なものであるか、あらためて感じます。

 「反対意見とそれを主張する相手の実像を冷静に判断して誠実に説明し、論争相手に不利になることは何ひとつ誇張せず、論争相手に有利な点や有利だと見られる点は何一つ隠さないことが公の議論にあたって守るべき真の道徳である。」と。

 私は組合の全国教育研究集会をきっかけに「高生研(民間の教育研究団体)」の活動に深く関わるようになりました。(ついでに言うと組合の執行委員も2年間ほどしたことがあります)

 つまりkurazohさんと私とはまったく違った体験を背景とする見解の相違も当然あるわけですが、「どうせ教育委員会的な発想の持ち主だろ」「自分のことを組合的な人物と思っているんだろ」と“心のありようや姿勢”について憶測し断定するところからは不毛なやり取りしか生まれませんね。

 民間教育研究活動では、実践分析を大切にしています。確かに具体的な報告に基づいた批判は大変有益です。しかし、文章の背後にある“心”や“日常の教育実践の姿勢”を憶測し、批判するにいたっては、まったく不毛なやり取りしか生まれないわけです。

 批判は具体的な言説(及び実践)に基づいて行うべきである、ということは意見交換していく際の最も重要なモラルであると考えます。

上から目線というフレーズを連発されておりますが、「忘却くん」という呼び方や、私を批判するためのブログを立ち上げ私がその行為への意見をいうと「さすがに、いい年をして、あんなことをしていると心が痛みますよ。(*⌒O⌒*) 」と開き直る態度にあなたの上から目線を感じます。マナーの問題を注意するためには自分もマナー違反をしてもよいのだという意見は、相手を教え導くために心痛むこともいたしかたないという上から目線を自覚していないのでしょうか。

>なんで私があなたにお願いしなきゃいけないんだ

相手に挑発しておきながら言葉尻で攻撃する。この態度こそ上から目線であり、「心の底にあるものが表出」したものではないでしょうか。

なお、批判することは「あいての主張を歪曲していなければ」問題ではありませんし、人を批判するのに相手の許可など必要ありません。

また、kurazohさんと私は身内ではありませんので誤解のないようお願いします。

shock 頓珍漢? 
>私の批判が「上から目線」と捉えられてしまうのは、批判が論理的だからでしょうか。

絶句‥

>いちろうさんも少しずつ論拠を示していただけるようになったので、意図が伝わりやすくなってきました。

例えば、この一文。どこに「論理的批判」があるのか知らないけど、しっかり「上から目線」で褒めているじゃない。こういうのを読むと、カチンとくる劣等生の気持ちがわからないんところが先生っぽいかもしれないが、その程度の人間が先生を続けられるというのが疑問。

>すずめ先生や日教組を色眼鏡で見ないでくれというお願いでしたら、

この理解力の無さもすごい。なんで私があなたにお願いしなきゃいけないんだ? あなたが色眼鏡をかけて、不必要にすずめさんを“攻撃”したところから、一連のことがはじまったという自覚さえもありませんか? あなたは“攻撃”ではない、それは恣意的な読み取りだと強弁するでしょうが、文章って、心の底にあるものが表出するものですよ。そうそう、この一文なんて、目一杯、上から目線じゃない。気づいている? 少なくとも上下関係を感じていない私に対して、“お願いでしたら‥”はないだろう。

>回避するためには「よいしょ」のコメントを増やすか、コメントをしないという選択肢しかなくなってしまいます。

心の中の問題だって。同様の内容を忘却くんが書いたら、どう書き込んだか考えてみたら?

>管理主義的だったから子どもの死亡事故がおこったという論理

管理主義的で「生きづらくなった」というのが、私の論理。管理主義的な教育だから死亡事故が起きるということじゃない。私が子どもの頃、川や沼、防火用水に海、工事用の砂山でも死亡事故が起きていました。私の通っていた学校だけで、前後3学年で、小中学校時代に4人亡くなっていますよ。その意味では、管理主義が徹底されてきたから死亡事故は減っているんじゃないの? ま、外で遊ばないことの方が大きな原因かもしれませんが‥。

>どうして事故が防げなかったのか、そこに私の関心があるわけです。

100%防ぐというのは無理でしょう。あなたは、100%をめざすタイプだろうけど、最終、いろんな意味で隔離されたところに置かなきゃダメだろうし、そうなった場合、そこで育った子どもが大人になったらどうなるの‥という問題。
大人社会にも、同様のレベルのものを要求できるの? そういう観点で見ると、あなたが一生懸命にしていることが、大人社会と子ども社会を引き離していることであり、大人社会へ出れない子どもを作っているんじゃないの?
すずめさんに対して、子どもの視点がないと批判するけど、あなたたちには、子どもが大人になったときの視点がないのでは? 

いちろうさんも少しずつ論拠を示していただけるようになったので、意図が伝わりやすくなってきました。
もしすずめ先生や日教組を色眼鏡で見ないでくれというお願いでしたら、そうすることも私の本意ですから、そのように努力いたします。ただし、すずめ先生がおっしゃっているように、「日教組の何が悪いのよ!」というタイトルで、ある意味、色眼鏡で見られることを想定して書かれている限り、すずめ先生を批判すると、外部の方からは「この人、日教組に批判的なんだな」と考えられるリスクは高いと思われます。それを回避するためには「よいしょ」のコメントを増やすか、コメントをしないという選択肢しかなくなってしまいます。
私の批判が「上から目線」と捉えられてしまうのは、批判が論理的だからでしょうか。情緒的な批判の方がよいのでしょうか。そこのところがよくわかりません。
いちろうさんへの私の質問は、管理主義的だったから子どもの死亡事故がおこったという論理についてご説明いただきたいということです。
すずめ先生がおっしゃるように、「子どもに危険察知能力が欠如している」のは、この事故がおこったからわかったわけではなく、以前からそういう認識があったはずなのに、どうして事故が防げなかったのか、そこに私の関心があるわけです。
管理が行き届いていたら、この事故は防げたのではないかというのが私の考えです。
この点についてはいかがでしょうか。

文字として連ねられたものだけで判断するの?

>Psycheさんのコメントについて‥(略)‥たいへん残念がっていらっしゃる様子がひしひしと伝わってきます。
>すずめ先生は‥(略)‥いちろうさんやPsycheさんをたしなめていらっしゃいます。

実は、Psycheさんの人間性にも、あなたの浅い認識にも、本当にこれで学校の先生というのが勤まるものなのか、とても不安に思っています。
Psycheさんの他のブログへの書き込み内容も含めてどう捉えるのかを聞いた真意は、Psycheさんが何を考え、何をしているのかを踏まえたうえで、このブログにあの内容を書き込んだことをどう考えているのかということです。
薄っぺらな表面だけしか見えないのか見ないのか、不思議な気がします。身内には甘いんですね。

>誤解があるかもしれないのは‥(略)‥私がすずめ先生と常に違う考えをもっているのではないかという捉え方です。すずめ先生が何を書いても「日教組」だから私が否定するのではないかと。

誤解?
『やはり「〜の何が悪い」という開き直り的なブログ名のもと、書かれた内容としては配慮に欠けていたと考えられます』と書いたのはあなたです。
ここで「やはり」から始るところに、あなたのすずめさんへの先入観が見えませんか?
また『個人の自由な表現を楽しめるブログですから、「〜の何が悪い」という教員や組合の開き直り集だと考えれば、‥』と、ここでは、すずめさんの開き直りを組合の特徴であるかのように結びつけ、その両方を貶めています。
さらに『どうしても、「日教組の何が悪いのよ!!」というブログのタイトル→子どもの死亡事故→子どもの危険察知能力の欠如という記事の流れ‥』とも。
すずめさんのブログの内容を「日教組=悪の集団」で、その一員が書いているという“色眼鏡”で読んでいるとしか思えません。その意味で、Psycheさんと共通です。
さらにもう一点、自分を批判するものは、ものごとの真理がわかっていない連中だ‥という意識があちこちに散見している点も共通点です。Psycheさんは批判されると「修正する意思は持ち合わせています」と書くけれど、それは書くだけのポーズであって、心の中は「正しいと思ったことを貫けばよい」のであって、失敗しても謝罪や修正ではなく「ただそれを財産とすればよい」のです。あくまでも自己中心的な“正義”と、他者より上であるという‥どこか中華思想的な偉さが見られますが、それがあなたとの共通点です。

>いちろうさんとの間ではあまりそのような意識を感じることができません。

そりゃ、当事者じゃないんだもの。敢えて言うと酔っ払いオヤジ的評論家だよ。

>「過保護・過干渉・管理主義が原因で、今回のように不幸な出来事が起こると、必ず被害者の側に立ち、二度と無いように対策を要求する。その繰り返しで、危険が見えない社会にしてしまう」

危険が見えない社会にしてしまうと書いたかなぁ‥。ま、いいけど。その前段の部分はそうだと思うよ。若者の犯罪を見ても、非社会的な行動をとる青年を見ても、過保護・過干渉・管理主義が立ち行かなくなって管理できなくなった若者たちが多くない? テレビ番組等からしか情報は得られないが、そういう観点で非社会的・反社会的な行動を起こした若者をみれば、共通点として見えると思います。だから、あなたにを“片棒を担いでいる人”と評しました。

>私に対して情緒主義的な批判をたくさんされています

そうそう、これもPsycheさんと共通することです。情緒的と論理的の違いを教えて欲しいな。自分の考えに合致すれば論理的で、考えを理解できなければ情緒的とするのは、「あんたは、そんなに偉いんか?」という感情を抱かせる文言ですね。
枝葉の小っちゃなところからチマチマ書いていたら大変だから面倒なのよ。

Psycheさんのコメントについて、改めて読み返してみると、すずめ先生とのやりとりを通して、たいへん残念がっていらっしゃる様子がひしひしと伝わってきます。一方のすずめ先生は、私が批判した趣旨を不十分ながらもご理解いただいた上で、いちろうさんやPsycheさんをたしなめていらっしゃいます。このことも不自然なこととは感じていません。
人には人の意見に対するさまざまな感じ方、考え方があるものです。その表現は自由になされるべきです。
いちろうさんがすずめ先生の考えを正しいとお考えになり、私やPsycheさんの考えを否定される。それも自由です。
いちろうさんに誤解があるかもしれないのは、私とPsycheさんの考えがいつも同じで、私がすずめ先生と常に違う考えをもっているのではないかという捉え方です。すずめ先生が何を書いても「日教組」だから私が否定するのではないかと。
しかし、たとえば塾のあり方についてはPsycheさんと意見が異なる部分があるかもしれませんし、親の教育力の低下については、すずめ先生と同じことを感じている部分がたくさんあります。
あえて言わせていただくと、今回の児童の死亡事故に関する記事への批判については、私とPsycheさんとすずめ先生との間には問題の内容への当事者意識が高いのに対して、いちろうさんとの間ではあまりそのような意識を感じることができません。
いちろうさんは私に対して情緒主義的な批判をたくさんされていますが、私とかなり思考のズレがあることを感じており、たとえば児童の死亡事故は、学校の(教師の?)「過保護・過干渉・管理主義が原因で、今回のように不幸な出来事が起こると、必ず被害者の側に立ち、二度と無いように対策を要求する。その繰り返しで、危険が見えない社会にしてしまう」というすずめ先生のコメント欄への記事の意味もよく分かりません。
もしできましたら、その当たりのズレから修正できるよう、ご教示いただけると幸いです。

coldsweats02
kurazohさんは、誠実に回答‥とどこかに書かれていた気がしますが、私が最も聞きたい部分の回答が得られていません。
あなたの記事に書き込んであるPsycheさんのコメントの“内容”への感想です。Psycheさんのブログ、Psycheさんのすずめさん等のブログへ書き込んだ内容も目にしていると思いますが、それを踏まえ、Psycheさんのコメントをどう捉えているのかを知りたいのです。
kurazohさんのブログは、読み物としてはなかなかよくできているとは思いますが、そこに書かれていることがらを信ずるならば、kurazohさんのとるべき態度として私が想像するものと、現実の違いに驚いています。
結局は、身内をかばう意識と、「日教組」の看板を掲げたものへの攻撃的意識、‥ということですか? そうであるなら、まだまだ「教育失敗」を学んでいないし、そこから先へ進もうという気概もみられないということになりますね。

誤字のご指摘も含め、コメントありがとうございました。
もし差し支えなければ、TBしていただいた「しょうさん」のブログもご覧ください。

pout
1.伝言ゲームになったら、内容以前の問題でしょう。正しく論議を進めたいなら、Psycheさんのように出所を明らかにし、本文の引用を基に記事を書き、そこにコメントを求めるべきだと考えます。(Psycheさんの場合は、批判するために黙って引用したことに対して苦言を呈しました) 記事のコメントから独立させたものは、元文とは別物扱いにしないと一人歩きするので、避けるべきであると考えています。
2.Psycheさんとすずめさんを比して、どちらが公教育の信頼をそこねているかというと、Psycheさんだと思う私は、少数派? 少なくとも私は、わが子の担任を選べと言われたら、あなたも含めた3人の中では、すずめさんを選びます。
3.社会に対する認識の違いと思いますが、
>多少「生きずらく」ても生きることが確実に持続できる社会をつくっていきたいと思います。
文字通り「生きづらい」は、生きていくことに苦痛を感じる社会のことで、統計的な事実として、年間3万人もの人が自殺しています。直接の原因を作っているとはいいませんが、気づかずに遠因をつくる片棒を担いでいるんじゃないかと感じています。
4.例えば、引きこもりになった人、個々の事例には、個々の理由や原因があると思います。でも、社会全体として増加しているということを考えたときに、社会全体としての“傾向”があるはずであり、その傾向を突き詰めたとき、あなたのような考え方にたどり着くという意味です。
5.ありゃ、ますます‥
>だからこそ‥‥教師には何が求められているのか。‥‥私は論理性や整合性だと捉えています。
あなた自身、ますます論理性や整合性を失いつつあるのでは? それは、Psycheさんに対する寛容さと、すずめさんに対する厳しさに表れていますよ。
[追伸]
「事故に合った子ども」⇒「事故に遭った子ども」
「生きずらい」⇒「生きづらい」

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/41652360

この記事へのトラックバック一覧です: 公教育への信頼性の確保について:

» ブログでの意見交換とJSミルの『自由論』(2) [“しょう”のブログ]
 kurazohさん コメント、およびトラックバックありがとうございました。 実は前回の記事は、“よたよたあひるさん”の記事「」に反応して私自身の体験をもとに一般論として書いたものでした。 つまり、私はkurazohさん(そして“すずめさん”)のブログ等でどのような...... [続きを読む]

« 批判の海への航海で求めるもの | トップページ | 議論における「引き算」の効用 »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より