ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 反響の大きかった記事のコメントについて | トップページ | 小学校学習指導要領解説が公開されています »

少人数指導のあり方にも注意と関心を!

 よたよたあひるさんの記事へコメントさせていただたことなのですが、小学校における少人数指導の問題点を保護者の立場からも指摘しておきたいと思います。
 転落事故がおこった小学校ではどうだったかわかりませんが、2学級を3グループに分けるような算数の少人数指導を行う場合、当然担任外の教師が指導に加わることになります。
 新聞発表では、「担任教諭」ではなく「女性教諭(なぜ「女性」「男性」と断る習慣があるのかよくわかりませんが)」と表現されているので、もしや、と思いました。
 私が授業観察させていただいた学校だけでなく、子どもの通う学校にも、児童の能力・性格・行動の特性はおろか名前までわからずに「一斉指導」形式の授業をしている教師がいました。
 当然指導主事の時代には指摘せざるを得ないケースでした(これは、学校の教育課程で示していることと反することになり、校長の責任で改善してもらうべき重要な点だからです)。
 「少人数指導」というのは、少なくとも「一人一人の児童・生徒にきめの細かい指導を実施する」ことが目的であり、それができて、子どもの能力が高まることが最大のメリットなのですが、40人のときと変わらない指導では意味がないのです。それどころか、名前やクラスまで覚えていないというのは大問題です。
 今回の事故を通しては、このような指導のあり方にも目を向ける必要があるかもしれません。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

« 反響の大きかった記事のコメントについて | トップページ | 小学校学習指導要領解説が公開されています »

教育」カテゴリの記事

コメント

 自分のブログにkurazohさんからいただいたコメントへのお返事をこちらにも書き込ませていただきます。
------------
 私も、リンクをはった毎日jp18日の記事で、「算数担当の女性教諭(49)」とあったのを見て、まず考えたのはこの女性教諭は亡くなった子の担任ではないだろう、と考えました。「教諭」という肩書ですから、時間講師の先生ではなさそうですし、年齢からいっても(私とわりと年齢が近いですから身につまされます)再任用の先生でもないでしょうから、2つあった6年生のクラスの別のクラス担任か、あるいは算数専科の先生かもしれない、と考えました。

 専科の先生であるなら、どれくらいの数のクラスを担当していたのかということも気になりますし、同学年別クラスの担任であるとするなら、この6年生の学年を何年間見てきて知っていらっしゃるのか、ということも気になります。最近の先生方の人事異動は回転が早いですから。
 さらに、どのような少人数クラスの編成になっていたのかも。少人数編成といっても、テストで分けた習熟度別編成もあれば、習熟度別をベースに児童の希望を加味して編成する場合もありますし、単純に出席番号などで小集団編成にする場合もあります。
----------
 ちょっと、kurazohさんが、この記事中で書こうとしておられる文脈からはそれているかなぁとも思いましたが、この文中の最後に書いた少人数クラスの編成のあり方3つは、いずれも、うちの娘が通っていた小学校で行われていたもの(と、私が理解しているもの)です。おそらくは、学校内でどのような取り組みをするべきか議論を重ねた末に変わっていったものであろうと推測してみておりました。なかなか研究熱心な学校なんですよ。うるさ型の保護者である私などから見ると、それでも心配やら違和感やらは尽きませんけれども。やはり、私などはどうしても自分の子どものことを中心に見ますからね。
 薄れてきた記憶をたどると、最初は「習熟度別編成」に対しての批判が先生方からも保護者からもある中で、「少人数」として始まり、子どもの意向を取り入れながらの「習熟度別」の編成にシフトしていきました。でも、確か以前もお話したように、「習熟度別」にすると、中間層のクラスは「少人数」とは言えなくなってしまうという事態があったのです。どうしても習熟度の低い子ども達への指導を個別でしっかりやろうとすると、そちらのクラスの人数をより少なくする必要があったからだろうと推測しておりましたけれども。
 
 
  

>「少人数指導」というのは、少なくとも「一人一人の児童・生徒にきめの細かい指導を実施する」ことが目的

これは事実ですか?
本来、目的を達成するために何かをするのですが、
何かした後で目的を作るというのも、よくあります。
後者ではありませんか?
前者でも後者でも、
やっていることは同じと思われがちですが、
結果に大きな差が出ると思います。

個々の差を個人に求めるのか、制度に求めるのか?
伊吹という政治家は、
個人に求めるのが保守で、制度に求めるのが革新、
という表現で保守と革新の違いを説明していました。
暗象さんは、
時には制度に求め、時には個人に求めていますが、
今回の結びは、
>このような指導のあり方にも目を向ける必要があるかもしれません。
です。

“指導のあり方”に課題を見いだすのであれば、
先生個人の指導のあり方なのか、
制度としてのあり方なのか、明確にしてください。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/41698037

この記事へのトラックバック一覧です: 少人数指導のあり方にも注意と関心を!:

« 反響の大きかった記事のコメントについて | トップページ | 小学校学習指導要領解説が公開されています »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より