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他ブログ内での批判に応えて

そのようにして親の責任にするのが教師の同僚性というものですか・・・。 身近にも、「私はやめろと注意したんですけど子どもが聞かなくて・・・」と言い訳をする教師がいました。 それは「指導」ではなくて「指(ゆび)」ですねと指摘せざるを得ません。 言い訳であることが自覚できない教師は多いのでしょう。 何よりも危険な遊びで命を落とした子どもや保護者は不憫でなりませんが、そういう結果を導いた教師の日常がどのように「同情」を導くか、それとも「怒り」の矛先となるかは、事実関係次第でしょう。
 すずめ先生の記事に以上のようなコメントをした私に対して、以下のような批判が寄せられました。

1 私の記事は攻撃的である。
2 子どもに危険を察知する能力が育たないのは、管理主義や過保護が原因ではないか。
3 能力主義的で、やってできない人の痛みがわかっているのか。
4 すぐにレッテル貼りをする。そのレッテルを鬱陶しく思う人の心がわかるのか。
5 他のクラスよりいじめや登校拒否が多いのではないか。
6 あたたかい集団が見えてこない。

 この場で簡単にお答えいたしますと、
 1については、教師の問題点を指摘すること=攻撃という意味なら、確かに攻撃的かもしれませんね。
 2については、私の使う「管理」という用語の中には、リスクコントロール(危機管理)という意味も含まれており、そのノウハウを子どもや教師が徹底できれば、今回の事故は防げたと思います。本当に過保護だったら、危険な場所にいる子どもをだっこして安全な場所に移動させてあげるでしょう。
 3については、やってできないことを悩んでいる教師ならまだ救われますが、そのことを完全に棚上げし、子どもや保護者のせいにする教師にはそういう教師に教育されて伸び悩んでいる子どもや保護者の痛みをぜひわかってほしいと熱望します。
 4については、大人ならば、つけられてしまったレッテルが誤りであることを証明すればそれで終わりでしょう。
 組合に入るのが当然の地域と、組合に入ることを望まない教師が多い地域がありますよね。ですから組合を総括して批判することはできませんし、そもそもその内部事情は組合の種類によっても全然違うでしょうから、「組合」というものに何かのレッテルを貼ることはいたしません。
 すずめ先生へのコメントにも書きましたが、私がそこに書き込んだのは、すずめ先生個人への意見を公表しただけで、組合の人たちへの意見ではありません。
 5・6については、担任をもっていればという仮定の話ですね。私は、一部の教師のように、現任校の子どもの具体的な様子や指導の概要をこのブログで公表するつもりはいっさいありません。守秘義務違反とまでは言いませんが、もし子どもや保護者に読んでもらうとしても、ためになる情報を提供しようと考えています。
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教育」カテゴリの記事

コメント

直接彼女を擁護するようなコメントはありませんでしたが、まったく関係のない話題の記事に明るい感じでコメントされている方はひとりおられました。私は間接的なエール、良く言えばやさしさでもあると感じました。ただ、そこについて触れずにエールを送るような友人は、私はあまり必要だとは思いません。むしろ本当に心を許せる友人であれば、指摘してほしいとさえ思います。それが友達です。

よたよたあひるさんの誠意にぜひ応えていただきたいですね・・・。
でも、これはすずめ先生個人の問題ですね。
ところで、すずめ先生を擁護するコメントを入れられた現場の教師はいらっしゃいましたか?

よたよたあひるさんのところでのコメントを、こちらでも書かせていただきたく思います。

私はどうして親へ責任を求める意見が真っ先に出るのだろうという、根本的なものに対する違和感を批判したつもりです。

こう言うと傲慢のように聞こえるかもしれませんが、私の主張は妥当であると思っています。
しかし正論だからこそ文句があるなら掛かってこい的な印象を与え、それが彼女のブログを出入りする人たちの鼻につくのでしょう。

彼女贔屓で彼女の肩を持つのは、彼女が人間的に好きで親近感を持っているという常連の心情・情。そこには論理とか正しさとかはありません。非常に情緒的な肩の持ち方であり、仲良しサークルのようにも見えます。

それに対して杓子定規に正論を振りかざしたところで、彼らにはおそらく届かないのでしょう。「情け」と「論理」では同じ土俵には上がれません。正攻法でいっても抵抗勢力と受け取られ終わるだけでしょう。

ただ、今回は彼女贔屓の人間が反論に盛り上がるばかりで、彼女自身からは納得のできる説明がされていないのは非常に残念なことと思います。現場では主力となるべき世代なのですから。

pig
>すずめ先生の記事のコメントから発生したものなので、このブログの記事は、すずめ先生と関係があるのです。

これを認めたら無限増殖しちゃうんじゃないの。さらに、Psycheさんみたいに、同じ内容の批判をあちこちに書く人間が出てきたらどうなるんだろう?
そううことを想像すると、真に建設的な議論をしたいなら、認めるべきではないのでは?

>肝心のすずめ先生の発言には何の問題もないと考えていらっしゃるのでしょうか。

許容範囲でしょう。内容を精選し一言一句考えて書いているブログとは捉えていませんから。
逆に、今回すずめさんの批判にまわった人たちの思考に、怖いものを感じています。「絶対的被害者の立場」を錦の御旗をかざすかのように利用し、他の人たちをコントロールしようとしていると感じています。
被害者の立場によりそうポーズをとり、二度と同じことがないように‥‥と、過剰対応を求めることが、今の「生きづらい社会」をつくっているんじゃないかな? 福岡の公務員の飲酒運転事故、あれは私は事故じゃなくて“事件”だと思うが、世論は被害者の立場と“事故”というとらえ方で対応策をつくり、諸外国では考えられない厳しい社会になりました。20時まで飲んだ翌日に自動車に乗ったら、捕まる基準です。(話がずれたね)
結論的には、すずめさんの記事程度のことで、錦の御旗をかざしながら執拗に攻撃する必要はないと思っています。今回、すずめさん攻撃の記事やコメントを書き込んだ人たちが、先生だというところに違和感があり、違う表現方法で導くのが仕事だろう‥‥と思ったりもしています。
すずめさんをどうとらえるか、どう導くのか‥という観点で、あなたやPsycheさんのコメントをみると、“いじめ”“登校拒否”“モンスターペアレンツ”といわれる問題の原因が、先生にあるようにも感じてしまいます。

>いちろさんはどのようにお考えでしょう。

すずめさんには申し訳ないが、あのブログに論理性や整合性を求めてはいませんよ。逆に言うと、すずめさんという人物としての思いを飾らず綴っているところに、人間的なものを感じて読ませて貰っています。
すずめさんのブログを読む限り、自らを完全無欠の人間であるとは思っていないようです。
そうとらえているものにとって、あなたやPsycheさんの批判は、論理的ではあっても人間的ではなく、すずめさんの足を引っ張る意図は感じるが、向上させようという意図が感じられない。だから、最初のコメントで「攻撃的」と評しました。明らかに、あなたやPsycheさんが、自らのブログに書き綴ってきた内容に矛盾しています。

ここ数日の書き込みの内容、第三者的に読み返してみてはいかがでしょうか? 

いちろうさんへ
>あなたの書いた記事は、すずめさんの記事のコメントから発生したものであり、すずめさんには関係のない場所であること。・・・
とあったので、意味がわかりにくかったのですが、ようやくわかりました。
私が書いた記事は、すずめ先生の記事のコメントから発生したものなので、このブログの記事は、すずめ先生と関係があるのです。
私は自分自身の問題点も含め、このブログの中で教師がなぜ保護者の理解を得られないか、たとえば、すずめ先生のような発言を教師がした場合、それはまずい発言でしたねと他の教師である私がしたとき、なぜ保護者から批判されることになるのか。そういうことも考えているわけです。
Psycheさんのコメントは、私がブログで取り上げているすずめ先生の問題点を指摘していただいただけで、何の問題もないと考えています。
いちろうさんは、批判の方法や述べ方が教師として不適切と感じていらっしゃるようです。そのことはこちらが反省すべきこととして、どう理解していただこうか考えておりますが、肝心のすずめ先生の発言には何の問題もないと考えていらっしゃるのでしょうか。
すずめ先生は、コメントの中で反省されているようですが、いちろさんはどのようにお考えでしょう。
よろしければご回答ください。

>いちろうさん、「あなた」ってだれのことですか?
漢字を読んであげたら、小学校の低学年でもわかる気がするんだけど、学力低下って、子どもたちのことだけじゃなかったのか?

>コメントの内容については、書き込みをしていただく方の自由を基本的には尊重し、管理主義的にはならないようにしています。
身贔屓というやつ? 他人のブログにはしゃしゃりでであれこれいうのに、お友達には自由を尊重ですか。依怙贔屓しないでって言われるんじゃないの?

>批判に対して誠意をもってお答えしているつもりですが、それに対するご感想は何かございませんか。
ん‥。誠意大将軍くらいの評価?

感想は、モンスターペアレンツを生むのは、先生の人間性が原因なのかもしれないと感じました。私もモンスターの一員に加えてもらったと感じていますが、どうしてそうなったのか? 生育歴ですか? 性格ですか?
日々の書き込みを信じると、kurazohさんは、自身のどこに問題があるのか、問うていることと思いますが、ヒントは私の投稿にちりばめてありますよ。

いちろうさん、「あなた」ってだれのことですか?
コメントの内容については、書き込みをしていただく方の自由を基本的には尊重し、管理主義的にはならないようにしています。
いちろうさんにお願いですが、私はあなたの批判に対して誠意をもってお答えしているつもりですが、それに対するご感想は何かございませんか。

typhoon困ったもんだ‥
まず、あなたの書いた記事は、すずめさんの記事のコメントから発生したものであり、すずめさんには関係のない場所であること。そこへ、内容の具体がないままに「自分の発言の問題点を反省して修正したのか、自己保身のため修正したのか。私は前者だと思っていただけに残念です」との書き込み。これを読む人はどう捉えるのだろうか? この2人に上下関係を感じさせ、尚、さらにすずめさんの方を貶めています。
ここのプログはメルアドを入れなければ投稿できない所なんだから、報告したけりゃmailですればいい。そう考えると、明らかに違う意図を持ち書き込んだものでしょう。
なぜ、あなたはそういうことがわからないのか? 先生を看板にあげているブログで、こんな程度の低いことが起きて尚、わかりやすく説明しろと言うあなたのレベルはどれだけ低いの?
意味がわからなかったら、「投稿 Psyche | 2008/06/22 23:37」の感想を、400字程度でお願いします。

いちろうさん、すみません。
ご質問をもう少しわかりやすく説明していただけますか?

shockいいですね (*⌒O⌒*)

>自己の改善に役立てようとする人はよい指摘、
>役立つ批判と捉えられるでしょうし、

いいですね。この考え方。
実は、この3つ程下にPsycheさんの投稿があるのですが、
ほぼ思考回路の98%ぐらいが同じのあなたに教えていただきたい。
他人だからできないというのであれば、
あなたの見解を知りたい。

あの投稿の意図はなんですか?
あなた方の言う所の、発展的なものだと思うのですが、
私の頭ではどうも理解ができないのです。
是非、ご教授ください。  lovely

いちろうさんへ。
ご回答ありがとうございます。
コメントだけでなく、ぜひ私のブログの記事もご覧ください。
その上で、批判がいただけるようなら幸いです。
何か問題を指摘されたとき、それを自己の改善に役立てようとする人はよい指摘、役立つ批判と捉えられるでしょうし、ただ不快になるだけの指摘だとしたら、してもらいたくなかった指摘、迷惑な批判という意味になるでしょうか。

annoy
Psycheさん。
ここにこんな書き込みをする意図は何?
あなたのいうところの「指摘」の範囲なのか?

どうも違和感があるんだよなぁ。
ごくせんに出てくる腐った優等生タイプの言動?
理解ができない。
少なくとも、あなたが嫌いな
何も生まない悪口の類いじゃないの?

おばちゃんのブログに修正を評価するコメントをしたのですが、削除されてしまいました…。修正は自分の発言に問題があったことを認めた証として、一定の評価はするという内容だったのですが。修正版でも仮定の話を持ち出したりなど、まだまだ削除すべき内容はありますが、一定の評価はしていたのです。主力となる年代の教員であるだけに、非常に残念です。自分の発言の問題点を反省して修正したのか、自己保身のため修正したのか。私は前者だと思っていただけに残念です。

pig
1.について
「教師の問題点を指摘すること」を攻撃といっているわけではありません。ある意味、揚足取的な批判をするための指摘であることをさしています。
2.について
「危機管理のノウハウ」の問題ではなく、あなたの各所の投稿文から、子どもを自分のコントロール化に置くことに重きをおいているように思え、それをさして過保護・管理主義ととらえています。で、それが現在の教育的諸問題の根源ではないのかとの指摘です。
3.について
「能力主義的考え方」について、あなたは先生に対して認める発言をしていますが、一人の人間として子どもの前と大人に対しての使い分けをしているんだろうけど、子どもはあなたが考えているほど鈍感じゃないですよ、ということ。だから、子どもたちの間に、「できる・できない」をベースとしたいじめがあるんじゃないのかという推測。
4.について
「レッテル貼」、大人の話じゃなくて、あなたの思考の話です。私が貼られて嫌だという話じゃなくて、子どもに対してそういう対応をしているんじゃないのか、という話。
5.6.について
ネット上に公表しろという話ではありません。あなた自身を振り返って欲しいということです。
私は、教育の世界では、ただのお宅系保護者で、実務的な話になると対応できませんが、情熱や愛ならわかるつもりでいます。
文章読解を思い込みや推察と位置づけられたら、知らないもの同士、何の会話にもなりませんがね。
そうそう、「批判」と「指摘」の使い分けのポイントはどこですか?
※メルアドが必須とは知らなかった。メールは送らないでくださいね。今のところ迷惑メールが入らないアドレスなので。

ちなみにフォローするわけではありませんが、kurazohさんはかなり攻撃性は低いと考えています。記事で言われているように「指摘=攻撃」と認識すればそうかもしれませんが、その図式が歪んでいるのは言うまでもありません。


脱線して、塾の話。塾にどのようなイメージを持っているかについては、自分がどのような塾に通ったか、あるいは勤務したかという要因が大きく影響しているように思います。私は塾に肯定的なイメージを持っているので、そういう意味では恵まれているのかもしれません。給与が今よりUPし、安定した待遇にしてくれれば、言うことないのですけれど(笑)やはり教員は給与以外の面において恵まれていますからね。給与もそこそこありますし。ちなみに橋下知事と公務員の交渉を見て、教育ブログを思い出し苦笑いしてしまいました。

子どもや保護者の批判は内容が具体的すぎて、危ない気がしますが、・・・それは自己責任ということで・・・。
私の場合、必要なことは子どもや保護者に直接言ってしまうので、わざわざブログに書くことはありません。

私もすずめ先生の意見に違和感を感じました。そしてそれを記事にもさせていただきました。

問題を問題と認識できていないことが、最も厄介に思います。仮に問題ではないと言うのであれば、向き合って話していただけるとありがたいのですが…。自己保身ばかり考えず、率直な意見をうかがいたいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「沈黙の王」より
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  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より