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不信拡大の悪循環からの脱却策

 よたよたあひるさんからのご返答は、どれも教育の世界の人間にとってはたいへん参考になるご指摘です。
 このような他業種との交流が教育界には少なかったので、独善的、保身的、閉鎖的な特質が教員には染みついてしまいました。
 「開かれた学校づくり」「人事考課」等は、このような教員の独善性や閉鎖性によってふくらみ続けてきた不信を払拭するというねらいもありますが、そういう政策への反対・反抗という態度によってさらに不信を拡大するという悪循環に陥っています。
 以下、よたよたあひるさんからのコメントをご紹介します。

 コメントへのお返事エントリーありがとうございました。ただ、私がコメントに書いた、  >自己申告をもとに指導してくれる  >上司の対応によって見方、書き方が  >変わるような気がします。 は、「恣意性」の問題ではなくて、もっとテクニカルな部分のことです。

 学校の先生方のことはわからないのですが、医療や福祉の領域の職員だと、直接援助の仕事はとてもよくできる・・感度がよくて利用者のツボをつかむことがとてもうまいけれど、この手の作文が上手くない人は多いです。公立施設であっても、意識は専門職であんまり自治体職員という感覚が薄いということもあると思いますが、動いてナンボという意識が強いのかもしれません(主任試験のマークシートでも一番成績の悪い職種が看護でついで福祉職だったような記憶があります。論文はなおのこと苦手な人が多いです)。ちょっと脱線しましたが、感覚ではつかんでいるのに、うまく言葉にできないでいるものは、一人の職員の「職人技」になってしまいます。ちょっとしたガイドがあると、この「職人技」をスタッフ全員への共有財産にできると思うのです。
  
 また、私の日記で書きましたように、個々の職員にも得手不得手はありますから、利用者に対するのと同じようにストレングス・モデルの指導がうまく伝われば、自分でも不得意だと思っている領域への取り組み方が見えてくる場合があると思うんですよね。今のうちの上司は、国語表現の問題も含めて、その産婆術のような指導をしてくれるんです。

 教員の場合も「意識は専門職で自治体職員という感覚が薄い」ことは明らかです。
 問題はこの「専門性」自体にもあり、ボランティアできた大学生や塾からの講師の方がよっぽど教えることを工夫して、「先生よりわかりやすい」と言われてしまったり、「学習指導要領」をろくに読まず、自己流の教育内容・教育方法を毎年踏襲したりという教員が多いのです。
 100マス計算による効果が伝えられるとすぐ飛びついてまねをし出しますが、子どもはそれ自体の充実感はあるとしても、そのために本来の学習を行う授業時間が削られるわけで、もし計算が終わったらぐったりして次の学習に向かう姿勢がまったりムードになってしまったら意味がないわけです。
 それを導入して高い成果を上げてきた先生というのは、100マス計算のように競い合う方法がよかったのではなくて、あくまでも普通の学習の指導力が高かっただけなのです。
 自治体職員としての感覚が薄いことは、一人が取り扱う文書の数が少ないことも原因に上げられます。
 教師は「書類が多い」と文句をいいますが、それは程度問題で言えば、生徒が「宿題が多い」と言っているのと同じです
 宿題がほとんどでない学校の生徒は、週に2~3回宿題が出ると多いなあと思うかもしれませんが、毎日宿題をこなすのが習慣になっている学校の生徒は、一日に何個もまとめて出されて多いなあと思うわけです。
 自治体職員というより公務員には「文書主義」という原則がありますが、狭い職場であるため口頭での伝達も多く、また「口伝」によって仕事の方法が伝えられるという伝統があることが、教員に「文書主義」の原則が身に付かない背景になり、「また書類ですか、めんどうくさい」という反応になってしまう。
 学校現場では省かれている業務に関係する「起案」という用語も、知らない教員は多いでしょう。
 これは、明らかにボタンのかけ違いによるものです。
 教え方、集団の指導の仕方などは、その場にいれば先輩から盗んだりすることができるのですが、文書作成・文書管理についてはモデルがそこにいないから難しい。
 いまだに書類が整理できない教員はたくさんいると思います。その方法がわかっていない。
 毎年ほとんど同じような書類もあるため、ときどき年度を変えないで出されてしまっても気付かないということがおこります。
 役所も学校も、書類のフォーマットというのは決まっているので、私はそのフォーマットのすべてを4月当初に新しくその学校に入った教員にはすべてわたすべきだと考えています。
 その年は担当でなくても、いつかは自分のところにやってくる。
 そして、教務や生徒部、保健、図書・・・組織がいつ何をどのようにして動いているかを把握する
 副校長も、文書が来てから調査を開始するのではなく、あらかじめ決まっている調査については依頼文書が来る前に用意しておく。
 忙しい時期に文書作成に時間を取られずにすむ工夫は教員にも管理職にもいくらでもあります。
 頼まれもしない学級通信は喜んで毎日出し、同僚から頼まれて行事の要項の作り方を教えるのは抵抗がなくても、「上からおりてきた」文書だけはいやいややる。子どもと同じレベルです。
 人事考課で自己申告書を作成するときは、自分の能力や学校における立場と学校の現状と課題を踏まえて目標を考えるのですが、欠点はわかっていても、では何をどのように目指せばよいかがわからない。
 子どもには学年当初に「今年度の抱負」という作文を書かせるでしょう。
 この作文を踏まえて、抽象的な目標が書かれたら、具体的な目標を別につくり、その目標を達成するための方法も具体的に考えさせる。そのような生徒指導が習慣になれば、では教師としての自分は・・・となるはずなのですが。
 教員が不信拡大の悪循環から抜け出すには、ひとつはより良い教育を実践することとその方法を自分にもあてはめること。もうひとつが、他業種の常識から学ぶべきことを学びとることでしょうか。
 今、学校が開かれだして、中が変わらないまま開いてしまったものだから、ますます不信が高まってしまう学校が出てきた。一部の教員は、いつまでたっても「外部の人間にはわからないことなのだから」と閉鎖性をあらわにします。
 この閉鎖性は、明らかに子ども集団にも伝播しています。
 早く不信の悪循環から抜け出さないといけません。
 子どもたちにとっては、それは二重の意味で、重要なことです。にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より