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親を変えるプロジェクトを・・・。

 教育学者や学校の教師のメッセージは、なかなか親には伝わりませんね。
 「勉強頑張ったらゲーム買ってあげる」
 「塾に通うんなら携帯を買ってあげる」
 多くの親が使う手でしょう(もちろん無条件で与える親もいるでしょうが)。
 帰りの電車などで、ゲームに熱中している中学生をよく見かけます。
 携帯をめぐっては、たとえば給食費を払わなかった親に、「子どもの携帯の契約を切れば払えるでしょう」(当時、1ヶ月で1年分の給食費に当たる金額を携帯で使った子もいました)とまで言ってしまうようなこともありました。
 「こんなにほしいものを買って上げて、遊ぶ金も渡してあるのに、何が不満で荒れているのかわかりません」という問題行動を繰り返す子どもの親。
 教師の資質が問われるなどというレベルの問題ではありません。
 明白な虐待(目で見える範囲に傷が残る、ガリガリになっても食事をとらせないなど)なら止められても、手をかけて甘やかすタイプに歯止めをきかせる手段はありません。
 「自分たちが何をやっても無駄だろう」とあきらめている教師も多い問題がそこにはあります。
 国や調査機関も、「朝食をいつも食べているか」とか、「家族そろって夕食を食べられるのは週に何回か」とかいうレベルならまだ聞けるでしょうが、親の教育に問題があることを子どもに悟らせてしまうような調査はかけにくい。
 教育社会学者のように、親の収入の格差が学力の格差。しかもそれは次世代にも受け継がれる。貧困・低学力の連鎖。などと平気で言えてしまうのもすごいところですが、学校は子どもにも親にも夢や希望を与えてあげたいところです。
 「教師が変われば学校が変わる」という言い方がありますが、「親が変われば学校(子ども)が変わる」モデルケース事業をどこかでやらないでしょうか。
 法令で動くより、成功例をつくってそれをまねしたくなる自治体、学校が増えるようにした方が、無駄がないでしょう。
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コメント

これはココログの初期設定ですかね。
第三者に自分のメールアドレスを知られたくない方もいらっしゃるのではないかとも思われまして・・・。

ちなみに本論とはズレるのですが、メールアドレスの入力は必須になっていますよね?しかし、コメント欄には表示されないように見受けられるのですが。是非教えていただければと思いまして。

親というのは我々指導者よりも長く子供と時を過ごすものですから、味方につけると子供の学力は向上します。もちろん、生活指導も含めて。

私は懇談で親から勉強に関して要求をつけられるのは嬉しい。強力なタッグを組むきっかけになる絶好のチャンスです。塾は身軽ですから軽いフットワークで対応できますので(塾生が多いと大変なのですが…)、そこは私が塾を選んだ理由の1つです。

おっしゃるように、親の意識を向上させる取り組みもほしいですね。関心がない親に理解してもらうのは難しいかもしれませんが、ボーダーライン上の親に理解してもらえれば十分意味があります。

私の塾では個別の懇談以外に、受験に臨む上でのカリキュラムなどを説明する保護者会なども行っています。しかし、今回kurazohさんがおっしゃるようなレベルのことはなかなか言いにくいものです。同じ服を毎日着てくる子供などを見ると、親ももう少し配慮してあげればといつも感じます。そういった小さなところから、人間関係のほころびが出るケースも多いでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より