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夏休みの塾ライフ

 公立学校の教師がのんびりデスクワークをしたり研修に出かけたり書類を作っている間に、進学塾はかき入れ時になります。
 その受講料が半端でなく高い。
 「あんたに今までいくらかけてきたと思っているの!」とカツを入れられる将来を恐れながら、夏期講習に通う生徒たちは、決められたメニューをただ黙々とこなしていく・・・。夜は夜で通常の塾の学習・・・・。
 だれがどう考えても、公立で言えば学校に支払う6年間分の教材費より高い受講料をひと夏につかって、長時間学習をする生徒と、伸び伸び外で遊んだりプールに行ったりゲーム三昧で過ごす生徒とでは当然のように学力差が開くでしょう。
 しかし、夏休みというものが、信じられないほど苦痛の毎日になるであろう子どもたちを想像するだけでも本当に寒気がします。
 一方では、経済的に恵まれないために、友達がみんな塾に通っているのに、そこで一緒の時間を過ごせない子どももいます。
 夏は遊んだ経験と8月下旬に宿題に追われる経験しかない自分にとって、もし家庭に経済力があり、塾に通うような学校生活を送っていたら、どんな人間になっていたのだろうかと考えると、どちらかというと嫌な予想が先に来ます。
 夏に入る前に、塾に通わない生徒から、「夏休みはどんな勉強をすればいいのですか」と聞かれることがあるのですが、私は必ず「どんな勉強がしたいの?」と聞き返すようにしています。
 「学校は何も教えてくれない」とお叱りをいただきそうですが、学べる題材はいたるところに転がっていることを常に教えているつもりなのですが・・・。
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教育」カテゴリの記事

コメント

公立学校の教育の質がこれまで以上に低下すると、親にとって塾に通わせることが「義務教育」になってしまいます。
私も3年間、塾や家庭教師の講師をしていましたが、年収は教員1年目より多かったんですよ。
ありがたいバイト先だったのですが、大学生にしては美味しすぎたのかな・・・と。
ある理由で他の講師より時給も高かったりしたのは、少々心苦しかったです。
何より、親御さんの経済的負担というのは大きい。
こんな経験が、夜スペに賛成する理由の一つになっているのかもしれません。

kurazohさんは塾に通われた経験がないのですか?そうであれば、イメージが先行しているかもしれません。

まず、これは塾の大きさにもよりますが、大手ではなければ講師と生徒の距離感は学校の先生よりも近いです。そして、若い講師であれば悩み相談などをする生徒も多いです。

教師と違って自分を評価する立場の人間ではありませんから、親や教員でもない立場の講師が良い聞き手となるケースは多いように思います。また、成績を上げようと思えば子どもの生活レベルにまで踏み込む必要があるわけですから、そうなるケースは相対的に多いかと。生活レベルに踏み込むということは、そういうことです。

家庭教師のトライがCMにて夜の遅くまで塾に通う子どもを寂しく描写し、「家庭教師ならホラ、こんなにあったかいんだよ!」的な映像を流していたのですが、あれは私の塾では批判の的に晒されてしました(笑)学校生活において勉強ができないというのは、子どもにとってツライことだと思います。もちろん塾が必要がどうかは、各家庭が判断されればよいことでしょう。

キリノさんコメントありがとうございます。
キリノさんは塾に通わせてもらえる家庭の、かつ夏の塾ライフを自ら楽しめる派なんですね。
公立学校の教師の質についてもよく分かっていらっしゃる。
ゆとり教育という言葉には隠された意味があって、単純に教育内容を減らして、習得度合いを高めつつ「生きる力」を身に付けさせようとする教育という一般的な捉え方と別に、経済的なゆとりがあって、学校教育で足りない分を塾でいくらでも保障させられる教育。
二極化が進むのは当然ですよね。
しかし、それを食い止めることができるのは公立学校の教師の役割であり、何を目指して教育すべきかということをブログでは主張してきています。

私にとってこの記事は塾・予備校に対する偏見の塊だとしか解釈の仕様がありません。

親から夏期講習を強く推し進められイヤイヤ予備校に通い受講料を無駄にしている人が全てではないんですよ。
受講料を有効活用している人の気持ちも分かって欲しいです。
…まぁ、良い先生に出会えるかどうかにも左右されますが。

もし公立の学校に「良い先生」がゴロゴロといるのなら、私立を受験する学生は減るでしょうね……。

学校の授業では黒板に書かれたことや先生の言葉を必死でノートに書きとめ、テスト前にはルーズリーフにまとめる自分を客観的に見ると、学校の授業ってなんなんだろうと本当にふしぎに思います。
そして塾の予習がしたくなりますね。

学ぶ意欲というものは家庭環境や先生によって大きく変わると思います。ゆとり教育と呼ばれているものを受けているの私たちの世代から、良い先生が沢山生まれるといいんですが。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より