ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 議論における「引き算」の効用 | トップページ | ~だからこそ必要な指導 »

教師のストレスの原因

 教職というのは、確かに精神的なストレスを抱えやすい職業です。
 休職者のデータもそれを物語っています。
 休職者を減らす取り組みを行政が考えたとき、「ストレスを取り除く」施策は大切だと思いますが、一部で、近年の業績評価人事考課制度、管理職による指導等が教職員のストレスを助長しているという見解があります。
 自分の職務の成果を直視しなければならない人事効果制度は、たとえば責任感が強く、目標が高く、自分を責める傾向が強い人にとっては、ストレスの原因になることは考えられます。
 しかし、この制度をしっかり浸透させることによって、教師が仕事のどこでどのように悩んでいるか、同僚との協力関係はどうか、生活指導ではどうか、教科の専門性ではどうかなど、具体的な問題点を管理職が把握し、学校運営の改善に生かしたり、相談にのったり医療機関や研修先を紹介したりするチャンスも増えます。
 教師のストレスは「一人で抱え込まない」ことが大切で、360度のフォローの体制が必要です。そういう共通理解があれば、極端な話、自己申告書をオープンにして本物の360度評価を実施することも不可能ではありません。最も関心を呼ぶべきなのは、中学校ではあまり共通理解がないと思われるその教師の教科の専門性について。どんな研究をして、どのような成果を残してきた人なのか。専門以外にもどんな分野に関心があり、どんな興味を抱いているのか。普通の人物像を超えた「人間観」の共通理解ができるのは、たとえば大学附属のように、毎年研究発表をしているような学校では可能です。それを全公立学校に求めようとは思いませんが、「意外」と言っては失礼かもしれませんが、おもしろい発見がたくさんあるかもしれません。
 さて、ストレス対策ですが、ある地域では、スクールカウンセラーの仕事は生徒ではなく教師の話を聞くことだろうと思ったこともありました。
 多くの教師が人とのコミュニケーションとか社会性の欠如によって精神的に追い込まれるケースがありますが、これは「社会性を実社会で身に付けてきたはずの社会人」を教師に登用した場合でも実際に起こっています。
 いちろうさんから、私のような教師が「統計的な事実として、年間3万人もの人が自殺しています。直接の原因を作っているとはいいませんが、気づかずに遠因をつくる片棒を担いでいるんじゃないか」とか、引きこもりを増加させる社会全体の傾向をつくっているなどと批判されていますが、このような情緒主義的な意見に対して、それが情緒主義であるがゆえに、容易に反論できない問題を抱えているのも教職という「公的な」立場の人間です。
 中には、「私共空間」の住人になってしまい、たとえば児童の死亡事故という重大な事実の領域の問題について、保護者の教育のあり方という価値や想像の領域の問題を前面に出してくるような教師がいますが、教師の指導が情緒主義、主観主義に陥ると、重大事故というのは本当に防ぎにくくなることを経験を通して知っているので、こういうケースでは発言することを抑えられません。
 情緒主義的な批判に対しては、たとえば、「自殺者3万人のうち、学校問題が原因の自殺者数は約1%です。」などというデータを挙げてこたえることも可能ですが、この数字に関しては、少ないから問題はないなどと言うつもりはありません。年間300人を超える学校問題の自殺者数というのはかなり多いと思っています。
 なお、自殺者の6割弱は50歳以上、自殺原因の7割強は、健康問題と経済・生活問題です。もちろんそれは主要な原因であり、「学校時代にいじめられた経験がある。恵まれた家庭ではなかった。職場の人間関係がぎくしゃくしていた」などという問題も背景にあるかもしれません。
 教師というのは、その立場が公的であるがゆえに責任も重く、全体の奉仕者としてどのようなことに価値を見出していくべきか、常に追求していかなければなりません。ストレスがかかるのは当然の仕事なのであり、それに強くなる自己防衛システムがあることは、教師の資質として欠かせないものと言えるかもしれません。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

« 議論における「引き算」の効用 | トップページ | ~だからこそ必要な指導 »

教育」カテゴリの記事

コメント

この前、とある県の教育関係におられる方々とお会いする機会があったのですが、「こどもたちが元気に育つには何が必要だと思われますか?」と尋ねられたので、私は「まずは、大人が健康、元気であることが大切だと思います」とお答えしました。

現在、日本において教育のあり方を真剣に考えてらっしゃっているのが、とても伝わってきました。

元気じゃない(元気の定義は様々だとは思いますが)大人が何を言っても、そのセリフにはパワーはなく、ストレスで疲れている体での行動には、良い影響力を発信するパワーがあるとは思えません。

人間は、一人で生きているわけではないので(人と人との間の相互作用)、人生の先輩の私たちが、まずは、心身共に健康で、こどもたちに、「みんなは本来、それぞれに尊重されるに値する、人間なんだよ~」と、発信していきたいな・・と感じています。

あら! 思いが募って、こんなコメントしてしまってよかったのかしら?

もし、失礼になってましたら、申し訳ありません!

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/41650793

この記事へのトラックバック一覧です: 教師のストレスの原因:

» 教職員の心のケアと「同僚性」・・児童転落死事故について その2 [よたよたあひる’S HOMEPAGE]
 前回記事の続きです。 実は、前の記事に続いてもう一つ記事を書き上げていたのですが、UPしようとした時に、楽天がメンテナンスの時間に入り・・・消えてしまいました(泣)・・・ 杉並区立第十小学校での、児童転落死亡事故に関して、「危機管理」という視点以外に、...... [続きを読む]

« 議論における「引き算」の効用 | トップページ | ~だからこそ必要な指導 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より