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2008年6月

少人数指導のあり方にも注意と関心を!

 よたよたあひるさんの記事へコメントさせていただたことなのですが、小学校における少人数指導の問題点を保護者の立場からも指摘しておきたいと思います。
 転落事故がおこった小学校ではどうだったかわかりませんが、2学級を3グループに分けるような算数の少人数指導を行う場合、当然担任外の教師が指導に加わることになります。
 新聞発表では、「担任教諭」ではなく「女性教諭(なぜ「女性」「男性」と断る習慣があるのかよくわかりませんが)」と表現されているので、もしや、と思いました。
 私が授業観察させていただいた学校だけでなく、子どもの通う学校にも、児童の能力・性格・行動の特性はおろか名前までわからずに「一斉指導」形式の授業をしている教師がいました。
 当然指導主事の時代には指摘せざるを得ないケースでした(これは、学校の教育課程で示していることと反することになり、校長の責任で改善してもらうべき重要な点だからです)。
 「少人数指導」というのは、少なくとも「一人一人の児童・生徒にきめの細かい指導を実施する」ことが目的であり、それができて、子どもの能力が高まることが最大のメリットなのですが、40人のときと変わらない指導では意味がないのです。それどころか、名前やクラスまで覚えていないというのは大問題です。
 今回の事故を通しては、このような指導のあり方にも目を向ける必要があるかもしれません。
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反響の大きかった記事のコメントについて

 すずめ先生のブログへのコメントが反映されず、自分が書いたことが消えてしまったので、若干表現が変わってしまうかもしれませんが、こちらで発表したいと思います。少し加筆もしています。
 コメントを入れたのは、すずめ先生の「お騒がせしてすみません」という題の記事で、この件については私が多大な責任を負っており、その件についてお詫び申し上げるとともに、よりよい教育をつくりあげるために今後も何をすべきかを追求していきたいという趣旨のものでした。
 教育ブログの住人(ブロガー)というのは、程度の差こそあれ、だれもがこの国の教育のあり方、子どもの将来について心配ごとや課題意識があり、今自分が何をしているか、何をすべきか、何が求められているのか、理想の教育とは何かなどについて、高い関心をお持ちの方々だと思います。
 私のように、堂々と傲慢にも「教育は、教師は、どうあるべきか」と主張する人間もいれば、すずめ先生のように慎み深く、謙虚に記事を発表される方もいるのが、多様性を認め合う教育ブログらしさだと考えています。
 どちらかというと私が保護者や子どもの視点に立って、「教師にはどうあってほしいか」(今回の死亡事故への対応、反応という点についてもそういう視点でした)ということを中心に追求しているのに対して、すずめ先生は「教育の現場がどうなっているのか」を具体的にお示しいただいている、そんな違いがあるのでしょうか。
 決して、どの組織に入っているか、入っていないか、どのような人格の人間なのかということが問題なのではないので、立場や人間性についての批判を受けることは、だれも望んでいないし、意味がないことだと思います。
 私の学校では、頻繁に教育論議がおこっています。傍目から見ると喧嘩にしか思えないような言葉の応酬がありますが、決して相手の人格を傷付けようとする意図はなく、子どもに力を付けさせる理想の教育とは何かを渾身の力をこめて議論しあうときにあふれ出すエネルギーが、尋常ではないのです。
 そういうエネルギーが他人のブログのコメント欄にまで及んでしまったことは、お詫び申し上げなければならないことかもしれません。
 「有益でした」と言って下さる方はごく限られているのかもしれませんが、私がブログにコメントを入れさせていただくときは、そのブログから十二分に学ぶことがあり、その感謝の気持ちを込めての意見表明であることが多いです。気持ちをくんでいただける方には、本当に感謝申し上げます。
 人によっては、そのような教育へのエネルギーの向け方が、本来の目的とは違う形に流れてしまうということが、今回のブログへの反響を通してよくわかりました。
 ブログを誰にでも読める形で公開し、コメント欄を用意していても、批判的なコメントが寄せられることを極端に嫌がる方、そのようなコメントに対して、過剰に反応して反論される方、批判的なコメントに対してコメント欄で反論をされる読者、ブロガーを擁護するために批判される読者、その擁護を喜々として受け入れるブロガー、批判に正対し、自己の正当性を論理的に説明しようとするブロガー・・・この世の中に、「無益なつきあい」というのは究極的にはないと考えていますので、感情ではなくあくまでも論理にこだわっている場合には、ブロガーや読者と関係を切るようなことは避けたいと思います。
 今、教育現場は、教育基本法、学校教育法が改正された後の新しい学習指導要領が発表され、間もなく「解説」が公開されることで、移行期間を経ての新しい教科書に基づくさまざまな指導内容、指導方法、指導計画等を構想すべきタイミングにあります。
 もっと目の前のことで解決すべき課題、こなさなければならない業務も山ほどあるのですが、どの仕事も、すべて「子どもに本物の力をつけさせられるかどうか」にかかっているので、手を抜くことは許されません。
 プロの教師は、こういうことを、子どもに「そういう重責に追いまくられている忙しそうな存在」と感じさせず、いつでも余裕とゆとりがあるように思わせなければならないという存在でもあります。
 決して、言論の場と指導の場を混同されないよう
 このことは、「評論家になるな、実践家であれ」という教訓を受け継いでいる学校の教師だけでなく、どの世界の人にも共通して認識していただきたい原則であります。
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豊富なメニュー【「朝令暮改の発想」その2】

 教師の逆コンピテンシーにも共通する「朝令暮改の発想」のメニューは非常に豊富で、どのように料理すべきか迷うほどです。
 「時間の無駄の典型は成果に結びつかない会議と資料づくり」
 「人間は『○○』のせいにして自分が納得しやすい話をつくりたがる」
 「『○○のせい』にして責任逃れをしたときからすべては終わる」
 「『できない』という間に『できない理由』になっているか考える」
 「『なあなあ』『まあまあ』に流れたときから停滞が始まる」
 「口先だけの『評論家』をやめ、仕事のできる『実務家』になろう」
 「『真の競争相手』は同業他社ではなく『絶えず変化する顧客ニーズ』である」
 「『顧客のために』ではなく『顧客の立場』で考える」
 「『素人の強さ』をあなどってはならない」
 「『本当にそうだろうか』と常に問い直し、ものごとの本質をつかむ」
 「目的と手段をはき違えてはならない」
 「『基本の徹底』ができないと『変化対応』もできない」
 「部下は『常に自己正当化する存在』だから追い詰めることも必要」
 「上司はいざというときは部下にかわって『答え』を出さなければならない」
 「『悪い情報は知りたくない』と思う人間には真実はつかめない」
 「人は『変えること』に抵抗をする」
 「『自分を守ろうとする心理』に妥協しない」
 厳しく教育現場を見つめ直してみたいと思います。
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逆風のときに問われる力量【「朝令暮改の発想」より(その1)】

 私はこれまで、企業経営者の本を読んでも、あまく多くの共感を得ることはありませんでした。
 ただ、最近手にした鈴木敏文(セブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長・CEO)著『朝令暮改の発想 ~仕事の壁を突破する95の直言~』(新潮社)には、教育失敗学にそのまま適用できる考えばかりが紹介されており、ここで取り上げる価値があると思うようになりました。
 さっと読んでこの本を購入することにしたきっかけは、「はじめに」の中で、

 チャンスをつかめるかどうかは、才能ではなく、ものの見方や、仕事の取り組み方にかかっています。世の中でいわれていることを鵜呑みにするのではなく、「なぜ、そうなのか」と常に問題意識を持ってクエスチョンを発し続け、自分で掘り下げて考える習慣を身につけることです。そうすると、日々起きるさまざまな出来事に対し、自分なりに理解力がついてきます。

 アゲンストのときこそ、取り組み方の差が大きく表れる。自分の仕事のフォームをもう一度見直す上で、この本が一つのヒントになれば、何よりの幸いです。


とあったこと。
 また、「仕事は毎日が瀬戸際」というフレーズ。
 まさに今の私は文字通り、瀬戸際です。ルーチンワークを除き、校務関係、教科関係、外部関係、合わせて約20のプロジェクトが同時進行で、常に結果が求められています。
 「人間は一度仕事でうまくいくと、その喜びの余韻にいつまでも浸ろうとする習性があること」、「仕事の中で惰性に陥る人がいること」は教師の世界でもよくあてはまり、惰性や妥協をなくさない限り、問題の解決は図れないという考えにも共感できます。
 「去年と同じ(内容、レベル、・・・意味はさまざま)でいいのでは」と言われることがありますが、それでは決して満足できません。
 冒頭のゴルフのたとえは秀逸でした。
 ゴルフでフォローからアゲンストに風が変わると、普通の人は「ついていない」と思う。
 アゲンストのときはボールの中心を打たないと、どこに飛んでいくかわからない。
 ということは、実力が結果にストレートにあらわれる。
 日ごろから熱心に練習し、正しいフォームを身につけて、技術を磨いていれば、アゲンストのときほど努力が報われ、努力を怠っていた人が出せないような成果が出せる。 
 ただ、ゴルフは競技で一緒にプレーしていた人と競うスポーツですが、教育現場はそうはいきません。
 アゲンストになるともろくも崩れ去るような弱体化した教師集団では困るのです。
 「95の直言」の中には、当たり前のこともたくさんあるのですが(その当たり前ができずに苦しむ場合も)、教師の逆コンピテンシーにかかわる部分を取り出して考えてみたいと思います。
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学習指導要領改訂による混乱とは?

 コメントをいただいた方からの要望で、記事を削除し、新たに内容を改訂してお示しいたしました。
 そのためコメントもいっしょに削除されてしまいました。ご了承ください。
 新しい学習指導要領が、かなりの期間及び相当の回数の検討を経てできあがることは、中教審の答申や教育課程部会の審議内容を読まない教師はよく知らないと思います。
 学習指導要領の各教科編には、「改訂の経緯」や「改訂の趣旨」「改善具体的事項」「改訂の要点」等が冒頭に示されています。そこを読めば、今回の改訂がなぜ行われたのかを知ることができます。
 一部に、学習指導要領の改訂が教育の混乱を招いてきたと考えている人がいますが、改訂されてもあまりその趣旨を理解せずに昔ながらの授業を実践している教師が多いのは、学習指導要領があくまでも基準を示したものだからです。
 一方で、たしかに「混乱」する部分があると言えるのは、たとえば教科書会社が、新しい学習指導要領の趣旨に沿うように新しい教科書を作らなければならないのですが、具体的にこう教えろとは学習指導要領は書いていないものですから、「どうやってつくったらいいか」と悩むわけです。編集者、執筆者の中には「混乱」している人がいるかもしれません。
 また、授業時数がかわるので、新しい時間割づくりなど、現場が苦労することはあります。
 教育政策へのスタンスは、非常に長いスパンが必要である部分と、「豊かな人間性をはぐくむべき時期の教育に様々な課題が生じている」以上、それらの「課題に適切に対応していくことが、これからの教育に求められている」こと、また、国際化、情報化、科学技術の発展、環境問題、高齢化・少子化等の様々な面における大きな変化は、10年先のことも十分に見通せないため、今後の変化を踏まえた新しい時代の教育をしっかり検討し、それを学校教育でも反映していくような短いスパンで実践すべき部分があるのは当然のことです。
 学習指導要領そのものも問い直すべきではないかという意見もありますが、たとえば今回の改訂では、いわゆる「はどめ規定」が見直されるなど、さらに学校の裁量が増え、自由な教育ができるように改善されています。
 (ただ、はどめ規定が示された現行の学習指導要領の趣旨をふまえると、内容を厳選して「これだけは身に付けさせて」ということが結局は実現できなかったため、今後は指導者や学習集団の力量による格差が拡大することは避けられないことが予想されます)
 学習指導要領の具体的な内容については、私も批判したいことはたくさんあります。ただ、もし公務員が法令に準じる学習指導要領を自主的に、そして批判的に読む習慣を失っているとすれば、公教育への信頼は失われていくばかりだと考えれます。
 (現実に、学習指導要領を読まなくても、それに準拠した教科書が作られて、文部科学省の検定で合格させている以上は、それをもとに教えれば、教育は成り立ちます。しかし、学習指導要領の改訂の趣旨を踏まえないことで、マイナスの要素が生まれることは多いと思います。)
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学習指導要領を読まない教師

 学習指導要領の趣旨を誤解している方たちがいます。
 「生きる力」とか、「新しい学力観」など、改訂に際してのキーワードの意味すら認識していない教師もたくさんいます。(なお、新しい学習指導要領は、現行の学習指導要領の理念を引き継ぎつつ、教育基本法や学校教育法の改正もふまえ、その理念の実現するための具体的な手立てを確立する観点からの改訂です。)
 「移行措置」についても、「教科書会社が資料を作ってくれるだろう」と頼り切っている教師が多いことでしょう。
 新聞などのマスコミからの情報を鵜呑みにしている教師もいます。
 学習指導要領というのは、内容の基準を示すものであって、細かな内容や教育方法については現場や地域の特色に応じた創意工夫にまかされている部分が大きいものです。
 そのため、「どうやって教えたらいいか分からない」という先生方のためにさまざまな研修が実施されています。
 私は基本的に、50年たっても教師の教え方はそれほど変化していないのではないかと考えています。
 内容の増減はあっても、20~30年前の教師と、今の教師を比べて、何がどれだけ変わったというのでしょう。
 教師はほぼ10年ごとに学習指導要領が変わって、10年区切りの世代が引退していきますが、特別リニューアルされるわけでもなく、昔のスタイルを引き継いでいる部分が多いのではないでしょうか。
 学習指導要領では、各学校がその特色に応じて工夫すべき点をたくさん示してあります。
 本当に目の前にいる子どもたちのために工夫している教師が多いのかどうか、それを問うべきときだと考えています。
 学習指導要領の改訂ごとに、現場がしっかり教育内容、教育方法についてふり返り、よかったことを引き継ぎつつ、課題があったことを改善していく。このサイクルは、「もっと短い方がいい」という意見もあるのですが、私は10年がいい区切りだと考えています。
 学習指導要領には、細かい具体的内容や方法は示されていません。それは、それを示すと国定教科書ができてしまうからです。
 現場の困惑は、よりよい指導法を編み出し、教科の専門性を磨くための産みの苦しみだと捉えています。
 私は「学び直し」「目標と内容、その構成の再検討」の機会として、積極的に改訂を捉えています。
 人から説明されるのをただ待つのではなく、具体的な質問ができるくらい読みこなせる教師が求められていると考えます。
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「役」意識を喪失し始めた日本人(序)

 学校で発生する事件や事故は、ネグレクト系、虐待系の親が多いから増えている、という単純なものではないようです。
 確かにそういう親は増えているかもしれませんが、そういう親の子どもでも、学校生活だけはしっかりできている場合があります。
 それは、教師集団の力というものもあるかもしれませんが、子ども集団というものが、「いじめ」にも向かえるような強いエネルギーを「良い面」にも発揮できる力をもっているからだと考えられます。
 行事のときの子どもの姿を見ればよくわかります。
 指導力のない教師より、よほど子どもは自分が認めた子どもの言うことをよく聞きます。
 ですから、教師は子ども集団に適切なはたらきかけをして、よきリーダーを育てることを大切にしてほしいものです。私も、近く学校で「リーダー講習会」を企画します(クラブの責任者は必修、その他の生徒も参加自由)。
 親の話に戻れば、本当にしっかり子どもをしつけている親でも、必ず反抗期の洗礼を受けるものです。「うちの子に限って・・・」なんていう話は、ドラマに限らず現実でもいまだによく聞きます。
 子どもとはそういうものだと捉えることが第一歩です。
 だから、家庭では親が、学校では教師が、地域では地域の人々が、子どもにあたたかい目を向けてあげていてほしいのです。
 学校でおこった問題を、「親が・・・だから」という話でしめくくるのだけはやめてほしいと思います。
 息子の学校近くの自治会で「挨拶運動」を毎朝してくださっている方々には、本当に頭が下がります。
 そして、学校に入ったら挨拶をしない・・・なんてことは本当に悲しくて見ていられません。
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~だからこそ必要な指導

 学校事故を根絶することは難しいと思いますが、その発生を少しでも減らし、安全・安心な学校づくりをするために、教師ができることをぜひもう一度しっかり考えてほしいと思います。
 先生方は、3階の教室の窓から身を乗り出して1階の友達と話をしている生徒をすぐに注意していますか。
 混雑している校庭で危険なボールの扱いをしている子どもを注意していますか。
 そもそもそのような休み時間に、だれか一人でも生徒の安全確認をしている教師はいますか。
 「危険を察知する能力が今の子どもには身に付いていない」という認識があるのならばなおさらのこと、「忙しい」「他に用事がある」という言い訳をせずに、安全確保のために努力すべきなのです。
 杉並区と杉並区教育委員会は、すでに訴訟対策をとっているようです。
 教師の監督責任について、公的には一切言及していません。
 教師自身もたいへんなショックを受けていると思いますので、心のケアは最大限行っていくことが必要でしょうが、短い間隔で「二人目」を出さないためにも、うちうちではしっかり声をかけているのでしょう。
 繰り返しますが、今の子どもに「危険を察知する能力が欠如している」認識があるのなら、「ですから事故発生の確率は昔より高くなっていますよ」ではなく、事故を減らすための努力をこれまで以上にしようとする姿勢がほしい。
 どんなに対策を講じていても、事故が起こってしまえば、どんな学校でも教師でも「悔いが残る」結果になるでしょうが、「起こっていたかもしれない事故が防げている」感覚を努力の中から感じ取っていける教師集団でありたいものです。
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教師のストレスの原因

 教職というのは、確かに精神的なストレスを抱えやすい職業です。
 休職者のデータもそれを物語っています。
 休職者を減らす取り組みを行政が考えたとき、「ストレスを取り除く」施策は大切だと思いますが、一部で、近年の業績評価人事考課制度、管理職による指導等が教職員のストレスを助長しているという見解があります。
 自分の職務の成果を直視しなければならない人事効果制度は、たとえば責任感が強く、目標が高く、自分を責める傾向が強い人にとっては、ストレスの原因になることは考えられます。
 しかし、この制度をしっかり浸透させることによって、教師が仕事のどこでどのように悩んでいるか、同僚との協力関係はどうか、生活指導ではどうか、教科の専門性ではどうかなど、具体的な問題点を管理職が把握し、学校運営の改善に生かしたり、相談にのったり医療機関や研修先を紹介したりするチャンスも増えます。
 教師のストレスは「一人で抱え込まない」ことが大切で、360度のフォローの体制が必要です。そういう共通理解があれば、極端な話、自己申告書をオープンにして本物の360度評価を実施することも不可能ではありません。最も関心を呼ぶべきなのは、中学校ではあまり共通理解がないと思われるその教師の教科の専門性について。どんな研究をして、どのような成果を残してきた人なのか。専門以外にもどんな分野に関心があり、どんな興味を抱いているのか。普通の人物像を超えた「人間観」の共通理解ができるのは、たとえば大学附属のように、毎年研究発表をしているような学校では可能です。それを全公立学校に求めようとは思いませんが、「意外」と言っては失礼かもしれませんが、おもしろい発見がたくさんあるかもしれません。
 さて、ストレス対策ですが、ある地域では、スクールカウンセラーの仕事は生徒ではなく教師の話を聞くことだろうと思ったこともありました。
 多くの教師が人とのコミュニケーションとか社会性の欠如によって精神的に追い込まれるケースがありますが、これは「社会性を実社会で身に付けてきたはずの社会人」を教師に登用した場合でも実際に起こっています。
 いちろうさんから、私のような教師が「統計的な事実として、年間3万人もの人が自殺しています。直接の原因を作っているとはいいませんが、気づかずに遠因をつくる片棒を担いでいるんじゃないか」とか、引きこもりを増加させる社会全体の傾向をつくっているなどと批判されていますが、このような情緒主義的な意見に対して、それが情緒主義であるがゆえに、容易に反論できない問題を抱えているのも教職という「公的な」立場の人間です。
 中には、「私共空間」の住人になってしまい、たとえば児童の死亡事故という重大な事実の領域の問題について、保護者の教育のあり方という価値や想像の領域の問題を前面に出してくるような教師がいますが、教師の指導が情緒主義、主観主義に陥ると、重大事故というのは本当に防ぎにくくなることを経験を通して知っているので、こういうケースでは発言することを抑えられません。
 情緒主義的な批判に対しては、たとえば、「自殺者3万人のうち、学校問題が原因の自殺者数は約1%です。」などというデータを挙げてこたえることも可能ですが、この数字に関しては、少ないから問題はないなどと言うつもりはありません。年間300人を超える学校問題の自殺者数というのはかなり多いと思っています。
 なお、自殺者の6割弱は50歳以上、自殺原因の7割強は、健康問題と経済・生活問題です。もちろんそれは主要な原因であり、「学校時代にいじめられた経験がある。恵まれた家庭ではなかった。職場の人間関係がぎくしゃくしていた」などという問題も背景にあるかもしれません。
 教師というのは、その立場が公的であるがゆえに責任も重く、全体の奉仕者としてどのようなことに価値を見出していくべきか、常に追求していかなければなりません。ストレスがかかるのは当然の仕事なのであり、それに強くなる自己防衛システムがあることは、教師の資質として欠かせないものと言えるかもしれません。
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議論における「引き算」の効用

 しょうさんより、たいへん元気づけられる記事をご紹介いただきました。ありがとうございます。
 私は、面と向かって行う議論においても、「引き算の習慣」というものが大切だと考えています。
 ネットの世界ではなおさらです。
 言葉だけを頼りにすると、相手の人物像に対する多くの憶測、予断、思いこみなどがふくらんでいき、それらが言葉の意味の取り方と相乗効果を発揮してますます「敵らしい敵」に変貌していきやすい。
 どんどん「足し算」が進んでいく。敵意に発展すると、それは「かけ算」になっていく。
 予断が累乗されていくと、本当にとりとめのないことになってしまいます。
 ブログでは、相手も見えないしこちらも生身の体は見られていないことから、どうしても言葉が強くなりがちです。
 そういう言葉やイメージを、受け取る側はなるべく「引き算」をしていって、本質的な部分を中心に議論していける環境が大切だと思います。
 すでに敵視されている方からは「勝手な論理だ」とさらに火に油を注ぐことになるかもしれませんが・・・。
 それは現実の議論を行う場でも言えることです。
 独自の主張をするときの私の口癖は、「引き算して捉えてください」というものです。
 私が議論してきた方の中に、「本質的」という言い方で抽象的な世界にすぐ逃げていく人がいました。現実は本当に醜いものしか描けない。
 大事なのは、「本質的」かつ「具体的」な内容で議論すべきだということです。
 ただ、寝る前の時間つぶしというか、余興のために書いている日記に、真剣な言葉で批判が寄せられることは気持ちがよいものではないことはわかります。
 ですから、具体的な批判は、一般の方のブログには基本的にしないと思います。
 ただ、教師とか、公的な立場を公表して見解を述べられる場合には、その立場の人たち一般への誤解が広がらないように、建設的な議論が可能な批判はしていきたいと考えています。
 それが、具体的かつ本質的な問題であればなおさらです。
 子どもたちのいじめや人間関係のトラブルの原因に、思いこみや憶測、誤解の「足し算」や「かけ算」があるケースをたくさん見てきました。そして、その解決に、「引き算」や「割り算」の法則や「方程式理論」を紹介して、よりよい人間関係を築く方法をアドバイスしてきました。
 子どもたちには、決して議論することを恐れないこと、議論を通して苦々しい思いをせずにする方法を指導していきたいと考えています。
 自分の話は、少なくとも自分の子どもに読まれても恥ずかしくない内容で展開していきたいです。
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公教育への信頼性の確保について

 いちろうさん、わかりやすい内容のコメントありがとうございました。
 簡単で申し訳ございませんが、私の考えを述べさせていただきます。
1 ブログのコメント欄は何のためにあるのでしょうか
 私は、ある方への記事やその記事へのコメント、またそのコメントに寄せられたコメントから、自分のブログで自分の意見を述べることに問題はないと考えています。
 いちろうさんは「これを認めたら無限増殖しちゃうんじゃないの」とおっしゃいますが、それはその記事に関心のある人が考えを述べ合ったりいろいろな考えを知ることになったりする人たちの範囲に限定されます。
 「Psycheさんみたいに、同じ内容の批判をあちこちに書く人間が出てきたらどうなるんだろう?」については、そういう批判をしている方がいらっしゃることを多くの人が知る機会になり、その方への批判や、その方への共感をよぶことになるわけで、そもそもネットの世界はこういう敷居の低さに存在価値があるわけでしょう。
 「真に建設的な議論をしたいなら、認めるべきではないのでは?」というご意見については、寄せられたコメントが気に入らなければ管理人は自由に削除できるわけで、他人に対して「批判的な書き込みはするな」「他人のブログの記事を批判する内容は書くな」という要求をすることは、自由主義の国では認められないでしょう。
2 すずめ先生の発言への批判について
 このことについては、事故にあった子どもや保護者の立場をふまえて、強い憤りを感じたことは否定しません(この点については、私よりもPsycheさんの方がはるかに上でしょう)が、いくら「日教組の何が悪いのよ!」というタイトルのブログでも、教師という立場の人が「危険を察知する能力を育てなかった親の責任だ」という趣旨の発言はまずいのではないかと批判したわけです。こういう発言が、たとえ「内容を精選し一言一句考えて書いて」いない、論理性や整合性のないブログでも、公教育の信頼性を損ねる原因になる可能性があり、教師の中にはそういう発言を不適切だとはっきり言える人もいるのだということを示しておかないと、ますます信頼の低下を招いてしまうと危惧しているのです。
 いちろうさんと私の認識が完全に違うのは、私は「すずめさんの記事程度のこと」とは捉えておりません。
 すずめ先生は、実践のあり方について意見を問うような記事も書かれており、清掃指導のあり方など、自分がコメントできる範囲で書かせていただいたこともあります。
 そういう意味では、同じ教師としての同僚感覚があるのです。
 すずめ先生が謙遜しておっしゃるような、そんないい加減な先生だとは決して思っていません。
 だからこその批判なのです。
 すずめ先生を「導く」などという僭越なことはできませんが、疑義を呈することは許されると考えています。
 不適切なコメント、自分に都合の悪いコメントなら、それを削除する権限はすずめ先生にあるのです。
3 「生きづらい社会」と「生きやすい社会」の違い 
 「被害者の立場によりそうポーズをとり、二度と同じことがないように‥‥と、過剰対応を求めることが、今の『生きづらい社会』をつくっているんじゃないかな?」というご指摘については、まず「被害者の立場によりそうポーズ」という表現についてですが、実際に被害にあわれた方への配慮に欠けていると感じてしまいますし、学校で子どもの命が失われたことをショックに感じています。さらに、自分の子どもを学校の危機管理の甘さが原因の事故にあわせたくないという意識を強く持っていますから、決して「ポーズをとっている」わけではありません。
 近い記事で述べましたが、学校の安全点検の実施というは、決して「過剰反応」ではありません。やれば必ずどこかで問題が発見されます。
 「生きやすい社会」の中で命が奪われてしまうのなら、私は多少「生きずらく」ても生きることが確実に持続できる社会をつくっていきたいと思います。
 「生きずらい」・「生きやすい」はほとんど人それぞれの主観の問題であって、生活指導が厳しいことを不満に思う生徒もいるし、生活指導が甘いことを不満に思う生徒もいるわけです。
4 「“いじめ”“登校拒否”・・・といわれる問題の原因が、先生にある」ことについて
 この点については、私がこのブログの中でもふれてきていると思います。
 一つ一つの事例について、原因と結果、背景や影響、ことの経過をしっかり分析していけば、教師がここでこうすればよかった、ここでこうしたのはよくなかったなどということは、必ず出てくるでしょう。
5 教師の仕事には、論理性・整合性が求められる
 「人間は失敗を犯す、完全無欠ではない生き物である」・・・当然のことです。
 だからこそ人間には何が求められているのか。教師には何が求められているのか。
 これを、私は論理性や整合性だと捉えています。
 もし人の足を引っ張ることを考えれば、わざと失敗を失敗として認識せず、(おかしいと感じているのに)「私も同じ意見です!」と言えばいいのです。
 向上させようとする意思があるので、批判するのです。
 すずめ先生が、これを攻撃と捉えられたか、批判と捉えられたかは、ブログのコメントからしか判断できませんが、もし「攻撃と受け止められそうな言論を封じる」社会になったとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。
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批判の海への航海で求めるもの

 よたよたあひるさん、コメントありがとうございます。
 私の場合は、現場のときも教育委員会のときも、主義・主張、法令遵守の立場というのを徹底していましたから、そこへの批判は当然覚悟の上で、場合によっては相手に考えを変えてもらうために必死になって説得するようなこともします。そのおしつけがましさを「傲慢な態度」と受け取られ、それが原因で聞く耳をもたなくさせてしまうというのは、明らかに失敗なのですが、私にはどうしても「孫子の兵法」を使いたくないケースがあるわけです。
 (今回の一連の批判がそれです。同じ意見のブロガーもいらっしゃいます。)
 さまざまな質の批判を受けますが、それにくじけないのは、さまざまなバックグラウンド(特に全国民が必ず学校という場を経験してさまざまな教師に接してきているがゆえに)がある人をしっかり想定し、こういう人ならこう言ってくるだろう、それに対してはどう対応したらいいだろうと常に頭を回転させているからだと思います。行政のときに身に付いた癖と言ってもいいかもしれません。いわゆる「想定問答集」を頭の中につくる癖です。
 しかしそれは、行政の場だけで役に立つものではなく(実際にはほとんどの質問はされませんからかなりの部分が無駄になるのですが、だから紙には書かず、頭の中に入れておくのです)子どもに対する指導のあり方と重なる部分が非常に多い
 反抗的な態度、権威やプライドを傷付けようとする攻撃的な態度が表れる裏には、子ども自身がさまざまな人から受けてきた傷があるわけで、批判を受けながらその深さを感じ取ろうとする余裕が教師には必要なのですね。
 現場と違って教育委員会というところは、基本的には法令に沿って上司の指示に従って職務を遂行するところですから、批判を受けたとき、「それは私のせいではないんですが・・・」という思いが頭をよぎってしまいがちになり、対応に誠意を込められなくなる原因になるのですが、とにかく「特定の人の利益を追求する立場ではなく、あくまでも全体の奉仕者として、公共の利益という価値を追求する立場として仕事をしている」感覚を忘れないように努力しました。
 主義・主張というのは、自分自身がつくりあげてきた「価値」へのこだわりだと思います。
 けっして与えられた「価値」ではなく、信じきることができるようになった「価値」へのこだわりです。与えられた「価値」で動く教師では子どもは動かせません。
 道徳の学習の生命線もここにあります。
 もっと言えば授業の生命線でもあり、教育活動の生命線です。
 東京都教育委員会教育長から来た区市町村教育委員会教育長宛の通知文に、「写」と判を押して、ただ機械的に各学校に送るのではなく、たとえばその文書の送付状に、一言だけでも「子どもの命にかかわる重大な問題です。周知徹底をお願いします」と加え、「念を込める」「魂を込める」だけでも、紙一枚の重さは違ってくると信じていました。
 もしこの通知文一枚で、数百校のうち1校でも改善箇所が見つかり、措置が講じられれば、無駄にはならなかったことになります。
 安全点検というのは、定期的に行うこと、繰り返すことが大切で、前回は何となく通り過ぎてしまった箇所が、今回は何だか危険に見えてきた、壁に浮いている釘を発見した、などということが実際にあるわけです。
 そういう趣旨を、通知を送るときには一緒に伝えたい。
 こういう姿勢は、テスト問題一つとっても、「どういう力をつけてほしいのか」が明確に伝わるような工夫をすることに結びついています。
 自分がよって立つ価値の源泉。
 私の場合は、宮城谷昌光の小説がベースの一つになっています。
 よって立つ価値は、「人から学べる」ものが非常に多い。
 だから批判というのはその中からダイヤが見つかるかもしれない鉱脈だと考え、あえて自分から掘っていくこともしたいと考えています。
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小学校教師の専門性が高まらない理由

 Psycheさん、まずろさん、コメントありがとうございます。
 どこかでどなたかが指摘されていたかもしれませんが、教師は非常に「打たれ弱く」なってきています。
 「目の敵にされている」意識をもっているだけならまだ大丈夫ですが、実際に批判・追及されるとそれから逃れようと必死になり、関係のないことで紛らわせるような行動にでる。
 よく小学校の教師の授業力が向上しない原因として、授業で失敗しても、それを挽回する(授業のやり直しやフォローができる教師もいますが)チャンスは次に新しい学年をもったときまではやって来ないことがあげられます。
 そして、次の授業の準備に追われているので、その失敗の分析・反省もままならないうちにもう次の失敗を犯している。
 教科担任制を導入している小学校では、次のような効果が期待できます。
 中学校なら、4クラスの教科担任なら、最低でも4回は同じ単元の授業が繰り返せる。
 中には「4回同じことができてうらやましい」と思う小学校教師がいるかもしれませんが、中学校の授業はクラスごとに本当に独立したものになっています。板書や説明の内容は同じでも、生徒の反応はクラスによって全く違う。発言する子どもが違うのは当然ですが、AというクラスでのBというはたらきかけでCがでても、Dというクラスで同じことになるとは限らない。常に新しい何かが発見できるのです。
 短期間で、指導の改善が実施できます。だから専門性も向上させやすい。
 最も効くのが、授業の批判をしてもらうことです。(しかし、批判に耐えうるバックグラウンドや精神的な強さが・・・)
 小学校の場合は、「次の単元は何とか成功させよう」と考えているうちに目の前の授業を失敗する。
 そのときは覚えていた改善の方法も、何年かたってまたその単元を教えるときにはもう忘れている。
 「教育失敗学」では、「えっ、そんなことも失敗に入るの?」というレベルの話をしていますから、教師には厳しい内容になっていますが、授業での本当の成功を味わう難しさは、中学校の教師ならだれでもわかるはずです。
 短いスパンでの業務改善システム、授業力改善システムを実行できる学校でありたいものです。
 超短期、短期、中期、長期、超長期とスパンを分け、何をどう改善できるかを明らかにすることが学校のつとめです。
 そのためには、評価規準、評価者が必要
 究極的には子どもが評価者であり、被評価者です。
 子どもを見れば、その学校の教育がわかる。
 「親の質が・・・だから、仕方がないですよ」なんて陰で慰め合っている教師が多い学校には子どもを通わせたくないですよね。
 子どものとった行動と、教師が行った指導をしっかり結びつけて記録し、一人あたりどのくらいの量、「言ったけど子どもはやらなかった」「教えたけど子どもは理解していない」ことがあるか、考えてみてほしいものです。
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学校の危機管理体制のチェック方法

 6月18日の小学6年生の転落死亡事故を受けて、翌日付の「幼児・児童・生徒の安全確保について」という通知文が、東京都教育委員会教育長から都立学校長、区市町村教育委員会教育長宛に出されました。
 通常、公立小中学校へは、教育委員会からそのまま「写」の通知文として配付されます。
 この文書では、留意事項として、次の4点が示されています。
1 学校施設の安全点検を徹底し、危険箇所が発見された場合には早急に改善の措置を講じる。
2 幼児・児童・生徒に対して、学校施設の安全な利用について指導をするとともに、自ら危険を予測し、回避する能力を身に付けさせる安全教育の指導を徹底する。
3 学習指導に当たっては、安全に十分に配慮した活動内容・形態とする。
4 学校の全教職員が安全管理の共通理解について再確認し、学校の安全管理体制を組織的に強化する。

 以上の内容を、公立小中学校の先生方はお読みになったのでしょうか。
 「次の校長会のときに資料として出せばそれでいいや」という教育委員会があり、校長が都教委のHPをチェックしていなければ、校長もまだ知らないことになります。
 校長や副校長レベルだと、あのような重大事故が発生した場合は、必ずすぐに通知文が出されるのを知っていますから、届かなければ教育委員会に請求することもできます。
 学校には、まずはこのような通知がすぐに全教職員に周知できる体制が整っているかどうかをチェックすべきです。
 昔ながらの「上意下達」を批判的に考える人もいるでしょうが、もし通知文にあったような留意事項をすぐに実行していないのであれば、現場の教師が「今何をすべきか」という当たり前のことを知らせるこのような文書は絶対に必要なわけです。
 二度とこのような重大事故を起こさないためです。
 このような通知文を教育委員会が出すとき、教育長としては、「保護者にも危険回避能力を身に付けさせるように促すべき」だとは考えても、死亡した児童の保護者の立場や心痛を考慮して、そのことに触れないのは常識的なことです。2番の留意事項の中に、そのことも含めて教師が取り組むべきことを促しているわけです。
 通知文が、副校長のところで眠っていないか、次の職員会議まで出てこないのか。
 学校の危機管理体制をチェックするいい機会かもしれません。

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ブログから想像される教師像

 教師たちは、もし見ず知らずの人から、「あなたのクラスではいじめがよくおこっているでしょう」「子どもを自分のコントロール下に置くことに重きをおくような過保護・管理主義的な態度が、現在の教育的諸問題の根源ではないか」「子どもに対してレッテルを貼りをしているのではないか」「自分があなたのクラスだったら不登校になる」と言われたら、どのように対応するのでしょう。
 
 まず、学級担任の影響力が過大に捉えられる傾向があるのは、組織的・計画的に学年経営がなされていない学校が多いからでしょうか。それとも学級担任があまりに多くの問題をおこしてしまうからでしょうか。
 学年主任を数年間つとめていた私の経験から言うと、中学校では、学級担任一人ではなく、学年の教師たちの影響力がまんべんなく全クラスに行き渡るような工夫を繰り返し行いました。
 小学校の悪しき「学級王国」習慣を崩す意図もありますが、最大のポイントはみんなで一人一人を育てるという自覚を高め、できるだけ実践するということです。
 たまたま、現任校もまさにそのスタイルで教育実践に臨む伝統があり、子どもは「担任べったり」という習慣がいっさいありません(一応、行事の場面などではそれなりに立ててくれたりもしますが、あまりにも教師を教師と思わない態度が露骨になるのが困る場面もあります)。
 子どもは誰にでも相談できますし、クラスの子どもが他の教員に相談に行ったからと言って、担任も気にしません。
 保護者の意識としては、やはり担任を頼ろうとする気持ちが強いのかもしれませんが、自分が教えている教科ならともなく、他教科が苦手で困っていると相談されたら、自分はこうやって勉強した、とかいうアドバイスもやろうと思えばできますが、ぜひその教科の先生と面談を!としか言いようがありません。こういうことを「血も涙もない」と批判する子どもはいません。
 子どもも少しずつ、厳しい実社会に出て行くための準備を整えていくのです。
 すずめ先生は「スタッフワークが大切」とおっしゃっていますが、その点については私も全く同感で、だから上に述べたような実践をしてきているわけです。
 学年の教師たちがみんながみんな、単一のキャラだったら、子どもはおもしろくもなんともないでしょう。
 ですからキャラの役割分担というのもあるのです。
 現任校の話ではありませんが、それぞれキャラに名称をつけて、今年はこれで行く!と盛り上がる4月が何度かありました。
 実はいちろうさんのお察しの通り、私は「ヘタレ」キャラではありません。
 かなり厳しいことを要求する教師だったと思いますが、子どもが「当たり前のことを当たり前に行う価値」に気付く段階でほとんどその役割は終え、教科指導に集中することができました。
 教育については、ドラマで作られる歪んだイメージが強かったり、自分の体験が強烈だったりして、誤解を受けていることが多いですが、少なくとも小学校より、中学校というのは担任の影響力は弱く、子どもはより頼りがいのある教師(部活だったり、教科だったり・・・)を支えに、成長してくれます。
 ・・・といろいろ申し上げても、ご理解いただくには難しいかもしれませんが・・・。
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ルールづくりを通してのよりよい「社会」づくり

 よたよたあひるさんから、法教育、法関連教育を推進する立場の人、生徒会活動などの自治によって「生きる力」を身に付けることが必要だと考えている人には、たいへん参考になる具体的事例を紹介していただいたので、記事の方にコピーします。

娘達の学年は、入学当初から落ち着いたいい子たちではありましたが、先月の修学旅行では、「規則なしの修学旅行」を先生方から提案され、生徒達は「これまでやってこれたんだからなんとかできるんじゃないか」「いや、せっかくこれまでうまくやってきたのを修学旅行で失敗したら残念だからやっぱり共通ルールを作ったほうがいいんじゃないか」と大激論の結果、「YES OR NO ポケットに仏像を入れますか?」というスローガンを立て、持ち物の規則などはつくらない、でも、皆が気持ちよく過ごせる修学旅行にしよう、ということになったそうです。・・「仏像をポケットに」はありえない比喩ですが、要するに、学校で決めた紙に書かれた規則ではなく、常識を基準に自分達で判断しよう、ということですよね。
 ただし、日中の活動は制服着用、ということになっていました。これも学校が、というよりも生徒が決めたことだそうです。うちの娘などはかなりがっかりしていましたし、多くの保護者もそれまで修学旅行は私服が続いていましたからちょっとびっくりしていました。
 結果、なかなか良い旅行だったようです。

 
 ある立場の人たちに言わせると、「制服」か「私服」かにそろえること自体、憲法違反だ!ということになってしまいますが、常識的に考えて、同じ時間帯の話ならどちらかに統一するのは当然のことでしょう。
 学年という「社会集団」の生活から学べることは何でしょう。
 社会集団のルールづくりを考えるときには、まず「なぜそのようなルールをつくることが必要なのか」という問いからスタートします。「人に迷惑をかけないように」「自分勝手な行動をおこす人が出ないように」など、子どもでもさまざまな視点からのルールづくりへの価値観が確認できると思います。
 日中は制服で、宿舎では私服。
 これは、日常生活と同じルールを適用するという趣旨でしょう。
 日中は、公的な場で、公的な活動をしている。そのことを自ら示し、他の人からも認識してもらうために制服であることが必要である。
 私の言い方だと、「公共空間」の中に「私共(わたくしども)空間」が生まれないようにする、最も簡単な歯止めの方策ということになります。
 宿舎では、公的な集団としてお世話になっているとは言っても、部屋割などもあって、一種の家族生活のような少人数の単位の集団生活となる。緊張を和らげ、リラックスして自由時間などを過ごすためには、私服が最適であろう。・・・このような価値観による判断が下されたのでしょう。
 次に、ルールをつくるという選択肢以外に、問題を解決する方法はないか、議論させる。そして、ルールをつくってしまったときのデメリットを考える。
 そこで、「皆が気持ちよく過ごせる修学旅行にしよう」という目標を立て、自主・自律の精神でルールではなくそれまで培ってきた互いの信頼関係を重視し、目標の実現を図る。そういう選択肢が生まれたのですね。
 「私共空間」を生まないようにする方策としては、理想に近いものです。
 「みんながつくったルールは、みんなで守る」「みんなのための目標は、みんなでその実現を図ろうと努力する」・・・そういう価値観が共有できた学年は理想的な集団になりますね。
 ただ、規範意識に課題がある生徒については、教師ではなく、生徒集団からの強い圧迫感を受けることになります。「少数意見は尊重すべきなのだから、多数決で決まったことも守る必要はない」という「強い個人主義」の持ち主です。
 民主主義は全体主義に結びつきやすい傾向があることは、多くの人が感じ取っていることでしょう。ですから「民主主義」は究極のしくみではない。(朝鮮「民主主義」人民共和国を見ればわかりやすい?)
 中学校段階では、まず価値観というのが多様であること、だから当然「対立」という現象が生まれること。どうしたらその「対立」を「調整」できるか。「妥協点」をどこに見出すか。どうしたら「協調」できるか。・・・そんなことを考える習慣をつけさせることが必要です。
 すべての問題について「日本国憲法」を盾にする人たちが最もやっかいなのですが、そこを解決する教育が「法教育」「法関連教育」であり、その実践事例も徐々に蓄積されていくだろうと考えています。
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他ブログ内での批判に応えて

そのようにして親の責任にするのが教師の同僚性というものですか・・・。 身近にも、「私はやめろと注意したんですけど子どもが聞かなくて・・・」と言い訳をする教師がいました。 それは「指導」ではなくて「指(ゆび)」ですねと指摘せざるを得ません。 言い訳であることが自覚できない教師は多いのでしょう。 何よりも危険な遊びで命を落とした子どもや保護者は不憫でなりませんが、そういう結果を導いた教師の日常がどのように「同情」を導くか、それとも「怒り」の矛先となるかは、事実関係次第でしょう。
 すずめ先生の記事に以上のようなコメントをした私に対して、以下のような批判が寄せられました。

1 私の記事は攻撃的である。
2 子どもに危険を察知する能力が育たないのは、管理主義や過保護が原因ではないか。
3 能力主義的で、やってできない人の痛みがわかっているのか。
4 すぐにレッテル貼りをする。そのレッテルを鬱陶しく思う人の心がわかるのか。
5 他のクラスよりいじめや登校拒否が多いのではないか。
6 あたたかい集団が見えてこない。

 この場で簡単にお答えいたしますと、
 1については、教師の問題点を指摘すること=攻撃という意味なら、確かに攻撃的かもしれませんね。
 2については、私の使う「管理」という用語の中には、リスクコントロール(危機管理)という意味も含まれており、そのノウハウを子どもや教師が徹底できれば、今回の事故は防げたと思います。本当に過保護だったら、危険な場所にいる子どもをだっこして安全な場所に移動させてあげるでしょう。
 3については、やってできないことを悩んでいる教師ならまだ救われますが、そのことを完全に棚上げし、子どもや保護者のせいにする教師にはそういう教師に教育されて伸び悩んでいる子どもや保護者の痛みをぜひわかってほしいと熱望します。
 4については、大人ならば、つけられてしまったレッテルが誤りであることを証明すればそれで終わりでしょう。
 組合に入るのが当然の地域と、組合に入ることを望まない教師が多い地域がありますよね。ですから組合を総括して批判することはできませんし、そもそもその内部事情は組合の種類によっても全然違うでしょうから、「組合」というものに何かのレッテルを貼ることはいたしません。
 すずめ先生へのコメントにも書きましたが、私がそこに書き込んだのは、すずめ先生個人への意見を公表しただけで、組合の人たちへの意見ではありません。
 5・6については、担任をもっていればという仮定の話ですね。私は、一部の教師のように、現任校の子どもの具体的な様子や指導の概要をこのブログで公表するつもりはいっさいありません。守秘義務違反とまでは言いませんが、もし子どもや保護者に読んでもらうとしても、ためになる情報を提供しようと考えています。
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自由によって何を達成したいのかを問う教育

 よたよたあひるさんからのコメントをいただいて、公立中での「ラッキーなこと」とは何か、と考えてみました。
 生活指導のうち、服装指導は、一つの学校の中でも徹底するのは難しいものです。
 よく生活指導のレベルは学校から生徒が帰ったあとの靴箱を見れば一目瞭然だと言われますが、きっと服装をいじっていない生徒が多い学年は、靴のかかとをふんでいる生徒も少ないことでしょう。
 このような指導は、教師の中でも逃げたがる人が多く、学校全体がよくなるというのは異動がある公立学校では一時的な現象かもしれません。その分、荒れたときの修復にも時間がかかるものです。
 どうしてそこまでして服装指導にこだわるのかと聞かれれば、「だらしない格好や汚らしい身なりを嫌悪する人間が社会にはいるものだ」ということを子どもにわからせるためです。
 「自由の獲得」が目的になってしまっている人には、何を言っても無駄で、議論にはなりません。
 「自由を獲得する目的」を明確にして、その自由が何を達成するための手段であるかを問う教育が求められているのだと私は考えています。
 これはまだデータ数が少ないので仮説の段階ですが、同じ能力をもっていて、成績が高くならない生徒の共通点は、規範意識に問題があることです。
 これが実証されれば、教師だけでなく保護者にも、規範意識を高めるような教育に力を入れるようになるかもしれません。
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教師の愚痴のパターンは教育ブログを参考に!

 ブログを通して感じるのは、教員は愚痴を言う傾向が強いということです。ハードルの高いブログですらこうなのですから、日常会話の中ではもっと酷いと考えるのが自然というもの。愚痴の中に愛情があればいいのですが、なかなかそういうわけでもない。
   このような psycheさんからのコメントをいただいてから、こういう類の記事がないか探してみたら・・・、次々に見つかりますね・・・・。教師は傷をなめ合うというか、慰め合うというか、かばい合うというか、本当に記録にとって文字におこしたものを冷静に読んでみたら、自分がどれほど取り返しのつかないことを言っているかが自覚できるようなことを、平気で垂れ流しているものです。(自分の記事にも・・・ほとんどが愚痴と言ってしまえば愚痴ですね・・・)  ブログはともかく、勤務時間中に長々と愚痴を言うことができるのは、空き時間というものを持っていて、そのメンバーが一カ所にかたまるような環境のある教員に特有なものかもしれません。  最近紹介した本の著者は「そういう場合は聞かないふりをしろ、またはその場から立ち去れ」というのを「すごい習慣」としていますが、ついつい興味がわいて聞いてしまうのがこのタイプの話でしょう。  こういう教師たちの悪習は、そっくりそのまま子どももやっているのが笑えないところです。  自分の学校の教師たちは、職員室で愚痴ばかり言っているかどうか、よく知っているのは生徒たちでしょう。  空き時間に職務専念義務違反を犯して世間話に没頭できてしまうような学校は危ないのです。  教師の愚痴のパターン調べは、教育ブログを参考にしてみましょう。↓↓↓

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小学校の授業参観で常に感じる疑問

 以前にも書いたかもしれませんが、小学校の授業参観でいつも気になるのは、たいしたことのない質問をして、すぐ何かと手を挙げて発言させたがる教師が多いことです。
 なぜ、じっくり考えたことをノートに書かせるような活動が小学校で定着しないのでしょうか。
 その原因は、基礎・基本の「習得」場面で「活用させることで習得を促す」機会が少ないことが問題なのでしょう。
 そして、「主体的な活動」というのを、「ただ子どもが手足を動かしていること」と誤解している教師が多いからでしょう。
 じっくり教師の話を聞きながら、自分の頭の中で類似の題材を考え、整理し、ノートに書いて表現する、これも派手な動きはなくても非常に活発な「主体的な学習活動」と言えます。
 中学校も似たようなものかもしれませんが、思考が柔軟な小学生への教育が変われば、PISAの結果などにはすぐに反映されると思います。いかがでしょうか。
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「自由」を追求する論理

 退職校長先生のブログの中で、「就職した企業の制服のスカート丈を短くして勤務した女性と、その女性に頼まれて丈をつめた母親」の話が紹介されていました。
 これも「幸福追求権」の行き着く先でしょうか。
 企業の経営者が、「学校の制服のスカート丈が自由だから、こんなことになる。何とかしてくれ」という要望をしたということですが、この件で、「学校」や「企業」という社会的な場が、個人の欲望を消費する空間に取り込まれている様子がはっきりとわかりました。
 私自身の考えでは、スカート丈を極端にいじった場合は、その服は制服ではなく私服であると判断できます。
 「他の人よりかわいく見られたい」という欲望や衝動が強い子どもはどこにでも必ずいますから、「規制」「制限」「制度」「制御」の「制」がつく「制服」を少しでも大きくはずしにかかり、自己をアピールをします。
 昔からそういうことをしないと客がつかない職業がありましたから、市場原理から言っても決して不自然な行動ではありません。
 ただ、「社会通念」「常識」から逸脱し出す子どもが出てくるのは自然な現象だからと言って、ただ指をくわえて見ているしかできない大人や教師は、「常識」重視の世界で生きている子どもの目から見ると軽蔑の対象になるでしょう。
 学校で「自由」を満喫した子どもたちは、社会人になってもその「自由」は絶対的なものになってしまうのでしょうか。
 学校では何を教えればいいのでしょう。
 スカート丈を短くしすぎるな、というのは指導として当然の行為ですが、学校が教えるべきことは、その行為の目的や意味、意義に関する課題意識です。
 目的と手段・条件の混同が、教育の世界でもさまざまな場面にあふれていることが、ブログを読んでいるうちによくわかってきました。
 リベラリズムは、自由そのものに価値をおいてしまっているために、現実社会の具体的状況や社会通念から乖離してしまいがちなのです。
 自由そのものに価値があるのではなく、その自由によって意義のある何をなすのか、それこそが重要なのです。「意義のあるどんなこと」を追求しない「自由」は、目的についての意味を失わせ、人間から社会観や世界観を奪っていくのです。
 公立学校が特に、このような問題に蝕まれていることを、論理的に説明できている人はいるのでしょうか。
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夏休みの塾ライフ

 公立学校の教師がのんびりデスクワークをしたり研修に出かけたり書類を作っている間に、進学塾はかき入れ時になります。
 その受講料が半端でなく高い。
 「あんたに今までいくらかけてきたと思っているの!」とカツを入れられる将来を恐れながら、夏期講習に通う生徒たちは、決められたメニューをただ黙々とこなしていく・・・。夜は夜で通常の塾の学習・・・・。
 だれがどう考えても、公立で言えば学校に支払う6年間分の教材費より高い受講料をひと夏につかって、長時間学習をする生徒と、伸び伸び外で遊んだりプールに行ったりゲーム三昧で過ごす生徒とでは当然のように学力差が開くでしょう。
 しかし、夏休みというものが、信じられないほど苦痛の毎日になるであろう子どもたちを想像するだけでも本当に寒気がします。
 一方では、経済的に恵まれないために、友達がみんな塾に通っているのに、そこで一緒の時間を過ごせない子どももいます。
 夏は遊んだ経験と8月下旬に宿題に追われる経験しかない自分にとって、もし家庭に経済力があり、塾に通うような学校生活を送っていたら、どんな人間になっていたのだろうかと考えると、どちらかというと嫌な予想が先に来ます。
 夏に入る前に、塾に通わない生徒から、「夏休みはどんな勉強をすればいいのですか」と聞かれることがあるのですが、私は必ず「どんな勉強がしたいの?」と聞き返すようにしています。
 「学校は何も教えてくれない」とお叱りをいただきそうですが、学べる題材はいたるところに転がっていることを常に教えているつもりなのですが・・・。
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問題から逃げることを勧める教師

 山中伸之著「できる教師のすごい習慣」(学陽書房)をamazonで購入したのですが、またやられてしまいました。
 教育書の不親切な点として、読者のターゲットが明示されていないこと、漠然とした題名をつけておきながら、実はテーマが絞られているということがあります。
 著者ではなく、これは出版社側の責任でしょう。
 買ってみて初めてわかったのですが、この本の帯には、「時間を生み出す仕事術」という明らかな「サブタイトル」があります。

ちょっとした工夫や努力で時間はつくれる、驚くほど作業がはかどる。誰でも実践できる、仕事が早く正確で学級経営の上手な「できる教師」になるためのアイディア66項目

とあります。
 そして、ここが一番大切なことですが、この本は小学校の教師を対象にした本です。
 「下校は速やかにさせよ」何ていう「すごい習慣」はその典型的なものです。
 この本のタイトルである「できる教師」の意味が今一つ不明でしたが、若い教師が働いていくときの指針としては、初任者研修のつもりで読むことがお薦めできます。
 いずれにせよ、「できる教師」は、「教育関係の本は必ず本屋で買う」という習慣をもっている必要があります。
 さて、教師のコンピテンシーを研究している私としては、少々気になる「すごい習慣」があります。
 それは、本の中で、「(職員室内で、教師による同僚や保護者への)悪口が出たら席をはずす」という「すすめ」です。
 「そんな話に関わっていると、同じ考えだと思われたり、一緒に非難していたと思われてしまうこともあります。そんなふうに思われていいことは一つもありません」「その場を離れれば、自分の仕事もはかどる」
 この著書の「問題解決法の問題」 は子どもにでもわかるでしょう。
 私の場合は、その話の要点を記録にとり、文書にして非難していた教師に渡します。そうすれば二度と(少なくとも自分の前で聞こえるようには)非難の言葉は出なくなるでしょう。
 子どもにもこんな話をしたことがあります。
 隣の席のだれだれが、人の悪口ばかりを言っていてとても嫌な気持ちになる。どうにかしてほしい。
 私のアドバイスは、「その悪口の記録をとっておいてください」というものでした。
 以前にも書いたことですが、教師が飲んでタクシーに乗って、保護者の悪口を言っていたら、運転手も同じ自治体の学校に子どもを通わせている保護者で、とても嫌な気持ちになるとともに、学校への信頼を完全に失ったということがありました。
 ブログでも教師や保護者、生徒への悪口、批判、非難が散見されますが、ただの不満の垂れ流しではなく、教育の質の向上を目指したい教師ならば、できれば対象の人間に自分自身がどういうはたらきかけをしたのかを示してほしいものです。
 そういう話を聞き流す、垂れ流す教師にはいじめの発見や解決は困難でしょう。そういう教師の態度が同じような子どもを育てていることを「教育失敗学」では再三にわたって主張してきています。
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プロの教師と生徒のプロで創る授業 その4 本人なりのこだわりが必要 

 プロには、遊びと仕事の境目がありません。
 プロの極みは道楽にあるとも言えます。
 どんなに時間がかかろうとも、こだわるところにはこだわり抜く
 どんなに労力がかかろうとも、気持ち的に、全く苦にならない。
 本物のプロは、人から指示を受ける前に、自分ですべきことができる存在です。
 今日の日経の「文化」面には、写真では本物にしか見えない紙の甲冑づくりの名人の話が掲載されていました。
 本業はうどん屋さん。
 「注文を受けることもあるが、丁重にお断りしている。プロではないので頼まれ仕事は苦手で、強い衝動がないと作れない。」
 丹精こめた作品が国宝の神社などに納められ、大切にされると、本当にやりがいが感じられると言います。
 「頼まれ仕事は苦手」といっても、プロに負けない「強い衝動」で優れた作品が生み出されていく現場の空気を、ぜひ子どもたちに感じる機会を設けていただきたいと思います。
 学校の勉強を、うまく「趣味の世界」に重ねていくことが、生徒のプロです。
 生徒のプロは、大勢で一人の教師に向かって学習しながらも、自分の流儀の何かを実践しています。
 そして、最も集中してその流儀を実行できるのは、一人で机に向かっているときでしょう。
 どうしてそんなことに時間を使うのか、他人にはよく理解できないことに没頭できる内容をもっている生徒はどんどん伸びていくものです。
 それが本来の目標に近づくのに最短距離でなかったとしても、目標にしていたことの定着度が格段に違います。
 最短距離だけを教える塾では生徒のプロをつくれませんが、まわり道をたくさん知っている多くの講師に恵まれている塾は伸びる生徒を育成できるでしょう。
 私が教育実習生に簡単に「よい授業」をさせない理由はここにありますし、簡単にできる「よい授業」の仕方を聞いている人を軽蔑する理由もここにあります。
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低レベルを許さないプロ意識

 梅田望夫の世界観は、「基本的に、ものごとというのは、だいたいのことはうまくいかない」というものだそうです。
 私も「だからこそ、うまくいくようにもっていくこと」が努力のしがいのあることであり、うまくいったときの達成感自己有用感がかけがえのない成長の原動力になっていると考えています。
 「一個でも何かいいことがあったら大喜び」「加点主義というか、一個でもいいことがあったら、そこをしゃぶりつくす」「一つでもいいことがあれば、その人を肯定する」・・・梅田望夫のような考え方ができるのは少数派でしょうか。
 このような世界観が生まれた背景を、彼は「根本的な安心感というものが、今までの成育歴のなかで少ないのかもしれない」と分析しています。
 愛情過多の環境で育った人間の場合の落とし穴は、何かの行為を否定されたときに見えてきます。
 たとえば、ある問題解決への提案は、その提案者の全人格ではありません。全く別のものなのに、中には提案の否定を人格の否定だと受け取ってしまう人がいる。
 「全人格を完全に肯定されていないと不満である・不安である症候群」。
 その解決には、「なぜあのとき否定されたのかが、後になって実感できる」チャンスをつくることが必要です。
 その実感は、よりよい提案による成功体験ができるかどうかが鍵です。
 否定せずにあえて失敗させ、そこから学ばせる「強気の待ち」ができるタイプではないので、子どもはそういうタイプの人ともつき合えると「人を育てる」難しさがわかるかもしれません。
 「えさをちらつかせてハッパをかける」ことの気楽さは誰でもよく理解できると思いますが、「自分の力でやり遂げた」という達成感を味わわせる教育は決して易しいものではありません。
 プロである教師は、低レベルを許さない人でありたいものです。
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プロ根性

 昨日、本日と、毎年お世話になっている宿舎の社長さんと打ち合わせをしてきました。
 この社長さんから改めてプロ根性を学ばせていただきました。
 後日、記事にするかもしれませんが、いくつか挙げさせていただきます。
 プロはサービス精神の塊である。
 プロは仕事へのこだわりを捨てない。
 プロは地球が職場である。
 プロは人を集め、人気を集める
 プロはトライし続ける
 プロはすぐ始める
 プロはすべてから学ぶ
 プロは途中でやめない
 プロは予測し続ける
 プロは着地点を見ている
 プロはヒットでもホームランでも打てる
 プロはとてつもない情熱をもっている。
 このようなプロ根性を学ばせていただけるだけでも、教師としての自分には財産になります。
 そして子どもたちもきっとよい影響を受けるでしょう。 
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評価に対する無知と無関心

 先日もらった教育資料の中に、毎時間の小テストによって成果を残したという方の実践が紹介されていました。
 毎回の得点を記録させ、小テストノートを作らせているこの教師は、観点別評価の「関心・意欲・態度」の評価を、以下の4つの規準で行っているといいます。
 ・しっかりと問題に取り組み、
 ・○付けと訂正をしっかりやっているか、
 ・きちんと貼って管理しているか、
 ・毎回のテストの得点を記録欄に記入しているか
 言うまでもないことですが、これは教科の目標に準拠した評価の観点ではありません
 社会科で言えば、「社会的事象への関心・意欲・態度」が評価の規準であるべきで、たとえば中学校の地理的分野で扱う「世界の地域構成」では、「生活舞台としての地球に対する関心を高め、地球上の位置関係と水陸の分布、国々の構成と地域区分を意欲的に追究し、世界の地域構成をとらえようとしている」ことがこの観点の評価規準です。
 この教師は、おそらく教科書の太文字で書かれたような用語を理解して覚えていることが「基礎」だと勘違いし、観点そのものについてはほとんど理解していないようです。
 問題はこれだけにとどまらず、「現任校では、・・・私ともう一人の教員が同じ学年の社会科を分け合って担当した。定期考査は同じ問題で実施したが、ほぼ毎回、私が担当したクラスの方が平均点がよかった。証拠は何もないが、私は小テストが大きな原因ではないかと密かに自負している」といいます。
 実験校ならともかく、公立の中学校でこのような教師の実践が行われないようにすることが管理職のつとめであり、問題の解決には人事考課制度や学校評価が機能する必要があります。
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プロの教師と生徒のプロで創る授業 その3 笑顔のアイコンタクト

 プロは、いい笑顔をもっています。
 教師の笑顔の効果は絶大です。
 子どもは安心感期待感を抱くことができます。
 自分の存在が受け入れられているということを子どもは実感します。
 正しい行動を促すはたらきがあります。
 無数のメッセージを送る(贈る)ことができます。
 これから出題しようとしている問題の難易度を、笑顔で表現することができます。
 それによって生徒にさまざまな段階の心構えを促します。
 教師は、笑顔に驚き、歓喜、熟考などの感情や行動をアレンジして、授業に躍動感をもたせることができます。
 教師はいろいろな子どものさまざまな笑顔を作り出すクリエーターです。
 授業の中で教師がふと熟考モードに入ってしまったとき、即応モードに戻してくれるのは生徒の笑顔です。
 生徒は理解度を笑顔で表現することができます。
 真剣なまなざしの後にくる生徒の笑顔は格別なものです。
 笑顔をはじめとした表情が豊かな生徒は、心も豊かです。
 豊かな表情の基本は、やはり笑顔です。
 「スマイル=0」を売りにしている店の人。
 本当の笑顔でしょうか。
 笑顔をつくる以前の問題として、人の顔、目を見て話をすることができない店員もいます。
 笑顔と笑顔でアイコンタクト。
 それがプロと教師と生徒のプロがつくる授業の基本です。
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プロの教師と生徒のプロで創る授業 その2 未来の学習の指定席

 プロは、余裕を感じさせます
 急がず、慌てずに行える明確な指示。
 間を効果的に使った発問。
 生徒からの意外な質問への対応。
 急な予定の変更への落ち着いた対応。
 生徒が動き出すまでの「待ち」の姿勢。
 教師の余裕は、生徒たちの余裕によってさらに広がりと深みが増します。
 余裕のある生徒は、いつ、何を、どのくらいの時間で処理できるか、あらかじめ整理できます。だから取りかかりから慌てません。適度なペースを守ることができます。
 余裕のある生徒は、ノートも余裕をもって取ります。
 時間的なずれの余裕。後で書くべきこと、調べるべきことを忘れません。
 ノートの空間的な余裕も持たせます。
 ノートに書いたことは、その時間の学習内容のすべてかもしれませんが、その学習の内容のすべてではありません。何がそこからさらに学べるか、空白が想像力と創造力を保障してくれます。未来の学習の指定席がそこにあります。
 余裕のある教師の下では、本当のゆとりの教育が行われます。
 それがプロと教師と生徒のプロがつくる授業の基本です。
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学ぶ意欲の格差が問題なのは子どもだけか?

 齋藤孝著「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(講談社現代新書)に対する私のamazonへのレビューに、今のところ、17人中13人の方が「参考になった」としています。
 レビューの内容は、「強制がないから」という「落ちない落ち」であることを批判したものでした。
 以前に「教育力」(岩波新書)の中での多くの部分を日記で引用し、教師のコンピテンシーを考えさせてもらいました。
 「なぜ日本人は~」については、こちらが先で「教育力」が後に出たのならわかるのですが、「教育力」が出版されてから「なぜ日本人は~」が書かれたとすると、「教育学者」ならわかるものの「教育者」としてのスタンスは現場から離れてしまったのかなあというのが率直な印象です。
 学ばない子どもたち、学べない子どもたちに対して、現場はどのようにしたら教育という機能が有効にはたらくのかについて知恵をしぼっているわけですが、そこへのアドバイスが、子どもたちの「あこがれ」を誘発する「あこがれの矢」となってほしい、では、『日本人の「学びの情熱曲線」が下向きから上向きに転じる転機の一助』に本書がなるのは難しいでしょう。
 ぜひ、「なぜ子どもたちに学ぶ喜びをもたせられない教師が多いのか」を究明し、では教師の教育はどうあるべきか、という方向での著作を期待したいと思います。
 「学ぶ意欲の格差」は、子どもにあることは確かですが、もしかしたら教師集団の方が大きいかもしれません。
 教師には、いくらでも言い訳ができますが、よくよく考えてみたら、それらは子どもの言い訳の質とほとんど変わらないものでしょう。
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居心地のよい仮想空間

 ゲームに熱中する子どもの脳には、麻薬を打ったときと同じ物質が分泌されているというのは真説かどうか知りませんが、携帯をもつ人たちにも同じような現象がおこっているのでしょうか。
 電車内では、とても集中してメールやゲームに没頭している人が大勢います。
 昔、「マン・ウォッチング」という本を読んでから、電車内の人間の生態観察を欠かさずに20年以上経っていますが、ときどき、これは「初めて見た!」という人に出くわします。
 今日は、エナメルバッグを肩にさげた40歳後半から50歳代くらいの男性が、格闘系のゲームに熱中している場面に地下鉄の車内で出会いました。何だか同業者っぽいオーラを感じる人でした。
 格闘系なので、非常にさかんにボタンを押していくため、けっこう大きな音がします。
 体も左右に動くときがあります。
 いくら何でも、それに熱中している様子を大勢に見られていても平気でいられるほど、ゲームというのは人間を支配してしまうものでしょうか。
 そのうち、画面が大きい高齢者用の携帯ゲーム機も登場するのでしょうか。
 「脳トレ」ブームは終わったのかどうか、わかりませんが、仮想空間の方が居心地のよい社会というのは悲しいものです。
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プロの教師と生徒のプロで創る授業 その1

 プロは、見事なスタイルをもっています。
 授業の導入・展開・まとめのコツ。
 板書のポイント。
 発問のタイミング
 トピックの効果的な活用。
 快適なテンポ(リズム)。
 ターゲットを明確にした指導と教材の精選・・・。
 教師のスタイルは、生徒の学びのスタイルにも影響を与えていきます。
 生徒のプロとアマチュアの違いは、授業に臨む姿勢で決まります。
 能動的か、受動的か。
 前時の復習は、ノートをさっと眺めて済ませる。
 授業の展開部では、今日のテーマを見切ります。
 教師がつけたタイトルよりも適切なものはないか、探します。
 今日の授業のポイントを、一言で表現することができます。
 授業の終了間際には、今日は何が新しく身に付いたのか、あとで何に取り組めばその授業の力が伸びるか、わからなかったことは何か、質問すべきことは何か、などを整理します。
 板書と説明が同時の場合は、説明を聞いて理解することを優先します。
 発問には、他の生徒が答えても、自分なりの答えを想定します。
 自分ならどの話題と組み合わせて説明できるか考えます。
 このような学習のスタイルで、自分の力を磨いていく。それがプロと教師と生徒のプロがつくる授業の基本です。
 生徒のプロは、アマチュアの教師=教育実習生を育てます。
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プロの証明

 現代は、プロがプロにプレゼンするプロフェッショナルの時代です。
 官製の教員研修。
 教員免許更新のための講習。
 私的な研究会での発表。
 プロとは、自分の持っているテクニックから心構えのあり方まで、「私はこうだ」と言い切ることができる存在です。
 教師はプロフェッショナルでなければなりません。
 ですから現場では「教師のプロ」は存在せず、「プロの教師」が存在します。
 その教師を育てるのは、「生徒のプロ」です。
 「プロの教師」と「生徒のプロ」によって、教育は豊かな人間形成の場となります。
 プロのアイデンティティとは何でしょうか。
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荒れた学校を建て直すときの原則

 指導主事を経験すると、人から嫌われることに慣れていきます
 現場の教師たちからの露骨な敵視を浴びることが多くなるからです。
 現場の教師たちへの不満を全く面識のない保護者や地域の方から電話で伺うこともありますが、話されている方の攻撃性は明らかに教育委員会にも向けられています。
 「なぜあんなのが教師をしていられるのか」「給料泥棒だろう」「おまえは役所に座って何をしてるんだ!しっかり学校へ行って指導しろ!」「早くあの教師をクビにしろ!」
 こういう言葉を何ごともなかったかのように聞き流すことができるのも行政マンとしての大切な資質で、「敵」扱いされることを何とも思わない能力は、当然、教師の立場でも役に立ちます。
 生徒にとっては耳の痛い正論を堂々とぶつけることができるからです。
 しかし、現場には、明らかに「子どもから嫌われたくない」「親にも気に入られていたい」という教師がいます。
 うまくバランスが保てている学校は問題がないのですが、後者のタイプの教師(生徒にとって非常に都合がいい教師)が多い学校では、さまざまな指導が後手後手にまわり、問題行動もよく発生します。
 生徒から嫌われることをいとわない教師は、問題行動を繰り返す生徒からは嫌われるかもしれませんが、そうでない生徒からは信頼されます。
 一方、問題行動を繰り返す生徒にとって都合がいい教師は、多くの生徒から信頼されません。
 私の経験則では、荒れた学校を建て直すとき、まず信頼を獲得するターゲットは、学校生活に対して前向きな生徒と、後ろ向きの生徒に引っ張られながらも何とか普通が保てている生徒に絞るべきです。
 この指導法が、一部の有名人の教師とは全く異なっている点かもしれません。
 荒れている学校では、問題行動を繰り返す生徒ばかりに教員の関心や実際の指導の力が集中して、そうでない生徒は置いてきぼりになっていることが多い。
 「私はこんなにあなたに対する教育愛をもっているのだから、その期待に応えて下さい」という文字を絵に描いたような行動をする教師がいますが、もっと他にするべきことがあるでしょう。
 学校の建て直しを図るには、生徒自身の力を借り、その力によって新しい集団のマナーやルールが守られるようにすることが大切で、教師は決してヒーローになってはいけません(そこまで強く言う必要はないかもしれませんが、テレビドラマがひどい誤解を招いているのであえてそう言います)。
 生徒が立ち直るとき、本当に納得するきっかけは、そこにあるのだと思います。
 嫌われてしまいそうな言葉を、あえて投げかけている教師の本心に気付くのは、その後で十分です。
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「体構え」が指導できる学校

 「心構え」ではなく「体構え」という言葉は耳慣れないかもしれませんが、指導には形から入るものが多いことはよく知られています。
 たとえばその第一歩は制服の着用です。
 しかし、見た目が同じユニフォームほど、人と違うことをし出すと目立つものはありません。
 一部の教師は指導することに対して嫌悪感を持っていることかもしれませんが、服装等に見られる「だらしなさ」に対しては、指導を行うべきだというのが一般的な考え方でしょう。
 「だらしない」服装をするのも生徒の「幸福追求権」「自己決定権」に含まれるのであって、それに対する指導は人権侵害である、という主張に賛同する人は少ないでしょう。
 しかし、荒れている学校では、指導するにしても、本当にきりがありません。
 ほとんどの女子生徒がミニスカート。男性生徒はシャツを出している。
 かかとを踏んで、いつ洗ったのかわからないほどぼろぼろの靴を履いている。
 ある一定の数を超えると、きちんとしていることが「おまえ、おかしいぞ」という批判の目にさらされるようになり、まじめに生きていくことが困難になります。
 すべては、初期指導にかかっていると言えます。
 一度見逃せば、後からきちんとさせるのはたいへんな苦労が必要になります。
 だから、学校改革には最低でも3年はかかると言われています。
 入学した1年生が3年生になるまで、何とか「体構え」のできる生徒を維持できれば、学校は立ち直ります。
 途中でどこかの学年がくじければ、振り出しに戻ります。
 もちろん一番難しいのは、3学年がだらしないまま生き残っているときのまじめな2学年です。
 どんな3学年でも、さすがに進路が近づけば、「心構え」を変えようとしますが、「体構え」ができていないとそれは実現できません
 これは、子どもにとって、不幸なことです。
 なぜなら、「心構え」の指導などは誰にでもできるものではないですが、「体構え」の指導は、だれにでもできることだからです。
 指導できない教師が多い学校では、生徒はその多数派教師に「承認された」ものと判断し、それを正当性の根拠にして指導を行う教師に立ち向かってきます。
 現場に一年でも立っていれば誰でもわかることなのですが、「体構え」ができれば自然と「心構え」も育ってきます。スーパーの朝礼で行っている挨拶練習など、大人社会でも「体構え」を第一歩にしているところは多いのではないでしょうか。
 教師社会は、電話の出方ですら問題視されることがあります。雑誌の特集で、「危ない塾の見分け方」というのがありましたが、ほとんどが学校にもあてはまるものでした。
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「危ない塾」見極め6か条

 読売ウイークリーは今までめったに買わない雑誌だったのですが、塾業界についての情報がほしかったので、6月22日号を買って読んでみました。
 「危ない塾」見極め6か条は、大手の塾が対象であるわけではなく、「そりゃそうだろう」と読んでみて気がついたのですが、「もしや」と思って買ってしまったのは、自分のメディアリテラシーがちょっと足りなかったのが原因で、反省材料です。
 中小塾へのコンサルティング事業を展開している会社の代表取締役と、塾教室長の経験をもつ教育ジャーナリストの二人が挙げているのが「危ない塾」見極め6か条で、中には入会してみないと分からない内容もあり、参考にはなりませんでした。子どもや保護者の「直観が大事」というのもおそろしいアドバイスでした。
 この記事の読者は、「やっぱり塾は大手(または大手と提携しているところ)にしないと・・・」という印象をもってしまうでしょう。
 「最新塾再編動向」の図は、今後のさらなる再編を予想させるものとなっています。
 個人的には、通信教育を行っているベネッセ、学研、Z会の動向に興味があります。
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わかりやすい授業の条件

 教師の授業力を構成する「聞き手を納得させるプレゼン能力」。7つのポイントのうち、残った5つについてです。
その3 要点は、手を変え品を替え、何回も繰り返す。
 教育実習生の授業ではよくあることなのですが、あることの説明、解説をしているかと思ったら、いつの間にか質問になっていた。何かを答えなければならないと気が付いたときには、もう教師の問いは終わっている。
 同様に、「もう一度、質問して下さい」と生徒から言われたことがある教師は多いのではないでしょうか。
 生徒の方では、指名されてから初めて考えるモードに入るパターンが定着している場合があるので、教師によっては、指名してから問うのを授業のスタイルにしている人もいます。
 また、中心発問のようなもの、大きな課題については、あらかじめカードに書いておき、説明した後、黒板にはっていくというパターンが、特に小学校では多く見られます。
 要点にあたる部分はわざといつも繰り返しながら話す教師もいました。
 授業の中での「繰り返し」は子どもの理解を定着させようとするねらいがあるわけですが、教師だけが表現する立場にならないように配慮することも大切かもしれません。
その4 まず全体を話し、それから部分へ移り、最後にもう一度、全体へ戻る。
 俯瞰(ふかん)→注視→再俯瞰
 清掃活動を例にとって説明しましたが、授業の中でも、たとえば導入部分とまとめ(整理)の部分における「俯瞰」は大切な要素です。
 全体像が分かった上で、部分の分析に入り、その分析結果を用いて全体を見たときに、改めて全体像の理解が深まる、そのような授業を、たとえば歴史的分野の学習ではよく行います。
 集団を相手に全体指導を行う場合、たとえば一人はみ出ている生徒がいるとしたら、いきなりその生徒に問題を投げかけるのではなくて、まずは「全体的にほぼきちんと整列できています」と「多くの人にはかかわらないことだけど・・・」というニュアンスの言葉を入れておいてから、「あなたが少し~すれば完璧ですね」と指導する。
 そして、「これで全体、整いました」としめくくる。
 10秒程度の指導なのですが、個別から全体に入るより、全体から個別に入って全体に戻った方が、ほとんどの生徒に残る印象は悪いものではなくなるはずです。
 授業でもこのような場面はたくさんあるでしょう。
その5 図解で示す。ビジュアルな整理は情報を共有し、聞き手のレベルも上がる。
 図解は教師の中でも得意不得意があるかもしれません。
 研究推進校の指定を受けたり、研究大会で発表しなければならないときなどは、よく研究の構造図が作られますが、やはり箇条書き、文章よりも図の方が頭に入っていきやすいでしょう。
 ただ、たとえば→の意味や、囲みの部分の使い方などは、自己流で行われると、かえって意味がわからなくなってしまいかねません。
 また、図は基本的に単純化されたものですから、理解面でいうと大きな落とし穴になっている可能性があり、注意が必要です。
その6 箇条書きで話す。「3」を使用する
  (問題は3つあります。まずは、・・・)。
 
 3分とか5分の長さの話をするときには、必ず用いたいフレーズですね。
 「3」の魔力についてはいつかふれたかもしれません。
 ちょっと話はそれますが、なぜ三人寄ると、「文殊の知恵」が出るのでしょうか。
 なぜメダルは金・銀・銅だけで、四位以下の人にはでないのでしょうか。
 三大~のように「三点セット」にする発想は、どこから生まれたのでしょうか。
 研究してみたいテーマです。
その7 ポイントになる人を見分け、その人に語り、要所要所でうなずかせる。
 授業では、内容が理解されているかどうかの判断は、生徒の表情でほぼわかるものですが、中には「うなずき上手」の生徒がいるので注意が必要です。あまり信用してはいけません。初めは見分けるのが難しいのですが、実際に問いをぶつけてみれば、わかっていたのかどうかがすぐに判断できます。
 これら5つのポイントは、「わかりやすい授業とは何か」という問いのヒントや解答になっている部分があるので、整理してみるといいかもしれません。
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日本の教師式「チームワーク」の落とし穴

 梅田望夫著「ウェブ時代 5つの定理」(文藝春秋)に紹介された「第2定理」は「チーム力」です。
 人事考課制度に反対している人が、「競争によって人間関係が悪くなること」をデメリットとしてあげていますが、そういう教師たちの資質に関連することが、著書の中では次のように述べられています。
 

いいチームとは何か。どうすれば最高の仕事を成し遂げる最高のチームができるか。そういったことを順に考えていきたいと思います。
 日本の場合、「チームワーク」という概念に、「優秀な個」という前提が自動的にはビルトインされていないところが落とし穴だと思います。「チームワーク」といえば、「メンバーの痛みを理解できる」「困っている他のメンバーを助けてやる」といった相互扶助の概念と紙一重になります。ややもするとそれは、日本人特有の「群れたがり」「つるみたがり」への指向性とも重なってしまう。

 中学校や高校の教師の場合は、「異分野のその道のプロ」であるわけですが、教師集団が相乗効果をたたき出す「プロフェッショナルチーム」になれるかどうかは、一つには本物のプロであるかどうか、もう一つは、「相乗効果」を出すためのノウハウがあるかどうかにかかっています。
 教師に「プロ意識」をもたせ、「優秀な個」による教育実践ができることを目標とした研究会等がたくさんありますが、現場では、「生活指導のプロ」とか、「教科指導のプロ」といった分類がされることがあり、これが成果が上がらない原因になっていることに気付かない人が多い。
 ~の仕事は~さんのもの、と割り切ってしまうと、~さんがいないときに混乱して収拾がつかなくなってしまうおそれがある。
 ビジョナリー(*)の考える「チーム力」と、多くの教師が望んでいる「チーム力」のギャップについては、単純な比較をすることは難しいかもしれませんが、ビジョナリーが失敗と捉えている問題の中から、学べる点があるかどうかを検討してみたいと思います。
 ビジョナリー(*)・・・テクノロジー業界の最先端を走る起業家や投資家、「普通の人」よりも何歩も先をゆく天才的技術者、日々の濃密な体験から世界を俯瞰して眺めている企業経営者、複数の専門性を極めた大学教授といった人たちの中で、とりわけ言語表現能力が高い人々のこと。
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清掃指導にも適用できる生徒指導の大原則

 清掃指導についての記事があったのでコメントを書き込んだのですが、何のリアクションもなかったので、消される前に自分の日記に写しておこうと思います。
 

掃除の指導に限らず、生活指導には大きな原則があって、全体から個別へ、そして全体へ、という流れが大切です。
 記事にあるような子どもの場合は特に、心のステップアップのためのハードルが高いですから、いきなり個へのはたらきかけというのはあまり効果が期待できません。
 まずは全体のムードを動かしにかかります。
 授業で教室に入ったとき、黒板がいつもよりきれいだったら、「今日はぴかぴかだな!チョークで書くのがもったいないよ」などと教師が喜んでみせる。
 ゴミが落ちていなかったら、「このクラスはゴミを見つけた人が拾う習慣があるんだね」と刺激する。
 「きれいな状態」「きれいでない状態」に対する関心を高めるところが、掃除指導の最初のボタンかけだと私は考えています。
 そして掃除の途中で、箒の使い方が上手な子どもや、雑巾がけの丁寧な子どもに直接声をかけて、まわりの子どもにも観察させたりする。
 だれの箒の使い方、雑巾の絞り方が一番上手かを競わせたりする。
 なぜ清掃活動が大事なのかは、集団の中である程度関心を高め、一定の体験を経た上でないと、議論させても深まりません。
 競争のような協掃。
 クラスごとに、自分の組の清掃のこだわりを美化係に提言させたり、週ごとの重点目標を決めたりして、自治活動の中に清掃をしっかり組み込んでいくことが教師の役割であると考えます。

 このような提案ができる生徒(自治の学校の場合は教師が提案することは望ましくないので・・・)を育てたいものです。
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笑いはどこから引き出すか?

 聞き手を納得させるプレゼン能力。これを教師の授業力という観点から見ると・・・
 7つのポイントについての考えを述べます。(今回はその1とその2)
その1 必ず一度は笑いをとる
 (笑いは最大の肯定的コミュニケーション)。
 笑いのある授業。私にとってもこれは第一義的に重視している要素です。
 建前だけを振りかざしてくる教師を生徒は軽蔑するもの。
 生徒は、本音の部分をくすぐられると、共感する思いから自然の笑いがおこってきます。笑ってリラックスしている体と心には、さまざまな情報が素直に入りやすくなります。
 授業中の笑いには、緊張からの解放を誘うような刺激によるもの、好奇心を誘発して知識欲・理解欲を高める刺激によるものなどがあります。
 私の恩師は、もう40年も前にこのような笑いを誘う授業の「おもしろさ」を様々な角度から検証した論文を発表されました。
 私が作り出したい笑いの源泉は、すべて子どもの個性にあります。
 下手をすると笑いの震源地になる子どもが傷ついたり、いじめの対象になってしまったりすることがあるので、「いじり」にも限度がありますが、子どもが持っているマグマはそれこそ無尽蔵で、コントロールするのは困難です。
 昔ある若い先生に、授業のじゃまをしてくるような低学力の子どもをどう扱ったらいいのでしょうか、と問われて、「一瞬でも、その子を主役にしてください」とお願いした記憶があります。
 そのような生徒には、心からの笑顔を表現してもらう。そうすると、教師から見たその生徒への印象も、変わっていくでしょう。子どもの笑顔を見て、「憎たらしい」と思う親はいないはず。それと同じです。
 自分が生徒への愛情を失っていると思ったら、生徒への愛情をかき立てるような役割をその生徒に担ってもらえばよいのです。
その2 大きな声で、明るく、自信をもって、前向きに話す。 
 講義の内容自体に惹かれる教師なら、小さい声でも、暗くても、ネガティブな感じがしても、集中して学ぶ空間ができます。
 大きな声とか明るい声は、「子どもにとっての聞きとりやすさ」ということもありますが、どちらかというと子どもの持っているエネルギーを超越しておかないと、そのパワーに飲み込まれてしまう教師の防衛策であるという気もしています。
 よく学園ドラマでは、自信のなさそうな教師が生徒にいじめられるシーンが出てきますが、大人の場合、「この先生をいじめちゃだめでしょ!」とかばえないところが難しい。
 はったりでも、子どもの前では前向きでいてほしいものです。
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してやったり?「いいことが起きる予感」

 3週間近く午前帰りが続いたため、近所であるにもかかわらず実家に寄ることができませんでした。
 久しぶりに実家によって話をしているうちに、決めていたわけではないのですが母に小遣いをあげることにしました。
 帰り際、母から「今日は何かいいことが起きる予感がしていた」と言われました。
 別に後悔しているわけではありませんが、この予感にしてやられたのか、という感じです。
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全体指導ができる教師と子どもの財産

 全体指導が入りにくくなっている、集団行動がとれない、指示が通らない子どもが増えているなどの指摘が複数の教育ブログに見られるようになりました。そこで、私の考えをコメントとして入れさせていただきました。
 集団行動の指導は、中学校1年生の入学時から1ヶ月間がすべて(いわゆる「初期指導」)です。
 私が過去にかかわった学年ではすべて、この初期指導に失敗した例はありません。
 1学年をもった年に異動したことが2回ありますが、その学年は3年間、いずれも「よい学年である」という実感と誇りをもって生活してくれたようです。
 入学当初から、かなり厳しい要求を子どもにすることになりますが、避難訓練ではなく本当の災害に襲われたとき、その指導の成果がより明確に表れるかもしれません。
 公の場というものがどういうものか、集団行動の場面で自分勝手にふるまうとだれがどのような迷惑を被るのか、このことを、5月に校外での活動を行う前に、しっかりと校内で実践できるようにしておき、集団行動が校外でもきちんとできるかどうかをたしかめるという課題を与えることができるようにするのです。
 ときどき、「校外に出たら人目を気にして、ちゃんとするだろうからそこまでやる必要はないのでは」と思う人がいるかもしれませんが、そういう態度でいることが、校内の集団行動の乱れを甘く見て、荒れを生み出すことになりやすいことは言うまでもありません。
 さて、全体指導が通りにくくなっている理由ですが、少子化によって、学級数が減り、学年に所属する教員の数が減り、ノウハウをきちんと身に付けて指導ができる教員が学年に入っていないケースが増えていることが原因であるような気がしています。
 同じ学校でも、学年(学級)による集団行動のはやさ、正確さ、秩序正しさに格差が生じ、言葉での指示が通りにくい学年(学級)が出てきてしまうことがあります。
 学級数が多い学校では、生徒総数が多いから乱れがちかというとそうではなくて、むしろ小規模校の方が話が聞けない学年が多いというのはあり得る話です。
 全体指導の絶対的な原則の例として、
 全体の場での移動のとき、話をさせない。
 生徒が騒いでいる間は、教師は話さない(集中した状態で話し出す)。
 集合、開始時刻を守らせる。
 「整列」させるときは、列が整っていなければならない。

 何だか当たり前のようなことばかりですが、こんな簡単そうに聞こえることでも、できない人にはできない。
 40人ならどうにかできても、200人、300人を一斉に動かすのは難しいことではあります。
 人間は、習慣の奴隷です。 最初の一ヶ月間に身に付けた習慣は、集団行動が求められる場面での一生の財産になります。
 そして実は、集団行動がとれる人というのは個性のない、集団主義の人かというと、私の調査した結果では、他者に対する思いやりがもてるばかりでなく、個人の能力をより高めやすい人であることがわかっています。
 人を大切にするということは自分を大切にするということであり、自分を大切にするということは人を大切にするということです。
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幸福追求権のストライクゾーンと国民の禁止事項

 私は教育現場と行政の経験から、幸福追求権のストライクゾーンについては、中高生ほど余計に小さくとる必要があると考えています。
 ただでさえ幸福追求権は、以前に述べたような捉え方があるのと、憲法でいうと第12条の規定である「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、・・・(中略)・・国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」ことが、第13条の前にあることをしっかり教える必要があるからです。
 「憲法で示されている国民の禁止事項は何か?
 「憲法で示されている国民の責任とは何か?
という質問に、大人でもこの第12条をすぐに答えられる人は少ないのではないでしょうか。
 公共の福祉のことは議論されていますが、この「国民による自由及び権利の濫用の禁止」はなぜ必要なのかということについて、理解できている大人が少ないために、数多くの問題がおこっています。
 「定められた制服を着用しない」ことは、私の造語でいうと「私共(わたくしども)空間」の論理です。「公」と「私」の区別ができなくなり、「公共の精神」が失われていることが、学習指導だけでなく生活指導を非常に負担の重いものにしているのです。
 そのような問題を解決する任務をもつ「公教育」には、「公共性を自覚させるという意味でもフォーマルな服装を定め、それを着用することを求める権利がある」と考えています。
 自己決定権についても、違憲審査基準において、服装の問題は人格的生存の核心部分にあたるものではありません。
 中心はあくまでも安楽死や尊厳死、子どもを生む・生まない自由などの問題です。
 服装について、幸福追求権を拡大解釈する最大のデメリットは、学校が「公」の空間であることがさらに認識されづらくなり、コントロールが難しい「私共空間」に移行してしまうことだと思います。
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教育実習期間中のステップアップ

 3週間の教育実習期間を、指導者としての私は次のように捉えています。
 1週間目は、実習生が自分の課題に気付く時期。授業が批判にさらされて、課題があることに初めて気付く時期です。
 2週目は、その解決に向けてさまざまな方策を行うが、なかなか問題が解決しない時期。自分の授業への批判はよくわかるようになりますが、他の人の授業を見ても、まだそこにある問題を指摘できない時期。
 そして3週間目には、なぜ問題が解決しないかということに気付く時期。そして、他の人の授業の批判ができるようになる時期。
 何年か実習指導を繰り返しているうちに、この法則にあてはまる実習生が多いことがわかってきました。
 ということは、もし4週間目があれば、自分の問題解決が実現できるようになるかもしれません。
 しかし、実際には3週間という規定なので、目標達成への時間不足を補うために、私は3週間分の範囲の試験問題をつくってもらい、これを主な評価材料とするようにしています。
 これまで何度も繰り返し書いていますが、その指導者の力量というのは、どのような問いかけで生徒の能力を測っているか、そしてたとえテストでもその問いかけの中で新しい能力を伸ばせているか、ということで評価できます。試験の問いかけは少なくとも授業より質が高くないと、生徒の力は伸ばせません。
 「質が高い」ということが、解く上での「難易度が高い」わけではないことが理解できるようになるためにも多くの時間と実践が必要ですが、さすがに教育実習ではそこまでは期待できません。
 ただ、指導者の立場からすると、実習生がつくる試験問題の質が、自分の指導の質として問われることになるのは確かです。
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頭髪から服装へ、自己決定権は拡大するか?

 以下は、文月さんのブログへのコメントにいただいた回答を受けて、再度書き込ませていただいたものです。
 

幸福追求権について、とても広いストライクゾーンで捉える文月さんに対して、一般的なストライクゾーンがどうなっているのかをお示しする必要があると考えてコメントさせていただきました。
憲法第13条の規定は、1776年のアメリカ独立宣言の中の「創造主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由及び幸福の追求が含まれる」という文言に由来するものと考えられています。
日本国憲法の幸福追求権については、その法的性格を具体的な権利規定として捉えるかどうか、つまり、具体的な内容があり、裁判規範として適用できるか否かについては、考えが分かれていますが、初期の学説は、裁判規範性を消極的に捉えるのが通説でした。
 近年になって、人の人格的形成や生存にとって不可欠な権利として捉えられるようになった新しい権利、つまりプライバシーの権利や自己決定権については、第14条以下の個別的人権規定による保障が及ばないことから、第13条の幸福追求権を根拠にして、その保障が主張できるようになっています。
 しかし、だからといって、人権を保障するに当たってこの第13条の幸福追求権が中心として位置づくわけではなく、それは補充的・補完的な機能であり、個別的人権規定が人権保障の中心であることに変わりはありません。
 自己決定権については、通説としての人格的利益説では、個人の人格的生存に不可欠な権利のみが自己決定権として保障されるのに対し、一般的自由権説の立場に立てば、すべての自由が自己決定権の対象となってしまいます。(「新・憲法学習」晃洋書房の記述を要約して示しました。)
 このことをふまえ、文月さんが「学校が生徒に同じ制服を着させることは、幸福追求権・自己決定権の侵害にあたる」と主張されることを否定するつもりはありませんが、この権利性については見解の相違が想定できることをご承知おきいただきたいと思います。
 学校側や私と、文月さんとでは、幸福追求権の具体的権利性について、見解の相違があるということです。
 仮に私服を認めたとき、アクセサリーなどの装飾品を含めて学校生活に必要のない多くのものが校内に持ち込まれる可能性もあり、生徒指導にかなり苦労することが予想されます。
 どの程度までが人の迷惑にならないとして許されるか、公共の福祉に反しない程度はどこまでか、だれが決めるのかという課題が山積するでしょう。
 もちろん制服に関する生徒指導の苦労もたいへんなものであり、幸福追求権がどうのこうのという問題ではなく、その指導のたいへんさの手間を省くという理由から私服でもよいとする学校もあります。
 頭髪については判例がありますが、制服についてはいかがでしょうかね。

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教師のプレゼン能力向上指針 その1

 一般的な公立学校では教師が行ってしまう役割の多くを、伝統的に自治活動がさかんな私の勤務校では、生徒が担っています。そして、その役割は上級生から下級生へ、先輩から後輩へと脈々と受け継がれているもので、むしろ教師は邪魔な存在になることすらあります。
 行事の準備や運営はその代表的なもので、生徒が担い、努力し、実行する分、成功したときのやりがいはひとしおなのでしょうが、やはり中学生だけの力では、今ひとつ質が高まらないという欠点もあります。
 それでも、そういう経験をした子どもたちの多くが高校、大学、行政や企業等で、かけがえのないリーダーとして活躍してくれることを信じて、その基礎作りを徹底して行います
 リーダーとしての基礎のうち、中学校段階でもかなり鍛えられるのが「プレゼン能力」です。
 プレゼン能力は、教科等の学習活動でもしっかり生徒に定着させるように配慮されたカリキュラムになっており、道徳と同じように教育活動全般にわたって伸ばしていける能力なのですが、行事の役員になると、それが自然に養成され、磨かれていくことになります。
 プレゼン能力と一言で表現しても、たとえば教師のコンピテンシーモデルではかなり横断的な能力となるので、ここでは分析的に考えるのではなく、優先順位の高そうなことからまとめ、子どもたちに要求するとともに、はたして教師はその能力がしっかり発揮できているのかを自らに問いかけていってほしいと思います(もちろん自分自身も含めてです)。
 なお、しばらくは谷口正和著「プレゼンの成功法則」(東洋経済新報社)からいくつかをアレンジして紹介したいと思います。
 まず、どうしたら相手を納得させることができるか。
その1 必ず一度は笑いをとる。笑いは最大の肯定的コミュニケーションです。
その2 大きな声で、明るく、自信をもって、前向きに話す。
その3 要点は、手を変え品を替え、何回も繰り返す
その4 まず全体を話し、それから部分へ移り、最後にもう一度、全体へ戻る。
     俯瞰(ふかん)→注視→再俯瞰
その5 図解で示す。ビジュアルな整理は情報を共有し、聞き手のレベルも上がる。
その6 箇条書きで話す。「3」を使用する(問題は3つあります。まずは、・・・)。
その7 ポイントになる人を見分け、その人に語り、要所要所でうなずかせる。
 そのこころは・・・・。
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個人の自由と教育による規制

 前の記事の解答は、①行動、②今日、③やり抜く、④思いやり、⑤会社(企業)、⑥自分、⑦捨てる・・・でした。
 今回の記事は、文月さんにブログでご説明いただいた「私はズボン強制校則は憲法違反で無効であると確信しております」という主張に対する私の意見を述べたものです。
 「自由」をめぐる問題については、かねてより中学生くらいからきちんと議論し合い、公正な判断ができるようにしてほしいと現場では考えております。「ルールだから守れ」というのは中1には言えるとしても、中2、中3には通用しません。
 中1ではまだ、「なぜこんな規則があるのか」という反発心が冷静な思考を働かせるのを邪魔してしまう時期であり、議論し出すのは中2くらいが適切だと思われます。
 このとき、「憲法が自由及び幸福追求権を定めているから」という理由で議論に参加しないようになる態度だけは否定しなければなりません。
 憲法では、「自由及び幸福追求権」を絶対的に保障すると言っているわけではなく、「公共の福祉に反しない限り、・・・最大の尊重を必要とする」としているのです。
 私なりの人権尊重という考え方は、無条件で自由が保障される、というものではなく、きちんと尊重はするが、公共の福祉に反する場合や、本人の自由意思によるものではない内容については、制限されることがある、というものです。制限はしても、尊重することには変わりはない。尊重するからこそ、制限する場合がある。そんなニュアンスです。
 リベラリズムの立場からすると、たとえば、「自由」についての標準的な合意は、佐伯啓思著「自由とは何か 『自己責任論』から『理由なき殺人』まで」(講談社現代新書)によれば、次のようなものです。

 人は、他人の干渉や強制を受けずに自分の意思である目的を追求することができる。その人なりの「善き生き方」を追求する権利である。この権利は、基本的に他人や社会に対して深刻な害を及ぼさない限り、原則的に尊重されるべきである。要するに、他人の迷惑にならない限りで、個人の選択、個人の意思は最大限に尊重されるべきだというのである。

 文月さんの主張も、この原則と同じだと考えられますがいかがでしょうか。
 学校教育の現場では、この原則に反するような規制がさまざまに加えられています。
 スカート丈の指導もその一つでしょう。
 文月さんは、憲法の原則にしたがって反対派。私は現場の立場では賛成派、推進派です。
 私などが問題としていることは、そもそも「個人の選択」というものが、果たして純粋に「個人の意思」によるものなのかどうか、「自立した意思決定」が行われているのかどうか、ということがまずあります。
 リベラリストが、「意思決定が誰によっても強制されていない、他者の介入を受けていない、という理由で自立的で自発的なものだとする」のに対し、私の考え方は、特に学校という社会の中では、子どもを取り巻く集団による影響力が強く、個人としての自立的な生き方という考えに基づく行動はほとんどなくて、さまざまな環境、社会性の中で作り出されているものである、というものです。
 ほんとうは学校が決めたAという選択肢を取りたいのだけれど、みんながBを選んでしまっているので自分だけAを選ぶことはできない。似たような事例はたくさんあります。いじめへの荷担も同様にしておこります。
 リベラリズムは、理念化された世界へ現実を押し込んで解釈しようとします。憲法のみに従った主張というのも同様です。そのために、常識などからの大きな隔たりが生じてしまいます。
 「自分(私)」にとって、「家族」と「自分(私)自身」はどちらの方が大切か。学校と自分ではどうか。仲間と自分ではどうか。こういう問いを考えると、自分(私)に自由な選択ができるとは考えにくい。
 その選択に与える悪い影響を断ち切ってしまうことが、見かけ上は個人の自由を制限しているようですが、実はその個人の幸福追求権を尊重した結果だと言えるようになるかもしれません。
 ズボンの問題も同じです。 
 さらに、教育権をもつ保護者の意向というのもあります。
 一揆の防止策という主目的をもつ刀狩を例にとると、戦国時代には、もしかしたら好きで一揆に加わっていたのではない人がいたかもしれません。しかし「一揆」は文字通り集団主義なので、加わりたくなくても加わらざるを得ない。そこに「刀狩令」が出て、武器・武具をさしだしたため、一揆に加わらなくてもよいという望ましい状態になる。
 自分はゲームをしているときが一番幸福なのだから、授業中もゲームをしていて何が悪い
 理念的にはOKになってしまいますが、現実にはゲームをさせないことがその生徒にとっては有益なことです。
 スカート丈もズボンの問題も、おそらくどこでも議論を通して決定、あるいは議論をして問題を見つめることをしていると思いますが、「憲法違反だからダメ、以上」という原理主義的な態度は、教育的でもないし、その考えでは、現実的な利害が交錯する社会を生き抜いていくのは難しいことになるだろうと考えられます。
 リベラリズムの問題は、その人がどういう生き方をしてきたか、どういう人生を送ることになるのか、ということよりも、その都度の状況で、個人が自由に選択できるという条件を確保することの方を優先することにあります。
 文月さんは反対されているそうですが、援助交際の女子中高生がその後どのような人生を送ることになるかということは、リベラリズムとは関係がないことなのです。
 教育は、「自由な選択の機会を保障する」ことには最大限の配慮をして個人の権利を尊重しながらも、規制が必要な部分については規制し、将来やその時の全体への悪影響を防ぐ役割を果たすべきだと考えています。
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「本気」でチャレンジしよう!

 ブログを通してお知り合いになれた、Z会のTさんのブログの記事、あなたにとって「本気」とは?には子どもたちにもぜひ読んでもらいたい内容(引用・・・FaithホールディングスのHPから)がありました。
 6つの「本気」、穴埋め問題にしてみますが答えがわかるでしょうか。

 1.本気とは“言葉”ではなく“(  )”である。
 2.本気とは“明日”ではなく“(  )”始めることである。
 3.本気とは“始める”ことではなく“(  )”ことである。
 4.本気とは“独りよがり”ではなく相手を動かす“(  )”である。
 5.本気とは“(  )のため”ではなく“(  )のため”である。
 6.本気とは“何かを得る”ではなく“何かを(  )”ことである。

 ①は、どんなリーダーに人はついていくか、考えてみて下さい。
 ②は、いつも言われていることですね。
 ③は、「続ける」よりもっと強い言葉です。
 ④も、リーダーにとって大切な資質です。
 ⑤と⑥は、組織と個人、どちらが優先されるのでしょうか。自分の責任を逃れるための言動にならないようにするためには、⑤と⑥にそれぞれ何が入ればいいのでしょう。
 ⑦は奥が深い話かも。普通、人の努力というものは、何かを得るためにしていると考えられます。
 しかし、あるレベルまで達すると、⑦が大事になります。
 ⑦ができない私などは、今、こんなことに時間を費やしています。
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息子への金融教育

 母の日の前日のことですが、小学生の息子が二人の祖母に自分のお金で花を買って贈りたいと言い始めました。
 そして、たまたま銀行に預金しようとしていた、貯まったお小遣い5000円札を手に、何と2000円以上する鉢を二つも買ってきたのでした。残ったおつりはわずかでした。
 この思い切りのよさというか気前のよさに呆れたり心配になったりしていたのですが、花を贈った後はちゃっかりとまたお小遣いをもらって資金は回収してきたようです。
 親の目からは、投資をしてもうけをねらったようには見えず、朝早くおきて、純粋に二人の祖母の喜ぶ顔が見たいようで飛ぶように出かけていったのでした。
 今は、小学校などで実施されている金融教育のテキストはあまり見せたくない気がしています。
 大きな金額を動かそうとする小学生を見ると少しぞっとします。
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齋藤孝をネットの世界に引き込む目的

 齋藤孝をネットの世界に引き込むために、辛口の意見を続けようと思います。
 引用は、「私塾のすすめ」からです。
 齋藤孝は自分が梅田望夫とともに「見晴らしのいい場所」にいると「はじめに」で書いていますが、私から見れば、雲がかかってばかりいる山の頂上付近にいるわけで、そこから落とされてくるものは下で受け止められますが、決して出所が見えない。
 「僕は大学の空間ではオープンなのですが」とありますが、大学の空間自体は閉鎖空間ですから、家の中ではいきいきしている内弁慶と一緒です。
 梅田氏が「斎藤さんが『福沢諭吉と自分が似ている』というのを、過去の無限ともいうべき人物の中から、書物を通して見つけ出されたわけですが、ウェブは、現在の生身の人間の中から探すことができる道具だと思うんですよ。」と語っていますが、これは本当に痛烈な批判でしょう。
 これに対して齋藤は、なるほどと同意しつつ、学級の人数が少なかったり、固定化しているので「あこがれ」を共感する人を見つけるのは難しいといって議論をかわして逃げています。そしてだから「いじめが起きやすい」ととんでもない方向に話が向かってしまっています。編集者のチェックもれでしょう。
 この本は、随所に考えの相違があったことは、主に梅田氏の「基本的には同じ」という表現の繰り返しによって想像できます。
 それこそ基本的には、齋藤孝は閉じた空間が好き。本が好き。自分で読み取ったものに価値を感じる。過去にやられてきたことを再現し、繰り返すことが好き。「無理やり」が好き。 梅田望夫は開かれた空間が好き。人から寄せられる有用な情報が好き。そして人がやったことは、もう自分はしたくなくなる。新しいものにチャレンジしたくなる。
 どうにか議論が進んでいったのは、両者がプロジェクトのリーダーに欠かせない資質が「情熱」と「没頭」であることを信じ抜いているからでしょう。
 志向性の共同体を主体的に集まってくるメンバーだけでなくて、たまたまそこにいる人、いやいやそこにいさせられている人に対しても、「ポジティブな空気」の発生によって、何とか同じ志向性をもたせられないか。
 特に公教育はそこが課題になっているわけで、齋藤孝をそこまで引きずりおろしたいわけです。
 無志向性の共同体の改革には、情熱をもったリーダーが必要です。
 私塾にこもらないで、オープンな世界に入って下さることを期待しています。
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教師を蝕むリバタリア二ズム

 市場原理主義と親和性が高いリバタリア二ズムは、中学生の生き方観に強く忍び寄っています。
 自分は好きに生きたいのだから、あれやこれやと他人が干渉しないでほしい。
 ほっといてくれ!がリバタリア二ズムのモットーの基本とされています。
 人に迷惑がかからないなら何でもできる。
 自分が努力した結果はすべて自分のものである
 「貧しい人」に同情するのは個人の勝手だが、国家がその人々を救う義務はない。
 弱者救済のために自分から税を取るのはおかしい。
 善意のある人が個人的に救ってくれればよい。
 ・・・
 リバタリア二ズムが教育の世界にも広がると、以下のようなことになります。
 親が自分たちの子どもに対する教育の権限をもつのは当然。
 親は、自分の子どもにふさわしいと思う学校を選ぶか、自宅で親自身か家庭教師が子どもを教育することもできる。それは自由である。
 そのためには、多様な私立学校がなければならない。
 公立学校の価値は疑問。なぜなら、公立学校は、親の信念を無視して、集団主義や多数派の思想を子どもに押しつける場である。
 また、公立学校はだれもが入れる学校だから、平等主義的傾向が強く、その結果、要求される学力水準は必然的に低下する。
 ・・・・
 リバタリアンの親がぶつかる壁は、リバタリア二ズムの考え方が個人の自由を重視する以上、子どもは親の所有物ではなくて別の人格であり、親と子の意思や意見の相違・対立は避けられないことにあります。
 このような考え方の広がりが、学校を苦しめていると思われる方が多いでしょうが、ふと気付くと、教師自身は本当にリバタリアンではないのか、その点をしっかり問わないといけません。
 教育の世界の問題は、一見すると制度とか社会環境によるものと考えられるかもしれませんが、実は教師自身が作り上げているものなのかもしれないことを、心にとめて仕事に臨みたいものです。
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ケータイ・自力救済か絶対他力か

 風鈴さん、コメントありがとうございました。
 武器・武力の「武」の文字をご覧いただくと、「止」が入っています。
 「七徳の武」の話をひくまでもなく、武器というのは戦争をやめさせる道具でもあります。
 被害にあっている友達をかばう、不当な攻撃を加えた人間に注意する、制裁を加える・・・携帯は、そのための武具・武器にもなるはずです。
 中世の時代には、自力救済という原則とともに、集団内での排除機能が強力に働いていました(自検断・地下検断)。
 しかし、現代ではこれを「いじめ」と捉えられる可能性もあり、集団内の排除機能はうまくはたらきません。
 今、いじめが排除できないのは、いじめを完全に排除しようとしているためだという考え方もあります。
 排除機能がはたらかない以上、規制はやむを得ないのかもしれません。
 フィルタリング機能があっても、友達同士のメールなどのレベルでは防ぎようがありません。
 中学生(小6と高1くらいは含まれるかもしれませんが)は、高校生と違って、行動が非常にエスカレートしやすい。のめり込みやすい、歯止めがきかない、そんな時期ですので、人間を「守る」ための規制という趣旨は理解できます。
 ただ、武器を取り上げられるということは、攻撃の側にまわることを阻止する、つまりその子どもが信用されていないことも示すことになるわけですから、わがままな子だけでなく、高い自覚をもって正しい使い方をしている子どもにとっては不満でしょう。
 刀を取り上げても、家のパソコンという大砲もあるし、そのうち戦車なんかが開発されるかもしれませんね。
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携帯電話と刀狩令・鎖国政策(増補版)

 教育再生懇談会の「小中学生に携帯電話を持たせるべきではない」という一連の論議は、秀吉が行った刀狩令になぞらえて考えられます。
 「携帯電話 刀狩」で検索してみたら、そのような趣旨で記事を過去に書かれた人がいるようです。
 携帯電話は、事実上メール機能があるパソコンです。
 この道具を使って、友達や見ず知らずの人を攻撃する人間が多く現れました。
 「便利な道具」にいつの間にか「武器」の機能が加わりました。
 もちろん、騙す、罠にはめる、誤解させる、混乱させるなどのこともできます。
 この武器は、主に人間の精神的な部分にダメージを与えるものです。
 透明人間による無差別攻撃も起こりえます。
 他人になりすまして特定の人間を攻撃することも、可能です。
 精神的なダメージによって、気に入らない相手を死に追いやることも可能です。
 メールの一斉送信のメンバーからはずし、「村八分」にすることも可能です。
 「自由」のもとで一部の子ども達(子どもだけとは限りませんが)は「やりたい放題」です。
 子どもを守るための「規制」の主張が現れるのは当然のことでしょう。
 しかし、携帯電話を取り上げてしまうことで、一部の被害は防げるかもしれませんが、せっかく子どもが手に入れた「人間としての名誉の証」が奪われてしまうことにもなります。
 当然、反発は必至でしょう。必死に反論してくるでしょう。
 秀吉が行った刀狩は、一揆の防止という意味もありましたが、武士(刀が持てる人間)と農民(刀が持てず、農業に専念する人間・・・現代なら学習に専念する子ども)という身分の差をはっきり示す機能もありました。
 昔の背伸びをしたがる現代の子どもは、大人しかできないはずのタバコに手を出していました。
 タバコの味ではなく、一人前になったような気分を味わっていました。
 中世までの百姓たちは、成人になると刀を持つことができるようになり、一人前の人間として認められるようになりました。刀は、人としての尊厳の象徴でもありました。
 明治に士族が「廃刀令」を出されたときも、同様のインパクトがあったでしょう。
 今は、親より機能やデザインがよい携帯をもっている子どもが増えてきています。
 携帯は、持っていることだけでも意義があるわけです。
 この世界では、大人と子どもの線引きがなくなりました
 子どもの方が、さまざまな機能を駆使して、活用し尽くそうと努力します。
 もし、携帯を持たせる選択肢をとるなら、中世の日本のような自力救済の原理が必要です。
 問題がおこったら、自分で解決する
 攻撃されるのはいつでも覚悟して、戦い抜く
 あるいは、攻撃されないように、防御に力を入れる
 携帯を持たせない選択肢をとると、近世の日本のような安定した社会がつくれるかもしれません(多くの公立中学校は学校内への持ち込みを禁止するという鎖国=海禁政策をとっています)。
 しかし、抜け荷(密貿易)はあるかもしれないし、保護者からの外圧も強い。
 近代社会では、携帯の行方はどうなるのでしょうか。
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梅田望夫さんにお願いしたいこと

 齋藤孝との共著「私塾のすすめーここから創造が生まれる」(ちくま新書)のあとがき(おわりにー私塾による戦い)で、梅田望夫は日本社会の閉塞状況への危機感について、次のように述べています。

 ・・・「時代の変化」への鈍感さ、これまでの慣習や価値観を信じる「迷いのなさ」、社会構造が大きく変化することへの想像力の欠如、「未来は創造し得る」という希望の対極にある現実前提の安定志向、昨日と今日と明日は同じだと決めつける知的怠惰と無気力と諦め、・・・(中略)・・・これらの組み合わせがじつに強固な行動倫理となって多くの人々に定着し、現在の日本社会でまかり通る価値観を作り出している。
  そして、「自ら力強い言葉を紡ぎ出すことで、その現状を打破したいと考えている」とおっしゃっています。
 梅田さんにお願いしたいことは、齋藤孝をネットの世界に早く引き込んでいただきたいということです。
 そして、自らに従順でもともと学ぶ姿勢をもっている人間(かその子ども)だけでなく、反対者、異論を唱える者と議論をかわし、相手を変質させられる場に登場させていただきたい。
 とてもエネルギーを要することであり、「怒り」のエネルギーに着火するとたいへんなことになるかもしれないのはわかりますが、「閉鎖的な教育空間」の体質を打破する手段の一つとしてネット空間の活用を図りたい私にとっては、切なる願いなのです。
 ・・・・と直接ブログへコメントする図々しさがないので、自らの日記への独り言としました。ネット空間にも「つぶやき」系の閉鎖ゾーンがあるようで・・・・。
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親を変えるプロジェクトを・・・。

 教育学者や学校の教師のメッセージは、なかなか親には伝わりませんね。
 「勉強頑張ったらゲーム買ってあげる」
 「塾に通うんなら携帯を買ってあげる」
 多くの親が使う手でしょう(もちろん無条件で与える親もいるでしょうが)。
 帰りの電車などで、ゲームに熱中している中学生をよく見かけます。
 携帯をめぐっては、たとえば給食費を払わなかった親に、「子どもの携帯の契約を切れば払えるでしょう」(当時、1ヶ月で1年分の給食費に当たる金額を携帯で使った子もいました)とまで言ってしまうようなこともありました。
 「こんなにほしいものを買って上げて、遊ぶ金も渡してあるのに、何が不満で荒れているのかわかりません」という問題行動を繰り返す子どもの親。
 教師の資質が問われるなどというレベルの問題ではありません。
 明白な虐待(目で見える範囲に傷が残る、ガリガリになっても食事をとらせないなど)なら止められても、手をかけて甘やかすタイプに歯止めをきかせる手段はありません。
 「自分たちが何をやっても無駄だろう」とあきらめている教師も多い問題がそこにはあります。
 国や調査機関も、「朝食をいつも食べているか」とか、「家族そろって夕食を食べられるのは週に何回か」とかいうレベルならまだ聞けるでしょうが、親の教育に問題があることを子どもに悟らせてしまうような調査はかけにくい。
 教育社会学者のように、親の収入の格差が学力の格差。しかもそれは次世代にも受け継がれる。貧困・低学力の連鎖。などと平気で言えてしまうのもすごいところですが、学校は子どもにも親にも夢や希望を与えてあげたいところです。
 「教師が変われば学校が変わる」という言い方がありますが、「親が変われば学校(子ども)が変わる」モデルケース事業をどこかでやらないでしょうか。
 法令で動くより、成功例をつくってそれをまねしたくなる自治体、学校が増えるようにした方が、無駄がないでしょう。
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齋藤孝さんの教師としての特質(増補版)

 齋藤孝・梅田望夫「私塾のすすめ」(ちくま新書)には、齋藤孝の教師としての特質が非常によく表れているところがあります。
 以下は、Amazonのブックレビューに書き込んだ内容です。
 

「僕自身が、教育に燃えているわりには、教育界に与える影響力は小さい気がしている」 と言う齋藤孝に対して、梅田望夫は「斎藤さんの情熱とポテンシャルに対して、世の中の需要は、まだ100対1くらいなのでは」と答えています。
 二人の考えは、ある意味では根本的に異なっています。
 齋藤孝がネットに関心をもたず、ブログに手を出さない理由がおもしろい。
 教師らしい齋藤孝の性格がよく読み取れる部分です。
 梅田望夫が「基本的には同じ」という言い方で幾度もフォローしているのですが、「みんながそうでなければいけない」系の強引な指導をモットーとする齋藤氏のことは、かなりうざったく感じながら対談に応じていたのではないかと思われる箇所が、いくつか出てきました。
 閉じた空間(研究室内部という意味ではなく、教育という世界)で研究をしている齋藤氏と、開かれた空間、オープンソースで仕事をしている梅田氏の違いが明確に表れています。

 齋藤孝は、ブログをやらない理由として、「打つのはものすごく強いんですが、打たれるのは嫌いです」「授業の感想でも、二百人教えて、一人でもネガティブなことを書くと、それが気になってしまう」「こちらを安く値踏みしてちょっかい出してくる人に対して、攻撃をし返してしまいかねない」「・・・自分にふりかかってくると、火の粉をふりはらうだけでなくて、つい火元に行って、思いっきり水をぶっかけてしまいかねない」などの理由をあげており、梅田氏もとうとう「斎藤さんは、ブログをやらないほうがいいかも」と結論づけています。
 齋藤孝のような教師はたくさんいそうですよね。自分もそうだし、ブログで自己主張をしている方もみんなそれに近い(齋藤孝ほどではないにしろ)。
 なお、私は齋藤孝の(生徒から見ての)ウザイ系教師キャラが嫌いなわけではなく、そういう教師が滅び去ってきている危機感をもっている一人なので、今後も教育活動、執筆活動を応援したいと思っています。
 「人生を通して、情熱をもって教育に取り組み、専門家としての力を磨いてきた。休みなくやってきている。しかし、ここまで発言して、本を出して、提言し続けても、公教育に正面からかかわるようなポジションに、僕はいないわけですよね。」
 「本気で変える意志というのをもっていない、もやーっとした感じを感じますね、日本に対して。教育の世界では、達成が問われにくく、朦朧としているという感じがある。僕は日本の教育のことが本当に毎日心配で仕方がない。しかし力を出す場所が足りない。」

 という齋藤孝には、文科大臣になるよりもまず「学者校長」になって実績を出してほしいですが、・・・いきなり学習指導要領を無視しそうなので難しいですね。本のタイトルも「私塾のすすめ」ですし・・・。
 何よりもまずは、ブログを立ち上げていただいて、オープンな世界に入ってほしいものです。
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ブログに見られる教員の特質

 「あなたとは考え方が違う」と対話を拒否する人、「Aではなく、Bも」と要求されると、「AだけだったのがBだけになる」など、180度無理に舵をきってしまう人、子どもだけでなく、教員にも見られます。
 大人だけに、ほんとうに指導するのが難しい。
 上司としての管理職・人事権をもつ行政というのはたいへんな責務を担っているものです。
 子どもの場合は、周囲の子どもが「それはおかしいよ」と言えば改善されるかもしれませんが、教員の場合、管理職・行政・保護者という対立軸をもって閉鎖的集団主義がつくられている場合、周囲の教員が批判することが難しい。
 「みんなは一人のために、一人はみんなのために」のうち、問題となるのは、後者が何を要求させられているか、ということです。同一の価値観が強制される恐れがある。
 自己申告や外部評価は、このような問題が文書の形になることで、「毎年必ず同じ失敗が繰り返される」失敗をある程度防止することができます。
 ブログというのは自己主張の強い人がそもそもやっているもので、かつ匿名性が高いため、言葉が極端に走りやすいのですが、教員に限って言えば、それはもともと持っている資質が表れただけなのかもしれません。
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評価の質の低さは指導力の質の低さと同じ

 学校評価の考え方についての批判をもとにコメントした文章がありますので、ここでも紹介させていただきます。
 内容の趣旨は、これまでに述べてきたものとほとんど変わりません。

 私も現場の一教員としての立場から申し上げさせていただくと、もし学校評価の項目に問題があると考えれば、当然のことながら検討してもらうでしょう。
 人手不足の教育委員会はそこまで手がまわらず、学校の自律性に任せている部分が大きいですが、外部評価が機能することによっても健全化は望めます。
 「学校評価の項目に関する学校間格差とPDCAサイクルの実態」などの研究プロジェクトを実行してもらえると、学校評価の質も高まるでしょう。
 「学校評価の質を高めることにより、学校教育の問題点を改善しやすくすること」は、教務主任レベルの職務目標にもなります。
 もし個人の評価を高めるため、学校全体の指導力の向上を果たさない教師がいれば、それは学校全体の目標に反しているという意味で、その教師の評価は低くなるでしょう。
 しかし、その教師が指導で高い成果が出ている部分については、出ていない教師より評価が高いのは当たり前のことです。
 個人名はあげませんが、「すごい授業」をすると有名なある先生が、学校全体の動きにほとんどかかわらず、講師に招かれるので出張ばかりしていた、ときには生徒も自習になるのでビデオばかり見せられていた時期がある、という例もあります。
 有名人はこのパターンが多い
 さて、こういうプロジェクトがあったとき、一部には「学校評価の質を高める」のが目的になってしまって、「より良い教育」という本来の目的の達成がおろそかになる、という主張をする人がいますが、これは、日本国憲法の原則にしたがってさえいれば何でもうまくいくと勘違いして、さまざまな法令のことに目が向かないというパターンと同じです。
 さらに、この法律や命令は憲法の趣旨に反していると(自分が)判断して、遵守しないような行動をとる人までいる。
 ある一つの目的を達成するには、個別に達成すべき具体的なことがたくさん設定できるので、それぞれについての達成目標が必要になるのです。
 「学力を向上させる」という目標もその一つですが、それを達成するにはさらに達成すべき課題がたくさんできる。
 一つ一つの目標を達成することが、大きな目的を果たすことにつながるのであって、小さい目標を果たすことが目的になることは、大きな目的は果たすために欠かせないことです。
 「より良い教育が目的です」と言われても、何をいつどのようにするのか、どうだったのか、答えられないと、改善も何もできないのです。
 「競争」や「評価」を低い次元にとどめているのは教師の戦略性・論理性の欠如によるもので、この部分については常に生き残る努力をしている企業から学べることが多い。
 抽象的なことばかり主張して生きていけるのは、大学の先生くらいでしょう。
 もちろん、教師が企業とは異なる教育のコンピテンシーもあります。それらを明示していければ、より信頼性が高まることは言うまでもありません。
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不信拡大の悪循環からの脱却策

 よたよたあひるさんからのご返答は、どれも教育の世界の人間にとってはたいへん参考になるご指摘です。
 このような他業種との交流が教育界には少なかったので、独善的、保身的、閉鎖的な特質が教員には染みついてしまいました。
 「開かれた学校づくり」「人事考課」等は、このような教員の独善性や閉鎖性によってふくらみ続けてきた不信を払拭するというねらいもありますが、そういう政策への反対・反抗という態度によってさらに不信を拡大するという悪循環に陥っています。
 以下、よたよたあひるさんからのコメントをご紹介します。

 コメントへのお返事エントリーありがとうございました。ただ、私がコメントに書いた、  >自己申告をもとに指導してくれる  >上司の対応によって見方、書き方が  >変わるような気がします。 は、「恣意性」の問題ではなくて、もっとテクニカルな部分のことです。

 学校の先生方のことはわからないのですが、医療や福祉の領域の職員だと、直接援助の仕事はとてもよくできる・・感度がよくて利用者のツボをつかむことがとてもうまいけれど、この手の作文が上手くない人は多いです。公立施設であっても、意識は専門職であんまり自治体職員という感覚が薄いということもあると思いますが、動いてナンボという意識が強いのかもしれません(主任試験のマークシートでも一番成績の悪い職種が看護でついで福祉職だったような記憶があります。論文はなおのこと苦手な人が多いです)。ちょっと脱線しましたが、感覚ではつかんでいるのに、うまく言葉にできないでいるものは、一人の職員の「職人技」になってしまいます。ちょっとしたガイドがあると、この「職人技」をスタッフ全員への共有財産にできると思うのです。
  
 また、私の日記で書きましたように、個々の職員にも得手不得手はありますから、利用者に対するのと同じようにストレングス・モデルの指導がうまく伝われば、自分でも不得意だと思っている領域への取り組み方が見えてくる場合があると思うんですよね。今のうちの上司は、国語表現の問題も含めて、その産婆術のような指導をしてくれるんです。

 教員の場合も「意識は専門職で自治体職員という感覚が薄い」ことは明らかです。
 問題はこの「専門性」自体にもあり、ボランティアできた大学生や塾からの講師の方がよっぽど教えることを工夫して、「先生よりわかりやすい」と言われてしまったり、「学習指導要領」をろくに読まず、自己流の教育内容・教育方法を毎年踏襲したりという教員が多いのです。
 100マス計算による効果が伝えられるとすぐ飛びついてまねをし出しますが、子どもはそれ自体の充実感はあるとしても、そのために本来の学習を行う授業時間が削られるわけで、もし計算が終わったらぐったりして次の学習に向かう姿勢がまったりムードになってしまったら意味がないわけです。
 それを導入して高い成果を上げてきた先生というのは、100マス計算のように競い合う方法がよかったのではなくて、あくまでも普通の学習の指導力が高かっただけなのです。
 自治体職員としての感覚が薄いことは、一人が取り扱う文書の数が少ないことも原因に上げられます。
 教師は「書類が多い」と文句をいいますが、それは程度問題で言えば、生徒が「宿題が多い」と言っているのと同じです
 宿題がほとんどでない学校の生徒は、週に2~3回宿題が出ると多いなあと思うかもしれませんが、毎日宿題をこなすのが習慣になっている学校の生徒は、一日に何個もまとめて出されて多いなあと思うわけです。
 自治体職員というより公務員には「文書主義」という原則がありますが、狭い職場であるため口頭での伝達も多く、また「口伝」によって仕事の方法が伝えられるという伝統があることが、教員に「文書主義」の原則が身に付かない背景になり、「また書類ですか、めんどうくさい」という反応になってしまう。
 学校現場では省かれている業務に関係する「起案」という用語も、知らない教員は多いでしょう。
 これは、明らかにボタンのかけ違いによるものです。
 教え方、集団の指導の仕方などは、その場にいれば先輩から盗んだりすることができるのですが、文書作成・文書管理についてはモデルがそこにいないから難しい。
 いまだに書類が整理できない教員はたくさんいると思います。その方法がわかっていない。
 毎年ほとんど同じような書類もあるため、ときどき年度を変えないで出されてしまっても気付かないということがおこります。
 役所も学校も、書類のフォーマットというのは決まっているので、私はそのフォーマットのすべてを4月当初に新しくその学校に入った教員にはすべてわたすべきだと考えています。
 その年は担当でなくても、いつかは自分のところにやってくる。
 そして、教務や生徒部、保健、図書・・・組織がいつ何をどのようにして動いているかを把握する
 副校長も、文書が来てから調査を開始するのではなく、あらかじめ決まっている調査については依頼文書が来る前に用意しておく。
 忙しい時期に文書作成に時間を取られずにすむ工夫は教員にも管理職にもいくらでもあります。
 頼まれもしない学級通信は喜んで毎日出し、同僚から頼まれて行事の要項の作り方を教えるのは抵抗がなくても、「上からおりてきた」文書だけはいやいややる。子どもと同じレベルです。
 人事考課で自己申告書を作成するときは、自分の能力や学校における立場と学校の現状と課題を踏まえて目標を考えるのですが、欠点はわかっていても、では何をどのように目指せばよいかがわからない。
 子どもには学年当初に「今年度の抱負」という作文を書かせるでしょう。
 この作文を踏まえて、抽象的な目標が書かれたら、具体的な目標を別につくり、その目標を達成するための方法も具体的に考えさせる。そのような生徒指導が習慣になれば、では教師としての自分は・・・となるはずなのですが。
 教員が不信拡大の悪循環から抜け出すには、ひとつはより良い教育を実践することとその方法を自分にもあてはめること。もうひとつが、他業種の常識から学ぶべきことを学びとることでしょうか。
 今、学校が開かれだして、中が変わらないまま開いてしまったものだから、ますます不信が高まってしまう学校が出てきた。一部の教員は、いつまでたっても「外部の人間にはわからないことなのだから」と閉鎖性をあらわにします。
 この閉鎖性は、明らかに子ども集団にも伝播しています。
 早く不信の悪循環から抜け出さないといけません。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より