前の記事の解答は、①行動、②今日、③やり抜く、④思いやり、⑤会社(企業)、⑥自分、⑦捨てる・・・でした。
今回の記事は、文月さんにブログでご説明いただいた「私はズボン強制校則は憲法違反で無効であると確信しております」という主張に対する私の意見を述べたものです。
「自由」をめぐる問題については、かねてより中学生くらいからきちんと議論し合い、公正な判断ができるようにしてほしいと現場では考えております。「ルールだから守れ」というのは中1には言えるとしても、中2、中3には通用しません。
中1ではまだ、「なぜこんな規則があるのか」という反発心が冷静な思考を働かせるのを邪魔してしまう時期であり、議論し出すのは中2くらいが適切だと思われます。
このとき、「憲法が自由及び幸福追求権を定めているから」という理由で議論に参加しないようになる態度だけは否定しなければなりません。
憲法では、「自由及び幸福追求権」を絶対的に保障すると言っているわけではなく、「公共の福祉に反しない限り、・・・最大の尊重を必要とする」としているのです。
私なりの人権尊重という考え方は、無条件で自由が保障される、というものではなく、きちんと尊重はするが、公共の福祉に反する場合や、本人の自由意思によるものではない内容については、制限されることがある、というものです。制限はしても、尊重することには変わりはない。尊重するからこそ、制限する場合がある。そんなニュアンスです。
リベラリズムの立場からすると、たとえば、「自由」についての標準的な合意は、佐伯啓思著「自由とは何か 『自己責任論』から『理由なき殺人』まで」(講談社現代新書)によれば、次のようなものです。
人は、他人の干渉や強制を受けずに自分の意思である目的を追求することができる。その人なりの「善き生き方」を追求する権利である。この権利は、基本的に他人や社会に対して深刻な害を及ぼさない限り、原則的に尊重されるべきである。要するに、他人の迷惑にならない限りで、個人の選択、個人の意思は最大限に尊重されるべきだというのである。
文月さんの主張も、この原則と同じだと考えられますがいかがでしょうか。
学校教育の現場では、この原則に反するような規制がさまざまに加えられています。
スカート丈の指導もその一つでしょう。
文月さんは、憲法の原則にしたがって反対派。私は現場の立場では賛成派、推進派です。
私などが問題としていることは、そもそも「
個人の選択」というものが、果たして純粋に「
個人の意思」によるものなのかどうか、「
自立した意思決定」が行われているのかどうか、ということがまずあります。
リベラリストが、「意思決定が誰によっても強制されていない、他者の介入を受けていない、という理由で自立的で自発的なものだとする」のに対し、私の考え方は、特に学校という社会の中では、子どもを取り巻く集団による影響力が強く、個人としての自立的な生き方という考えに基づく行動はほとんどなくて、さまざまな
環境、社会性の中で作り出されているものである、というものです。
ほんとうは学校が決めたAという選択肢を取りたいのだけれど、みんながBを選んでしまっているので自分だけAを選ぶことはできない。似たような事例はたくさんあります。いじめへの荷担も同様にしておこります。
リベラリズムは、
理念化された世界へ現実を押し込んで解釈しようとします。憲法のみに従った主張というのも同様です。そのために、常識などからの大きな隔たりが生じてしまいます。
「自分(私)」にとって、「家族」と「自分(私)自身」はどちらの方が大切か。学校と自分ではどうか。仲間と自分ではどうか。こういう問いを考えると、自分(私)に自由な選択ができるとは考えにくい。
その
選択に与える悪い影響を断ち切ってしまうことが、見かけ上は個人の自由を制限しているようですが、実はその個人の幸福追求権を尊重した結果だと言えるようになるかもしれません。
ズボンの問題も同じです。
さらに、教育権をもつ保護者の意向というのもあります。
一揆の防止策という主目的をもつ刀狩を例にとると、戦国時代には、もしかしたら好きで一揆に加わっていたのではない人がいたかもしれません。しかし「一揆」は文字通り
集団主義なので、
加わりたくなくても加わらざるを得ない。そこに「刀狩令」が出て、武器・武具をさしだしたため、一揆に加わらなくてもよいという望ましい状態になる。
自分はゲームをしているときが一番幸福なのだから、授業中もゲームをしていて何が悪い。
理念的にはOKになってしまいますが、
現実にはゲームをさせないことがその生徒にとっては有益なことです。
スカート丈もズボンの問題も、おそらくどこでも
議論を通して決定、あるいは議論をして問題を見つめることをしていると思いますが、「
憲法違反だからダメ、以上」という原理主義的な態度は、教育的でもないし、その考えでは、
現実的な利害が交錯する社会を生き抜いていくのは難しいことになるだろうと考えられます。
リベラリズムの問題は、その人がどういう生き方をしてきたか、どういう人生を送ることになるのか、ということよりも、その都度の状況で、個人が自由に選択できるという条件を確保することの方を優先することにあります。
文月さんは反対されているそうですが、援助交際の女子中高生
がその後どのような人生を送ることになるかということは、リベラリズムとは関係がないことなのです。
教育は、「
自由な選択の機会を保障する」ことには最大限の配慮をして個人の権利を尊重しながらも、規制が必要な部分については規制し、
将来やその時の全体への悪影響を防ぐ役割を果たすべきだと考えています。


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