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再びの「子ども第一主義」批判

 立場を変えることで成り立たなくなる主張というのが、教育の世界にはいくつもあります。
 たとえば行政から、教師たちに対して、「教師というものの本質は、忘己利他にある。自分のことは後にして、子どものために尽くせ」と言ってきたとしたら、「はい。その通りです」と答えられますか?「言われなくてもわかっています」と答えますか?
 その後、だから、子どものためによりよい学校づくりを近隣の学校通しで競い合い、その学校なりの長所をアピールしてくださいと言われたらどうしますか?全教師が「忘己利他」でやっていますと宣言できますか?
 中学校受験の過酷な競争に勝つことを望んでいる子どもに、「もっと中身の濃い授業をお願いします」と強く頼まれたら、「いや、君は僕の尽くす相手ではない。そんな競争に勝つための勉強は教えられない」と突っぱねますか。それとも、「忘己利他」の精神に基づいて子どもの要求通りに授業を変えますか?
 「子どものためにやってるんだ」という言葉を使う教師に散々悩まされてきた経験のある私には、「忘己利他」を掲げている教師にどうしても信頼感を持てません(これは私の身近にいた教師に限ってのことです)。
 「子どものため」と言いながら、どう考えても自分の都合のいいことを言っているのにしか聞こえないことが多すぎました。
 それが指す子どもとはだれかあてはまらない子どもはだれか子どもの何のためにやっているのか、・・・などを追及してたどり着くところは結局「こうあるべき」と思いこんでいる教師自身のためであって、利己主義以外の何ものでもない。
 子どもに競争の意義も問題点も学ばせる必要がある教師自身が、過去にやってこなかったから、という理由で競争を拒絶するのは、自分をかばっているようにしか聞こえないのです。
 「忘己利他」の理念が大事であり、利己主義の教師が増えているのならば、「忘己利他」の精神を教師が競い合うことが必要になったとも言えるのではないでしょうか。
 まず、現実の問題から解決していくことが教師には求められています。
 (本来は理解力がある)生徒が「授業が分からない」と言ってきたら、子どものために「分かるような授業をする」「指導力を向上させるために努力する」のが教師としての義務であり、いつまでたっても改善されなければその教師が放置されることは許されないのです。
 それが放置される原理が教育現場にあるとしたら、学校は断じて「子どものためにある」場ではありません
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教育」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。「学校教育を考える」から来ました。kurazohさんに横レスしたほりです。

>哲学的な問題は別として現実問題を解決するための道筋も至難なものであることを痛感しています。

私は、「別」にするから表層的にしか捉えられず、かえってややこしくなるんだと思ってます。

>そこで、現場の立場から、教師の望ましいロールモデル、コンピテンシーモデルを提言し、どうせ評価されるなら本物のモデルをもとにして評価してもらい、そのモデルを目標にすること

これは、哲学的な問題を抜きに不可能です。で、なおかつ、誰が評価するのか、となってくると、どうどう巡りになるだけです。

よそ様の、madographosさんのブログでは申し訳ないので、是非ウチ(「考えるのが好きだった」)に来てください。

(ところで、記載のメルアドは、ほとんど使ってません。)

他ブログでの一連のやり取り、興味深く拝見していました。


> 「子どものためにやってるんだ」という言葉を使う教師に散々悩まされてきた経験のある私には、「忘己利他」を掲げている教師にどうしても信頼感を持てません(これは私の身近にいた教師に限ってのことです)。「子どものため」と言いながら、どう考えても自分の都合のいいことを言っているのにしか聞こえないことが多すぎました。

これには私も賛同いたします。今回のケースに限らず、「子供と触れ合う時間を増やせ」と言いながら自らの仕事の軽減を望む声、あるいは「教育の機会均等」を挙げながら夜スペなどを批判的に捉える声などを聞くたびに、公務員にありがちな感覚を感じました。『忘己利他』と声高に叫ぶ者ほど、己のエゴには無神経なもののように思います。

kurazohさんのような方であれば、相手に対する遠慮から主張に気後れなさることもあるかと思います。しかし、真実を見ようと思えば産みの苦しみは避けられません。引き続きkurazohさんのご意見が聞けること、今後も期待しております。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「沈黙の王」より
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より