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社会科教師の逆コンピテンシー その8 傍観者とマスコミ化した教師

 第8回は、「成果統合力(チーム成果志向性)(③成果のB調整・統合力)」がテーマです。
 教員の業績評価に反対する人の中に、「教員の仕事はチームによるもので、個人の能力に左右される部分もあるが、個別に評価することはできない」というものがあります。
 しかし、この批判は明らかに教科指導の評価にはあてはまらないのと、チームの中でも教員以外のゲストが中心になるならまだしも、チーム内の役割は個別にあるわけで、それも評価できないというのはおかしいわけです。
 チームとしての仕事が評価できないなら、子どもの特別活動の評価もできないことになってしまいます。
 このタイプの業績評価に反対する人への説明は簡単なことで、「あなたの個人目標の中に、チームによる成果を極大化するためにあなたがすべきことを入れてください」とお願いすればよいのです。
 生活指導の場面を見れば子どもでもわかるように、明らかな「傍観者」が教師の中にはいます。「嵐が過ぎるのを待て」と後輩にアドバイスする教師もいました。
 授業中に爆竹が鳴って職員室を飛び出したら、現場に立っているのは自分だけで、抜け出していた生徒たちに囲まれるという孤立無援の事態を経験して初めて、傍観者の教師には「チームで動くルールを決めておかないと何もしない」ことに気付かされるのかもしれません。
 前回の「遅刻に甘い教師」のように(あれは学校全体の問題でしたが)、「優しい先生」がチームに混じっていると、正負の数のかけ算のようなもので、他が全部正の数でも1つ負の数が混じれば成果はマイナスになってしまいます。
 「チームによる活動だから個別に評価してはいけない」とは、「自分がチームの足を引っ張っているのが明らかなので、自分だけマイナス評価になるのがいやだ」という意味なのでしょうか。
 「厳しい指導」の原則は、単に「怖い」「どなる」ことなどではなく、指導に一貫性継続性があることで、「譲れないところは絶対に譲らない」という粘り強さがあることです。
 その意味がわからない教師たちは、一部の「怖い」教師に生徒指導を任せきって、自分は常に安全圏にいて、教育に達観した指導者面をしている。そんな現場はないでしょうか。
 さて、教科指導の面では、たとえば社会科の場合、共産党支持者自民党支持者が社会科教師にいる場合(それに限ったことはではありませんが)、極端なことで言えば、指導学年が異なればいっさい会話をしないなどということが公立中学校ではあり得ます。
 教科指導の面で、成果統合力がない逆コンピテンシーの好例です。
 教科会を定期的に設け、指導案検討研究授業を実施しているか。
 年間指導計画を教科会で検討しているか。
 定期考査の問題を互いに検討し、その内容を吟味しているか。
 研究推進校にでもならない限り、それぞれの教師がそれぞれ勝手に「社会科」授業を展開しているのではないでしょうか。
 ひどい話では、「○○先生の言うことは国家よりで、間違っている。市民社会の原則はこうだ」と指導の否定から入る教師もいる。
 昔は、子どもの話を封殺・攻撃し、不登校にさせ、保護者からの苦情に対して逆ギレのプリントを全部の生徒に配付した教師までいました。
 理想や理念を強い情熱で生徒に伝えたい熱意はよく理解できますが、手段を選ばない強引さは「教育」ではなく「闘争」そのものです。
 「教壇では何をどう指導してもよいという権利をもっている」と強く信じている教師がいるのは社会科に限ったことではありませんが、生徒から見て「この社会の先生は社会に出てやっていけるのだろうか」と思われてしまうのが最大の逆コンピテンシーでしょう。
 自治体ごとに、教科の研究会が(発足は組合系だったとしても)あり、情報交換や勉強の機会は保障されていると思いますが、そこでも学ぼうとしない教師。
 社会科教師なら、自分が持つさまざまなネットワークが指導の各所で生かされていくはずです。それが特定の政党や組合活動にしかつながっておらず、「マスコミ化」してしまっている教師は多くないのでしょうか。
 「フィールドワーク」が社会科教師の原点の一つにありますが、同じ学校の他の社会科教師が何をどう考え、どう教えているかを調査することが最も身近なフィールドワークです。
 「授業を見られるだけで、批判されている気になる」という逆コンピテンシーがあれば、早く治療しなければなりません。
試験問題】 学習指導や生徒指導で、あなたが過去に犯した失敗から学べたことで、その後の指導の改善に最も役立っていることは何か、述べなさい。
試験問題】 あなたが実施した研究授業の中で、授業後の研究協議で得た批判から学べたことは何ですか。その批判を今、授業の中で、どのように生かしているか、述べなさい。
試験問題】 同僚の教師の授業を参観して、あなたが学んだことは何ですか。また、そのことを自分の授業でどのように生かしているか、述べなさい。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より