社会科で育てる理性と感性
「ニュートラルな立ち位置にあること」が自覚できることは教師のコンピテンシーの中で「自己統制力」に入るものかもしれません。
人間は、ある固定観念に重心をかけると、それに都合のよい情報だけ目に入ってきたり、自分の都合に合うようにその情報を解釈してしまったりします。
禅など宗教の教えをひくまでもなく、「見えなくなっている自分」への自覚を失うと、人は説得力も失い、いずれは無視か闘争を引き起こすことになります。
ディベートは、そういう人間のいやらしさを真から実感するために非常に有効的な活動です。
人間に対する評価、その政策にかかわる評価に対する主張は、ディベートのように賛成か反対か、白か黒か、イエスかノーか、ゴーかバックか、どちらかでないと意味がないような風潮は、単一の答えを求めるのが学習であるという勘違いによって、より強化されています。
センター試験や私立大学の入試問題はほぼ100%この形式でしょう。
話は変わりますが、ある俳優がインタビューで、「今、人々は頭が良くなりすぎている。頭で理解して行動する。しかし、心で感じるものをもっと大切にしてもよいのではないか。何を考えるかではなく、何を感じるかをもっと追究すべきではないか」という趣旨のことを述べていました。
なるほどと思う一方で、感性こそ手に負えないものはないとも感じさせられます。
社会科の歴史的分野では、多くの時間を「戦争」「争乱」「政治の失敗」にさくことになっていますが、今のカリキュラムでは、子どもたちに「何を感じさせていくのか」という問題への配慮は特にありません。
それは、授業・教材レベルでの話=教師の力量の問題になってきます。
「不当な支配への反抗・反発・嫌悪」を中核として授業を構成することもできますし、「権力と戦う人への愛情」を育てることもできるでしょう。
しかし、「あなたには何ができるのか」を問わない社会科では、「(国際)社会の中で主体的に生きる資質や能力」は育ちません。
戦略だけでなく、思考や情報の分野でも考えるべき課題になります。
« 社会科教師の教育の成果 | トップページ | 週刊東洋経済の「子ども格差」 »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント