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社会科教師の逆コンピテンシー その7 指導の「赤字」

 第7~9回は、「③成果」の分野になります。
 この分野では、「生徒が学力の向上を実感できず、学ぶことに充実感がもてない、力がつかない」状況を生んでしまう教師の逆コンピテンシーが課題です。
 今回のテーマは、「成果追求力(③成果のA実行力)」です。逆コンピテンシーは、「成果を問われることに反発する」こと、「子どもの学習成果は問うが、自分の指導の成果は問わない」ことなどです。
 企業の世界では言うまでもなく「成果」がすべてですので、業績にしろ、社会貢献にしろ、「どういう結果が残せたか」が多方面から問われることになります。
 しかし、教育の世界では、「成果」が問われることに対する教師からの反発が非常に大きい。定期考査や入学試験、夏の大会や新人戦などによって必ず「成果」が問われている生徒とは対照的に、量的に測定することが困難な教師の「指導の成果」には、長い間、社会の目も甘かったと言えるでしょう。
 学校内でも、「学校評価」は必ず実施され、どの教育活動がどれだけの成果を収められたのか、残された課題は何かなどを考える仕組みは昔からありましたが、同じ失敗をいつも繰り返していたり、何年経っても成果が出なかったりしたことが放置されていました。
 結局それは、「組織力」の評価であって、個別の教師の問題を浮き彫りにするものではなかったのが最大の原因でしょう。
 それが、学力調査や外部評価、自己申告(業績評価)などによって、否が応でも自分の能力と職務行動に直面せざるを得なくなって、ようやく「子どものできが悪い、勉強をしない」という無責任な見方から、「子どもに身に付けさせたい力を身に付けさせていない、目的に応じた学習をさせていない」自分自身に目が向くようになりました。
 「どうして○組の清掃は毎週毎週こんなにいい加減なのでしょう」「どうしてこのクラスだけ、教室移動が遅いのでしょう」「どうしてこのクラスだけ、忘れ物が多いのでしょう」などという声に、「しっかりやれと指導しているのですが・・・」と答える教師はいませんか?
 それが答えになっていないことに気付かない教師はいませんか?
 学習指導も全く同じです。
 自分の授業が成立しないことを、学級担任のせいにしている教師はいませんか?
 「なかなか実力が上がらなくて・・・」「どうしてこうも今の子どもは勉強が嫌いなのでしょう・・・」
 「成果」に目が向かないと、教師が何のためにいるのかすら自覚できない人をつくってしまうわけです。
 企業での研修でそのことにようやく気づき、「自分がすべきこと」に目が向くようになる教師もいます。
 そういう自覚をもってすら、教育というのは(目標にもよりますが)成果を残しにくいものですので、「成果を給与に反映させるのは反対」という声は、教育の力を過信しすぎている証拠です。本当に成果を出せた教師(チーム、学校)には、成果というより企業で言うところの「赤字」を出してしまった人たちより報われる部分があってもよいでしょう。
 逆に、今まで教師たちは、成果があまりにも出ないことで、自己の防衛機制のために、成果に対する関心から離れていたのかもしれません。
試験問題】 別刷りの冊子は、ある学校の教師が定期考査で出題した問題の一部です。この問題から、教師が生徒に身に付けさせようとした(と考えられる)能力を箇条書きでいくつか挙げなさい。また、この問題の「問題点」について、気が付いたことをいくつか挙げなさい。
試験問題】 あなたのこれまでの教育実践の中で、数字で示せる具体的な成果をいくつか挙げてください。また、数字では表すことのできない成果もいくつか挙げなさい。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より