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社会科教師の教育の成果

 なっつさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。
 

日本は競争社会の中で、勝ち上がるために弱者切り捨ての価値観を身につけていき、結果「人のため」という価値観がすごく下がっていますよね。人のために行動する気持ちが育てば、自然に、まわりの人のため、地域のため、国のため、という気持ちも育つと思います。いきなり「愛国心」とかって言い始めるから抵抗があるだけで。
 だって、官僚、政治家を見ても、愛国心があるように思えないもの。自分たちの保身ばかり考えて。そんな人達に「愛国心」と言われるから、反発が起きるだけだと思いました。

 国家=政府と見る立場からの「愛国心」の押しつけに対する反発は当然のことですね。
 しかし、愛国心=滅私奉公という連想をしてしまうのは、日本独特のかなり狭い歴史観に基づくもので、だからこそ社会科の目標では、「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情」のように、「多面的・多角的な考察による理解」に基づく「愛情」を育てたり深めさせたりすることを目標にしているわけです。
 ただご存じのように、社会科の場合はほとんど一面的な歴史認識を子どもに植え付けようとする教師がいますから、そういう教師の思い通りに育った子どもたちは「国家・社会・政府」という文言自体によい印象を持てずに成長していきます。選挙権を行使しようとしない多くの若者に、「どのように成長してほしいのか」を問うことのない大人たちは、政治家が悪い、官僚が悪いという言葉で政治的無関心を片づけてしまいます。
 有識者の立場としては、今のままでは「民主的、平和的な国家・社会の形成者」たる人間を育てることが難しいという認識があるので、「日本人としての自覚」を促す文言として訴えかけているわけです。
 なお、教育現場で教師が「愛国心」という生々しい表現を使うことはまずないでしょう。だいたい両極端の立場の人が相手を批判するためかそれに対して攻撃するために使っています。
 学習指導要領に「愛情」という文言がある以上、「日本を忌避することになる国土と歴史に対する理解」をゼロにする必要はありませんが、そういう理解を促したら、せめて外国に誇れる日本のよさも理解させる必要があるわけです。それは、自由主義競争に勝っているという経済の面に限ったことでないのは当然のことです。
 安全な水を飲むことができない国の子どもたちは、日本の自然環境をどう思うでしょうか。
 銃によって家族の命が奪われた子どもたちは、日本のように武器携帯を禁止し、治安がよい国のことをどう思うでしょうか。
 一生かかっても遊びきれないほどの趣味や娯楽があふれている日本を、学校すら満足に通えない国の子どもたいはどう思うのでしょうか。
 人間と同じで、別に全面的に愛する必要はなく、「嫌いなところ」があってもかまわないわけです。
 歴史は解釈が修正されることはあるかもしれませんが、歴史的事実は修正されません。
 「国際貢献」や「国際協調」で日本が果たしてきた歴史的事実は何か。
 政府の果たした役割、個人が果たしてきた役割は何か。
 国際社会に生きる人としての自覚をもたせる教育をするのが、社会科教師の醍醐味です。
 日本の国土も、四季があって自然と親しむこともできますが、地震や火山、津波などによって安全が脅かされることもある。四季の楽しみ方、山や海、川での遊び、地震や火山への対策に尽力してきた人々の苦労や工夫などをよく理解して継承することで、自然と愛情に結びつくことをねらいとするのが社会科です。
 これもあくまで社会科教育の一面ではありますが。
 「競争社会」「弱者救済」「公共の精神」など、社会科教育で扱うべき多くの課題がありますが、道徳教育と重なり合う部分が多い題材というのは、よく問題とされますね。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より