ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 教師と子どもの社会性と社会科 | トップページ | 子ども迎合型教師とルール化のデメリット »

「いじめ」と新KEGARE思想

 教育の現場で感じる新種の「KEGARE」意識として、「教師からの指導を受けて不快な気分になること」があげられます。
 このKEGAREをはらうには、「逆ギレする」「無視する」「親に教師を攻撃させる」「他人のせいにする」などという手段があります。
 自力救済系の「はらい」は、「笑われただけでキレる」ような中世の時代の日本人を思わせます。
 他には、「自分の思い通りにならない」というKEGAREもあります。
 これをはらうには、「キレる」「他人を攻撃する」という攻撃的な方法と、「逃げる」「自ら命を絶つ」などの後ろ向きな方法があります。
 「荒れた学校」の時代には、圧倒的に攻撃的な方法が多かったのですが、最近は消極的な態度の方に重点が移ってきています。
 「いじめ」という現象がやっかいなのは、同質でない(のが当然なのですが)他人、自分の思い通りにならない他人に「KEGARE」を感じ、攻撃を加えて「はらおう」とするのですが、相手が自分の都合のいいようにならない場合、「KEGARE」がさらに増していくことです。
 いじめた側は、相手の「KEGARE」をはらってあげようとしているだけなので、罪悪感がない
 いじめられた側は、自分が「KEGARE」ていることを認めたくないので、初期は「いじめられていること」を認めようとしない
 そして事態が深刻になり、相手から攻撃を受け続け、積もり積もった「KEGARE」が、自分自身の「KEGARE」許容範囲を超えたとき、重大な問題がおこる。
 「いじめ」の問題の根が深い理由は、「新KERGAR思想」にある、というのが私の仮説です。
 では、その解決法ですが、この種の「KEGARE」は存在を否定せずに、教師が指導によって「はらう」しか方法がありません。そのためにはまず、教師自身の「KEGARE」をなくしたいものです。
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

« 教師と子どもの社会性と社会科 | トップページ | 子ども迎合型教師とルール化のデメリット »

教育」カテゴリの記事

いじめ問題」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「いじめ」と新KEGARE思想:

« 教師と子どもの社会性と社会科 | トップページ | 子ども迎合型教師とルール化のデメリット »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より