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教育の目的を達成するための手段

 madographosさんからの以下の批判にお答えします。
 

kurazoh様は,「教育という仕事は目的でもあり、手段でもある」と主張されています。だとすれば,「目的と手段という別次元のものを同一視・混同」しているのは,私ではなく,kurazoh様だということにはならないですか?
 また,kurazoh様は,「「競争」は、子どもの成長を妨げる教師の利己性を排除する機能をもつ」と主張されています。だとすれば,そこから演繹される「「利己的な教師の排除」を妨げる目的で競争に反対するという論理」は,kurazoh様が自らの主張を用いて推論されたことになります。

 「教育という仕事は目的でもあり、手段でもある」というのは、異なる次元から、次のように見れば、という意味です。
 「子どもの成長を目的にする教育という仕事は、教師にとっては生きていくための手段」「教育という仕事は、子どもを成長させるという目的を達成するための手段」。
 たとえば、絵を描くためには、紙と鉛筆が必要です。「絵を描いて子どもを喜ばせる」という目的のために、「紙と鉛筆」という材料があり、対象をしっかり見る、子どもが喜ぶ題材を選ぶなどの手段が必要です。
 madographosさんは「絵を描いて子どもを喜ばせる」ことが手段になるとおっしゃっているのですが、それはつまり目的が変質したということになるのですね。
 たとえば、「子どもを喜ばせて誘拐する」とか。
 手段というのは、たとえば目的を実現するためにとられるものであって、同一次元のものではないということです。
 「教育の目的であるべき子どもの成長が,手段に転化」とおっしゃる意味が、上記の趣旨であれば、「目的と手段という別次元のものを同一視・混同」することにはならないでしょう。
 madographosさんは本質的なことかもしれないことを抽象的におっしゃるのでわかりにくいのですが、具体的に言えば、「子どもの成長だけを目的として教育すべき教師が、高い給料を得たいという目的もそこに含めて教育するのは許せない」ということではないでしょうか。
 でも、「高い給料を得たい」のは利己的かもしれませんがこれはあくまでも目的であって、それを達成するには子どもの成長を(それもよりレベルアップした成長を)実現することが不可欠になるのです。その手段は自分が実践する教育しかありません
 「競争」によって、子どもの成長に関心を示さず、自己研鑽もしない教師を浮き彫りにし、よりよい成長を望んで自己研鑽に励む教師を優遇することが悪であるという論理は、子どもにとって望ましくない教師を覆い隠そうとしているとしか考えられません。というのが私の主張です。
 教師の「利己性」の問題は、競争のあるなしの問題以前から、自分(自分の流儀、自分の学級、自分の専門教科など)しか考えず協調性のない人たちがいたことにありました。特にこういう教師が競争の導入によって騒ぎ出す(それでも自分勝手を通そうとする人がいます)。
 力のない管理職などは、ただでさえ言うことを聞いてもらうのに四苦八苦しているのに、競争原理の導入でますます反発されて困るという、「うちの子どもはただでさえ家で言うことを聞かないでに苦しんでいるのに、学校で怒られて帰ってきて荒れている。親に当たり散らす。学校では叱らなくてくださいよ、先生!」とクレームをつける親のようなものです。
 教師たちの「利他性」の「他」が、子どもではなく「指導力に課題がある同僚」になってしまっていることが、教育の質の向上を妨げている部分があるので、それを解決するための政策が練られており、そのうちの一つが人事考課制度だということです。
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教育」カテゴリの記事

コメント

madographosさんへ。
細かい点については、ブログ上で、きちんとお答えします。
と申し上げたとおり、これはmadographosさんへの回答ではありません。
誤解のないよう、「madographosさんのことを言っているわけではありません」と付け加えました。

ご返事ありがとうございました。
 よくわからないのですが,私へのご返事の中になぜ,私のことを言っているわけでもない「継続的な成果を残せない厳しい環境の中にあるとは言え、教師の「言い訳」「自己弁護」は見苦しいものです。」という文章があるのですか?
 それに,管理職について,「排除は本人が納得した上での選択肢です」というのは甘すぎませんか? 子どもの利益を優先すれば,「納得」などを前提とする必要はないのでは? それこそ公務員の甘さと言われかねないのではないですか。民間では,解雇はともかく降格など日常茶飯事です。

細かい点については、ブログ上で、きちんとお答えします。
管理職に求められる資質は、質は異なりますが、教師の資質をはるかに上回ります。
だから給与体系が違うのです。
私のブログを読んでいる人は、「管理職ってたいへんなんだな」と実感されていると思います。
管理職の資質向上も必要だし、管理職候補者の育成も必要です。排除は本人が納得した上での選択肢です。
「本質的には~が大切」だからといって、「~」だけが大切だったり、そうでないものが全く大切ではないということありません。
madographosさんのことを言っているわけではありませんが、継続的な成果を残せない厳しい環境の中にあるとは言え、教師の「言い訳」「自己弁護」は見苦しいものです。

追加です。
「madographosさんは「絵を描いて子どもを喜ばせる」ことが手段になるとおっしゃっている」とありますが,私はそのような例を用いたことはありません。
念のため,申し添えます。

まずはじめに申し上げておきますが,私はブログ上で論争することを好みません。今回も,ご主張に対する意見を申し述べますが,それはお互いの主張が異なっているということを明確にするためであって,議論を発展させる意図はありません。私は,相互に全く素性もわからない者どうしでは,議論の発展は望めないと考えているからです。ですから,今回もご主張の論点に沿って,主張の違いを明確にし,若干の意見を申し述べるにとどめます。
 それに先立ちまして,どう理解してよいか分からない点を述べます。
ご主張のなかで,「子どもの成長を目的にする教育という仕事は、教師にとっては生きていくための手段」と述べられ,かつ「「高い給料を得たい」のは利己的かもしれませんがこれはあくまでも目的」と述べられていますが,教育という仕事は,教師にとって生きていくための手段であり,かつ「高い給料を得たい」という目的をもつということでしょうか?このあたりの手段と目的の使い分けがわかりません。「同一視・混同」とは,このようなことを言うのではないでしょうか?
 それはさておき,kurazoh様と私の主張の違いを明確にしたいと思います。
kurazoh様のご主張は,教育という仕事において,子どもの成長という目的と,高い給料を得るという目的をふたつながら実現させうるのが,絶え間ない自己研鑽の結果身につけた高度な教育技術や教育に対する教師の見識である。すなわち,教育そのものが両者の目的を達成するための手段であるというご主張であると受け取りました。
 私は,教育という仕事の目的は,子どもの成長という一点に絞られるべきであるという主張です。その目的に資するために絶え間ない自己研鑽の結果身につけた高度な教育技術や教育に対する教師の見識はその前提として当然必要であるという主張です。私はそこで「手段」という言葉を使わず,「手段」を別のところで使っています。
 kurazoh様の表現をお借りして言えば,「高い給料を得る」という目的と「子どもの成長」という目的が両立しない場合があり得るので,その両者を目的とすることは無理だというのが私の主張です。とくに「高い給料を得る」ということが目的として優位に立った場合,kurazoh様も「「高い給料を得たい」のは利己的かもしれませんが」という形で消極的ながらお認めになった利己性のゆえに,「子どもの成長」が手段として認識される可能性があるということです。私も言葉が足りなかったと反省しておりますが,ここで言っている「子どもの成長」とは,厳密に言えば真の「子どもの成長」ではなく,「子どもの成長のように見えるもの」と言い換えた方がよいでしょうか。まさにおっしゃっておられる「手段というのは、(中略)目的を実現するためにとられるもの」という意味で「手段」という言葉を使っています。
 以上が,主張の相違ということだと思います。
 続いて,意見を申し述べます。
 「「競争」によって、子どもの成長に関心を示さず、自己研鑽もしない教師を浮き彫りにし、よりよい成長を望んで自己研鑽に励む教師を優遇することが悪であるという論理」という論理は,私の論理とは異なりますので,その点を明確にしておきたいと思います。「悪である」というのではなく,「競争」に両者を分別する力はないということです。そもそも,「ただでさえ言うことを聞いてもらうのに四苦八苦している」「力のない管理職」が「管理職」として存在しうることを許しているような任命権者のもとでは,「競争」に仮におっしゃるようなメリットがあると仮定しても,その「競争」が機能するはずがないからです。そのような「力のない管理職」を排除することのほうが先ではないですか?「力のある管理職」ならば,「競争」の有無に関わらず,学校の健全化をはかることができます。また「力のない管理職」のほうを競争させたところで,「力のある管理職」に生まれ変わるとは到底思えません。「子どものため」を思えば,排除するに限ります。

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「歴史の活力」より
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    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より