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2008年5月

個人・社会観のコペルニクス的転換

 齋藤孝・梅田望夫「私塾のすすめ」(ちくま新書)を読んで、自分の好きな仕事に打ち込める著者たちは本当にうらやましく思います。
 そして、目の前に「何とかしたい人間」「このままでは許せない人間」(齋藤孝の場合は大学生など)がいつもいるというのも本当に恵まれた環境です。
 しかし、近年は、このような「打ち込んでいる人間」がうざったく、はた迷惑だと感じてかつそれを表に出すタイプの子どもが増えてきたように思います。(だから齋藤孝が別の作品ですがキレモードの本を出すようになったのか?)
 「俺は俺の楽しみを追求したいのだし、人間にはその権利があるのだから、他人からとやかく言われる筋合いはない」という態度です。
 「人に迷惑をかけないなら何をしてもいいでしょう。学校に違反物を持ち込んで何が悪いの」と主張する生徒の「人」には、先生や本当の意味での自分が含まれていないのです。
 私は今まで、個人(自分、心)が世界の中心にあり、その周囲を世界(社会)が取り巻いているイメージを当然のように抱いていましたが、この方法だと「内に閉じこもる」「ひきこもる」ということが可能になってしまうので、あえて個人と社会のイメージは、社会が中心にあって個人が社会を包み込むイメージをもつべきだと考えるようになりました。
 誤解のないように付け加えると、「滅私奉公」を唱えているわけではありません。個人は小さいものではなく、無限の広がりをもつというものです。
 図でこれを示すと、今までのイメージだと個人が真ん中にちっちゃく、社会が大きく、という現実の物理的なスケールに合ったかたちになりますが、逆にすると、社会は小さく、個人は大きくなり、実はこれは現実の「自己」の精神的な面のスケールのイメージに近いのではないでしょうか。
 「個人」の肥大化が、社会から遠ざかっていくイメージというのが、ぴったり示せます。
 「社会」が「個人」の可能性を閉じこめているようなイメージがなくなります。
 種としての、個体のしての「ヒト」ではなく、漢字で示せる「人」、「人間」としての本質は、「社会中にある」というより、「社会中にある」イメージで捉え、そういう社会観、世界観を育てていくことが必要だということです。
 私の中では大げさですがコペルニクス的な転換です。
 この意味でいうと、「ひきこもり」という言い方はできなくなり、「縄跳びの輪に入れない」イメージに転換します。
 「いじめ」は、自分の中心を傷つける行為になります。
 「滅私奉公」という考え方がなくなります。自分の中心に向かって生きていくわけだし、自分の枠は外側にしっかりあるわけですから。
 「公共の精神」「愛国心」「自由」の捉え方、概念も変わっていくでしょう。
 「公」=「お上」という発想はなくなり、健全なシティズンシップが構築できるのではないでしょうか。 
 また時を改めて考えたいと思います。
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教員の業績評価のシステム

 よたよたあひるさん、コメントありがとうございました。

>自己申告をもとに指導してくれる上司の対応によって見方、書き方が変わるような気がします。

 公立学校の管理職の場合は、人事考課に対応するための研修として「評価者訓練」というものがあります。
 これによって、一般的な評価のパターン、原則、基準等が共有化できるようになっており、恣意的な評価はできません
 普通の教員にも、この訓練の中身などを公開すれば、少しは人事考課に理解を示してくれる人が出てくるでしょう。
 また、校長が行った評価については、教育委員会でその内容を吟味します。
 評価がおかしい校長(全員にBをつけてしまうなど)はすぐ指導を受けることになります。
 一部には、みんながんばっていればBがついていいじゃないか、という声もありますが、これは絶対評価であり、子どもの成績と同じです。
 教員の評価のBは一般に考えられているよりけっこうハードルは高く、イメージとしては、その経験年数等に応じて「できて当然のことがきちんとできること」です。
 教育現場では、これがなかなか簡単にはいかない。
 ですから、島の学校のように小規模校でかつ生徒数が非常に少ない場合など、ごくまれに全員Bというのはある得るかもしれませんが、AやCの教師がかたまったりしないような異動のシステムがありますから、1~2割はCのつく教員がいるのが普通です。
 「上司の対応によって見方、書き方が変わる」ことを完全に防ぐためには、評価情報をオープンにして360度評価にすればいいのです(私の究極の目標はそこにありますが)が、やはり課題のある教師にとってはつらいものになりますから、評価者と被評価者が相互に理解しあうことが大切です。
 なお、教員の人事考課の場合は、教員の職務目標の難易度と自己評価によって、その評価はほぼ決まり、校長は授業観察や日頃の職務行動の観察(副校長や主幹の意見も参考にする)によってその確かさを吟味するというシステムがとられています。
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書類を作成する目的と効果(結果)

 自己申告書などの書類を作成することが、「より良い教育を実現するための目的」ではなく、評価をつける目的で行われているので気に入らない、という意見があります。
 ある方のブログへのコメントとして、私は次のように述べました。
 

書類を作成する目的は、子どもの成長(教育の目的)の軌跡と自己の実践(教育の手段)との関連を明確に示すことにあり、それを直接的に利用するのは管理職、管理主事等かもしれませんが、自分の職務行動が本当に子どもの成長に寄与していたのか、足りなかったとしたら何が足りなかったのかを自己反省(自己評価)することによって、結果としてはより良い教育を実践していくための重要な職務行動と考えることができます。
 他にも、「子どもは成長していないが、それは教師が何もしていないからではなかった」ことなどを書類は示してくれたり、「子どもが成長したことは、その教師がこれこれの職務行動をとったおかげだ」という内容があれば、他の教師にとっても有益な情報になり、それはつまり子どもにとってプラスになる場合があったりと、その効果は一つではありません。
 デメリットは、作成するのに時間がかかるということですが、これは自分の実践をきちんと分析的に捉え、望ましいPDCAサイクルを実現していれば、さほど苦にはならないでしょう。成果が見えず、自己反省とか、自己改善の習慣もない教師には苦痛かもしれませんが。
 より良い教育の実践記録として書類を捉えるとしたら、それは、今後、自分や他の教師によって継続的に「より良い教育が実践されることを目的とした行為」にもなります。

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念ずれば通ず

 実は、今回の一連の記事を以前にコメントのやりとりをさせていただいた、よたよたあひるさんが読まれたら、どのように思われるか、お聞きしたいとずっと考えておりました。
 しかし、特に関連のない記事を書かれていたので、トラックバックもできずにおりました。
 「念ずれば通ず」現象がおこりました。
 ブログの方におじゃまさせていただくと、教師よりも厳しい現場の実態を知ることができ、成果主義の成功の秘訣は、WinーLoseの関係をつくらないこと。Win-Winの関係づくりが欠かせないことがよくわかりました。
 ありがとうございました。
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議論の終わりと始まり

madographosさんからはもうコメントをいただけないようで、残念なことです。
 まずろさんのブログの方でも、議論は打ち切りのようです。
 まずろさんも同様の趣旨のことを述べていらっしゃったと思うのですが、これはmadographosさん個人とのやりとりというより(それなら互いのメールでよいのです)、madographosさんと同じような考え方をしていらっしゃる関係者の方々にも読んでいただきたいという思いがあるので公開しているわけです。
 

私は一貫して「心構え」のことを書いている

とmadographosさんは述べていらっしゃいますが、「Aの心構えはBのみでなければならない」という論理が現実社会では通用しにくいことをご理解いただけなかったようで、残念でした。
 私の方も、一貫して「結果にこだわる(これはもちろんテストで高い得点をとらせるだけという意味ではありません)」姿勢が重要という態度で、記事を書いてきました。
 それが議論の食い違いになっても、主張を現実に近づけたいという願いもあったからです。
 なお、私はいわゆる「問題の教師」と,とにかくとことん付き合ってみた(そして信頼される教師に近づけた)経験があるので、具体的な記事が書けるわけで、理想とか空想の世界に住んでいるわけではありません。(これはmadographosさんが理想とか空想の世界に住んでいるという意味ではありません。)
 応援をいただいたお気持ちはありがたく思います。
 今後、madographosさんのブログに書き込みをさせていただくことがまだあるかもしれませんが、これはご本人への批判というより、同じような考え方を持たれる方への語りかけと理解していただきたいと思います。
 madographosさんとの議論は終わりかもしれませんが、競争原理に反対する方々との議論は続けたいと思います。議論は終わりが始まりという「課題発見」の効用があると考えるからです。
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飛ぶ公立学校

 今の学校現場の問題について、人間(教師)を機械にたとえて考えますが、これは教師は機械のような存在であれ、という趣旨ではないことを、あらかじめお断りしておきます。
 公立学校は、一機の飛行機です。
 重量に耐えかねて、高度が落ちてきています。
 高度を上げるよう、管制塔から指示が来ていますが、
 機体が言うことをききません。
 管制塔からの指示に、機長は、「高度を上げたいと思っている」
 としか答えられません。
 視界が悪くなってきており、この高度で航行するのは危険です。
 上空を、大型の旅客機が通過しました。
 かなりの高度で飛んでいます。
 ジェット戦闘機まで飛んでいます。
 あっという間に見えなくなりました。
 不満に思った乗客が、機内で暴れ始めました。
 すると機体のあちこちが壊れ初め、さらに高度が落ちてきました。
 整備は十分に行われていたのでしょうか。 
 逆噴射するエンジンまであらわれました。
 機体はコントロール不能です。
 高度を上げるには、余分な荷物を捨てなければなりません。
 しかし、何が余分な荷物なのか判断できません。
 そのうち、機長が燃料を捨て始めました。
 ようやく機体は上昇し始め、雲の上にでましたが、
 まもなく燃料が切れました。
 飛行機は、風に流され、ゆっくりと高度を下げながらも、何とか
 飛び続けています。
 機体を持ち上げているのは上昇気流です。
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何とか中心主義、何とか第一主義の問題点

 私の文章に対するmadographosさんの理解の問題点を指摘いたします。これは私が問題点と感じているだけかもしれません。あらかじめお断りしておきます。
 

「高い給料を得たい」のは利己的かもしれませんがこれはあくまでも目的であって、それを達成するには子どもの成長を(それもよりレベルアップした成長を)実現することが不可欠になるのです。その手段は自分が実践する教育しかありません。

と私が述べた趣旨は、人事考課で高い評価を得て、それがなかったときより高い給料を得たいと思っても、成果がでなければその目的は実現されないという意味です。
 なお、同じ教育現場にいる事務職から見ても、現状では、教員というのは自己研鑽に努めず、高度な教育技術を身に付けず、子どもを成長させなくても、十分に高い給料を得ている存在なのです。
 madographosさんは、
 教育という仕事は,教師にとって生きていくための手段であり,かつ「高い給料を得たい」という目的をもつということでしょうか?

と問われていますが、教育に限らず、職業とは、人間にとって生きていくための手段であり(もちろんそれが自分の生きる目的、人に幸福を与える目的を果たす手段になっていればなおさらいいことですが)、「高い給料を得る」という目的を果たすことが可能になる手段です。もちろん、そのような目的をもっていても、成果が伴わなければ目的は達成されません。
 教育が子どもの成長を目的とすることは、当たり前のことです。
 私はこのブログを通して、一貫して、成果が上がらない教師の実践を問題にしているのです。
 madographosさんの主張は、「教育という仕事の目的は、子どもの成長という一点に絞られるべき」という言葉に代表されていると思いますが、「AとBという二つの目的が両立しない場合があり得るとき、その両者を目的にすることは無理だ」式の発想パターンは、私には理解できません。
 ここではAが「高い給料を得ること」で、Bが「子どもの成長」なのですが、目的としてAがBより優位に立つと、BがAの手段になるという論理が展開されています。
 まず、AとBは完全に別次元の問題です。Aは自分のこと。Bは子どものこと。Aは非常に具体的なこと。Bは逆に抽象的なことです。仮にAを目的にしようとしても、Bが実現されない限り達成できない(現実はBが実現していなくてもAは実現しているのですが)。
 「子どもの成長」を高度に実現した教師がいるとして、Aを目的としていたかどうかは本人しかわからないことですよね。
 madographosさんの主張には、「心構え」は登場しても、成果に関する指摘が見えてこないのです。
 そういう主張ではないかもしれませんが、「教師は、子どもの成長という目的のもとで実践していればそれでよい」と聞こえてしまうのです。
 ここでも、その教師が「子どもの成長という一点に絞った目的意識」をもっていることは、どうすればわかるのでしょうか。自己申告ですか。
 いつの間にか質問になってしまいました。
 管理職の問題については、改めて私見を述べたいと思います。
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授業を玉入れにたとえると・・・

 ある方のブログを訪問し、「生徒が持っている情報量が教師の持っているそれより少ないこと」が認識できないで授業をする教師がいる(=典型的な教師の失敗の一つです)という記事を読んで、以下のようなコメントを入れさせていただきました。
 

教師のまずい指導がおこるのは、その教師がそういう指導を受けてきたからだと思いました。
 教師は、自分が受けてきた授業のような授業をしがちです。
 教育実習生を指導するときも、教師を指導するときも、切実に感じました。
 教育の成果は、教師が上から落としていくものを子どもが籠とかで受け止めていくイメージではなくて(籠ではなくザルが多い)、玉入れのように高いところにある籠にものを投げ込んでいくイメージに近い。
 コントロールを誤れば入らない。
 玉もたまっていかない。
 子どもは、けっこう高い位置にいるものです。
 学習への要求水準は実は高いのです。
 あまり低い籠に玉をためても満足はしない、というのが私のスタンスです。

 下に向かって玉をばらまいているような授業はいつでもたくさん見受けられます。
 生徒の皆さんは、このたとえがわかりますか?
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教育の目的を達成するための手段

 madographosさんからの以下の批判にお答えします。
 

kurazoh様は,「教育という仕事は目的でもあり、手段でもある」と主張されています。だとすれば,「目的と手段という別次元のものを同一視・混同」しているのは,私ではなく,kurazoh様だということにはならないですか?
 また,kurazoh様は,「「競争」は、子どもの成長を妨げる教師の利己性を排除する機能をもつ」と主張されています。だとすれば,そこから演繹される「「利己的な教師の排除」を妨げる目的で競争に反対するという論理」は,kurazoh様が自らの主張を用いて推論されたことになります。

 「教育という仕事は目的でもあり、手段でもある」というのは、異なる次元から、次のように見れば、という意味です。
 「子どもの成長を目的にする教育という仕事は、教師にとっては生きていくための手段」「教育という仕事は、子どもを成長させるという目的を達成するための手段」。
 たとえば、絵を描くためには、紙と鉛筆が必要です。「絵を描いて子どもを喜ばせる」という目的のために、「紙と鉛筆」という材料があり、対象をしっかり見る、子どもが喜ぶ題材を選ぶなどの手段が必要です。
 madographosさんは「絵を描いて子どもを喜ばせる」ことが手段になるとおっしゃっているのですが、それはつまり目的が変質したということになるのですね。
 たとえば、「子どもを喜ばせて誘拐する」とか。
 手段というのは、たとえば目的を実現するためにとられるものであって、同一次元のものではないということです。
 「教育の目的であるべき子どもの成長が,手段に転化」とおっしゃる意味が、上記の趣旨であれば、「目的と手段という別次元のものを同一視・混同」することにはならないでしょう。
 madographosさんは本質的なことかもしれないことを抽象的におっしゃるのでわかりにくいのですが、具体的に言えば、「子どもの成長だけを目的として教育すべき教師が、高い給料を得たいという目的もそこに含めて教育するのは許せない」ということではないでしょうか。
 でも、「高い給料を得たい」のは利己的かもしれませんがこれはあくまでも目的であって、それを達成するには子どもの成長を(それもよりレベルアップした成長を)実現することが不可欠になるのです。その手段は自分が実践する教育しかありません
 「競争」によって、子どもの成長に関心を示さず、自己研鑽もしない教師を浮き彫りにし、よりよい成長を望んで自己研鑽に励む教師を優遇することが悪であるという論理は、子どもにとって望ましくない教師を覆い隠そうとしているとしか考えられません。というのが私の主張です。
 教師の「利己性」の問題は、競争のあるなしの問題以前から、自分(自分の流儀、自分の学級、自分の専門教科など)しか考えず協調性のない人たちがいたことにありました。特にこういう教師が競争の導入によって騒ぎ出す(それでも自分勝手を通そうとする人がいます)。
 力のない管理職などは、ただでさえ言うことを聞いてもらうのに四苦八苦しているのに、競争原理の導入でますます反発されて困るという、「うちの子どもはただでさえ家で言うことを聞かないでに苦しんでいるのに、学校で怒られて帰ってきて荒れている。親に当たり散らす。学校では叱らなくてくださいよ、先生!」とクレームをつける親のようなものです。
 教師たちの「利他性」の「他」が、子どもではなく「指導力に課題がある同僚」になってしまっていることが、教育の質の向上を妨げている部分があるので、それを解決するための政策が練られており、そのうちの一つが人事考課制度だということです。
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競争原理に反対する目的

 まずろさまへのブログに書き込ませていただいたコメント(一部改変)です。
 

教育の目的であるべき子どもの成長が,競争によって手段に転化してしまうことが恐ろしい。

 との主張に対してのものです。
 子どもの成長を目的にする教育という仕事は、教師にとっては生きていくための手段です。
 教師にとって、教育という仕事は目的でもあり、手段でもあるのです。
 別の見方をすれば、教育という仕事は、子どもを成長させるという目的を達成するための手段であるとも言えます。
 目的と手段という別次元のものを同一視・混同するのはいかがなものでしょうか。
 子どもの成長が手段になるというのは、たとえば東大進学者が増えれば入学志望者が増える、といったようなことを指すのでしょうか。
 目的より手段を優先して仕事をするとしても、結果として子どもが成長して目的が達成されれば同じことでしょう。
 教師の利己性が表面化し、子どもの成長を妨げる結果になるのは、「競争」以外でもいくらでもあるでしょう
 「競争」は、子どもの成長を妨げる教師の利己性を排除する機能をもつことがあるということを主張しています。
 「利己的な教師の排除」を妨げる目的で競争に反対するという論理はよく理解できます。
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若者と教師に共通する弱さ

 教育学者の齋藤孝氏は、大学で相当ストレスがたまっているのか、著書「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(講談社現代新書)で厳しい若者批判をしていますが、以下のようなものは、教師にあてはめても同じようなものです。
 

若い人は、たとえ強気に見える人でも、自分が強固だとは思っていません。むしろ批判されたらガラガラと崩れてしまうような脆さを持っています。だから、生き方や価値観、能力といったことに踏み込まれり、・・・(中略)・・・
 自分が裸にされ、実力を試され、場合によっては否定されるようなリスクには耐えられない、というわけです。
 ・・・・
 現在は、他者の前で自分の実力があからさまになることは避けたいと思う一方で、他者による承認も得たいのです。競争には参加せず、自分の実力を高める努力は避けつつ、一方で「君はユニークだ」「唯一無二だ」「資質があるよ」と褒めてもらいたい。そういう都合のいい欲求が目立つようになっています。

 見える範囲が限られている著者ではありますが、見えていることは事実でしょう。
 若者と同じ教師の弱さ。
 まさか、若者の現状というのは、教師の資質自体が若者に影響を与え続けたその結果なのでしょうか。
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教師たちの低い職業倫理

 学校選択制についてのコメントを読みながら、教師たちの低いモラル、職業倫理(金のためなら・・・)のあり方にあらためておぞましさを感じました。
 また、教師や学校を評価する目をもたない(一般の方ならこれが当たり前のことなのでしょうが)教師が多いことも実感できました。
 だから自分の研究が役に立つのだと思います。
 以前にも、学校訪問で教師の資質・能力を観察するポイントのことを述べたと思いますが、あえて教師の方にそれがわからないように(紹介した部分だけ、努力されるということのないように)、再度の公開は控えようと思います。
 「よい教師の条件」「優れた教師の行動特性」は、なるべくたくさん具体的に示す必要があると考えています。
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「なぜ日本人は学ばなくなったのか」

 齋藤孝著「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(講談社現代新書)には、著者の強い口調のメッセージが込められているのですが、私はamazonのレビューに比較的辛口のコメントを入れました。
 辛口であるには珍しく、今のところ、10人中8人が「参考になった」としています。

 齋藤孝の著書は9割方読みました(熱意があふれるよい教育書が多かったです)が、日本人の読書離れに対する著者の不満を「日本で売れる本の条件の一つ」である「日本(人)の危機を煽る」というパターンで表現したこの本への評価は、残念ながら高いものではありません。
 タイトルの問いに答えはしているものの、「昔はよかった」系の「知識披露」が多く、読書がもたしてくれた成果であることはわかりますが、著者が言いたい「学び」 は「読書」や「学校教育」という枠にとらわれすぎ、深くても広さがないのが不満の一つです。しかしこれは、教育学者が陥っている典型的なパターンなので仕方はないでしょう。
 一般人には、「教養の欠落」というレベルと「学ばなくなった」というレベルは決して同じではありません。
 タイトルの問いの答えを端的に表現すると、学習への刺激、機会、圧力がなくなったからで、さらにくだいて言えば「学ばせなくなったから」ということです。
 教育の「強制」をキーワードにしようとしていることはよく理解できます。
 しかし、著者が、研究によって「見たいものしか見えなくなっている」状況に陥ってしまっていることが気にかかります。

 大学や大学生への不満もひしひしと感じられますが、自分で選んで入試を受けて通っている大学生と、近所の中学校に通っている普通の中学生を同列にして語ることもできませんから、この本のタイトルは不適切なのです。
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永遠の希望をもつ教師

 コメントをいただいたまずろさんのブログにおじゃまして、書き込ませていただいたのが以下の文章です。

 公務員の中でも、教師という職業はその仕事への期待が高く、そしてその失敗への失望も深いものです。
 各学校の教育課程で一目瞭然。
 すべての子どもに○○という力を身に付けさせる・・・というのは至難の業です。
 達成度が低い仕事である分、その資質・能力・実践力の向上はたえず問われ、仕事をしながら研究と修養に励まなければなりません
 すぐに成果が出せないことも、現状維持だけでも相当のエネルギーを費やしている学校があることも、みんなわかっています。
 教師の問題は、できないことを非難されるとき、「それでも頑張り続けます」と言える謙虚な人もいる一方で、「私のせいではない。競争などを導入する行政のせいだ」などと逆ギレする人がいることです。
 強気な人は管理職にくってかかることで不満を解消し、控えめな人は、ブログに書き綴って賛同を求めようとします。
 教師には、逃げ道がありません。
 しかし、無限のチャンスがあります。
 「永遠の希望」と言ってもいいかもしれません。
 生徒は、待ってはくれません。
 常に成長の機会を求めています。
 生徒に希望をもたせることができる教育者でありたいものです。

 中学校で言えば、やっと一人前の人間らしくなってきたな・・・と思っているうちに卒業していなくなってしまい、また宇宙人のような一団が加入してくる・・・。
 そういうエンドレスの意味でも「永遠の」問題ですし、ほとんど大きな目標の達成が難しいという意味でも「永遠の希望」なのです。
 自動的に給料が毎年増えていき、安定的なボーナスまで保障されている恵まれた公務員には、高度な職業倫理が求められるはずです。
 経済面の好条件にあぐらをかいて、努力を怠る教師たちが、「同僚のパイを奪おうとなどと思うな!」というプレッシャーをかけている現実を、教師以外の方々はどのように思われているでしょうか。
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武士道精神と学校社会(改訂版)

 以下は、すずめ先生のブログに書き込みをさせていただいたものをもとにまとめていますが、別にすずめ先生の実践を否定しているわけでも批判しているわけではなく、社会心理学者の説を踏まえて自分の意見を述べているのにすぎないことをお断りしておきます。
 今まで教育の世界では、利己的な子どもがますます利己主義に走らないように利他的な行動を促す指導が多く実践されてきました。
 しかし、利己的な行動をとれば損をする安心社会を維持する上では機能しても、そもそも利己的な行動をしても損をしなくなった(制裁を受けなくなったというのは強い言葉ですが、穏やかに言えば仲間からのプレッシャーを受けないですむようになった)学校では、機能しなくなっていることが問題だと考えられます。
 落ち着いた学校は、この安心社会ではたらいている機能が維持できている証拠なのかもしれません。
 子どもには、人権の理念を出すまでもなく、自分の利益を追求する権利があること、そしてそれは、相手に利益を与えない一方的な自己利益独占型ではいけないことを教える必要があるのです。
 「情けは人のためならず」です。
 無私の精神を高めることでモラルを維持するのではなくて、お互いが生き生きと暮らせるように配慮しながら、自分の利益を追求していける社会のモラルを教えた方が、現実社会に生きる子どもたちには有効な指導になるはずです。
 こういう話をすると、「損得勘定だけで生きる人間を育てようとするのか」と武士道精神をお持ちの方から批判されそうですが、幸福追求の権利を子どもから奪うことはできません。
 「人から感謝される快感を得たいから人助けをする人間など認めない」という教育はできません。
 「損得勘定だけ」では問題があるとしても、「損得勘定」を完全に無視しろというのもおかしなことでしょう。
 利己性を疑い、排除するのが根本原理の武士道精神では、創意工夫や競争、効率重視、快適さや便利さの追求などが難しく、そもそも「こんな世の中はおかしい」と考えた人たちによって、日本は江戸時代の次の時代を迎えられるようになったわけでしょう。当然ながら、だからといってベストの世の中になったわけではありません。
 安定性、不変であることだけを重視できる時代なら、安心社会の方がいいかもしれない。しかし、社会環境の変化に対応できる子どもを育成するのが今の教師の役割です。
 もちろん、安心社会から信頼社会への舵取りは、教師がするのではなく、子どもたちの開かれた自治感覚で考えさせたいところです。
 むしろ、教師集団が安心社会の住人なのに、子どもたちだけを信頼社会の住人にすれば、さまざまな問題がおこってきます。教師集団が変わらなければ、子どもたちにも安心社会を強制した方がよいかもしれません。
 無私の精神や武士道精神は、江戸時代のような閉鎖的で流動性の乏しい世界では崇高な理想なのですが、互いに助け合って生きていこう、共存共栄でいこうとする開かれた社会では、「情けは人のためならず」という原則まで否定される恐れがあることです。
 統治者にとっては、武士道精神を人々がもってくれることで、結果として政治に都合がいい(自分を犠牲にして他人のため、集団のために尽くしてくれる)ことになる場合があります。
 武士道精神は、持っていき方によっては、非常に危ないことが予想できるでしょう。
 武士道のモラルが、今のような変化の激しい、流動性の高い社会に求められるべきものか。
 私のスタンスは、武士道精神のよいところは使い、悪いところは捨てるというものですが、学者によっては、武士道精神のモラルそのものを否定する人もいるようです。
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名誉を重んじる集団から契約重視の集団へ

 「競争」のことについて議論すると、教師本意・教師擁護としか思えない言動を繰り返す人が多いのです。
 競争が悪い。
 教師に問題はない。
 競争が教師を悪くする。
 競争を目的とした教師が出てくる。
 果たしてそうでしょうか。
 私の考えは、
 競争で教師の問題が浮き彫りになり、何をどう変えなければいけないかが明確になる、というものです。
 競争を目的とした教師が出てくるとしたら、それも教師の問題なのです。
 教師のモラルがそれだけ低いことを知っているから、「競争を目的とした教師が出てくる」などという発言になるのです。
 なお、教師の問題を浮き彫りにできるのは競争だけではありません。競争だけで問題を解決するわけではない。
 私の出発点は、自分自身を含めて、教師が悪い(力が足りない)というものです。
 教師の力が足りないことを認めない教師がさらに教育を悪くする。
 自分に問題があることを自覚できない教師が教育界全体の信頼を失う言動を繰り返す。
 では、教師はどんな力をつけなければいけないのか。どのように仕事がこなせないといけないのか。
 同僚性。協調性。
 これももちろん大事です。
 でも、社会一般はこれを「馴れあい」と見ています。
 チームワークが大事なんて、わざわざ取り上げなければいけないくらい、教師集団というのは問題を抱えているということです。チームワークが大事でない職場ってあるのでしょうか?
 子どもの力を最大限に活用する方法。
 地域の力を借りる方法。
 NPOや企業の助けを借りる方法。
 子どものためにできることはさまざまですが、閉鎖的な教師集団は外部の人が現場に入ることを嫌い、「自分たちで何とかする」と言ってしまう。
 馴れあえなくなってしまう。
 先生の授業より、非常勤講師できてくれた人の方が授業がわかりやすく、楽しかった・・・などと言われるのは我慢できない。
 他の学校がいろいろと創意工夫し出すと、特色のない学校は逆の意味で目立ってしまう。そんなことは許せない・・・。
 自分の学校の教育課程の中身、その特色をざっとでも説明できるでしょうか。
 そこに、子どもをどう教育すると書いてあるのか。
 教師たちは、「あれは教育委員会に出せば終わりだろう」などと考えているかもしれませんが、とんでもない。
 教育課程での約束事がどれだけ守られたのか、子どもの顔を思い浮かべながら、評価しなければなりません。
 教育界が社会から信頼されていないのは、教育学者、教育評論家が教師本意・教師擁護の主張をしてしまうことも大きく関わっているかもしれません。
 それは、読んでくれたり相手にしてくれたりする対象のほとんどが教師だから仕方がないのですが。
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「うちの学校に転校するのは、やめた方がいいですよ・・・」??

 多くの教師は「子ども第一主義」を掲げますが、子どもに教師や学校の選択権を与えることは拒もうとしています。友達と別れようが、強い部活に入りたがろうが、どんな理由があるにせよ、教師や学校を選ばせてはいけない・・・。
 それは、学校は「子どもではなく教師のためにあるもの」であって、「子どもが学校や教師を選ぶなど、もっての他だ!」と考えているからかもしれません。
 私の在職中の話ですが、他県から転入してくる生徒の保護者から、学校の情報の問い合わせがあったところ、ある教師が、「子どものためを思ったら、この学校に入れさせるのはやめた方がいい」と言ったという話を聞いたことがあります。
 まさかぼったくりの店ではあるまいし、家に近いどこどこ中学校はやめた方がいい、○○中の評判はいい、などという情報が現場の教師から流されるのはなぜでしょうか。
 親切に教えてあげているのはわかるのですが、従業員が「この店で買い物するのはやめた方がいい」なんてことを客に教えるのは想定できないですよね。
 昔からあった義務教育の学校のこのような問題は、どうしたら解決できるのでしょうか。
 「鳴くまで待とうホトトギス」でしょうか。それとも・・・。
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ブロガーの皆様への感謝とお詫び

 ここしばらく、競争や集団主義についての話題で、教育の現状と未来を見つめながら、多くのブロガーの方と議論を交わすことができました。
 一部の方にはご迷惑をおかけして、たいへん申し訳なく思っております。
 今は、自分の子どもや中学生、部活の生徒以外にも教育する対象の人たちがいて、少々頭に血が上っております。部活の夏の大会が近くなる時期もそうです。
 指導に熱が入りすぎると、たいていは逆効果になります。
 今回の議論でも失礼なことが多かったと思いますので、お詫びしたい気持ちでいっぱいです。
 応援したくださった方には、もちろん感謝感激です。
 いろいろご意見をいただいた(自分が勝手にブログにおじゃまして、コメントをいただいているのですが)ので、見えていない部分にも気付かされました。
 見たいものしか見えず、聞きたいことしか聞こえなくなったら終わりです。
 見たくないものも見て、聞きたくないことも聞くこと(荒れた学校や行政の時代には、そればっかりだったのですが)ができれば、あるべき指針が向こうからやってきそうな気がしています。
 少し冷却する必要を感じながら、温度差の違いというか食い違いというのがおこる原因を必死に探っております。
 このブログをお読みの方で、意見を述べたいのだが言い出しづらい、批判したいのだが言いかえされるのもいやだという方も、よろしければぜひコメントをお願いします。反応はいらないという方は、コメントの最後に(回答不要)とお書き添え下さい。
 過去1週間でのべ400人の方に訪問いただいております(実質は100人程度でしょうか)。
 100人くらいなら炎上する心配はないと思いますが・・・。
 今週は、記事累計500、アクセス数30000という節目を超えることができました。
 自分の過去の記事は書いて忘れているものもあるので、ときどき再掲(加筆・修正)したり引用したりすることをお許し下さい。

続・班活動の指導に関する一考察

 人間は程度の差はあっても、多くは「みんながやるなら自分もやる」主義です。
 ごくわずかに、だれもやらなくても自分はやるという主義みんながやっても自分はやらないという主義の人もいますが、たいていは自分が置かれた状況のなかで、他人の動向を見ながら行動しています
 教師集団を見ても同じことがおこっていませんか。
 この集団に対して、「周囲に気を遣う目」=空気を読む力を要求すると、そういう傾向がますます強まります。
 子どもは常に協力行動をとろうとする心をもっていると信じたい人の気持ちはわかりますが、もしそれが現実なら、いじめは深刻化するか全くおこらないかのどちらかにしかなりません
 協力行動をとるかどうかはそのときの状況によって左右されるものです。教師が見ているか、見ていないか。班長のリーダーシップが強いか、弱いか。
 そして、「みんなが」主義の子どもたちは、スタートの時点で協力行動をとる子どもが少ないと全体として非協力になり、協力行動をとる子どもがある一定数を超えると全体として協力行動をとる方に加速していく傾向があります。
 あくまで「みんなが」主義をとろうとすれば、スタート時点での協力行動をとる子どもが増えるようにすれば、ねらいは達成できます。
 状況も何もなく協力したい、さぼりたいという前提で行動する子どもはほとんどいません
 行政の言うことは何でも従う、行政の言うことは何でも反対する、という教師はいるかもしれませんが。
 子どもの心は予め確定しているわけでなく、状況の中で育ち、変化していくものです。
 協力させることが前提ではなく、何をどうすべきかを自分の頭で考えさせることが指導の前提になければ、「自治」能力は高まらないというのが、私の考えです。
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学校は信頼社会へ移行できるか?

 以下の考えは、山岸俊男(社会心理学者)著『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集英社インターナショナル)で紹介されていることを参考にして述べています。
 自分に損になることはしないはずだ(仲間内での制裁機能がはたらくから、だれも不正は働かないはずだ)と考える(だからたとえば玄関に鍵をかけないでいられる)安心社会を、教師社会も求めている傾向が強いことは明らかです。
 安心社会では、成員の実力が高まることをねらいにしているわけではなく、仲間内のルールやモラルが守られていればそれでよいのです。
 しかし、安心社会の問題は、人の流動性が高まったとき、外部の人がそこに入るときに「人を見たら泥棒と思え」という、他人を信頼しない心理がはたらくことです。
 無理もありません。学校社会が閉鎖的で、排除されても全く何の支障もない人がそこにはいなかったからです。
 江戸時代を思い浮かべればよく理解できるでしょう。
 少なくない教師にとっての管理職観は、まさに「外部の人間」「他人」なのでしょう。
 安心社会の長所は、閉鎖的で変化や発展に乏しい環境では、社会を安定化させる効果があるということです。
 集団内での制裁機能があるため、自分が損をすることになる「ルール違反」をあえて犯す人はいません。
 安心社会の教師集団は、たとえば「自分だけ学級通信を出すのはずるい」と行動を規制したり、力のない教師には重要な仕事を任せなかったりと、仲間内での排除機能をはたらかせながら、秩序を維持しようとしています。
 安心社会は、教師同士が信頼しあうというより、互いの利己性にびくびくしたり他人を疑ったりしなくてすむ社会であって、逆に言えば、互いを信頼しあうことができない人たちがつくり、安心していたい社会ということができます。
 しかし、変化が激しく、発展性を求められる環境になると、安心社会ではそれに対応できなくなります
 だから競争原理が入ったらそれに反発するというのは、安心社会の教師には当然の論理になります。
 たとえば教師が自己評価をして、それが給与に反映されると聞くと、すぐに「インチキをして自分の評価を高めようとするやつがでてくる」と疑うのが、安心社会の教師に典型的なパターンです。
 話はそれますが、安心社会信頼社会の違いをわかりやすい例で説明することにします。
 安心社会につかっていたい人たちは、インターネットオークションがここまで普及するものとは思わなかったでしょう。
 相手を信頼するのではなく、相手を信用しないのが常識の社会では、だまされることを危惧してだれもこの世界には足を踏み込もうとしないでしょう。
 現実問題として詐欺の被害があることは確かですが、だからネットオークションはなくなっているかというと、そうではありません。むしろ利用の拡大が続いています。
 悪い評判が増えた出品者は、名前を変えてまた市場に参入することができるので、被害をなくすことは難しいでしょうが、信頼社会の重心は「相手を疑う」ことではなく、「相手を信頼する」ことにおかれます
 私が利用するときに重視するのは、過去の利用者たちによる評価です。その満足度が高ければ高いほど、安心して取引をすることができます。
 人に対する信頼が雪だるま式に大きくなっている例の典型です。
 以上の例から、教師の多くは「異動」のシステムを想起することができるのではないでしょうか。
 詳しくは別の機会でふれることにします。 
 信頼社会にも弱点はあって、「努力した人、正しいことをした人が報われる」システムがないと、この社会は機能しないのです。嘘をついたり、他人をだましたりする人が得をしてしまわない社会にしなければなりません。
 安心社会の人は、そんな制度はつくれない、だから今のままでいい、という主張をしています。
 将来の子どもたちにいつまでも安心社会の住人でいろ、「空気を読む」能力をもっと身に付けろ、という教育をしていたのではかわいそうです。
 何か問題がおこるとすぐに「お上の監視が甘いからだ」と反応するのも安心社会の問題です。
 山岸俊男さんは、前述の著書で、次のように述べています。

 何ごとにおいても「お上」の監視や管理を求めるやり方は、相互監視や制裁を基本とする集団主義社会ならば通用する方法であっても、開かれた信頼社会には不適合な方法ではないかと思えてなりません。
 それよりも私たちが考えるべきなのは、ポジティブ評価を得た人たちがトクをする社会を作るということではないでしょうか。

 管理職との意思疎通を十分に図って、自己申告書やキャリアプランをしっかり作成していただき、教師に対する「よい評価」を前提とした信頼社会に学校社会を移行してもらえることを切に願っています。
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班活動の指導に関する一考察

 班活動が欧米では一般的でなく、集団主義的な日本の社会にマッチしたもの、あるいはそのような集団主義を築いていくためのものとして機能していることはよく知られています。
 ただ、この自治のスタイルは「信頼を獲得する」というより、「ずるをする(さぼる)と集団から制裁を受け、結果として損をするので実行する」メカニズムをもっているので、「私は掃除より部活動を優先したい」という個人主義を排除する機能を優先していることも念頭において私は指導するようにしています。
 また、他人を信用した方が得をする信頼社会ではなく、自分に損になることはしないはずだ(仲間内での制裁機能がはたらくから、みんな仕事をするはずだ)という安心社会を維持しようとしてきたのが日本の特色ですが、たとえば教師の見てないところではさぼってしまうように、仲間内でも制裁機能がはたらかなければ利他的ではなく利己的な行動をとる傾向が強まっているため、その限界が指摘されています。
 班ごとに割り当てられている仕事を確実に実行できるからその生徒は信頼できる、というときの信頼は、おそらく教師が子どもにもたせようとしている理想的な「自治」機能によるものではなく、さぼった人間が放置される、さぼっても許されるということがないようにする、つまり排除機能をしっかり持たせ、安心社会を維持できる成員に対する信頼と言えそうです。
 ですから、もし信頼社会を築こうとしたら、班の仕事をしているから信頼できるという言い方ではなく、いい仕事(より丁寧にやるとか、他の人が気付かないようなことまでしているとか)をしているから信頼できるという言い方で指導すべきだと私は考えています。
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自己申告やキャリアプランは無駄な書類か?

 自己申告書やキャリアプランが「無駄な書類である」という認識をしている教師はやはり多いのでしょうか。
 子どもに「今年の目標」「○年生になっての抱負」などの作文を書かせるねらいは何でしょう。
 子どもも「またか、めんどくせえな」と思っているかもしれません。
 もし教師がそういう作文を書かせっぱなしで、以後の指導の場面で全く活用しないのであれば、なくしてもいいのかもしれません。
 子どもたちには教師の実像を知ってもらうためにも語りかけたいのですが、やたらと作文を書かせている教師は、その間、何をしているのかをよく観察してみてください。
 まさかネットでショッピングをしている人はいないでしょうが、自分のための時間を使っているかもしれません。
 作文を書いている途中で、個別に見て誤字を直してくれたり、姿勢や鉛筆の持ち方を注意してくれたり、そういう個別指導をしていますか。
 その作文が、学級通信などでフィードバックされていますか。
 また、その作文で書いた内容を教師は覚えていてくれて、時間がたってからの会話でその話題が出たりしたことはありますか。
 教師への自己申告やキャリアプランも同じことです。
 管理職がそれらを通してよく教師のことを理解し、実践も観察して力量を分析することで、異動のときに正しい「よい評価」「よい評判」を次の学校に伝えることができます。
 新規採用ではあるまいし、「この人、どんな仕事ができるのか、よくわからないが、よろしくたのむ」なんてことがあってはなりません。
 しかし、「悪口」「悪い評判」ばかりが伝えられてきた歴史がかなり長かったのではないでしょうか。
 長い歴史をもつ日本の「安心社会」は、問題のある成員を組織内で排除できる(担任をもたせない、教務部には入れない、○○だけ任せるなどの)しくみがありましたから、問題による被害を食い止める能力は高いのです。
 自己申告やキャリアプランというのは、「信頼社会」に欠かせない「他人を信頼すること」の根拠になるものです。その教師の「能力開発履歴」「目標歴」「コンピテンシー獲得歴」になるのです。 ある管理職から見たらあまり評価できそうもない教師でも、他の管理職なら別の点に着目して評価してくれるかもしれません。
 「いやいや、私は平均以下の、何の取り柄もない教員ですから、こんなの書くの無駄ですよ」と口では言っていても、やはり長所は長所として評価してくれることを悪く思う人はいないでしょう(本当に管理職嫌いの人は、わかりませんが)。
 yo先生のブログのコメントには、こんな余計なことまで書き込ませていただきました。
 

管理職や行政の最大の悩みとして、学校の経営者になろうとする教員があまりにも少ない問題を挙げて終わりにしようと思います。
 資質がないのに志望している人を任用しないように、少しでも資質があると考えられる人を管理職が口説いて選考に向かわせているのが現状です。
 私が使うたとえは、難しい集団構成になったクラスで学級委員の立候補がでない状況と同じようなものです。
この状況が、現場に20年いても30年いても変わらないのは、すばらしいこととも言えるし、「その年になってもどうして・・・」とも言えるのです。
 団塊の世代はまだ人に任せておけばいいのですが、それが抜けた後、惨憺たる状況が待ち受けています。経営にたえられる人材の確保はもはや不可能になるかもしれません。当然、民間人校長や学校運営を地域が担うタイプの学校が増えることになります。それはそれでとてもいい結果になるかもしれませんが。
 今は興味はなくても、自分が手を挙げないと、さすがに学校は崩壊すると実感する時が来る教師は多いと思います。

 「私には関係ない」という態度の教師でも、本当に頭を抱える管理職ばかりになったら、考えてくれるでしょうか。
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その実践者が決して言葉にしないこと

 まずろさん、以下のコメントをいただきましてありがとうございました。太文字は私が原文を加工したものです。

 最後に克つべきは自分自身というのは心から共感できます。  どんなときも最大の強敵は自分自身の怠け心。  一番に闘うは自分に甘い態度、自己保身、後ろ向きな現状維持などなど。  結局は己に克つことの出来る人こそが真の勝利者であり、おっしゃるように「過去の自分に負けない前向きなひたむきさ」はそれへの実現の外せない条件になりましょう。

 未熟な子どもを指導する立場の人間である教師という職業を生業としているならば特に自らの襟を正し、自らを律し「忘己利他」という精神論を隠れ蓑にすることなく(声高に叫ぶ時点で限りなく利己的とは思いますが)教師自らが前向きに向上や研鑽の努力をする後姿こそ何よりの生徒に対しての生きた教育になると思います。
 人生は自分自身への怠け心との闘いなのですから。
 この努力を「競争」とも言い換えることはできますね。

 「競争」イコール利己的とか「忘己利他」を恩着せがましく持ち出す発言に自己研鑽をしたくないない怠け心が潜んではいないか己に問う姿勢が必要なのだと思います。
 安易に耳障りの良い響きに自分自身をごまかさずに
 そしてそれを直視できる真の強さも
 外せないコンピテンシーのひとつと言えるのだと思うのです。


 
 私の「十牛図」の特集は途中ですが、こういう仏教系の教えや「忘己利他」などは、統治者の論理としては、その普及が統治者にとってたいへん都合のよいものになると考えており、宗教というものの怖さをひしひしと感じざるを得ません。
 行政や管理職がまさか「子どものためだ。土曜も日曜も部活でめんどうをみてやれ。金は出さないが場所は貸してやる。君が善行を積むための条件を整えてあげよう」なんてことは言えません。
 このような逆の立場の人間から言われるとムッとくるような価値観というのは、結局は自分に都合のよいように解釈できるものであって、よりよい教育(より正常な教育)が求められている現在では、それを言う暇があるなら早く文字通りのことを実行したらどうだと要求されてしまうことになります。
 「よりよい教育」を実践するためには、何が「よりよい」のかを理解しなければいけません。「利他」の具体的な内容が問われているわけです。コンピテンシーモデルやロールモデルの存在意義がそこにあります。繰り返しになってしまいましたが。
 「忘己利他」であることを求め、それを実行している自分自身に満足感を抱けるということは、つまり利己的であり、「忘己利他」ではないということでしょう。それを実践している人ならけっして口にしない言葉です。
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競争原理に左右されない目標軸を

 競争原理導入への過剰反応。
 一連の記事には、今の教師が競争を軽視することができない、また、競争に価値をおかないでおくことができない、非常に弱い存在であることが背景にあります。
 競争には「少ない努力で合格を勝ち取る」ような方法があり、人間は、そして特に教師などはそっちに流れがちであるという考えをお持ちの方もいるようです。だから、教育に競争原理を導入するのはいけないと。
 ・・・私が主張したいことは、教師がその程度の存在になってしまっているからこそ、「かつては競争を軽視できる時代があった」という過去の話をしている場合ではなく、現実の教育を変革するためにやるべきことをやるときが今である、ということです。
 そして、変革も競争原理のみで変えようと考えているひとはいません。
 「競争」について誤解のないように確認したいのですが、確かに安易な方法で勝てる競争もあるかもしれません。しかし、小手先の「少ない努力」では容易に合格を勝ち取ることはできないものもたくさんあるのです。
 「競争=悪」ではなく、評価を気にして競争に安易な方法、インチキな方法、評価を上げるために努力する利己的な姿勢が悪なのです。
 教師の場合は、競争の過程におけるそのような「悪」は、結果として子どもに迷惑をかけることになり、「悪」が表面化します。答えを教えてもらいながらテストを受けた子、自分の答案用紙が「平均点」への影響を受けないように除外された子どもの気持ちはどんなものでしょう。
 なぜこういう問題がおこったとき、教師が責められずに、実施された制度が責められるのか。
 「競争」という原理に問題の責任を押しつけるのはやめて、そんなものを超越して本来の目的に向かって努力する姿勢を教師がもてるように啓発していくことが必要だと考えます。
 そして、教育にかかわる競争原理の導入の趣旨は、子どもの教育の充実には欠かせない教師の能力開発にあることを忘れてはいけません。
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親の義務は子どもを一人前にすること

 プレジデントFamily 6月号では、「しつけの心配、夫婦のもめ事」難問、奇問を大特集 親子の「困った!」すべて解決70問と題してかなり多方面の人を取材して特集を組んでいます。
 「子供が何事にも無気力。打つ手はあるか」には、作家の岡田斗司夫が「会話ができる子にする」「子供を幸せにするより、一人前にすることが親の義務。幸せややりたいことは本人が見つけるもの。そのためには、会話ができることが条件」という趣旨の答えをしていました。
 親子の会話が極端に少ないまま育った子は、学校で生徒として接するとよくわかります。
 こういう生徒がトラブルを起こしたときの最善・最短の解決法は、「ルールにのっとって対話をさせること」です。
 そのルールとは、「先入観や偏見で相手を見ないこと」だけです。
 相手の言い分にしっかりと耳を傾けて、自分の言い分を相手にわかりやすく伝える。
 ただそれだけのことで、わだかまりや変な意地、こだわりがなくなることが多かったような気がします。
 教師は、このような会話、対話による問題解決の能力をしっかりと高めることが指導上求められています。
 親の義務といっしょです。
 戦国大名の分国法で定められた「喧嘩両成敗法」は、喧嘩した両方を罰する(そのことで喧嘩を抑制する)ことが主目的で出されたわけではなく、「自力救済の禁止=私闘・実力での解決を禁止すること」や「何かあったら大名に申し出て、大名が解決に関与すること=大名の裁判権を認めさせること」がねらいであったと言われてます。
 学校での秩序を保つのに、生徒による自力救済を手段としてとるケースがあるかもしれませんが、基本は問題の解決に教師がきちんと関与し、双方を納得させ、成長を促すことです。物理的な力ではなく、言葉による解決がが図れる人間に育てること。
 親と同様、子どもの幸せを追求する以前に、一人前の人間に近づけることに留意していくべきでしょう。
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問題行動への対処法

 「問題行動への対処」をテーマにしたブログがあったので、以下のコメントをつけさせていただきました。
 

私は問題行動の「芽を摘む」作業は、教師や親やもちろんですが本人にぜひともやってもらいたい作業だと考えています。
 問題行動を繰り返す生徒への私の指導は、こうです。
 この問題行動は、現在はもちろん、将来の自分の人間性を悪化させる種になるものである。
 そんな種をひとつひとつ植えつけていく作業はそろそろ終わりにしよう。
 この種がどんな芽を出し、有害な実をつけるのか、考えてほしい。
 他人も自分も、みんな損をする。
 また、この問題行動が、かつて自分にまかれた、あるいは自分がまいた種が芽を出し、実をつけたものであるかもしれない。
 そんな芽は自分で摘み取ってしまえ。
 毒の実は捨ててしまえ。
 そんなものが出てくる前に、種を焼いて灰にしてしまえ。
 あなたが自分に今まくべき種は、もっと別の、実になるのが楽しみなものにしよう。

 「自分がまいた種」「身から出たさび」「自業自得」・・・自己反省をせまるための言葉がいくつかありますが、「おまえ自身の性格のせいだ」「おまえの親の教育のせいだ」と他人が言っても仕方がありません。
 教師は子どもの心のキャンバスに直接記入しにいくような指導をする場合があります。
 しかし、子どもの心はキャンバスのように白紙ではなく、すでに多くの書き込み、彩色が施されており、場合によってはそれを汚すだけの場合もあります。
 また、キャンバスを白紙にさせるような指導をする場合もあります。
 これは、下手をすると危ない。子どもが「リセット」のために自ら選んではいけない選択肢をとってしまいます。
 一番いいのは、「焼き捨てる」ことです。
 白紙に戻すのと同じことなのではないか、と思われるかもしれませんが、人間の心は、生まれたときにはすでにある程度の絵ができあがってきています。
 自分にぴったりあったイメージのキャンバスに取り替えさせ、そこに新しい線を入れ、好ましい色づけをしていけばよいのです。
 それぞれに、ぼんやりとでもあらかじめ色がついているため、教師が特定の色を用意して強制しても、決してうまくいきません。どんな色がその生徒に合うか、見極める眼力が必要です。
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最大の「勝つべき相手」は自分です。

 教師が使う「同僚性」という言葉のニュアンスを「完全な横並び・平等・相互不干渉」と捉えている人がいるなかで、職場におけるリーダーの経験や実力が認められ、指示・指導が通ったりコンピテンシーを同僚が獲得していったりできる環境が広がっていくことが望ましいですね。
 あるとき、「君は私の若いときより覚えが早いな・・・」とか言われば、より早く一人前になろうとする意欲が高まることも私に言わせれば健全な競争心の成果であり、チームの中で打点を競い合えるような好敵手や先輩・後輩がいる環境が教師をどんどん伸ばしていくと考えています。
 仮にどちらかが負けるとしても、子どもに残るのはプラスの効果だけです。結果してはWin-Winの関係です。
 「忘己利他」と言いますが、そのとき最大の敵は忘れたくてもそこにある「自分」でしょう。
 できれば怠けたい、楽をしたい、楽しいことだけやっていたい、つらいことからは避けたい、子どもに嫌われたくない、そういう後ろ向きの自分に勝ち続けることが重要であり、その意味で教師にとっての最大の競争相手は過去の自分です。
 去年の自分より成長すべき今年の自分。
 今年の自分より5年後の自分。
 人事考課制度能力開発型をとっているのもねらいはそこにあると考えられます。  
 「競争による勝者」に対するイメージが、教育への競争原理の導入に反対されている方と私とではおそらく正反対なのだと思います。
 汚い手を使う、インチキをする、子ども第一主義ではなく、利己主義、・・・?
 教育という非常に困難な仕事で成果を上げるには、小細工やものまねは通用しません。
 よりよい教育内容、教育方法を追及し続け、人に自分の優れた能力を伝え、人の自分より優れた能力を学びとっていくプロセスを、多くの教師が経験できる環境もそう簡単にできるものではありません。
 努力の賜です。
 そうなっていない職場は、黙っていても簡単には改善しません。
 なぜ望ましい職場環境にある学校、そしてその中で他の教師によい影響を与えている人が、改善すべき職場環境にある学校、実力がないだけでなく学ぶ姿勢も持たない人より高い評価を受けてはいけないのか。・・・これは一般論です。
 競争なんてあってもなくても、努力する人は努力し、努力しない人は努力しないわけだから、「競争原理が入ったからおかしくなった」という、努力をしない人を擁護したり正当化したりするような態度というのはおかしいのではないか・・・これは生徒の意見ですが。
 教育における競争原理は、「まず、自分に克て!」というメッセージと受けることはできないでしょうか。
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結局、給与が下がるのが気になるの?

 まずろーさんから、以下の記事について、コメントをいただきました。ありがとうございます。
>教師は、能力とか成果とはほとんど関係なく給料がもらえる職業でしたから、「他の教師より劣っていると評価されること」に後ろめたさというか罪悪感のようなものを抱いてしまうので、「競争」という言葉には過剰反応を起こしやすい傾向があります。

 真理を突いたクリティカルな言葉に、他業種にも当てはまる職業はそういった傾向があるのに気づきます。
 人を育てる現場にあれば、もっとコンピテンシーを意識する感覚を持たねばならぬ業種であるのに残念なことです。
 戦国時代のコンピテンシーを重視した武将、武田信玄は城を持たず人を重んじたといいます。
 人は石垣、人こそ財と。
 きらびやかな見た目の財産よりも義や機動力を重んじ家臣こそ大きな財産と認識していたのですね。
 未熟な人間であることを認識している人は強いです。
 だからこそ向上があり競争心を忘れない。
 競争イコール悪という単純な図式は愚かです。

 「競争」に過剰反応する教師の共通した関心事(結局、自分事)に、人事考課による評価の結果が給与に反映されることへの危機感があります。
 このことについて、他のブログに私がコメントした内容があるので、ここで紹介しておきます。
 結局どんな評価基準にしろ、普通の教員の評価はBになるようにできていますはいじめを放置するとか、学習指導に課題があるとか、コミュニケーション能力が低いとか、だれの目から見てもおかしい人がです。は教員から見ても「辞めさせた方が子どものためではないか」というレベルです。(これ、もしかしたらEのランクか?記憶があいまいですみません)
 達成度のレベルが非常に高い(実現困難な)目標をクリアしないと、はなかなかつきません。
 たとえば、文書管理等の事務作業にかかっていた時間を30%以上削減し、そのうち20%以上を「短時間研修タイム(研究成果の5分間プレゼンなど)」に、10%を「生徒の個別面談時間」に振り分ける、とか、「学校行事や校内研修の企画運営をプロジェクトチーム型にし、企画・運営・評価・改善をスムーズに実行することで、『同僚性が高まった』という組織目標の回答率を30%以上UPさせる」とか、具体的な職務目標をたくさん設定してそれらをクリアするとAになります。

 たとえばの話ですが、担任をもたせることができない、授業で学力がつかない、行事運営を任せられない、欠席が多い・・・こんな40代の教師の手取り40万円の給与から、1万円を、新規採用3年目だが、すでに研究発表を2回こなし、崩壊した学級を任されて建て直し、部活動の指導では地区上位の成果を上げ、不登校生徒への家庭訪問や学習指導に尽くし、保護者からの信頼もあつい手取り20万の教師に振り分けてあげることは、大問題でしょうか?
 一般の公務員というのは能力の違いが昇進によって給与の差に反映されるのですが、教諭という立場の教育公務員は、たとえば上記の事例の2人の場合、給与の差は絶対に縮まらないのですね。
 競争原理が「金儲け主義」で理想が失われているという法律関係の仕事の方の嘆きのコメントが別のブログで紹介されていましたが、教育の世界とは完全に別次元の問題であることは明白ですね。
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同僚性欠如の問題の背景は?

 私は、耳障りのいい言葉、一見誰も疑わないような「美しい言葉」には思考停止に陥らず、その裏にあるものを必ず疑ってかかる習慣があるので、「すべては子どものため」という言葉にもひっかかってしまうのです。
 「すべては子どものために」という発想は、おそらく小学校の教師が、最も陥りやすいわがままに結びつく恐れがあると考えています。
 「子どもが望んでいるんだから、ぜひ○○を実現させてくれ」と訴える教師がいます。他クラス、他学年、学校全体のルールも視野に入らず、ひたすら「子どものために!」と訴える教師(中学校にもいました)。
 こういうときこそ、「忘己利他」の大原則を思い起こしてほしいのです。
 小学校教師の同僚性認識が欠如している背景には、他の教師、他のクラス、他の学年、管理職という「他者」に思いをかけることなく、ただひたすら「忘他利私(子)」になりやすい傾向が反映しているのではないでしょうか。
 「他の教師の努力を認める」「他の教師のいいところを盗む」「他の教師と協力してよりよいものをつくりあげる」・・・そして、自他の評価を高め合う学校づくりが実現すれば、同僚性欠如の問題はクリアできると思います。
 教師は比較されることにひるまず、視野をより広く持ち、全体のレベルアップに努めること・・・イチロー風にいうと、打率より安打数にこだわる(打率は下がることがあるが安打数は減ることがない)評価観をもてれば、競争原理も悪の面ばかりでないことに気付かされるはずです。
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他人の努力の上であぐらをかく教師

 学力調査の結果が都道府県別に発表されたとき、ここと「塾など学校外への教育関係の支出」の県別ランキングの相関をとって比較した人はいたでしょうか。
 学力調査の結果というのは、学校だけでの教育の成果であるとは言えません
 塾などに通っていない子どもが多い自治体では、それに近くなるのですが。
 順位が低かった自治体は、だいたい通塾率が低いはずですが、通塾率が低くて学力調査の結果がよい学校は胸をはることができそうです。
 有名進学校の大学合格実績も似たようなことが言えます。
 ですから、私立や国公立の学校の教師の指導力の成果をペーパーテストで測るときは、指導力不足の材料としては使えますが、指導力のプラス面の測定は難しい
 近隣の小規模校で、クラスのほとんど全員が塾に通っている小学校では、学校でも教師が塾程度の知識を求めてくるそうです。そんな中で塾に通っていない子どもは、みじめな思いをしています。
 こんな小学校では、教科の標準授業時数を完全に無視して、新聞ばかりつくらせたり、百人一首ばかりやらせていたりと、やりたい放題です(一芸に秀でた子どもというのもすばらしいものだとは思いますが)。
 子ども自身の努力や、塾などの教育産業の力の上にあぐらをかいている教師をどう見るか。
 「競争」反対を訴えるまでもなく「戦わずして勝っている」教師も放置するわけにはいきません。
 生活指導の場合は、このような「あぐらをかいている」教師のためにそれまで築いてきたものが簡単に崩されてしまうのです。建て直しに3年はかかりますが崩れるのは3ヶ月で十分です。
 学習指導の場合はここまで大きな変化はないので、だからこそ現状のような「意欲格差」症状が悪化したのかもしれません。
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ロールモデル開発のねらい

 一昨日からでしたか、madographosさんのブログへのコメントをここでも紹介したりしていましたが、遅い時間にご回答いただくなどご迷惑をおかけしていたので、以下のコメントで一区切り入れさせていただこうかと思いました。
 

私のせいでしょうか、コメント欄がにぎやかになって申し訳ございません。
 また、遅い時間なのにご回答いただいて恐縮です。
 私は経験上、小・中・高(現在は大学も)の先生方とたくさん話をする機会があり、ブログ上でも議論することができることを幸せに思っています。
 多くの現場を見聞きして、やはり校種による教育環境の違いというのは決定的なもので、哲学的な問題は別として現実問題を解決するための道筋も至難なものであることを痛感しています。
 教師はみな「子どものため」に教育の仕事に取り組んでいるはずなのに、現実には数限りない期待を裏切る行動が教師によって引き起こされています。税金で食べている人間というのは、「できて当たり前だろう」という目で見られるのが当然の風潮です。
 教育行政の方は、教育の専門家ばかりではないために、ときに見当はずれの政策を打ってきますが、「競争原理」の導入だけは、避けて通ることができなくなった、多くの教師にとっては大きな壁だと思っています。
 そこで、現場の立場から、教師の望ましいロールモデルコンピテンシーモデルを提言し、どうせ評価されるなら本物のモデルをもとにして評価してもらい、そのモデルを目標にすることが多くの教師の願いになってもらいたいというのが私の気持ちです。
 長々と失礼いたしました。

 他でも述べましたが、同僚性を高めるような組織運営ができる主幹や管理職(それができる教諭がやがて主幹や管理職になっていく)がもっと増え、「昔、自己申告や人事考課に派手に反発していたのは何だったんだろう」と思う教師が減ることを望んでいます。
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再びの「子ども第一主義」批判

 立場を変えることで成り立たなくなる主張というのが、教育の世界にはいくつもあります。
 たとえば行政から、教師たちに対して、「教師というものの本質は、忘己利他にある。自分のことは後にして、子どものために尽くせ」と言ってきたとしたら、「はい。その通りです」と答えられますか?「言われなくてもわかっています」と答えますか?
 その後、だから、子どものためによりよい学校づくりを近隣の学校通しで競い合い、その学校なりの長所をアピールしてくださいと言われたらどうしますか?全教師が「忘己利他」でやっていますと宣言できますか?
 中学校受験の過酷な競争に勝つことを望んでいる子どもに、「もっと中身の濃い授業をお願いします」と強く頼まれたら、「いや、君は僕の尽くす相手ではない。そんな競争に勝つための勉強は教えられない」と突っぱねますか。それとも、「忘己利他」の精神に基づいて子どもの要求通りに授業を変えますか?
 「子どものためにやってるんだ」という言葉を使う教師に散々悩まされてきた経験のある私には、「忘己利他」を掲げている教師にどうしても信頼感を持てません(これは私の身近にいた教師に限ってのことです)。
 「子どものため」と言いながら、どう考えても自分の都合のいいことを言っているのにしか聞こえないことが多すぎました。
 それが指す子どもとはだれかあてはまらない子どもはだれか子どもの何のためにやっているのか、・・・などを追及してたどり着くところは結局「こうあるべき」と思いこんでいる教師自身のためであって、利己主義以外の何ものでもない。
 子どもに競争の意義も問題点も学ばせる必要がある教師自身が、過去にやってこなかったから、という理由で競争を拒絶するのは、自分をかばっているようにしか聞こえないのです。
 「忘己利他」の理念が大事であり、利己主義の教師が増えているのならば、「忘己利他」の精神を教師が競い合うことが必要になったとも言えるのではないでしょうか。
 まず、現実の問題から解決していくことが教師には求められています。
 (本来は理解力がある)生徒が「授業が分からない」と言ってきたら、子どものために「分かるような授業をする」「指導力を向上させるために努力する」のが教師としての義務であり、いつまでたっても改善されなければその教師が放置されることは許されないのです。
 それが放置される原理が教育現場にあるとしたら、学校は断じて「子どものためにある」場ではありません
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100-1=0

 日経ビジネス5月19日号「有訓無訓」で紹介されている帝国ホテル会長の「どんな大きな組織でも一人ひとりの人間の力で支えられている」という話は、教育現場、学校でもそのままあてはまります。
 「100-1=0」という帝国ホテルの教訓は、サービス業という環境がいかに厳しいものであるかを物語っています。
 一人の失敗が、積み上げてきた信頼をゼロにしてしまう(信頼を失うことを集団で行動している人たちもいるようですが)。
 学校の場合は、たとえゼロになっても短期間で以前の数字に復帰することが可能な場合もあれば、子ども一人一人の心の問題として考えると、ゼロはおろかマイナスに転じて再びプラスに戻ることがなくなる場合もあります。
 ホテル業界も「ブランド」でない教育現場も、高いレベルのサービスが期待されているがこそ、失敗のときの評価は厳しいものになる。
 「どうせだめな公立学校」という観念が定着して、「期待する方がバカ」という時代が来ないことを祈っています。
 しかし、そういう趣旨のタイトルの本は売れているようですが・・・。
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競争の結果としての不正行為は競争のせい?

 利己的な利潤追求の結果、不正行為によって信頼を失う企業が後を絶ちません。
 食品の偽装やインサイダー取引という不正行為の問題は、自由競争という原理によってもたらされるものだから、自由競争自体をなくせという人は少ないでしょう。
 教育の世界への競争原理の導入に反対する人の代表的な考え方に、たとえば教員の評価で、「数値化できる部分だけで教師の仕事が比較され、給料などが決められてしまうこと」への恐れがあり、その結果として、「教師はひたすらテストの成績を上げることのみに没頭し始め、いじめなどの都合の悪いデータは今以上に隠蔽されるようになる」というものがあります。
 教職についている人間のモラルも、一部の企業のように低く、とても信頼できる存在ではないという主張もわからなくはないですが、教育の世界には学校の近くに監督権者がおり、現場にも利潤を追求する必要のない管理職がいるわけで、不正の発見や防止の機能が企業より高いことは明らかです。
 教師の質が本当に一律に低いものだとしたら、「不正しないのが損」という状況になることは防がなければなりません。しかし、その前提自体が教育の崩壊を物語るものになってしまいます。
 競争と聞くと直ちに「勝ち組」「負け組」を想定する人がいますが、一般企業でも、公的な機能が高い私企業ほど、その格差はなかなかつかないのが当然でしょう。
 教師は、能力とか成果とはほとんど関係なく給料がもらえる職業でしたから、「他の教師より劣っていると評価されること」に後ろめたさというか罪悪感のようなものを抱いてしまうので、「競争」という言葉には過剰反応を起こしやすい傾向があります。
 しかし、学校現場にいればよくわかるように、たとえば能力や成果などで教師に差をつけられる範囲というのはたかが知れています。
 ○○さんのおかげで学校崩壊状態が1年で立ち直ったとか、担任がかわっただけで崩壊学級が最高の学級になったということはめったにないわけで、そもそもそんな奇跡をおこすことをすべての教師が求められているわけではありません。
 当たり前のことを、当たり前にできるように指導してほしい、そういう願いを聞く姿勢を教師が持てるかどうか。
 もしそれができない教師ばかりだとしても、競争原理の導入が教育の質を落とすとは考えにくいのですが。
 私立の教育の質はもともと低く、それが競争原理のためだと言い切れるのでしょうか。
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競争=悪と導かれる心理とは?

 教師が力量を競い合う学校がよりよい教育の提供を競争する、ということに反対する教師は少なくないと思います。
 中にはひどい例ですが、行政のやることに反対するのが原理の人たちが、「結果として競争原理に基づく政策だから従わない」と主張していることもたくさんあります(産経ニュースの特集「公教育を問う第4部」参照)。
 競争がすべて悪という発想は、「勝ち負け」という結果にこだわる(自分は負けるだろうという)心理と、「力のある教師や学校と比較されたくない」という心理から導かれるものでしょう。
 子どもの場合、たとえば100m競争で、練習から本番まで順位は変化しなくても、1位とのタイム差が縮まったら、そこには努力の成果や体力の向上が示されているわけで、子どもが成長したあかしになるわけです。負けたからその子には何も残らない、ということにはなりません。たとえ勝った子でも、「最後で力を抜いたな」と指導を受けることもあります。
 「先人の努力」ももちろん大事なのですが、現場の教師がそれをどれだけ糧にして成果を残しているのか、生かせていないのならどうしたらいいのかが問われているわけです。「先人に負けないぞ」という競争意識も否定することはできません。「他の子に勝ちたい」という向上心をつぶすことはできません。
 なお、競争を促すことと、競争をあおることは違います
 優秀な教育実践に「賞」を出している新聞社がありますが、もともと比較が難しい教育実践でも、ルールと評価基準がはっきりしていれば、その下での優劣というのは出せるのです。
 このような競争が「自由な発想を疎外する」とは考えられません。むしろ競争原理がはたらくことで、次々にアイデアが浮かび、無駄を最小限にして効果を最大限にすることが実現しやすくなると思います。
 行政だけでなく学校でも、無駄な時間や予算を省くことを競わせる必要があるとも考えています。
 「競う」「競争する」という言葉に抵抗感を感じられる人には、「向上」「改善意識」という言葉に変えても無駄なことでしょうか。
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もう習慣の組み替えは済みましたか?

 今日の早朝4時代に、以下のコメントへのアクセスが集中したようなのですが、どんな方がご覧になったのでしょう?
 習慣の奴隷になっていないか?
 (逆コンピテンシーその17 経験にこだわる・・・「成果統合力」「情報活用力」などに課題)
 失敗例では,「47:知識に縛られて・・・,49:苦労したものへのこだわり・・・。52:おさめるべきをすて・・・」に関連があります。
 公立学校には「異動」がつきものですが,中にはその頻度が高い(一つの学校で勤務する期間が短い)教師がいます。教師の側から希望する異動理由には,「管理職と合わない」「学校のやり方が自分に合わない」「荒れているからいやだ」「駅から遠い」「自宅から遠い」「交通が不便」「問題をおこした」などがあります。
 行政は,優秀な教師を集中させて「エリート校」を作るということをしない(最近の都立の入試問題自校作成校や一貫教育校,研究拠点になる学校では違うでしょうが)はずなので,公立にはいろいろな教師が働いています。「そこが公立のよいところだ」と自慢したい人もいるでしょう。
 私は公立で異動があることの最大のメリットは,学校ごとの優れた指導方法,教育技術が異動によって広まり,知恵が共有化され,学校がよりよい方向に改善されていくことだと考えます。だから教師や管理職の異動によって,荒れた学校の再建が可能になるのです。ただし,逆もあります。
 かつて,「落ち着いた学校に来られてよかった。少しのんびりさせてもらう」と言った教師がいました。冗談かと思ったら本気でした。
 すべての教師が気を抜かず,手を抜かず,生徒に目をしっかりかけているので「落ち着いた学校」であったはずなのに,その学校の雲行きはどんどん怪しくなってきました。その原因は言うまでもありません。
 一般の方は(子どもを学校に通わせている保護者の方にとっても),学校といったらその中のシステムはだいたい同じものだとお思いになるかもしれませんが,これは都道府県,区市町村,学校の規模,年齢構成,地域の特色などによって,不二家と山崎パンどころか,他業種の会社くらい違う習慣が見られるのです。
 たとえば生徒指導の方針。外部評価も含めた学校評価の方法。会議の仕方。その回数。その時間の確保の仕方。朝の打ち合わせの仕方。日直の仕事とまわし方。・・・教科の指導でも,東京都は免許を持たない教科を教えることはありませんが,専門外の教科を教える地域もあるようです。通知表は学校ごとに様式が自由。保護者会の回数。懇親会のやり方。校長室の位置と大きさ(悲しいことに職員室から離れた校舎の片隅の小さい倉庫のようなところもあります)。
 異動した教師が一番戸惑うかもしれないのは,生徒指導の方針や,会議の方法の違いです。
 最適な方法がとられていたのに変更して失敗する。最適な方法を実践できる教師がいるのに習慣を変えずに成功しそこなう。それぞれこの逆のパターンにすべきなのですが・・・。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 192頁より
「習慣を変えねばいけないときに対応できない人が落ちていくのだ(注・・・小学校から中学校に進学した子どもで,テストに対応できないことを例に)。だから逆にいうと,ある新しいところに入っても,そこの習慣によって自分を新しく再構成することができればよい。リストラクション―リストラといっても,クビという意味ではなくて再構造化―,つまり構造化をもう一度行う。習慣を組み替えることによってその状況に対応していく,それが人間に必要な適応能力なのだ。状況が変わっているのに,かつての習慣にのみとらわれていて,その習慣を変えることができないと滅びていく,ということだ。」

自由競争の利点と競争禁止の欠点

 公教育における「競争原理」の導入が、さまざまな問題を引き起こすことは言うまでもありませんが、だからだめだという主張には説得力がないので、次のようなコメント(一部改変)をさせていただきました。
 

教師の質が高く、教育の成果に格差が生じていなければ、競争はいりません。
 しかし、現実的には格差があり、不公平感を生んでいます
 教育以外の公的な機関・・・病院、警察、役所でも、サービスの格差が問題になることがあります。
 安い有機栽培の野菜を買える人がいるのに、自分が農薬づけの野菜を高額でも買わされたら当然不満でしょう。しかし、農薬づけの野菜を安ければ買うという人もいれば、高くても有機栽培の野菜を買う人もいます。
 自由競争の結果が、必ず勝ち負けに直結するとは限りません
 競争相手の長所にどうしても及ばないのであれば、別の能力=個性を伸ばすこと(これを学校では特色ある教育活動とよびます)で、信頼と評価を得られることが可能です。
 もし競争が否定され、決められたことしかできない新たなことをしようとしてもできない、ということになると、公立学校は「選択肢がないから義務として仕方なく通う学校」という存在になってしまいます。
 子どもには「よりよい教育を受ける権利」が奪われ、公立学校に通う生徒と国立や私立に通う生徒との格差が広がっていく一方になってしまいます。
 教育の成果や結果が数字で表れるものばかりではないことから、競争には、利己的な教師が子どもを荒廃させるのを食い止める効果もあります。「自分のことは後にして,子どものために尽くす」教師の実践が評価されるために、教育にも競争は必要なのではないでしょうか。

 要は、目標を何におくかということです。
 格差是正が可能な部分、必要な部分は何かということです。
 何を評価するのかということが大切なのです。
 競争を嫌うタイプの人は、相手が努力して結果を残すと自分も努力しなければならないのが嫌なのでしょうか。
 学校によっては、学級だよりを出すことを禁止しているところもあるようですね。
 ○組だけ出すと、親からは当然、なぜ□組はないんですかと言われ、自分も出さざるを得なくなってしまう。だから、「みんなそろって出さない」という選択肢をとる。
 学校選択自由化が進んでいますが、これをやるとたとえば中学校では、部活動がさかんな学校への人気が高まる。特定の部活動を強くしたい教師が、やる気のある生徒が他に流れていくのに反発する気持ちはわかりますが、逆に考えれば、教育本来のやりがいが高くなる学校で仕事ができるようになるわけです。
 公立学校の教師は、国立や私立学校の教師よりも、「学力を高める」という重要な仕事で成果が残しにくいのは十分に理解できますが、国立や私立学校の教師も決して楽をしているわけではありません。
 教師の指導力の意欲・格差が現状以上に拡大しないよう、より高いモラールが必要な立場であり、士気を高めるリーダーが求められているのに、そのエネルギーが行政への反発という方向ばかりに注ぎ込まれてしまっている自治体があるようで、子どもが気の毒です。
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教員免許更新制の具体的内容

 教員免許更新制の具体的な運用形態が、15日、文科省から発表になっています。
 生年月日が昭和30年4月2日~昭和31年4月1日、昭和40年4月2日~昭和41年4月1日、昭和50年4月2日~昭和51年4月1日の方が平成21年4月1日~平成23年1月31日に免許状更新講習を受講することになりましたが、この方々は今年度に実施される「予備講習」に参加して後で修了の手続きをとることが可能です。
 早いところは、来月にはもう予備講習が開かれますから注目されるところでしょうが、「授業参観と協議への参加だけでOKで、あとはレポート」の程度なら、たいした負担にはなりませんね。
 講習のレベルが日本の教育のレベルを物語ることになるでしょう
 教育委員会が実施する研修が、あらためて高い評価を得ることになるかもしれません。
 大学の教員養成能力への失望が教師養成塾づくりの活発化に結びついていることから考えれば、ここは正念場かもしれません。これをチャンスだと考えている関係者が多く、「めんどうくさいことが始まったな」と思っている人が少ないことを望みます。
 昭和39年4月2日~昭和40年4月1日、昭和49年4月2日~昭和50年4月1日、昭和59年4月2日以降生まれの方はずっと先の平成30年2月1日~平成32年1月31日が受講期間です。
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教師のストレス解消法?

 弘中 勝氏の日刊メールマガジン「ビジネス発想源」の今日の話題は、ストレス解消法でした。
 ストレスは、仕事で解消する。これが弘中流ということです。
 私の場合、イライラすることはあってもそれをため込むことがないので、ストレス解消法を聞かれた時は、「自分はストレスはたまならない。巨人の借金が増えても、ここ数年で耐性が増してきたので大丈夫だ」と答えていました。
 弘中氏と同じように、仕事と関係ないことをしてストレス解消をするのは時間の無駄であるという感覚です。(この能力は「自己統制力」に最も近いでしょうか。ただ、教師のコンピテンシーには含まないものと考えています。「忙しくて生徒と遊ぶ時間がない」という教師がパチンコやカラオケにはまっていても、その人を責めるつもりはありません。教育という仕事が好きで、全部の時間をそれにつぎ込む意欲がある人材は、逆に視野がせまくなっている危険性があります。)
 もう一度落ち着いて自分では気付いていないストレス解消法があったのかと考えてみると、採用二年目でしたか、学校で部活が終わった後にひたすら千羽鶴を折っていた時期がありました。誰のためでもなく、ただただ折っていました。そのうち偶然役に立つことがありましたが、あの目的はストレス解消だったのかもしれません。
 事務的な機械作業をすると、私の場合は禅の境地に近づくような効果があるのでしょう、無になる感覚の中で、なぜかいいアイデアが浮かんだりすることが多いのです。
 10年目前後は、ただただ仕事に打ち込んでいたので、ストレスがあるのかないのかすら気付かない状況だったと思います。
 弘中氏は、ストレスを解消するのではなく、ストレスに打ち勝つ工夫を、とアドバイスしていますが、学校でそれを言ったら、反発する教員ばかりかもしれません。しかし、若い教師で「じゃあ、辞めます」とキレる人は、企業ほどは多くないでしょう。企業と違って教員が辞めないのは、同じ給料がもらえる他の仕事にはつけないことや、実力は向上しなくても給料が毎年自然に増えていくことが背景でしょうか。
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1、2年契約の子どもの不幸保障

 あるサイトで覆面座談会という企画があり、小学校教師2名が労働環境、モンスターペアレンツ、体罰や研修などについて話しているのですが、1ページ目の内容から「またいつものデッチあげ記事か」と思いきや、署名記事だったので驚きました。
 小学校教育は、小中連携事業が行われるようになり、上級学校からのアドバイスや注文、プレッシャーによって、ようやく異常な教育環境の部分が改善されているかと思いたいのですが、「1・2年契約の子どもの不幸保障」からはなかなか脱却できそうにない気がしました。
 「教育という仕事に夢や希望はない」「雑務が忙しすぎて、休み時間に校庭で生徒と遊ぶなんてことができなくなってきた」「バカ親にまで事なかれ主義でペコペコしちゃう」「低学年のうちはほとんどサルと同じです。いくら冷静に言い聞かせようとしても、言葉が脳まで届かない。体罰は必要だと思いますね。」など、単に自分が教職に向いていないだけの話なのですが、他人事のような態度。
 企業関係者の委員が多いと「社会人経験者の大量採用」という提案が出されることがありますが、教員よりいい給与で仕事にやりがいをもって働いている人材は、よほどの使命感がなければ、まず教育現場には入ってこないでしょう。単に職場の上下関係の訓練を受けているから、上司の命令には忠実に従うだろう、会社員のように将来は必ず管理職を目指すだろう、という感覚で採用すれば、結果は目に見えています。
 小学校では不幸の「分散」や「持ち回り」で不公平感をなくそうと努力していますが、これが「幸福」の分け合いと捉えられるようなレベルに何とかして達してほしいものです。
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教師のイライラ解消法とは?

 植西聡著「イライラしたときに冷静になる方法」(扶桑社文庫)を読みました。
 教師という職業は、他と比べて「イライラすること」が多いのでしょうか、少ないのでしょうか。
 1年間の中で、最もイライラするのは教育実習期間中です。
 教育実習生は、授業だけをとってもありとあらゆる失敗をしますから、その都度、どうしてもイライラがとまりません。このイライラは、次の授業、さらに次の授業と、ひとつひとつの課題を解決していってくれることでかろうじて解消されていきます。
 だいたい1時間の授業でノートに5~6ページくらいメモをとることになりますが、イライラの原因が積もっていくことがさらにイライラを募らせます。イライラ解消法として、その原因メモを破り捨てるというのが紹介されていますが、今のところ、それは実践していません。
 学習指導でも生徒指導でも、自分が指導者のときはイライラしないように実践すればいいのですが、人の指導(指導できないでいるのを)見ているときはたいへんです。
 どうしてイライラしないでいられるのかと思うだけでイライラが募ります。
 逆コンピテンシーディクショナリーが厚くなっていくことでイライラを解消する、という方策もあるのかもしれませんが、「損をしている生徒」を見逃すのはつらいことです。
 本に紹介されていたイライラ気分を解消する方法の中で、自分が実践していたものをあげると、
甘い物や好きな物を食べる。
掃除をする。
が見つかりました。
 教師としてはなかなかできない著者の提案は、
ガムをかむ。
一流ホテルに泊まる。
ぐっすりと眠る。
などがありました。
 イライラしないでいられる教師が、たとえば学力向上がうまくいかない、問題行動への指導法がわからない、保護者とのコミュニケーションがうまくいかない、などのケースで、次のようなことを実践しているとしたら、つらいものがあります。
○「そんなことには興味がない」と考える。
○「イライラしても何も変わらない」と考える。
○「こんな人のためにイライラするのは損」と考える。
○「もっといいことに時間を使おう」と考える。
○「自分で解決しなくてもいいか」と考える。
○「最悪な状態よりはまし」と考える。
○「そんなに深刻なことではない」と考える。
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教師と天気予報士の共通点

 Psycheさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございました。
 

力のある先生は迎合する必要などありませんね。人(生徒)に否定されるのが怖いのでしょうか。指導者として弱気な側面が垣間見えます。
 『○○先生に怒られるから、しちゃあかんよ』も、同じケースですね。「オマエが怒れよ!」って感じてしまいます。遅くとも3・4年でそのレベルはクリアしてほしいのですが……。

 日本は、何億円もの予算を投入して製品化されるゲームを、1年に何本も買ってもらって楽しめる子どもが育っている国です。その楽しみの目的を達成するために利用できる目の前の人間は親です。
 教科書が1冊できあがるまでにかかる費用はいくらでしょう。
 授業を行うために、必要な教材の費用は1時間あたりいくらでしょう。
 親がテストでがんばるとか、勉強関係の見返りとしてゲームを買わせているので、「学習」と「娯楽」の「目的」と「手段」の関係がめちゃくちゃになってしまっています。
 教師も、自分の利用のされ方を考える必要があります。充実した学習に利用されるべき教師が、遊びで楽しむために利用されたとき、教育力がない親と同レベルになり、子どもからの人気は高まるでしょう。
 そういう子どもに対しては、教師はまず否定されることから始めなければなりません。
 しかし、学校という場所に子どもが強制されずに集まってこれるのは、親と同じような利用価値のある教師がいてくれるおかげなのかもしれません。
 「○○先生に叱られるよ」という言い方が、自分の親に似ていて心地よいのでしょう。
 そういう指導しか入らない子どもがいかに多いかという問題もありますが、そういう指導しかできない教師が多いことも大きな問題です。
 ほとんどの教師は、自分の教育の失敗を認めたがらないものです。「子ども思い」のつもりでやっていることが子どもの成長に何の役にも立っていないことを自覚させられるのはつらいものだからでしょう。
 最近、教師天気予報士に似ていると思うようになりました。
 その人の仕事によって、未来に役に立つ(考える力や知識をもっていく、傘をもっていく)ことがあるかもしれませんが、何の役に立たなくても(学力がつかなかったり、晴れて傘が必要なくなったり)責任をとられることはありません。ですから適当にやって力がついたり当たったりすることもあれば、どんなに研究して時間をかけて準備しても、力がつかなかったり当たらなかったりすることがあります。共通点が多い。
 しかし、少なくても天気予報士は天気図を使うなど根拠をもって予想を立てるのに対し、教師はどちらかというと経験や勘にたよる傾向がある(これも実は捨てたものではなく、お年寄りが地元の天気を当てる場合もあるが)のが相違点で、もっと指導の論理性を追究する必要がありそうです。
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超・学力観に基づく「なぜ日本人は学ばなくなったのか」の答えは?

 教育学者猛烈塾講師、どちらが子どもの学力向上の役に立つか?と問われたら、答えは明白かもしれませんが、どちらに教育政策を考えさせたらよいか?という問いには少し解答をためらうかもしれません。
 「なぜ日本人は学ばなくなったのか」という齋藤孝の本(講談社現代新書)は、対象が限られた「日本人」であるということと、「学ぶ」ことの意味や意義の捉え方が自分流であることから、あまり役に立つ内容ではありませんでした。
 日本人への危機感を煽っていれば本が売れるという国が日本です。
 そして日本のよいところを探して宣伝しようとすると「右翼か」などと言われてしまうのも日本です。
 教科書にそれを載せようとしたり、道徳教材で使おうとするときに浮上する抵抗感は、他国のケースではまず存在しないでしょう。「愛国心教育」の必要性を叫びたくなる人の気持ちはよく理解できます。
 そういう国であることは確かなことですが、日本では同調性傾向が強い(そうでもないという実験結果もあるのでしょうが、「KY」など、空気を重視する文化であることは確かでしょう)ためか、ある一部の対象に限られる話を、なぜか「日本人」全体の枠に広げて議論する傾向があります。
 齋藤孝が主張する「読書」や「学習」の意義は、もちろんそれはそれで正しいことでしょうが、それをすべての日本人がすべきであるかというと、それは?です。
 齋藤孝も本の中で、学校に対して常軌を逸した要求をするモンスターペアレンツを語るくだりで、「教師を頭からバカにして、ホテルのドアマンや百貨店の店員に対するように威圧的な態度をとる」とありますが、教師・ドアマン・店員を著者が同じような日本人であると考えていないことは確かです。
 江戸時代の識字率が他国より高かったとしても、今の若者がニーチェを読まないからといって、現代が江戸時代に劣るとは言えないように、歴史的な変化を語るときにも「自分の見たいものだけしか見えていない」状況になっているのがわかります。
 学力低下問題の解消や教養重視を主張する教育学者にとってつらいことは、このような本を記しても、「そういう著者もこの程度か」と思われてしまうリスクを常にもっていることでしょう。
 「なぜ日本人は学ばなくなったのか」の「日本人」をたとえば小学生、中学生、高校生、大学生に限定すると、その理由は、TVの他、ゲームや携帯電話、マンガやインターネットの普及もあるでしょが、一番大きいのは、教師が学ばせなくなったからでしょう。それにつきます。
 学校の教師は、「学習指導要領で定められてる範囲を逸脱することはできない」という逃げ口上がありますが、塾の講師や家庭教師はその縛りがないので言い訳ができません。学ばせて学力を向上させるしかありません。
 だから子どもにも親にも信頼されるのです。
 夜スペでもなんでも、「学ばせること」ができるかどうか、「学ばせる環境を整えること」ができるかどるかが問われているわけです。
 極端な超・学力観で言えば、「自ら学ぶ意欲」を重視して学ばせるのは、大学院からでよろしい。義務教育から大学までは、学ぶべきであると考えることを学ばせることに専念すればよい。「学ばせる」ことで、興味が持てる子どもには自然に「自ら学ぶ意欲」が育ち、どんどん学力が向上し個性が伸長する。それを全員に求めてはいけないし、強制してもいけない。「学ばせること」だけに専念すべきである。
 このようなことについて、齋藤孝は、読書などの「学び」を「強制」してなぜ悪い、というニュアンスで語っています。
 

必要なのは、刺激であり、機会であり、適度な圧力だ。

 このことには賛成ですが、著者に強制される中身については、ちょっと首をひねりたくなります。
 しかし、どの学校の教員にとっても、「学ばせる」ことは至難な技になってしまっているのでしょう。特に大学では、「圧力」が均等でないと、自分の講座に生徒が全く集まらなくなる恐れが出てきます。やはり生徒迎合型の教師になってしまいやすいのでしょう。
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子ども迎合型教師とルール化のデメリット

 子ども迎合型教師は少なくありません。
 きちんとした論理ではなく「子ども第一主義」とか「自由・個性の尊重」とかいう自己流の信念というか感性で仕事をするので、議論をしても全くかみ合わず、指導の足並みをそろえることが難しくなります。
 生活指導で注意を受ける生徒が、ときどきこのタイプの教師に泣きつき、自己の正当化の道具に使うことがあります。
 たとえば、校内のある場所で、ある行為が禁止されていたとします。
 そこで、そういう行為がしたい生徒は、迎合型教師を利用して、別の場所でその行為ができるようにします。
 ルール化されていない強みを生徒は最大限に生かして好き勝手しますが、それを別の教師が注意してやめさせようとします。しかし、生徒は反発する。
 生徒が反発する根拠は、「○○先生はいいと言った」というものです。
 大切なのは、ある場所でその行為が禁止されている理由、そのルールが必要だと考えられた理由を理解しているかどうかということで、たとえばそれが「危険行為」だった場合、場所が変わってもそれが「危険行為」になっている以上は、やめさせるのが妥当な指導であるわけです。
 「ルールがあるから守らせる」というレベルの指導しかできない教師は、すぐに生徒の餌食になります。
 学校のきまりやルールに限らず、法・法律というのに共通することなのかもしれませんが、何かのケースを想定して「禁止」のルール化を行うと、その条件からはずれた部分では逆に「許可」されているように錯覚してしまう。
 それがルール化のデメリットです。
 生徒に担ぎ上げられて、注意をした教師へ反論に向かわされた教師は、論理の前に大恥をかくことになりますが、教師にも「武士の情け」が必要なので、「その場面を見ていなかった先生には判断できない」程度のコメントで退場願います。
 「ここでその行為をしてはいけないというルールがないから、許可してもよいのではないか」という発想は、「他の場所ではなぜ禁止されているのか」という、ルールの根源になっていることへ思考が働いていないという欠陥からおこるものです。
 しかし、純粋な子ども迎合型教師は、迎合することによってのみ生徒から存在価値を認められるので、生徒から見て利用価値がないと判断されると相手にされなくなる危険性があります。
 子どもは自分の失敗(これは耐え難いもの)より、大人の失敗を見ることで成長しやすい存在だと考えると、迎合型教師の存在価値は大きいのかもしれませんが。
 今回の内容は、「論理追求力不足」という逆コンピテンシーの具体例でもあります。
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「いじめ」と新KEGARE思想

 教育の現場で感じる新種の「KEGARE」意識として、「教師からの指導を受けて不快な気分になること」があげられます。
 このKEGAREをはらうには、「逆ギレする」「無視する」「親に教師を攻撃させる」「他人のせいにする」などという手段があります。
 自力救済系の「はらい」は、「笑われただけでキレる」ような中世の時代の日本人を思わせます。
 他には、「自分の思い通りにならない」というKEGAREもあります。
 これをはらうには、「キレる」「他人を攻撃する」という攻撃的な方法と、「逃げる」「自ら命を絶つ」などの後ろ向きな方法があります。
 「荒れた学校」の時代には、圧倒的に攻撃的な方法が多かったのですが、最近は消極的な態度の方に重点が移ってきています。
 「いじめ」という現象がやっかいなのは、同質でない(のが当然なのですが)他人、自分の思い通りにならない他人に「KEGARE」を感じ、攻撃を加えて「はらおう」とするのですが、相手が自分の都合のいいようにならない場合、「KEGARE」がさらに増していくことです。
 いじめた側は、相手の「KEGARE」をはらってあげようとしているだけなので、罪悪感がない
 いじめられた側は、自分が「KEGARE」ていることを認めたくないので、初期は「いじめられていること」を認めようとしない
 そして事態が深刻になり、相手から攻撃を受け続け、積もり積もった「KEGARE」が、自分自身の「KEGARE」許容範囲を超えたとき、重大な問題がおこる。
 「いじめ」の問題の根が深い理由は、「新KERGAR思想」にある、というのが私の仮説です。
 では、その解決法ですが、この種の「KEGARE」は存在を否定せずに、教師が指導によって「はらう」しか方法がありません。そのためにはまず、教師自身の「KEGARE」をなくしたいものです。
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教師と子どもの社会性と社会科

 「今の人生は死ぬまでの暇つぶし」と語った作家がいましたが、学校でも「授業中、どうやって暇つぶしをするか」と、いろいろ試行錯誤している生徒がいました。
 塾漬けで「点数取り技術」を鍛えられている子どもの中には、授業中の雑談や分かりきっている説明・板書には目もくれませんが、「ここ、テストに出そうだな」とピンとくると、急に目の色が変わるのがいます。
 気分が悪いので、そういう生徒が暇つぶしをしている間にさりげなく説明したものについて出題したりと、随分意地の悪いことをしたものです。
 「点数稼ぎ」という目的を達成するにはとても合理的な判断を瞬時に下せていると感心してしまうのですが、「公民的資質の基礎」を養おうとしている社会科では、「個性の尊重」より「社会に生きる人間づくり」に力を入れたいので、「最も社会的でない生徒が最も社会科のテストができる」状況を打破する必要があります。
 「社会性」の欠如が憂慮される大人の代表に、裁判官とか教師がいるのは周知のことです。裁判員制度や企業研修・免許更新制が生まれた背景の一つです。
 小学校では先生から進んで挨拶し、その相手を子どもがしてあげているのが普通の世界のようですが、挨拶を「他者への敬意のしるし、敵意のないしるし」と捉えている中学校では、自ら進んで挨拶ができる生徒を育成しようとしています。
 しかし、なかなかうまくいかない学校が多く、生徒会が「挨拶運動」をやるようなところは、挨拶ができない生徒が多い証拠になっています。
 問題は子どもだけでなく、たとえば大人同士の関係になったときに、まともな挨拶ができない教師というのが確実にいます。
 先日、顧問会を欠席した学校の引率教諭が大会に出場したとき、専門委員に対して挨拶もせず、子どもたちの前で叱られてしまっている場面に出くわしました。この学校の校長は、教育関係の本をよく出している人物です。
 「個性の尊重」というスローガンと「礼儀正しい子どもの育成」というのをうまくマッチさせる方法はないでしょうか。
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もし来年、国際的な学力調査の結果(順位)が上がったら?

 ふと思ったことがあります。
 もし、新しい学習指導要領が実施される前に、国際的な学力調査の結果(順位)が改善してしまったら、この成果はどこに求めるのでしょうか?
 文部科学省は、「ようやく生きる力の育成をめざした学習指導要領に基づく教育の成果が現れた」と言うのでしょうか。
 そして、新学習指導要領完全実施後に、また順位が下がったら?
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上から目線の失敗と下から目線への希望

 伊吹自民党幹事長の「年貢増は当然」コメントは、「国民」=「殿様」が前提なのですが、「お上依存体質」に染まっている人からは当然のように反発を受ける言葉でしょう。
 日本国憲法が「国民」によって確定され、天皇や国務大臣、国会議員などに擁護する義務を負わせているものであることを理解している「国民」は少ないはずです。
 「年貢(税金)を徴収され、統治されている立場である」という実感が強い「国民」を敵にまわしてしまう言葉です。
 本来の「国民」の立場におかせる工夫がほしいものです。
 中川元幹事長の方は、「官僚国家の崩壊」という本を下旬に出版するそうです。
 「劣化したエリート」というフレーズは読む意欲を刺激してくれますが、内部からの声が反映されているかどうか、目次で確かめてから買おうと思います。
 同じ役職につく人間が、180度違うことを言うのは、公務員の世界ではよくあることです。
 社長引退後、会長として残ってしまっている企業ではそうはいかないかもしれませんが、同じ失敗を繰り返すのでは芸がないので、違う失敗を犯す道を選ぶわけです。
 その都度部下は振り回されますが、その経験は自分がその立場になったときに生かされないので問題は繰り返されます。
 失敗しないためにトップが何もしないというパターンは、学校によく見られますが、考えようによってはこちらの方がましかもしれません。
 学校の経営者にも、政治家にも、「説得力」が求められます。
 しかし、一般の公務員の場合は、「上司の命令に従わなければならない」という法令があるので、上司は部下に「説得」する必要がありません(議員を説得する必要はありますが)。これが劣化速度をアップさせる原因の一つになっています。
 「部下」が運営をリードしているような学校の姿が、行政や議員の世界でも見られることが必要になっているのではないでしょうか。
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教育にかかわる困りものの素人たち

 教育書の中には、タイトルにひかれて買ってしまうものの、読んでみたら何の役にも立たない本というのがたくさんあります。書店でなく、amazonで買ってよく大失敗しています。
 ある教育評論家が記した「○○は生まれ変わる」というタイトルの本があります。
 この著書は、教育現場で言うと「事務の人」です。
 教育委員会という組織は「事務の人」が中心にいるということは、保護者だけでなく、教員の世界でもよくわかっている人は少ないでしょう。学校の事務室で文房具を出してくれたりする、あの事務の人です。
 この人たちは教育指導の専門的な知識がないため、教育委員会では教員が「指導主事」としてこの「事務の人」たちを支えることになります。
 私がかかわったいくつかの自治体で、学校事務のお兄さん、お姉さん、おじさん、おばさんが人手不足のためか学校行事の準備にかかわり、先生顔負けの動きをしている様子をみて、事務の人が学校経営にもっとアイデアを出したり、客観的な目で学校評価にも積極的に参加してもらいたいと思うようになったことは、これまでにも日記でふれてきました。
 しかし、経営という面では積極的に参画できても、教育の専門的指導にかかわることはないので、教育改革とか学校改革についてこの人たちが適切なアドバイザーを得ないで考えると、企業経営的にはあり得ることでも、教育の政策としては実現不可能な案を平気で出してしまいます。
 事務の人は限られた教員(処分を受ける人や組合活動に熱心な人など)の実状は詳しくわかっていますが、大部分の教師の実態はわかっていないでしょう。
 勤務時間が終わったら帰宅する人は当然としても、1日のほとんどを自席か会議で過ごす人には、けっして理解できないのが教育現場の仕事です。
 著者は、「学校の本質的な目的は、たった二つ」とし、それを「子どもを『国民』にすることとその『国民』を優秀にすること」としています。
 現役教員との座談会での会話では、「事務処理能力の高い先生が大きな顔をしている」とか、「今では企業でさえ新人を育てようという風潮はなくなりました」とか、「中世から戦国時代にかけての武士は極めて合理的で、主君も平気で裏切る」とか、「大人が子供に価値観を押しつけないで、どうやって道徳律が成り立つと思っているんでしょうね」とか、「教員採用試験から教員免許の要件を外す」など、数多くのハテナ発言を繰り返しています。
 経験や読書から導いてきているのはわかるのですが、その本質は何かということまで知恵が及んでいないことが明らかです。
 この著者が書き記していることは、過去に自分がかかわった教員への不満を解消し、行政での仕事がうまくいっていないことを直視しないですむようにするためのものだと考えられます。
 「授業や学級運営がうまい校長や教頭は大勢いますが、彼らがその地位にあるのは試験に合格したからであり、教諭としての実力が高かったからではありません」とは、行政の立場の人間が言ったら終わりでしょう。
 「校長は原則55歳以上1校限りというルールにでもしておけば、後々の人件費負担もありません」という感覚から、教育について語ることを許容する限度を超えていることが明白です。
 「学校には、明治期の青年のように「志」を持った中堅・若手教員が大勢います。民間から優秀な人材が学校に大量に入り、彼らが一層覚醒すれば、学校は明治期の日本のように大躍進を遂げるでしょう。」としめくくりにあります。
 教員免許はいりませんから、事務室ではなく、入庁後、副担任として教師の仕事に2年ほどかかわってくれれば、教育委員会ももう少しましな人材がつくれるかもしれません。
 教員よりも人材難が深刻なところがよくわかったという以外、得られることがなかった本でした。
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落とし物の「在庫」はなぜ増え続けるのか?

 すずめ先生の記事に、「学校での落とし物の落とし主が現れない悩み」が紹介されていたので、私は以下のようなコメントさせていただきました。
 

「落とし物」の中には、単純な「置き忘れ」だけでなく、「誰かに勝手に持っていかれてどこかに放置されていた(隠されていた)のが見つかったもの」もけっこうあるのではないでしょうか。単にだらしないだけの子どももいますが、誰かに取られた(=自分を傷つけようとした他人がいる)事実を認めたくないために、紛失した事実自体をなかったことにするつもりの子どももいるような気がします。しかし、眼鏡、時計といった値のはる品物の持ち主が見つからない私の学校は異常です。「傘」をはじめとした学校における「落とし物」心理学の専門家はどこかにいらっしゃるでしょうか。

 後からじっくり考えても、理由がわかりません。
 落とし物を保管したり、その情報を伝達するシステムがあり、明らかに困っている人がいるはずなのに、なかなか「在庫」が減らず、増えていく一方です。
 ここで私は、現代の新たな「KEGARE思想」が広がりつつあるのではないかと考えました。
 自分の持ち物が、いったん自分の手から離れ、しばらくそのままになる。しばらくして見つかっても、それが「自分の持ち物としての資格」を失っているため、以後、縁を切る・・・・。
 もちろん「自分以外のだれかがさわったことがいやだ」などという低次元の問題ではない、過去の「ケガレ」思想とは異なる、新しいタイプの「KEGARE」認識です。
 また新しいものを買えばいい、という感覚ももちろんあり、まだいくらでも使える鉛筆や消しゴムなども、「落とし物」ではなく「ゴミ」として捨てられてしまうケースもあるでしょうが、「ものを大切にしなくなった」という話とはちょっと次元が違う。ものに愛着を感じていない、というのもありますが、それとも違う。
 「探す努力」も「いやしい行為」であり、「KEGARE」である。
 「きれいに忘れ去ること」が「KEGARE」から逃れる最高の手段である。
 おかしな状況です。
 もしこの仮説に基づいて落とし物の「在庫」を減らす戦略を練るとすると、発想としては「KEGARE」を取り除くプロセスが必要になります。
 たとえば、落とし物に、「名前」をつける。
 日本語名でつけるなら、歴史的な人物。外国の偉人でもかまいません。
 芸能人の持ち物だったことにして、「○○○の傘」「△△△の眼鏡」と呼んでもよい。
 ときどき一覧表を掲示するなどして、「落とし物」への興味・関心を高める。
 そうすると、「忘れ去れた存在」から、「忘れ去ることが困難な存在」になる。
 ろくな案ではありませんね。
 何かうまい解決方法を持っている学校というのはあるのでしょうか。
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社会科教師の逆コンピテンシー その12 新しい教科書モデル

 第12回は、「戦略創造力(④戦略のC創造力)」がテーマです。
 地理や歴史を学ぶとき、あなたは「考えること」「覚えること」「調べること」「自分の考えを述べること」のうちでは、どれを最も重視しますか。
 最も時間を費やしているのはどれですか。
 ・・・という質問を生徒にしたとき、どんな答えが返ってくるでしょう。教師ならどうでしょう。
 生徒のそれぞれの解答に対して、「先生は、そのことについてどのような材料をどのような方法で提供してくれますか」と聞いた場合はどうでしょう。
 知識や理解を中心に、私立大学の入試問題のような穴埋めプリントで教えている教師と生徒との間には、一定の信頼関係が生まれて安定しています。
 穴埋めのところを覚えれば、テストでいい点がとれる。
 現行の学習指導要領は、このような社会科教育では目標に掲げる資質は身に付かないので、内容に大きな工夫を加えましたが、結果は失敗に終わろうとしています。
 教師の逆コンピテンシーが、学習指導要領ではなく、生徒・保護者側のニーズに沿っているという理由でコンピテンシーになってしまっている。
 基本的に、教師の教え方を改善させる教育が難しいことは、研修や研究会を飽きるほど見ている自分は強く実感していますが、役所にいるだけの人には理解できないのです。
 では、養成や選抜の段階で・・・という話になりますが、こちらは大学生が受けてきた教育が近すぎて、何が求められているのかを実感するところまでが遠い道のりになっています。
 子どもや保護者の社会科(に限らないかもしれませんが)学習に求める目標=テストでいい点を取ることに、教師が合わせた形というのが、多くの社会科の授業の主流になっていることでしょう。
 教師は子どもに知識が身に付かないことに、大きな危機感、恐怖心を持っていて(それがないと自分の存在意義が否定されると自覚する)、「学び方」「調べ方」「考え方」を身に付けさせることは二の次になっています。
 しかし、そのような背景で教師が子どもに身に付けさせようとやっきになっているのは実は「知識」ではなくて、一種の「条件反射」のようなものでしょう。
 本当にその内容(知識)を身に付けさせたいと強く思っているのかどうか、毎時間の内容に照らして考えてみてはどうでしょう。まさか教師が、これは受験に出そうだからという理由だけで、教えている(こういうのは「教える」ことではなくて「与えている」とでも表現すべきなのでしょうか)情報はないでしょうか。
 「本物の知識を伝えたいのだが、子どもや保護者のニーズがネックになっている」というのなら、ニーズの方向性を変えることで、教師の「教えがい」も変えることができるはずです。
 まずは、定期考査問題を見直したいものです。
 文部科学省に求められる次なる取り組みとして考えられることは何でしょうか。
 学力調査的な問題を一般から多く募集して吟味し、「いい問題」を公開して中学生に解かせてみること。公開しないものを学校に提供して、定期考査に活用させること。
 学習指導要領に基づく指導の「評価」に切り込む施策が必要で、少しでも「目標準拠評価」の信頼性の担保になるものを提供すべきでしょう。
 教科書は無償でも、おそらくほとんどの学校では問題集や資料集などの教材を買わせているはずです。
 「義務教育は無償」という原則を、教材にまで広げるべきかもしれません。ということは、「問題集一体型の教科書」という新しいスタンダードが見えてきます。
試験問題】 定期考査の問題で、生徒の保護者から「習っていない問題が出された」という苦情が寄せられたとき、あなたならどのような話をして保護者と生徒を納得させることができますか。
(余談ですが、ある小学校で、学校では学習していない問題を担任が出題し、「塾で習って知っている人が多いからいいだろう」と言ったという話を聞きました。公立小学校の恐ろしさの一面をまた見ることになりました。)
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週刊東洋経済の「子ども格差」

 「格差もの」のはやりが続いています。
 週刊東洋経済では、経済格差に重点をおいた教育・福祉(貧困)問題を特集しています。
 この雑誌を定期購読している公立学校の教師は少ないと思いますが、今回の特集を読めば、公立学校における教育が果たすべき役割の重さを改めて実感することができるでしょう。
 しかし多くの教師は、行政の無策に対する批判的姿勢を強めるだけかもしれません。
 さまざまな雑誌で組まれる特集を吊り広告で眺めながら、雑誌というメディアが果たすべき社会的役割は何かなとときどき考えますが、この「子ども格差」についてはどうでしょう。
 このような特集を雑誌が組んで、定期購読ではなく駅やコンビニで雑誌を買おうと思う読者層というのは、やはり「専門・管理職」や「一般ホワイトカラー」(通勤途中で目に触れる条件でもある)が大部分で、一種の優越感を与えたり、「ここまでやっている家もあるのか(家庭教師に月60万円)」とおもしろがらせるのが趣旨ではないかと勘ぐってしまいます。
 「セレブのぜいたく受験術」などほとんどの家庭には縁がない話だと思われてしまいますが、該当する読者もいるのでしょう。
 「年間350万円使った親もいるという小学校お受験の舞台裏」などは、経験した読者もいるのかもしれません。
 「ひとり親の生活保護家庭などの中学生を対象にした勉強会」など、「格差を縮める草の根の取り組み」も一部には紹介され、「格差を生み出すのが教育だとすれば、格差を埋めるのも教育だ。そして、教育や社会保障を誰もが利用できることこそが、子どもたちの未来を希望に導くのである。」と結んでいるものの、片隅の記事で見逃される可能性のある扱いになっています。
 パンク状態の児童相談所や特別支援学校、急増する虐待相談、過酷さを増す生活保護家庭への就労指導、蚊帳の外の日系人教育、授業料滞納問題、学童保育などについては、一定量の取材が行われており、各自治体の議員や国会議員が法案づくりに参考にしてほしい内容になっています。
 読めば読むほど、教育や福祉に十分なお金はかけられていないものだと実感しますが、同時に、お金をかけ出すときりがないなとも思ってしまいます。
 以前に、文部科学省の機能の大部分と厚生労働省の機能の一部、その他を含めて教育省をつくり、「子ども」の明るい未来を保障する機能を!と主張したことがありますが、もっと大胆な方策というのはないのでしょうか。
 「子どもをめぐる悲惨な状況」は、あまり子どもの目に触れさせたくない記事ですが、今後、新聞も取り上げないくらい日常茶飯事の事件・事故が頻発するような時代にはなってほくしないものです。
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社会科で育てる理性と感性

 「ニュートラルな立ち位置にあること」が自覚できることは教師のコンピテンシーの中で「自己統制力」に入るものかもしれません。
 人間は、ある固定観念に重心をかけると、それに都合のよい情報だけ目に入ってきたり、自分の都合に合うようにその情報を解釈してしまったりします。
 禅など宗教の教えをひくまでもなく、「見えなくなっている自分」への自覚を失うと、人は説得力も失い、いずれは無視か闘争を引き起こすことになります。
 ディベートは、そういう人間のいやらしさを真から実感するために非常に有効的な活動です。
 人間に対する評価、その政策にかかわる評価に対する主張は、ディベートのように賛成か反対か、白か黒か、イエスかノーか、ゴーかバックか、どちらかでないと意味がないような風潮は、単一の答えを求めるのが学習であるという勘違いによって、より強化されています。
 センター試験や私立大学の入試問題はほぼ100%この形式でしょう。
 話は変わりますが、ある俳優がインタビューで、「今、人々は頭が良くなりすぎている。頭で理解して行動する。しかし、心で感じるものをもっと大切にしてもよいのではないか。何を考えるかではなく、何を感じるかをもっと追究すべきではないか」という趣旨のことを述べていました。
 なるほどと思う一方で、感性こそ手に負えないものはないとも感じさせられます。
 社会科の歴史的分野では、多くの時間を「戦争」「争乱」「政治の失敗」にさくことになっていますが、今のカリキュラムでは、子どもたちに「何を感じさせていくのか」という問題への配慮は特にありません。
 それは、授業・教材レベルでの話=教師の力量の問題になってきます。
 「不当な支配への反抗・反発・嫌悪」を中核として授業を構成することもできますし、「権力と戦う人への愛情」を育てることもできるでしょう。
 しかし、「あなたには何ができるのか」を問わない社会科では、「(国際)社会の中で主体的に生きる資質や能力」は育ちません。
 戦略だけでなく、思考や情報の分野でも考えるべき課題になります。
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社会科教師の教育の成果

 なっつさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。
 

日本は競争社会の中で、勝ち上がるために弱者切り捨ての価値観を身につけていき、結果「人のため」という価値観がすごく下がっていますよね。人のために行動する気持ちが育てば、自然に、まわりの人のため、地域のため、国のため、という気持ちも育つと思います。いきなり「愛国心」とかって言い始めるから抵抗があるだけで。
 だって、官僚、政治家を見ても、愛国心があるように思えないもの。自分たちの保身ばかり考えて。そんな人達に「愛国心」と言われるから、反発が起きるだけだと思いました。

 国家=政府と見る立場からの「愛国心」の押しつけに対する反発は当然のことですね。
 しかし、愛国心=滅私奉公という連想をしてしまうのは、日本独特のかなり狭い歴史観に基づくもので、だからこそ社会科の目標では、「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情」のように、「多面的・多角的な考察による理解」に基づく「愛情」を育てたり深めさせたりすることを目標にしているわけです。
 ただご存じのように、社会科の場合はほとんど一面的な歴史認識を子どもに植え付けようとする教師がいますから、そういう教師の思い通りに育った子どもたちは「国家・社会・政府」という文言自体によい印象を持てずに成長していきます。選挙権を行使しようとしない多くの若者に、「どのように成長してほしいのか」を問うことのない大人たちは、政治家が悪い、官僚が悪いという言葉で政治的無関心を片づけてしまいます。
 有識者の立場としては、今のままでは「民主的、平和的な国家・社会の形成者」たる人間を育てることが難しいという認識があるので、「日本人としての自覚」を促す文言として訴えかけているわけです。
 なお、教育現場で教師が「愛国心」という生々しい表現を使うことはまずないでしょう。だいたい両極端の立場の人が相手を批判するためかそれに対して攻撃するために使っています。
 学習指導要領に「愛情」という文言がある以上、「日本を忌避することになる国土と歴史に対する理解」をゼロにする必要はありませんが、そういう理解を促したら、せめて外国に誇れる日本のよさも理解させる必要があるわけです。それは、自由主義競争に勝っているという経済の面に限ったことでないのは当然のことです。
 安全な水を飲むことができない国の子どもたちは、日本の自然環境をどう思うでしょうか。
 銃によって家族の命が奪われた子どもたちは、日本のように武器携帯を禁止し、治安がよい国のことをどう思うでしょうか。
 一生かかっても遊びきれないほどの趣味や娯楽があふれている日本を、学校すら満足に通えない国の子どもたいはどう思うのでしょうか。
 人間と同じで、別に全面的に愛する必要はなく、「嫌いなところ」があってもかまわないわけです。
 歴史は解釈が修正されることはあるかもしれませんが、歴史的事実は修正されません。
 「国際貢献」や「国際協調」で日本が果たしてきた歴史的事実は何か。
 政府の果たした役割、個人が果たしてきた役割は何か。
 国際社会に生きる人としての自覚をもたせる教育をするのが、社会科教師の醍醐味です。
 日本の国土も、四季があって自然と親しむこともできますが、地震や火山、津波などによって安全が脅かされることもある。四季の楽しみ方、山や海、川での遊び、地震や火山への対策に尽力してきた人々の苦労や工夫などをよく理解して継承することで、自然と愛情に結びつくことをねらいとするのが社会科です。
 これもあくまで社会科教育の一面ではありますが。
 「競争社会」「弱者救済」「公共の精神」など、社会科教育で扱うべき多くの課題がありますが、道徳教育と重なり合う部分が多い題材というのは、よく問題とされますね。
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社会科教師の逆コンピテンシー その11 歴史と愛情が結びつかない教師

 第11回は、「戦略立案力(④戦略のB調整・統合力)」がテーマです。
 現行の学習指導要領に改訂されたとき、社会科の目標の文言に「愛情」が入ったことに対して、一部の教師たちが強硬に反発しました(改訂は、教育課程審議会の答申における社会科の改善の基本方針に沿って行った仕事であり、突然湧いて出た言葉ではないのですが)。
 小学校では、「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て」ること、中学校では、「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め」ることが目標の一部となっています。
 このように部分だけ取り上げ、視野を狭くすると問題に感じる人も多くなるのでしょうが、国への愛情を育てたり深めたりすることは、それが究極目標ではなく、「公民的資質の基礎を養う」ために指導することの一つのであるわけです。
 「公民」とは、「国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者」となる人間のことです。
 「別に日本国民であることを意識させなくても、国際社会に生きる人間としての基礎は養えるのではないか」という批判も想定できますが、子どもの場合は、「日本の国家公務員はみんな外国人でもかまわないか」という議論をさせると、ようやく「国民」や「国益」、「主権」などという言葉の意味がわかってくるようです。
 「国家」には国民を統治し義務を課す機関であるという捉え方と、国民の生命・安全と財産を守る機関という捉え方があるように、「国民」にも、国家への献身を義務づけられる人々という意味と、国家の主権を担う人々という意味があります。
 社会科教師は、さまざまな教材を通してこの両面をバランスよく子どもに認識させ、単なる「社会」ではなく、「国家・社会」の形成者になる資質の基礎を養ってあげる必要があります。
 しかし問題は、マスコミから流される情報が、商業的な理由もあって「義務(負担)を課せられている国民」「義務を課している国家」「責任をとるべき国家」という面を中心に情報を構成し、「義務を果たす(責任をもつ)べき国民」像を提供しようとしないことにあります。
 社会科教師の中には、そのマスコミの仕事を増幅・強化させるような指導に終始する人もいるので、教育政策ではバランスを保つ意味でも、「義務を果たす(責任をもつ)べき国民」像に重点を置かせようとすることは理解できます。
 ところが、結果としてはそれが逆効果になっており、ますます「反国家」指向の教育を導きやすくなっている。
 たとえばそういう教師が最も力を入れる授業が、戦争の歴史でしょう。
 国家と聞くとなぜかすぐに軍国主義を思い浮かべる教師がいます。
 そういう世代の教師が間もなく現場からいなくなることに一部の人たちは危機感を抱いているようですが、そういうタイプの教師の授業を参観すると、子どもの反応は「またか」「またあの酷いビデオを見せられるのか」などと冷ややかなものです。
 どういう感想を書けば教師が喜ぶかよくわかっているので、教師の「個性」に生徒全体が染まっていく不思議な空間ができあがります。
 「ねらいが理解されていない」点など、危機感はもう少し別のところに持つべきなのですが。
 戦略立案力の欠如は、行政レベルでもそうなのですが、教師としてもよく考えていきたいところです。
 「戦争を忌避する」ことと「平和を愛する」ことはイコールのようで、子どもの感じ方のニュアンスは異なってきますし、それを達成するためのレベルが違いすぎます。
 しかし、「我が国の歴史」に「愛情」という言葉がつながってこない世代の教師にはなかなか指導の改善を促すことが難しい。
 こういう例を挙げるとすぐに「あの教科書を支持しているのか」と言われそうですが、あくまでも「多面的・多角的に考察」するという目標をふまえての考えです。
 中国における日本軍の虐殺行為を取り上げる一方で、ソ連軍による中国東北部などでの「火事場泥棒的」侵略・虐殺行為を取り上げることは、戦争というものの実態をより鮮やかに示す指導なのでしょうが、「戦勝国」の「戦争犯罪」にふれない教師も多い。
 免許更新の試験でこんな時代の歴史観を問う問題などは出題されないでしょうが、もし口頭試問でそんな問題が出されたら、試験官と教員の間でどんなバトルが始まるか目に浮かぶようです。
試験問題】 現行の学習指導要領では、第二次世界大戦を扱うときに、何を理解させることを目標としているか、述べなさい。
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社会科教師の逆コンピテンシー その10 登頂ルートが見つけられない教師

 第10~12回は、「④戦略」の分野になります。
 教育の分野では、「戦略」は「教育方法」に近い概念でしょうか(「教育原理」などもう少し広い面がカバーできる概念のような気もします)。
 この分野では、「生徒に指導のねらいや意図を理解させることができず、目標を自覚して学習させることができない」という教師の逆コンピテンシーが課題です。
 今回のテーマは、「戦略遂行力(④戦略のA実行力)」です。
 たとえば中学生の問題行動に対して指導を行うのに、導くべきゴールへのルートを想定せずに、叱責だけに終始してしまう指導がかつては多く見られたと思います。
 なぜ「かつては」かというと、今の子どもはすぐに逆ギレして、そういう指導は成立しなくなったからです。逆ギレするのは子どもだけではありません。
 「叱り方が気に入らない」という苦情も学校には多く寄せられます(相手が名乗らない場合は、管理職が対応して終わり。対象の教師に話をもっていかないケースも多い)。
 「その子によくなってほしい」という強い意思、熱い思いが「強い指導」で教師から生徒に伝わるという時代は終わりました。
 生活指導では「自己肯定感」「自己効力感」「成功体験による満足感」を味わわせることが重要であると言われますが、問題行動への指導でも、日常の授業における学習指導でも、その実現に向けての戦略的指導が欠かせません。
 改めて、1時間1時間の授業に、「導入」「展開」「まとめ」の次元を設定して、上記の3点セットを実感させてあげる50分にしてあげたいものです。
 生活指導にも、「導入」「展開」「まとめ」があり、それは1時間のお説教でも、1学期間の活動でも、3年間の活動でも、きちんと設定してあげるべきでしょう。
試験問題】 あなたの授業で、子どもに味わわせることができた最高の成功体験とそのときの教材について述べなさい。その体験によって、社会科という教科指導におけるどのような目標が達成されたか、説明しなさい。
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無限の認識力への極意

十牛図ー8 人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)
 十牛図の第八図は、完全な空白になりました。あるのは円だけです。
 牛だけでなく、牧人もいなくなり、その他のすべてが空白になりました。この空白とは何か。
 自分・事物・自然・宇宙などが「空」であること、「ゼロ」であることの認識は、小中学生には難しいことかもしれませんが、次のような言葉で訴えかけるものはあるかもしれません。
 「自分」が存在すれば、その「自分」が見聞する範囲にしか認識が及ばない。しかし、「自分」がまったく忘れられ、なくなったときは、すべての存在に認識が及ぶことになる。
 有名な和歌や俳句の中には、そのような境地をうたったものが多いことに気付かされます。

社会科教師の逆コンピテンシー その9 目標を超えられる教師と目標が理解できない教師

 第9回は、「成果創造力(③成果のC創造力)」がテーマです。
 教師も子どもも「創造」のレベルに達するには相当の土台が必要になります。
 このコンピテンシーは、学習指導要領で示された目標を達成しつつ、その枠にとらわれない新たな課題意識を子どもが持ち、主体的な学習を促す指導力のことです。
 現行の学習指導要領でいうと、地理的分野の学習については、目標を理解できないでいるためか、目標はわかっても指導の方法がわからないために、その内容について批判が出され、新学習指導要領ではまた大きく内容が変わることになりました。
 教師の指導力が目標の実現に追いつけないための改訂です。
 元小学校教師がTVで披露していた批判は専門家たちには笑いモノになっていましたが、多くの人たちは簡単にだまされたでしょう。
 「これでは子どもは外国のことを覚えられない」
 「何を覚えさせたらいいのかわからない。」というレベルの指導力では、現行の改訂にいたった背景すら理解できないでしょう。
 「教科の専門性」という言葉がありますが、小学校は別として、中学校社会科もかなり危ういものがあるのが実態です。
 テストで何かを出題したとき、その出題のねらいを具体的に説明できるかどうかが専門性のレベルを判断する基準になります。「その7」の試験問題が参考になります。
試験問題】 小学校社会科と中学校社会科の目標に共通してみられる文言を挙げ、その目標を実現するために小中で共通して使える教材を一つ紹介しなさい。また、その教材を小学校で扱うときの留意点と、小学校で学んだことを踏まえて指導すべき中学校での重点について述べなさい。
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連休明けの問題行動のパターン

 これは指導困難校(実質は教員の指導力不足校)での話ですが、連休明け後、いつも手を焼いている子どもたちの表情が、若干柔らかいものになっていると感じたことがあり、毎年この時期は子どもの表情をよく観察するようになりました。
 いつも問題行動を繰り返す子どもでも、連休後には、食事をしているときに見られる穏やかな表情と似た雰囲気があるのです。
 しかし、中には連休前より悪化している子どももいます。
 科学的な分析ではないのですが、表情が豊かになった子どもは、連休中に、普段あまり接することができない親の愛情にほんの少しでも接することができたのではないか。
 普段は会えない、離婚して親権を失った方の親に会えたりしているのではないか。
 しかし、連休中ですら人の愛情に触れられず、似たもの同士が群れになって慰め合っていたような子どもは、まわりの表情の変化に耐えられず、またその不満のはけ口を探す・・・・。
 怠そうな子ども、気の抜けたような子ども、動くのもめんどうくさくなっている子ども、生活のリズムが崩れて眠たそうな子どもなどは指導で変えることができますが、愛情不足を指導で補うことは非常に難しい。
 学校では、変に教師に甘えてくる子どもというのは家庭での赤信号を示していると言われるように、ほどよい突き放し方をしないと、自立できない人間を生んでしまいやすい。
 子どもの変化に対応できず、学校を休み出す教師が増える時期でもあります。
 新学期が始まって1ヶ月足らずでやってくる大型連休前後の指導の切り替えというのは、案外重要なツボになっていると思われます。
 学校の組織力、成果統合力は、たとえば年間指導計画で、道徳や特別活動を通してこの時期に何をどう指導することになっているかで評価できるでしょう。
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評価以前の指導の問題

 評定の問題に関する批判記事を読んでいると、新聞記者もそれを批判している人も目標に準拠した評価のことが十分に理解できていないことがわかります。
 問題は、目標に準拠した評価をする以前に、目標そのものが理解されていないことと、その当然の結果として目標に準拠した指導が行われていないことなのですが、新聞記者が仮に教員免許を持っていても、そのことを理解している指導者に批判された経験がなければわからないことでしょう。
 中学校社会科で言えば、「多面的・多角的に考察」というのが教科の目標にあるわけですが、たとえば歴史の授業で、「源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由は何か」を考察させるときに、「防衛上の利点」だけを見て十分満足とするような指導の実態があります。それは軍事面から見た理由であって、「防ぎやすい地形の場所は他にいくらでもあるではないか」という問題に対応する準備ができていない教師もいます。子どもからそのような疑問を引き出すのが教師の仕事であって、これに限らずいかに一面的な社会の見方で授業で展開しているかは「テスト問題が簡単に予想できるかどうか」で容易に判断できます。
 評定に関する根本的な原因はいわゆる新学力観で登場した4つ(国語は5つ)の観点別の評価で、明らかに誤った評価方法が延々と続けられているところに、それらを合成して評定を出すという二重の失敗を重ねていることです。
 入学選抜はその影響をもろに受けているわけです。しかし、入試は評定の出し方が正しいという前提で初めて成立するものなので、学校側から「今までのは間違っていました」ということはできないのです。入試はやり直しがききません評価が正しかったことにしておかないといけない。「成績一覧表調査」などは、中学校側のインチキ防止と、一定の公平性の担保に実施しており、特異な学校が600分の1とか2という数字で見つかりますが全体としてやはり評価が甘いことは、入試得点で容易に想像できます。
 マスコミがこの問題に切り込もうとしたら、学校の評定とたとえば学力調査の間にいかに相関が成り立たないかとか、入試得点と評定との相関が弱いことを分析して証明すればよいのです。
 気をつけなければならないのは、入試問題が問うている学力が、4観点のうちの知識・理解に極端に偏っているということです。学校側は逆にそのことで逃げることもできます。
 ペーパーでは観点別で言うと非常に偏った学力しか見られない分、評定も換算して入試得点に合計するのが一般的ですが、上位校が評定点の割合を低くする傾向は、いかに評定があてにならないものかを物語っているわけです。
 評定の出し方、評価の方法の見直しは、「今までの苦労は何だったんだ」という現場の反発を買いますが、「改善されるなら歓迎する」と後には評価されることになるでしょう。
 今の教師たちが行っている評価は、指導が十分に満足できるものでない分、余計にたいへんなのです。
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子どもが発揮できる「成果統合力」=当事者意識(自治意識)の涵養

 教師たちは、自分たちが学校を担うチームの一員であるという自覚をどれだけもっているのでしょうか。
 学校運営連絡協議会で、いきなりこんな質問をぶつけられたら、どのように答えられるでしょう。
 成果統合力のある教師なら、その問いにいきなり分掌組織や学年経営の話から入らずに、生徒会活動や学級委員指導をたとえにして「自治的・自律的な活動」の実態とその指導のあり方を説明し、保護者がそこにどうかかわるべきかを自覚できるようにもっていくところまでいくでしょう。
 「問い」をもらえば、そこが相手の自覚や自発的行動を促すチャンスであると認識し、時機を逃さず成果統合の場に引き入れられる力が教師のコンピテンシーの一つです。
 教師集団の動きに成果統合力が適用されていれば、間違いなく子どもたちにもその力を身に付けさせたり、そういう志向性を持たせたりするように指導できるはずです。
 生徒会や学級委員会がかざりではなく、本当に自治の主体になっているかどうか。
 その実態から教師集団の力も推し量ることができるでしょう。
 荒れた学校では、学級委員でも自覚を促すよう指導するだけで「なぜ俺だけ言われるんだ」とキレてしまうのでしょうが、学級委員に「朝の学年集会」を企画・運営してもらい、遅刻やエスケープ、飲食・喫煙などの報告や提言を行ってもらった後は、学級委員も問題行動の当事者たちも、ようやくそれが「他人事」ではないことに気付いていくはずです。いつも遅刻してくる生徒たちも、この場で何がどう議論されているのか知らないのは不安なようで、体裁のため?わざと少し遅れて集まった後は、話によく耳を傾けていました。
 女子のミニスカート指導でも、授業中の携帯いじりに対して、「教育の当事者」であろうとしない「優しい」教師たちは、冒頭の問いを直接会議の場で受けたとき、どう答えるつもりなのでしょう。
 子どもたちは「当事者」と「傍観者」を容易に見分け、「傍観者」のいる社会で欲望を満たしていきます。
 「いじめ」の「傍観者」も加害者と同様の扱いを受けるようにようやくなりつつありますが、教育の場全体にはその考え方がまだまだ広がっていかないようです。
 思えば社会にはあふれるほどの「傍観者」がおり、そういう人たちで構成される「居心地」のよい社会に、次々に同様の人間を送り込んでいるのが教育界なのでしょうか。
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社会科教師の逆コンピテンシー その8 傍観者とマスコミ化した教師

 第8回は、「成果統合力(チーム成果志向性)(③成果のB調整・統合力)」がテーマです。
 教員の業績評価に反対する人の中に、「教員の仕事はチームによるもので、個人の能力に左右される部分もあるが、個別に評価することはできない」というものがあります。
 しかし、この批判は明らかに教科指導の評価にはあてはまらないのと、チームの中でも教員以外のゲストが中心になるならまだしも、チーム内の役割は個別にあるわけで、それも評価できないというのはおかしいわけです。
 チームとしての仕事が評価できないなら、子どもの特別活動の評価もできないことになってしまいます。
 このタイプの業績評価に反対する人への説明は簡単なことで、「あなたの個人目標の中に、チームによる成果を極大化するためにあなたがすべきことを入れてください」とお願いすればよいのです。
 生活指導の場面を見れば子どもでもわかるように、明らかな「傍観者」が教師の中にはいます。「嵐が過ぎるのを待て」と後輩にアドバイスする教師もいました。
 授業中に爆竹が鳴って職員室を飛び出したら、現場に立っているのは自分だけで、抜け出していた生徒たちに囲まれるという孤立無援の事態を経験して初めて、傍観者の教師には「チームで動くルールを決めておかないと何もしない」ことに気付かされるのかもしれません。
 前回の「遅刻に甘い教師」のように(あれは学校全体の問題でしたが)、「優しい先生」がチームに混じっていると、正負の数のかけ算のようなもので、他が全部正の数でも1つ負の数が混じれば成果はマイナスになってしまいます。
 「チームによる活動だから個別に評価してはいけない」とは、「自分がチームの足を引っ張っているのが明らかなので、自分だけマイナス評価になるのがいやだ」という意味なのでしょうか。
 「厳しい指導」の原則は、単に「怖い」「どなる」ことなどではなく、指導に一貫性継続性があることで、「譲れないところは絶対に譲らない」という粘り強さがあることです。
 その意味がわからない教師たちは、一部の「怖い」教師に生徒指導を任せきって、自分は常に安全圏にいて、教育に達観した指導者面をしている。そんな現場はないでしょうか。
 さて、教科指導の面では、たとえば社会科の場合、共産党支持者自民党支持者が社会科教師にいる場合(それに限ったことはではありませんが)、極端なことで言えば、指導学年が異なればいっさい会話をしないなどということが公立中学校ではあり得ます。
 教科指導の面で、成果統合力がない逆コンピテンシーの好例です。
 教科会を定期的に設け、指導案検討研究授業を実施しているか。
 年間指導計画を教科会で検討しているか。
 定期考査の問題を互いに検討し、その内容を吟味しているか。
 研究推進校にでもならない限り、それぞれの教師がそれぞれ勝手に「社会科」授業を展開しているのではないでしょうか。
 ひどい話では、「○○先生の言うことは国家よりで、間違っている。市民社会の原則はこうだ」と指導の否定から入る教師もいる。
 昔は、子どもの話を封殺・攻撃し、不登校にさせ、保護者からの苦情に対して逆ギレのプリントを全部の生徒に配付した教師までいました。
 理想や理念を強い情熱で生徒に伝えたい熱意はよく理解できますが、手段を選ばない強引さは「教育」ではなく「闘争」そのものです。
 「教壇では何をどう指導してもよいという権利をもっている」と強く信じている教師がいるのは社会科に限ったことではありませんが、生徒から見て「この社会の先生は社会に出てやっていけるのだろうか」と思われてしまうのが最大の逆コンピテンシーでしょう。
 自治体ごとに、教科の研究会が(発足は組合系だったとしても)あり、情報交換や勉強の機会は保障されていると思いますが、そこでも学ぼうとしない教師。
 社会科教師なら、自分が持つさまざまなネットワークが指導の各所で生かされていくはずです。それが特定の政党や組合活動にしかつながっておらず、「マスコミ化」してしまっている教師は多くないのでしょうか。
 「フィールドワーク」が社会科教師の原点の一つにありますが、同じ学校の他の社会科教師が何をどう考え、どう教えているかを調査することが最も身近なフィールドワークです。
 「授業を見られるだけで、批判されている気になる」という逆コンピテンシーがあれば、早く治療しなければなりません。
試験問題】 学習指導や生徒指導で、あなたが過去に犯した失敗から学べたことで、その後の指導の改善に最も役立っていることは何か、述べなさい。
試験問題】 あなたが実施した研究授業の中で、授業後の研究協議で得た批判から学べたことは何ですか。その批判を今、授業の中で、どのように生かしているか、述べなさい。
試験問題】 同僚の教師の授業を参観して、あなたが学んだことは何ですか。また、そのことを自分の授業でどのように生かしているか、述べなさい。
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「叱らない」で済む指導をする理由

 親野智可等著『「叱らない」しつけ』(PHP研究所)には、著者の小学校教諭時代の苦い経験が公開されています。
 新学期の担任の発表で、他のクラスでは子どもが大喜びし、自分のときは冷たい反応。
 原因は、ご自分のそれまでの指導法にあったと書かれており、「叱らなくて済むシステム」という話に続くのですが、中学校の立場からすると、子どもの前で担任名が発表されるという方法、そして発表後に反応させてしまうシステム自体が大きな間違いです。
 傷つくのは教師だけではなく、子どもたちの心にも傷は残っていくのです。
 思い起こせば、自分の小学校時代もそんなことがあった気がします。
 厳しい先生なのでショックを受けましたが、発表後のクラスメイトの反応にもショックを隠せませんでした。
 中学校では、全体の前で発表があるケースでも、「反応しないように」「それはなぜか」という話から入り、それでも大騒ぎしだす子どもにはさらに指導しなければいけないわけです。
 教師の人気バロメーターが測定できてしまうようなシステムは、言葉がきついですが、いじめを公認しているようなものです。
 高校教師の場合は、初めから叱ったり指導したりするつもりのない教師がいるのが気になります。
 ある都立高校では、遅刻指導の甘さが学校運営連絡協議会で話題になったそうです。(日経の記事「遅刻に甘い学校~信頼裏切るいい加減さ~」より)
 保護者からの問いかけに、
 生徒は、「みんな遅れてくる。先生は優しいから大丈夫
 教師は、「大学へ提出する書類には遅刻の欄がないので心配はいらない
 「学校に来るだけまし」「遅刻指導をして来なくなるのがこわい」ということでしょうか。
 携帯電話の学校持ち込みが、小学校と高校ではOKで、中学校でだけ禁止されているのはおかしい、という声もあります。 
 小中高の生活指導の連携は学習指導の連携以上に難しそうです。
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個性重視はどこで保障されているか?

 今日の日経一面のトップ記事は、マイクロソフトがヤフーの買収を断念したというものでした。
 世界のネット検索はグーグルが一人勝ちの状況ですが、日本ではヤフーが逆にトップなので、マイクロソフトがやろうとしていることの意味が取り違えられているかもしれません。
 企業価値を向上させるためにさまざまな戦略がとられる世界を横目に、「競争が悪」の論理で旧態から抜け出すことが拒否されている学校・教育現場の気楽さ。
 教育の世界では、どの世界との提携が想定されるのでしょうか。
 学習塾との提携は高校を中心にかなり進んでいるようですが、今後はどうでしょう。
 提携には、Win-Winの関係になることが必要ですから、学校側だけ都合のいいことを言っていても成立しません。
 ところで、グーグルが「総合型」であり、「教科型」のヤフーに日本で勝てない理由は何でしょうか。
 日本では、「個性重視」と言いながら、本当の個性が把握し評価されることを拒もうとする心理が子どもにも教師にもあります。
 けっこう多くの人が、検索履歴や購入履歴から、機械が分析した自分の好みの商品の広告が送られてくること=プライバシーに踏み込まれているかのような不安感を抱いてしまうのではないでしょうか。
 教育の受け手が、あまりきめ細かな「能力に応じた教育」を期待しているわけではなく、あくまでも「一律・同一の教育」を求める傾向があれば、提供する側も難しい選択をせまられるわけではなく、同調することが可能です。
 日本の初等・中等教育では、「能力に応じた教育」は、学校単位ではなく、公立とか私立、国立、中高一貫校といった、学校の種類ごとに行われていると認識されているようです。
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社会科教師の逆コンピテンシー その7 指導の「赤字」

 第7~9回は、「③成果」の分野になります。
 この分野では、「生徒が学力の向上を実感できず、学ぶことに充実感がもてない、力がつかない」状況を生んでしまう教師の逆コンピテンシーが課題です。
 今回のテーマは、「成果追求力(③成果のA実行力)」です。逆コンピテンシーは、「成果を問われることに反発する」こと、「子どもの学習成果は問うが、自分の指導の成果は問わない」ことなどです。
 企業の世界では言うまでもなく「成果」がすべてですので、業績にしろ、社会貢献にしろ、「どういう結果が残せたか」が多方面から問われることになります。
 しかし、教育の世界では、「成果」が問われることに対する教師からの反発が非常に大きい。定期考査や入学試験、夏の大会や新人戦などによって必ず「成果」が問われている生徒とは対照的に、量的に測定することが困難な教師の「指導の成果」には、長い間、社会の目も甘かったと言えるでしょう。
 学校内でも、「学校評価」は必ず実施され、どの教育活動がどれだけの成果を収められたのか、残された課題は何かなどを考える仕組みは昔からありましたが、同じ失敗をいつも繰り返していたり、何年経っても成果が出なかったりしたことが放置されていました。
 結局それは、「組織力」の評価であって、個別の教師の問題を浮き彫りにするものではなかったのが最大の原因でしょう。
 それが、学力調査や外部評価、自己申告(業績評価)などによって、否が応でも自分の能力と職務行動に直面せざるを得なくなって、ようやく「子どものできが悪い、勉強をしない」という無責任な見方から、「子どもに身に付けさせたい力を身に付けさせていない、目的に応じた学習をさせていない」自分自身に目が向くようになりました。
 「どうして○組の清掃は毎週毎週こんなにいい加減なのでしょう」「どうしてこのクラスだけ、教室移動が遅いのでしょう」「どうしてこのクラスだけ、忘れ物が多いのでしょう」などという声に、「しっかりやれと指導しているのですが・・・」と答える教師はいませんか?
 それが答えになっていないことに気付かない教師はいませんか?
 学習指導も全く同じです。
 自分の授業が成立しないことを、学級担任のせいにしている教師はいませんか?
 「なかなか実力が上がらなくて・・・」「どうしてこうも今の子どもは勉強が嫌いなのでしょう・・・」
 「成果」に目が向かないと、教師が何のためにいるのかすら自覚できない人をつくってしまうわけです。
 企業での研修でそのことにようやく気づき、「自分がすべきこと」に目が向くようになる教師もいます。
 そういう自覚をもってすら、教育というのは(目標にもよりますが)成果を残しにくいものですので、「成果を給与に反映させるのは反対」という声は、教育の力を過信しすぎている証拠です。本当に成果を出せた教師(チーム、学校)には、成果というより企業で言うところの「赤字」を出してしまった人たちより報われる部分があってもよいでしょう。
 逆に、今まで教師たちは、成果があまりにも出ないことで、自己の防衛機制のために、成果に対する関心から離れていたのかもしれません。
試験問題】 別刷りの冊子は、ある学校の教師が定期考査で出題した問題の一部です。この問題から、教師が生徒に身に付けさせようとした(と考えられる)能力を箇条書きでいくつか挙げなさい。また、この問題の「問題点」について、気が付いたことをいくつか挙げなさい。
試験問題】 あなたのこれまでの教育実践の中で、数字で示せる具体的な成果をいくつか挙げてください。また、数字では表すことのできない成果もいくつか挙げなさい。
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「夏休み(夏期休業日)」の名称変更

 公立学校でも、普通教室へのエアコン完備が進むと、ますます教師による「夏期講習」「夏期補習」の設定が増える可能性があります。
 学習塾にとっては強敵の出現ですが、教師の必然性のない「自宅研修」が厳しくなっている面もあり、「どうせ学校に出ているんなら遅れている子に勉強を見てあげられるのは今しかない」ということで、子どもはどうかわかりませんが家でごろごろされて困っている保護者も喜ぶ活動になります。
 「先生は日頃忙しいのはわかるが、夏休みがあるのがうらやましい」・・・という世間の目もあります。
 研修や部活、プール指導などの仕事ももちろんあるわけですが、夏休みに毎日帰宅が夜中になるということはあり得ません(自宅の電気代の節約のため、学校のクーラーを使って涼しく過ごす人はいるかもしれませんが)。
 土曜授業が復活すれば、学期中の平日にとれない休日をまとめどりする方式も復活せざるを得ず、有給休暇も大量に取得できる「夏休み」は「夏休み」で全然かまわないと思います。
 学校での「夏期講習」「夏期補習」が常態化すれば、当然、土曜授業と同じように、カリキュラムに組み込まれていくことも考えられます。
 「総合的な学習の時間」のまとめ取り方式なども考えられます。
 土曜なしで時間割を組もうとすると、平日の過密化・行事(とその準備)の削減が進み、子どもも教師も負担感が増すばかりでしょう。
 削られた生徒会行事の復活、特別活動とは別枠の「自治の時間」の創設など、「柔軟な教育課程編成」が最も容易な「特色ある学校づくり」になります。
 校内暴力の嵐が吹き荒れた世代の子どもが中学生になってきています。
 新学習指導要領実施によっておこる問題を想定すると、再度「ゆとり」を目指したとき、使える場所は土曜日と長期休業日しかありません。
 そのときに備えて、「長期休業」というネーミングからまず変えておくべきでしょうか。
 学校で授業が行われていないだけなので、「学習が休み」であるわけではありません。教師にとっても「休日」ではありません。
 「ゆとりと探究の夏」「夏の個別指導期間」「オープンサマースクール」「サマータイム学習」「夏期道場」・・・こういうのが平常の教育課程でとれるゆとりがほしいのですが・・・。
 土曜授業は7~8割の保護者の念願です。夏休みの使い方についてはいかがでしょうか。
 塾関係者の危機感は?
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ヤフーVSグーグル=私立大VS国立大?

 EストアーというECショップ支援の企業が公開している検索エンジン利用者別属性調査の結果、普段よく利用する検索エンジンがグーグルの人とヤフーの人を比べると、私立大学出身の人はどちらも40%程度で変わらないのですが、大学に行っていない人の割合は、グーグルで4割、ヤフーで5割であったそうです。国立大学出身者はグーグルが2割、ヤフーが1割
 有意の差であるかどうかわかりませんが、入学試験のあり方を見てみても、教科型のヤフーと総合型のグーグルの違いはここにも見られるということでしょうか。
 総合的な学習の完全実施以後の大学生が今後増えていきますから、この差が開くようだと・・・・。
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教育の世界のグーグル(総合型)VSヤフー(教科型)とマイクロソフト(学習塾)

 竹内一正著「グーグルが日本を破壊する」(PHP新書)で、検索連動型の広告によって経営を成り立たせているグーグルの現状と課題を知ることができました。
 この本の中で、世界全体の検索シェアで60%を占めているグーグル(ヤフーは14%)が、日本で勝てないのかを扱っている部分がありました。
 そこで私は教育の世界と同じことだと直観して、ヤフー=教科型グーグル=総合型であり、「総合的な学習」が日本で伸びていかなかった原因と、ウェブのスタートページにグーグルが設定されない原因は同じであると考えました。
 事業化の目標は、ヤフーがウェブサイトの階層型ガイドブック(買い物→スポーツ→野球→ボールのように絞り込まれていく)づくりだったのに対し、グーグルはウェブとウェブを結ぶ被リンク数にもとづく検索エンジンづくりでした。
 教育の世界では、学ぶべき対象が限定され、「テストには何がでるか」がわかっている教科が「つまらなくても学びやすいもの」であり、総合のように、正解はなく、「おもしろいかもしれないが学びにくいもの」は特に守備範囲が広くなる教師には扱いにくいものになりました。
 学習指導要領に示される教育の方針は個性尊重から生きる力の定着にシフトされましたが、すべての生徒に学力を定着させるためには、やはり個々の生徒のもっている能力・興味や関心などに対応した指導が必要なわけです。
 20~30年後の教育は、たとえば算数や数学の学習なら、個々の生徒が身近に感じやすい題材が個別に活用されたり、社会科の学習なら、各生徒の好きな人物と時空の旅をしたり現実社会を生きたりするシミュレーションソフトが活用されているかもしれません。
 グーグルも個人が複数の語句で検索してくれないとその人の趣味が把握できないように、教育でも個々の生徒の特性をもっと生かせる学び方が工夫されてよいはずです。
 しかし、入学金(パソコン本体)をとり、教材(OSやプレインストールソフト)を買わせてかつ講習(アプリソフト)でも多額の授業料をとる、学習塾(=マイクロソフト)のようなビジネスモデルが一番儲かるし、消費者も利益を得やすい時代はしばらく続くのでしょう・・・。
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教師の自信と「オーラ」の源泉

 教師の自信とは何でしょう。
 教師は自信を持っていないとすぐに生徒に見破られ、存在意義を認めてもらえなくなります。
 生徒指導や部活動の指導には自信はなくても、教科の指導にだけは自信をもっていてもらいたいものです。
 教師のブログを見ると、失敗談を語っているにしてもそこには教育への自信があふれていたり、見え隠れしているのが普通でしょう。
 しかし、教師にとっての本当の自信とは、どんなに失敗したり、授業がうまくいかなかったり、指導が通らなかったりしても、決して生徒のせいにするのではなく、自分の能力不足であることをしっかり自覚し、くじけず、真摯に教育に正対し続けられることへの自信でなければなりません。
 私はリーダーを担っていたり、リーダーを目指したりしている子どもにハッパをかけるとき、よく「オーラが足りない」と言います。
 教師には七色のオーラが必要ですが、せめて学級委員には、クラスをまとめて盛り上げる赤のオーラと、けじめをつけ集中すべきときは集中させる青のオーラが必要です。
 教育実習生には、「教材」という最強の武器によって生徒を攻撃したり、「話術としぐさ」という防具によって生徒を包んだりできるように指導します。
 教師という職業の場合は、最強のオーラの部分が実は最大の弱点になっていたりして、常に勝者ではあり得ません。子どもを勝者にするために、何かを犠牲にするのです。
 まれに現場を離れて評論家になってしまったり大学の先生になる人がいますよね。そういう犠牲者になると、どんなオーラが最も失われるか、本人たちはよくわかっているでしょう。オーラの源泉は教育をすべき子どもたちにあるのであって、紙やパソコンの画面にある文字はあくまでも触媒としてとらえておいてほしいと思います。~GAKUさんへ~
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社会科教師の逆コンピテンシー その6 学習への意欲を高める「しかけ」

 第6回のテーマは、「対人変革力(②対人のC創造力)」です。
 「対人変革力」不足は社会科の授業という観点から言えば、戦略力などの貧困が原因なのでしょうが、学習に対する意欲を高めることができない教師、学力を向上させたいという願いが生徒に伝わらない教師は、かなり高い割合を占めていると思います。
 単純に、「テストで高い点をとらせたい」という気持ちは伝えることができても(脅しという方法も含めて)、具体的にこういう力を今、身に付けてほしい、こういう力を今、発揮してほしいという願いが伝えにくい原因は、社会科という教科の特性にあるのかもしれません。このことについては、多くの側面からの分析が必要です。
 そもそも人の意識を変えさせることは、容易ではありません。
 社団法人公共広告機構が、公共のマナー環境問題などをテーマに視聴者に語りかけるCMを提供していますが、その効果のほどというのはどれだけでしょう。
 広告会社は、人の意識を変えさせ、購買意欲を高める広告をつくるのが仕事なのでしょうが、そこには数多くの「騙し」のテクニックがあることはよく知られています。
 手段を選ばずに、さまざまな「しかけ」を用いて、人の意識改革を目指す。企業でも、たいへんな苦労をしているようです。
 教育行政も、教師の意識改革を目指して、次々に施策を打って出ていますが、もらっているのは「反感」ばかり。方法が方法だからでしょうが。
 横道にそれますが、日本のテレビCMは、「一段落CM」よりも、「ヤマ場CM」の方が多いのだそうです(日本は40%、アメリカは14%、イギリスは6%、フランスはゼロ・・・竹内一正著「グーグルが日本を破壊する」PHP新書より)。
 ドラマやクイズ番組でも、大事な場面でCMが入り、見ている方は非常にイライラします。
 ただ、日本人は「弱気の遺伝子」が強いらしく、そういうCMを流す会社の商品を買わないとか、テレビ局に苦情の電話を入れるとか、リモコンを投げつけるとか、そういう行動はあまりおこさない。だまってCMが終わるのを待っている。そういう側面もあるのですね。
 社会科で身に付けさせようとしている知識・技能は、世の中にあふれている膨大な情報・ルールの中のごく一部です。しかし、それを知りたい、集めたい、解決したいと思わせるきっかけになるしかけは、教科書の中には十分にありません。
 たとえば、「フランスでは見られないヤマ場CMが日本で多い理由は何か?」という問いは、教師が問うわけではなく、聞き手が勝手にそういう疑問をもつように「しかける」のが社会科の授業です。
試験問題】 社会科という教科を好きにさせるために、あなたが指導できる、とっておきの教材とは何ですか。また、その教材が多くの生徒を魅了した理由は何でしょうか。
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現場と行政の間の溝

 「行政は現場を知らない」という趣旨の記事をよく見かけますし、私もそういう趣旨のコメントをしたことがありますが、それは教師の実態の一面であって、別の面では現場の教師たちよりもはるかによくわかっている部分もあります。
 たとえばそれは、具体的な教師の問題行動犯罪の調書の概要とその処分内容、学校に寄せられるさまざまな苦情、管理職が行う教員の評価、学校では主に管理職や教務主任などが処理してしまうさまざまな調査の結果や分析などです。
 一方、行政には、たとえば教育現場の教師の「多忙感」というのは実感がわかないでしょう。
 企業や役所では、昼は必ず休憩時間が確保できて、職場を離れることが可能ですが、学校ではそうはいきません。では、休憩ができないかというと、中学校では空き時間が多い教科の教師を見ていればわかるように、よく職員室でお茶したりおしゃべりしている人もいます。
 職員室に残っている人数が多くなると、教員の立場からよく言えば「情報交換の時間」、しかしこれがもし役所でそういう実態があれば、すぐに「税金泥棒」と非難されることになります。
 「忙しい」が口癖の人はたいてい仕事ができなくて、仕事も集まらない。多忙感も忘れるほど多忙な人は、「忙しい」と口に出すことはなく、そして有能なら次々に仕事が集まってくる。
 別に有能なわけでもないのに、国の仕事、都の仕事、区の仕事、教材会社の仕事、教科書会社の仕事、NPOの仕事を兼ねながら、教務や進路、学年主任、学級担任、部活動の顧問、中体連の専門委員の仕事をしていたときは、今から考えれば忙しかったのかもしれませんが、さすがに出張が連続するようになったときは、「このまま現場にいていいのか」と疑問に思いました。「出張で忙しい」のは、現場の教師からはありがたがられるものではありません。
 行政に入ると、勤務の時間は変わらず、実質的に仕事量は3分の1以下になりましたが、使う神経は3倍以上になりました。
 「多忙状況」は簡単に「仕事量」÷「勤務時間」では求められないので、行政からは把握のしようがありません。
 学力の状況についても、学力調査で国語・算数・数学についてはある程度わかったとしても、その他の教科、道徳、総合などについてはどうでしょう。やるとしたら、指導要録の徹底分析でしょうが、この指導要録自体、今ほとんど存在価値が認められていません。
 上級校には抄本がいきますが、これを熟読する人はいないでしょう。
 観点別学習状況の評価を含め、指導要録の改訂には、困難を極めることが予想されます。
 行政と現場の溝を埋めるために、双方でなすべきことは多いのですが、それを深める努力をしている人が一部にいることは残念です。
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教科書の革新が学力向上への切り札か

 教育費の内訳を、公立中と私立中で比較すると見えてくるものがあります。
 公立は年平均で47万円、私立は127万円
 学習塾代は、公立が18万円で私立は12万円
 教育費に占める学習塾代の割合は、公立では37%、私立では9%
 公立では、教育費の3分の1以上が学校外の学習のための費用となっているわけです。
 この学習は補習、受験対策など、目的はさまざまなでしょうが、学習塾に通っていない子どもも多いことを考えると、通わせている家庭の出費はかなり大きいものであることが考えられます。
 学習塾の費用対効果の分析結果というのがあるのかどうか、わかりませんが、それなりに効果があるものであるとすると、学力格差が生まれる原因(格差が縮小する原因でもあるわけですが・・・)の一つに、学習塾での学習というのがあるわけです。
 「学力格差」を問題視する人でも、「学習塾を廃止せよ」と主張する人はごくわずかでしょうが、学習塾自体が少ない自治体で、学校にその機能をもたせようとする発想が生まれることは不思議ではありません。
 学力は、学校での教師の指導力で身に付いているのか、子どもが塾で身に付けたのか、通信添削のテキストやテストで身に付けたのかは、実際のところわかりません。
 私立の子どもでも、公立の子どもの3分の2は学習塾代として支出しているわけなので、同様のことが言えます。
 学習指導要領(そこで示されている授業時数)に基づいて学習時間がどうこうという議論がありますが、ここには学習塾等でのカリキュラム、学校や学習塾の宿題にかける時間量なども含めて考える必要があります。
 文科省の学力調査でもかなりつっこんだ質問もありますが、塾関係・教科別の質問項目は「文科省は塾での学習を勧めているようだ」と捉えられかねないので、実際には出せません。
 「量より質」といいますが、単なる量でも実態調査は難しいものです。 
 いずれにせよ、「主たる教材」として無償で配付される教科書が、現在のレベルのものではなく、学習塾の優れた教材の分析も行って、「塾でも使えるテキスト」になれば、学力向上の近道になると私は考えています。
 教科書は持ち運びが「重くなる」ことを理由にページ数も限定されていますが、家用と学校用の二冊を配付するのがポイントです。
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社会科教師の逆コンピテンシー その5 発問のねらい

 第5回のテーマは、「対人指導力対人サポート力)(②対人のB調整・統合力)」です。
 「対人関係力」不足の教師に「対人指導力」は期待できません。
 いきなり余談で申し訳ありませんが、近隣の女子校の生徒のスカート丈が短くなってきていることに注目しています。
 女子の服装指導・・・多くの学校の悩みでしょう。
 近隣の女子校の場合、指導の放棄が始まった現れです。
 指導の中心となっていた教師が異動したか退職したか、事情はよくわかりません。ときに指導が生徒本人や保護者の反感を招き、苦情でつぶされる教師もいますから、「強い指導」を安全のために避けたがる気持ちはわかりますが、現状はとても惨憺たるものになっています。
 服装指導が甘くなっている現状について、最も喜んでいるのは誰でしょうか?
 このブログをちょくちょくご覧になっていただいている方には、簡単に予想できる問題ですね。
 服装指導など、だれも好きこのんでやりたがる類のものではありません。
 生徒に嫌われるのを避けるため、「生徒指導部ではないから」などという理由で、担任であっても指導できない教師がいます。こういう教師は、「指導できない」と見られるプレッシャーをいつも持っていますから、指導しない教師がまわりに増えれば増えるほど、気が楽になって生き生きし始めます。
 子どもも教師も生き生きする、「いい学校」の女子たちが、みんな自主的に晒し者になっていくわけです。
 スカート丈と相関がとれる学校情報・生徒情報とは何でしょうか。文化人類学者にでも分析してもらいたいものです。
 さて、授業では、教師の発問の意図が非常に不明確であり、それが原因で生徒が発言できないでいるケースをよく目にします。
 こういうとき、教師は発問に手を加えることで、発言を促すようにするのですが、それがますます混乱を招く場合も多い。何に答えたらよいのか、子どもがどんどんわからなくなってくる。
 過去にも述べましたが、私はこれを「北風発問」と呼んでおり、反対にどんどん答えや新しい問いを生む「太陽発問」力を磨くことを心がけているわけです。
 発問し、生徒が答えたらそれで終わり、ではなく、発言内容を要約したり、要旨を確認したり、そこから新たな問題を促すコメントを入れたりと、対話になっていく形が「太陽発問」になる一つの条件です。理解を促し、理解を深めるだけでなく、わからない部分というのがあることをわからせる。それが発問のねらいです。
 教師の逆コンピテンシーとして、時間内に単元の指導を終わらせるために、生徒の理解度をいっさい確認せずに、一方的に授業を進める人がいます。
 自分は「ああ、時間内に終わった」と満足しているのですが、子どもたちが消化不良のまま、おいていかれている。しかし、教師が満足そうなので、それでいいのだと勘違いし、学力がつかないことが常態化する・・・・。これもよくあるケースでしょう。
 指導力ではなくて、「時間内に終わらせる」発表力でしかありません。
試験問題】 生徒が意味を取り違えることのない明確な発問をするために、あなたが心がけていることは何ですか。その発問が明確であると言える根拠もあわせて述べなさい。
試験問題】 あなたの隣のクラスの担任は、服装や生活態度の指導をほとんどしません。そのため、あなたのクラスの生徒が、さまざまな不満をぶつけてくるようになってきました。「どうしてうちのクラスだけ厳しいの?」こういう声に対して、あなたならどのような指導を展開しますか。
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社会科教師の逆コンピテンシー その4 教師の視線

 第4回は、「②対人」の分野になります。
 ②対人(子どもや保護者、他の教師に向き合う教師)の分野は、「○○先生はあまり発言をさせてくれない、あまり褒めたり適切な助言をしてくれたりしない、自分の考えを発表しにくい」と生徒が感じてしまう逆コンピテンシーです。
 今回のテーマは、「対人関係力関係構築力)(②対人のA実行力)」です。この力が不足しているかどうかは、授業中の教師の視線を分析すればよくわかります。
 黒板と教科書や資料を往復してばかりで、生徒観察ができない。限られた数の発言者にしか目が向いていない。こういう教師は少なくありません。
 目が向いていないということは心が向いていないわけで、指導中に生徒からもれる声を拾うこともできず、発表に対して満足のいくコメントも出せない。
 子どもにとっては目の前で繰り広げられていることが、テレビの中のことと同じに見えてくる。
 だから、順番に答えさせるような指導をし出すと、迷惑がる。
 「自分たちは視聴者であって、役者ではないはずだ・・・」「内職のじゃまをするな・・・」
 こういう教師が多い学校では、生徒同士の関係も同じようなものになっていきます。
 さすがに小学校ではごく少数でしょうが、一日6時間も「関係構築力」の不足している状況に置かれれば、「社会性」が育まれる可能性はどんどん小さくなっていくでしょう。
 昔は、「社会性」がほとんどないのに、「社会科」の成績だけはよい、という子どもがいたかもしれません。
 社会科の目標がいかに指導者の側に認識されていないかが象徴的に見られる事例です。
 【試験問題】 あなたが学級経営の中で、「共感的な人間関係を築く」という目標を掲げた場合、それを実現するためにあなた自身が心がけようと思うことは何ですか。また、その心がけがなぜ生徒たちの共感的な人間関係を築くことに結びつくのですか。述べなさい。
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教育実習生を評価する想定レベル

 教師を志望されているGAKUさんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。
 

教育実習の際では「学習発表会」と言う名の研究授業を多く見ました。疑問を感じていたのですが、多くの先生方は絶賛及び、お疲れ様ですと言う感じでした。

 教職希望の方や、自信のない現場の教師が読むブログとしては適切ではないかもしれませんが、免許更新などでは実現しきれないレベルアップを現場(=子どもが主体)の意地で達成してほしいという願いをこめて書いています。
 さて、多くの教師の授業が、生徒の学習発表と大差ないレベルにあることは今まで何度かふれてきました。
 まだ生徒よりましな発表なら問題はないのですが、教育実習だと「教えてわからせる」という要素を入れようとする分、より「わかりにくくなる」ケースが多くなります。
 指導者の「評価」の基準も非常にさまざまで、1歳児のボール投げを褒めるレベル、小学生低学年のキャッチボールを褒めるレベル、中学生のコントロールを褒めるレベル、高校生の球威を褒めるレベル、大学生のピッチングの組み立てを褒めるレベル、イチローを抑えたピッチャーを褒めるレベルと、対象にかける期待と連動して変わってくるわけです。
 教育実習なら、どのレベルでしょうか。
 口では褒め、評価はCというのもざらにあるでしょう。
 指導者=評価者の力量にも大きく左右されます。
 たとえば普通の公立で教育実習を実施する場合、私なら、まず大学の指導教官が現場に出向き、指導にあたる教師の授業力を評価した上で大学生を預け、3週間後には、何をどのように指導されたか、学生の何がどう成長したか(指導教官の指導力)をチェックすべきだと考えています。
 ペーパー免許のためのイベントの一種と考えている実習生には、ボールが届くだけでも十分評価してあげていいかもしれませんが、授業を受けた生徒がその時間内に学び損ねたものを認識して去っていってもらう必要があるので、結果としては厳しい自己評価となる指導となります。
 以前に紹介したかもしれませんが、以下に示す8項目は、私が指導助言したことがある教師の指導案を学生に読んでもらい、課題としてあげてもらったものですが、自分がこの課題を克服して授業づくりをする側になると、結局うまくいかなかった、となるケースが多くあります。
1 主題やねらい、目標があいまいである。
2 導入・展開・まとめがうまくつながっていない。
3 「考えを深める」ための資料(教材)がない。
4 「関心を高める」ための資料(教材)がない。
5 教師が一方的に説明する内容の量が多い。
6 発問が少ない。
7 生徒に作業させる時間の配分が少ない。
8 評価内容が指導内容と一致していない。
 この8項目を満たす指導案づくりというのはけっこう難しいものです。
 ある実習生が、「社会科は、先生が話したことと板書したことを暗記する教科だと思っていた」が、「子どもが自ら課題意識をもって考えることのない授業は、学習とはいえないことがわかった」という趣旨の感想を残してくれました。
 逆コンピテンシーの明確化、具体的な把握が、こういう自覚を生み、成長は、ここから始まるわけです。 
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社会科教師の逆コンピテンシー その3 研究授業

 第3回は、「自己変革力(①自己のC創造力)」不足による問題です。
 ごくまれに、優れた教師に教育を受けたおかげで、初任者として教壇に立ってすぐに優れた授業ができる人もいるでしょうが、多くの教師は経験を重ねるとともに成長していきます(成長していくはずです)。
 ただ、校務には慣れていっても、「新採のころの方が指導案を書いていただけ、まだましだった」・・・などという教師がいます。そもそも免許更新制の導入は、こういう教師をなくすことが主眼であると映ることでしょう。
 中学校の場合は、過去に自分が実施した研究授業の回数を経験年数で割り算したとき、1に満たない教師が多いことでしょう。
 その研究授業というのも、実質「お疲れ様でした」という感想しかでない「持ち回りの不幸の時間」であっては何の意味もありません。
 「研修のための研修」「研究のための研究」ではなく、「子どものために指導力を向上させる研修・研究」であるべきことは言うまでもありません。
 半端な自信をもっていて、研究授業に臨もうとしない社会科教師の多くは、生徒ではなく教師(自分自身)の「学習発表会」をし、生徒を聞き役にしているだけです。
 どういう課題をもっているにせよ、それを克服しようとしない姿勢が忌むべき逆コンピテンシーです。
 また、「自己変革力」は教師だけでなく、子どもにも求めていくべきコンピテンシーでしょう。その力を促すための「魔法の言葉」を駆使できるのが理想の教師像として想定できます。
試験問題】 あなたが教師をしていて、「この言葉かけが生徒を変えた!」と自信をもって言えるものをいくつか挙げ、その言葉によってどのように生徒が変わったのか、またそれはなぜか、述べなさい。
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戦慄の「大人かわいい」と本物の主役

 「かわいい」はまだ流行語としての命を持ち続けているのでしょうか。
 身近ではそういう会話を耳にすることがほとんどないのでわからないのですが、「ムカツク」「KY」「キモイ」などのマイナス感情を示す言葉を連呼するよりは、プラスイメージの言葉を繰り返していた方が精神衛生上もよいのではないかと考えていました。
 しかし、「大人かわいい」といって、40代の女性がピンクのミニスカートをはいて「かわいく」している姿がテレビで特集されているのを見て、「こんなさらしもの扱いはあっていいのか?」と驚きました。
 インタビュアーのつっこみも意に介さず、あきれ顔のコメンテーターは営業妨害にならないように口をつぐみ、挙げ句の果ては家族総出演で・・・。
 女性の勇気は賞賛すべきもので、まさに「個性尊重」の時代にふさわしいことなのでしょうが、細部にこだわるおしゃれ心ではなく、そこまで大胆に服を着られると、実は主役は人間ではなくて、ピンクの洋服なのではないかと思い至りました。
 女子中学生にとって、アクセサリー、キーホルダーなどのファンシーグッズ、髪型、ミニスカートなどは破壊力の強い生活指導上の強敵です。
 ピンクの髪どめのゴムなど、細部から浸食されていく子どもの姿を見て、そこには実は「人間」が存在しているわけではなく、自分の目に見える「かわいい」グッズが主役であり、「人」ではなく「モノ」を褒められて満足するレベルの人格というものがよく理解できました。
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社会科教師の逆コンピテンシー その2 導入・展開・まとめ

 第2回は、「自己展開力(①自己のB調整・統合力)」不足による問題です。
 一見すると、社会科教師には「自己展開力」が抜群だと評価されてしまう人がいます。
 よく「独演会」と批判される教師主導の授業をする人です。
 教師主導でも、それが子どもの学習を導いているなら問題はないのですが、流しっぱなしのテレビをみるように子どもが授業に臨んでいるタイプの授業はいただけません。
 子どもに「自己展開力」を身に付けさせることが教師の仕事であり、教師の話芸を見せつけるだけで終わってしまっては、必ず学習に主体的に臨むことができない子どもを生んでしまいます。
 50分の時間中、笑いが絶えない授業がときにはあってもよいのでしょうが、子どもを「お客さん」のように扱って満足させて終わりでは、教科の目標は達成できないでしょう。
 授業での指導過程には「展開」という中核部分がありますが、その前に位置づく「導入」の使い方、そして授業の最後の「まとめ」の使い方の巧妙さが、50分の授業を実のあるものにするコツであると言われています。
 (このコンピテンシーは、「戦略遂行力」とも関連があります。)
試験問題】 ○○の単元を扱うとき、次のいくつかの資料のうち、導入・展開・まとめで活用すると効果的なものを2つずつ選び、その根拠と具体的な活用法を述べなさい。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より