個人・社会観のコペルニクス的転換
齋藤孝・梅田望夫「私塾のすすめ」(ちくま新書)を読んで、自分の好きな仕事に打ち込める著者たちは本当にうらやましく思います。
そして、目の前に「何とかしたい人間」「このままでは許せない人間」(齋藤孝の場合は大学生など)がいつもいるというのも本当に恵まれた環境です。
しかし、近年は、このような「打ち込んでいる人間」がうざったく、はた迷惑だと感じてかつそれを表に出すタイプの子どもが増えてきたように思います。(だから齋藤孝が別の作品ですがキレモードの本を出すようになったのか?)
「俺は俺の楽しみを追求したいのだし、人間にはその権利があるのだから、他人からとやかく言われる筋合いはない」という態度です。
「人に迷惑をかけないなら何をしてもいいでしょう。学校に違反物を持ち込んで何が悪いの」と主張する生徒の「人」には、先生や本当の意味での自分が含まれていないのです。
私は今まで、個人(自分、心)が世界の中心にあり、その周囲を世界(社会)が取り巻いているイメージを当然のように抱いていましたが、この方法だと「内に閉じこもる」「ひきこもる」ということが可能になってしまうので、あえて個人と社会のイメージは、社会が中心にあって個人が社会を包み込むイメージをもつべきだと考えるようになりました。
誤解のないように付け加えると、「滅私奉公」を唱えているわけではありません。個人は小さいものではなく、無限の広がりをもつというものです。
図でこれを示すと、今までのイメージだと個人が真ん中にちっちゃく、社会が大きく、という現実の物理的なスケールに合ったかたちになりますが、逆にすると、社会は小さく、個人は大きくなり、実はこれは現実の「自己」の精神的な面のスケールのイメージに近いのではないでしょうか。
「個人」の肥大化が、社会から遠ざかっていくイメージというのが、ぴったり示せます。
「社会」が「個人」の可能性を閉じこめているようなイメージがなくなります。
種としての、個体のしての「ヒト」ではなく、漢字で示せる「人」、「人間」としての本質は、「社会の中にある」というより、「社会が中にある」イメージで捉え、そういう社会観、世界観を育てていくことが必要だということです。
私の中では大げさですがコペルニクス的な転換です。
この意味でいうと、「ひきこもり」という言い方はできなくなり、「縄跳びの輪に入れない」イメージに転換します。
「いじめ」は、自分の中心を傷つける行為になります。
「滅私奉公」という考え方がなくなります。自分の中心に向かって生きていくわけだし、自分の枠は外側にしっかりあるわけですから。
「公共の精神」「愛国心」「自由」の捉え方、概念も変わっていくでしょう。
「公」=「お上」という発想はなくなり、健全なシティズンシップが構築できるのではないでしょうか。
また時を改めて考えたいと思います。
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