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2008年4月

社会科教師の逆コンピテンシー その1 授業への不安

 ①自己(教師自身)の分野は、「○○先生と学ぶ社会科は、楽しくないし、充実しているとは言えない」と生徒が感じてしまう逆コンピテンシーです。
 今回はそのうち、「自己統制力(①自己・A実行力)」不足による問題です。
 「生徒に対して威圧的である」と言われる私などはこれにあてはまる素質が強いのですが、具体的には、教師の立ち振る舞い、言葉遣いなどのせいで、生徒が安心感をもってのぞめない授業が展開されていることです。
 「安心感」は「信頼感」という言葉で置き換えてもいいかもしれません。
 他の逆コンピテンシーと複合的に表れるこの問題は、戦略でカバーできる可能性もありますが、生徒に苦痛を与えていることを考えれば、すぐにでも改善したいことです。
 社会科の場合、ありがちなのは、「この先生は右と左、どちらに偏っているのか?」ということに生徒が関心を持ち、場合によっては、それに合わせた論理を展開していかないと、成績に差し障るケースがある。
 このような偏りは見えやすいので生徒も対処の方法がありますが、難しいのは、「自信がない」ことが見えてしまう教師の場合、子どもがどこまで思いやりの目で見られるか、ということです。
 あまり誤字や脱字が板書で多かったり、難読地名や人名などが読めなかったりすると、その専門性が疑われ、たちまち信頼を失ってしまいます。
 ただ、この逆コンピテンシーには「逆の意味のよい効果」・・・「(間違ったことを教えられている可能性があるので)教科書や参考書をきちんと読んでおかなければいけない」という学習への自覚を高める効果もありそうです。
 【試験問題】 できる生徒はよりできるようになるのはよいにしても、できない生徒はできないまま、という結果にならないようにするには、どうしたらよいのでしょうか。
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社会科教師の逆コンピテンシー特集 ~免許更新講習修了認定の試験対策~

 教員免許状更新講習の内容として、現在のところ、次の2つが示されています。
 ①教育の最新事情に関する事項・・・「教職についての省察」「子どもの変化についての理解」「教育政策の動向についての理解」「学校の内外での連携協力についての理解」で12時間以上。
 ②教科指導、生徒指導その他教育内容の充実に関する事項・・・各教科の指導法やその背景となる専門的内容、生徒指導など、幼児・児童・生徒に対する指導に係る各論的な内容で18時間以上。
 関心のある先生方が知りたいのは、「試験はどんな問題が出るのか?」ということです。
 開設者が作成して実施し、「文部科学大臣が告示する到達目標に掲げる内容について最低限の理解が得られていると認められる場合」に、講習の修了認定がおりることになっています。
 そもそもこの制度は、不適格教員の排除を目的とするようなイメージが強かったのですが、現在では、「最新の知識技能を身に付けることで、教員が自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ることを目指すもの」ということになりました。
 この目的は何を語っているかというと、教師の中に、「自信や誇りを持たずに(持てずに)教壇に立っている者がいる」「社会の尊敬と信頼が得られていない者がいる」ことに他ならないわけですが、文部科学省はそうは言えません。
 しかし、文科省が示す「最低限」程度の知識・技能があれば、社会の尊敬と信頼が得られるのか?・・・と単純に思ってしまいますね。
 講習を受けることによって、ますます自信や誇りをなくす教員が増えないことを祈るばかりです。
 これから連続して、教師が自信をなくす可能性が高い「逆コンピテンシー」特集を組もうと思います。
 想定は社会科教師ですが、モデルとしてある程度の汎用性はあると思います。
 逆コンピテンシーを解消し、理想に近づける方策は何なのか・・・・これが私が想定する試験問題です。
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移行期間に完了すべき改革とは?

 裁判官の見る企業への目が参考になりました。(日経ビジネス「有訓無訓」)
 裁判官の判断というものは、確定した過去の事実や判例などを前提とした静止的なもの。
 これに対し、企業の経営判断というものは、将来の事態を予測して計画などを立てるものであって、絶えず修正可能な極めて動態的なものであると言います。
 しかし、実際の裁判事例では、企業の静止的な経営判断にふれる機会がとても多い。
 これは、たとえば名物経営者が敷いた路線を否定できず、踏襲しがちである体質がうかがわれます。
 特定の事業の判断は、何年たったら見直すべきか。また、何年で全面的な見直しをするか。
 企業の場合は、これを2~5年という短いスパンで繰り返さなければならないのかもしれません。
 教育はどうか。
 学習指導要領は、10年が基本的な見直しのスパンになっています。
 しかし、スパンが長い上に、「新しい学力観」の呪縛が残り、さらに「生きる力」路線は継続する。
 文部科学省には、「わかりやすく刷新できるもの」がない。
 10年に一度の改訂なのに、学力の国際比較データなど、いかにも目先のことにふりまわされていることや、後手後手にまわる問題解決の姿勢がありありと見える。
 教育には、不断の問答が欠かせません。
 観点別学習状況の評価から評定へという課題の多い総括方法。
 土曜授業。
 学校規模や実態を考慮に入れない諸政策。
 ・・・・観点別学習状況の評価の「思考・判断」「資料活用の技能・表現」と、新学習指導要領がいう「活用」の違いは?
 土曜日の補習授業が増えているのはなぜか。
 なぜ保護者は土曜授業の復活を希望しているのか。
 土曜日の使い方は理念通りに実施できているのか。
 教員が週5日勤務するとき、休業を土・日だけにこだわるのはなぜか。
 実態として規制緩和状態にある国立・私立の教育をなぜ保護者は求めたがるのか。
 教務主任・生活指導主任・進路指導主任が主幹として上司になっても、実態としてその「上役」がいる場合はどうするのか。
 こういうものにすでに答えを出している学校に、何を学べるか。
 移行期間に完了してほしいものです。
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次の次の教育政策

 今まで10年先を見通して物事を考えるくせをつけていたつもりでしたが、たとえば「教員免許更新制」「観点別学習状況の評価の見直し」「土曜授業」「教師の逆コンピテンシー分析」など、自分が考えていたことがもうすぐそこまでせまっているようなので、「その次」を考え始めることにしました。
 最大の課題は「教科の再編」「管理職や指導主事のあり方」ということになりますが、それを創造する前に、過去や現在のさまざまな失敗状況を見直しておかなければなりません。
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学校における「会社ごっこ」の限界

 行政が指導する公立学校での「会社ごっこ」に盲点があることは、すでに何度か指摘しました。
 現場を知らない人間は学校を一つの単位として見てしまいますが、小学校なら学級数だけ、中学校なら学年の数だけ違う「学校」があります。
 小学校は学級担任が校長であり、中学校では学年主任が校長である。
 管理職はPTAと役人の接待係である。
 ・・・子どもの目、経験の浅い教師の目から見ると、「学校」とはそういうものです。
 子ども1人で年間100万円かけられている教育費のうち、教師の給料に85万円かかっていることからも、管理職の権限がいかに小さなものかがわかります。
 仮に管理職が学校に全く姿を見せないという状況を想定してみても、授業者さえいれば、学校はいくらでも動いていけるわけです。教師がさぼりはじめて、無断欠勤や遅刻が頻発する事態にでもならない限り、事務職で代用できてしまう仕事は何%くらいあるのか。
 教育委員会から校長・副校長に渡される文書を、処分に関する個人情報を除いてすべてオンラインで公開し、一度管理職が担っているものを丸裸にしてみれば、最後に残るその存在意義とは何になるのでしょう。
 もし行政が教育を変えようとして「会社ごっこ」を続けるとしたら、管理職の実際の一年間を徹底的に分析してみることです。校長の一日は、何に何分ずつ費やされているのか。一年間で合計何時間の授業観察を行っているのか。パソコンをいじっている時間はどのくらいなのか。管理職の指導によって学校の何がいつどのくらい変わったのか。
 藤原元校長が著書『校長先生になろう!』(日経BP社)で紹介しているので、それを読めばわかる部分も多いですが、例えば藤原元校長なら、原稿を書く時間、講演をする時間、会議の時間、出張に費やされる移動時間はどのくらいだったのか。
 管理職批判が的はずれなものが多いのは、その仕事が理解されていないことが最大の原因であり、その情報を少しでも開くことが、学校改革の近道かもしれません。
 教員は授業と生活指導に集中して職務をまっとうする。では、管理職は何に自分の資源を集中させるべきなのでしょうか。
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結果責任が問われない公立学校という「安心社会」

 「ルールというのはその通り守る人が損をするもの」と考えているのはどういう国のどんな人でしょうか。
 そういう人たちによって構成されている社会は、「騙しあい空間」となるのでしょう。
 他者との緊張関係があるタイプの「私共(わたくしども)空間」です。
 中国では、「きれいな言葉」で表現される政治的スローガンに対する不信感が根強く残っており、現在でも「理想」「理念」「善意」が信じられなくなっている風潮があると言われます。
 もし、公立学校の教育課程の実現状況を、我が子を鏡にして分析したとき、「子どもは騙されている」「とうてい届きようのないところに導くと嘘を言っている」と真剣に訴える親が出てきたら、学校はどのように説明してあげるのでしょう。
 育児書でも何でも、読者はタイトルにつられて本を買ってしまう、ということがよくあります。
 「売るためのコピー」は専門家たちがよく考えてつくっています。
 そして本を読み、実践して、そこから得られる成果はどれほどのものなのでしょう。
 日本人にはまだ、他者に対して「安心」している部分があり、「信頼」できるかどうかを考慮しない傾向があると言われます。
 「人を信頼してはいけない国」になる心配はないかもしれませんが、すでに「安心していられない国」になるつつあり、「相手が信頼できるかどうかをじっくり考える必要のある国」に移行する過渡期にあるような気がします。
 表面化した毒物混入、偽装表示関連商品には厳しい目を向けるものの、現在の基調は「安心」社会です。
 教育についても、結果の責任はたとえば公立学校には問われていません。
 「信頼」社会へ移行することで、公立学校は非常に肩身の狭い思いを常にせざるを得ない場所になりそうですが、どんな条件の中でも「信頼」されることをめざす、という気概をどのくらいの学校がもてるでしょうか。
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教育の世界の騙しあい

 児童・生徒をよく褒める教師がいます。
 褒められて嫌な気になる子どもはいませんから、そういう声かけはごく自然なコミュニケーションを生むための手段として有効なのは言うまでもありません。
 しかし、中学生になると、単純な子どもも当然たくさんいますが、「先生はみんなにそういうことを言ってるんでしょ」という反応もおこってきます。「褒める」バーゲンセールをしている、「安っぽい」と反抗してみせる。
 「信頼関係の問題」という言葉では片づけられない、現代の「子ども」特有の傾向が見えます。
 気に入らない生徒のことを教師が褒めているだけで、その教師を敵視する生徒。
 事実がどうであるかは全く問題ではなく、自分の子どもの言うことを教師が信じないことに腹を立てる親。
 褒め言葉をうわべのものと決めつけ、管理職や主幹の指示にしたがって動こうとする教師や、法令や答申、教育長の意向に沿って教育を導こうとする指導主事を『犬』扱いしてなじる教師。
 こうした「子ども」対策として、コミュニケーションスキルといったレベルの問題で解決しようとしても、無理がありそうです。
 しかし、「気配を消す」ことだけでみんなが自分を守りに入ってしまっていては、教育はいっこうに前進しないでしょう。
 今は、「毅然とした態度」が原因で不登校、最悪の場合は自殺を招くことを想定した指導をしなければならず、「気配消しの名人」であることが生き残る極意であると感じている若い教師もいそうです。
 日下公人・石平の『日本と中国は理解しあえない』(PHP研究所)のまえがきで、「理解しあうことを求めるのは良いことではあるが、実現を焦ってたいていは騙される」という趣旨の言葉がありました。
 理解しあえない国と国とは、損得だけで交際するのもいいのでしょうが、一部の管理職が説得に使ってしまう、「これをするとだれにとって得、しないと損」などという会話は教育の現場では耳にしたくないものです。
 学校の教師同士が騙しあいを演じている現場は本当に歯がゆい。
 子どもにはいくら騙されても、子どもを騙してはいけません。
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B問題が入試まで波及するかどうか

 「解くことに意味を感じる」問題、「解いたことで改めて学んだ実感が持てる」問題づくりが、今後ますます求められてきます。
 このとき、出題者には豊かな構想力と表現力が、解答する生徒には読解力・解釈する力と表現力が、それぞれ問われることになります。
 本来、授業そのものもそうあるべきなのですが。
 今後、入試問題まで波及できるかどうかが課題です。
 公立の中高一貫校の適性検査は、B問題の傾向が強いわけですが、これはある程度の国語力(読解力)がついていれば解けてしまいます。(私の予想では、中高一貫校の場合、文系ではある程度の成果が残せそうですが、理系のセンスがあまり問われないで選抜されているため、大学入試でどれだけ実績が残せるかが課題になりそうです。)
 採点に時間がかかったり、採点基準の難しい入試は実施者が嫌がるでしょう。
 後で問題に対するクレームが浮上するかもしれません。
 学習指導や評価の数々の壁については、「最終的には入試が変わらなければ・・・」と長い間言われ続けてきました。
 流れは、急激に変えることはできません。
 移行期間の授業時数増の報道がありましたが、時数が増えるだけの物理的な変化だけではもちろん不十分です。入試が学力問題の化学変化をおこせるかどうか・・・。
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教師がB問題から学ぶべきこと

 教師にとって、「学力調査」は他人事ではありません。
 中学生全員を対象にする調査であるということは、その指導者も全員、問題の内容を把握する、ということです。
 公開されている問題を見れば明らかなことですが、学力調査は、新学習指導要領実施後の具体的な指導法やそのときに扱う教材のあり方、また評価方法を提示していくねらいもあるようです。
 新学習指導要領総則の「教育課程編成の一般方針」には、「基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ(・・・A問題で評価)、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむ(・・・B問題で評価)」とあります。
 調査は抽出でもよいとする主張もありますが、国が全児童・生徒(これからの国民)だけでなく、指導者であるすべての教師に求めているメッセージを直接伝えきるところに意義があると考えます。
 2年後くらいには、観点別評価のあり方も変わると思いますが、そのころまでには各教師の責任で作成がまかされている「定期考査」もがらっと変わったものになっているでしょう。
 学力調査は評価のためのように一般の人は考えるかもしれませんが、学力向上に欠かせないのは生徒の努力だけでなく、教師の指導力の改善もあります。B問題がつくれる発想が授業にも求められているわけです。
 定期考査の問題を分析する塾があれば、これまでの学校の不十分な評価のあり方が浮き彫りになるはずですが・・・・。
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土曜日授業の実施は国民の願い

 昨年の調査によると、公立学校での土曜授業の復活に賛成は40%、どちらかといえば賛成が41%で、大半が賛成派であり、現在の週5日制が支持されていないことが明らかになっています。
 学校側の論理としてこれが実践できないのは、教職員の勤務のあり方にかかわる制約が大きい。
 教職員を週2回休ませなければならないが、土曜日が勤務日になると、平日に代休をとらなければなりません。
 学級担任制の小学校ではまた別の問題がありますが、私は小学校で土曜授業を実施する必要性を全く感じません。まだ小学生なら親が本来の週5日制の趣旨のとおりに子どもを動かすことが可能ですし、ボランティアによる補習教室を開くこともできます。
 問題は授業時数の多い中学校で、規模等によっては(講師が多いと制約が増加し)、時間割が組めなくなります。
 しかし、もしそれがネックの中核であるなら、学校規模を大きくしていき、平日にすべての教師が代休をとり、大学等での研修や研究を自由に受けられるようにすべきです。
 平日の持ち時数は多くなり、多忙感も増すかもしれませんが、平日にとれるまるまる一日の休みは、非常に有効な活用が望めると思います(一日中パチンコしている人もでてくるかもしれませんが・・・休日ですから行動は自由です・・・)。
 私が管理職なら、自主的な研修以外に、他校にいる優秀な教師の授業参観や、連携・協力関係にある小学校への訪問を勧めたりすると思います。もちろんこの「出張」は「勤務日扱い」になりますから、こういう勤務に限っては、長期休業中の代休への振り替えを制度上可能にしてもらいます。
 土曜授業復活にかける国民の思いは、1位が学力向上2位が平日の時数を増やすよりよい3位が(実質的には保護者の思いはこれが大きいはずの・・・)無駄な時間を過ごさずにすむ、4位が行事や部活をあててほしいなどとなっています。
 行政は、国民や住民の声を重視し、またその「実」をとるためにも、実験校を積極的に増やし、実現可能性や実施の有効性を探っていくべきです。
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起立拒否(国歌演奏時)で検挙・・・タイでのお話

 久しぶりに朝日新聞らしい記事をネットで見ました。
 タイでは映画の上映前に国歌が流されるのだそうです。
 そこで全員に求められる起立を拒否した男性が、不敬罪で警察の取り調べを受けた、というニュースです。
 学校教育での儀式的行事の場の問題とは明らかにレベルが違う出来事ですが、これを子どもに考えさせる題材で使うとすると、落としどころが明白になってきます。
 喜んで記事を切り抜き、プリントにしようとしている人の姿が目に浮かぶようです。
 関連するニュースは、探っていけばたくさん見つけることができるでしょう。
 少し話は別次元にうつりますが、学校では、「挨拶ができない」子どもや教師にそれを指導することの難しさがよく話題になります。
 単純に習慣化されていないだけなら訓練の効果が期待できる一方で、もともと反感をもっていて挨拶をする気がない人間と、指導されることへの反感をもって挨拶をしない人間がいるわけで、最後にはよく、自然に挨拶ができる世界に入っていってもらおう、そういう研修をさせよう、というあきらめに近い声が聞こえてきます。
 学力低下うんぬんの問題より、「基本的生活習慣」が破綻していることの方を強く憂慮している人は、どのくらいいるのでしょうか。
 外部の人は、ワンパターンの発想で「では道徳の授業の充実だ」となりますが、大切なのは「道徳の授業」だけではなくて、学校の全教育活動の根本に何が求められているかを考え、実践することです。
 学校の全教育活動の根本には、教師である人間そのものの存在があります。
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小学校教師が過ごす濃密な時間の正体

 最近、小学校の先生が書かれた本を読んで驚いたことがありました。
 20年間教師をしていて、教えた子どもは600人・・・。
 中学校の教師から見ると、とても少ない数に見えます。
 週1時間の授業だけだと、1年間で600人を教えることが可能で、実際にそういう人もいます。
 私が昨年教えていた生徒は400人です。
 それだけ、中学校の教師に比べて、小学校の教師が児童と過ごす時間が濃密であろうことが予想できます。
 (観点別学習状況の評価も、授業さえしっかりしていれば問題なくできるだろうことも想像できます)
 そして、自分の子どものようにかわいがりたくなってくる感情もよくわかります。
 さらに言えば、そういう関係は教育にとって大きな危険もはらんでいることを指摘せざるを得ません。
 著者である教師は、子どもの教育には親の力が大きな影響を与えるといいますが、本に書かれたことをほとんどしてもらえなかった生徒でも、十分に力が伸びていること、また、自分の体験をふまえると、やはり小学校では親より教師ではないか、と単純に思ってしまいます。
 中学校では考えられない(ドラマがつくりあげているイメージは極端すぎることは周知のこととしても)濃密な時間を小学校の教師と過ごしたことをふまえて、「恩師」として小学校の教師が思い浮かぶ人というのは何%くらいいるのでしょうか。
 私にとっての「恩師」とは、文句なく小学校教師なのですが。
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教員免許更新制における更新講習について

 自動車免許を取得したとき、「こんなに教えるのが上手な先生が他の世界にいるとは・・・」と感嘆したことを思い出しました。教師の私も、そこから「教えるこつ」をいくつか盗ませていただいたことを覚えています。
 教員免許が、自動車免許と同じような扱いになったのは周知のとおりです。
 当初は、「問題教師を排除する」ことが強く要請されて始まった制度かと思いましたが、それが前提なら当然教員の反発が予想されるわけで、文部科学省は「そんなつもりはない」という一貫した態度をとるようになっています。
 今後は、「大学」の研究者か教員かよくわからない立場の人たちが実施する更新講習の内容とその実効性が問題となるでしょう。
 教員には、現場を知らない行政という「敵」だけでなく、これまた現場を知らない大学の研究者という「敵」が存在しますが、そこに行政が教員を接近させようとしているわけです。
 「一般論」には価値が見出されない世界で生きている大学の研究者に、現実の問題となっている各学校の現状という「一般論」が展望されているのでしょうか。
 注目は、今年度中に実施される「予備講習」です。
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恩師の教えと「否定の連続」

十牛図ー7 忘牛存人
 十牛図の第七図には、もう牛は描かれていません。牧人は庵の前でのんびりうたた寝をしている場面です。
 牛がいなくなったとは何か。牧人がのんびりしていることの意味は何か。
 私は小学校の低学年と中学年に、おそらくその後の一生を左右したと思われる影響を担任の教師から受けています。
 低学年の教師からは、ただただほめられ、そして「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という賛辞をもらい、親も満足していました。中学年の教師には、ほとんど怒られた記憶しかありません。「上に立つものがすべての責任を担うものだ」という論理で、無法者の排除という行動も「差別」という罪状で処罰されました。私はたったの一度も、一瞬でも反抗したことはありませんでしたが、これほど徹底した指導ができる教師は、今は皆無でしょう。
 禅の修行では、「人生を向上的に生きるには、否定の連続が必要になる」と説かれています。
 「空じ、空じきっていく」ことは、「ほめられたい」「満足したい」欲求にとらわれている人にとっては、決してやりたくない作業でしょう。
 「教育失敗学」というタイトルを見ただけで、見る気もおきない、という人もたくさんいるでしょうが、それでも読んでくださっている方は、きっと禅の教えを理解されているのでしょう。
 偽りの自分に気づき、自分が新しくなる、そして真の自分を得るが、それを得たという満足をもった時点で偽りの自分となる。このことを、小学校4年生までに体得させてくれた担任の先生には本当に感謝しています。
 ただ、完全に「空」になりきる感覚は、どうも偽物っぽくてなりきれません。
 まだまだ修行は足りないようです。
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レジ係の一言から

 あるスーパーのレジ係の女性が、話しかけられた知り合いの女性へ「830円(時給のことでしょう)でこんなつらいこと、何でやらないといけないのかしら」と大きな声でこたえていました。
 アルバイトで働く人たちのうち、どのくらいの割合の人が、安い時給で「働いてあげている」という実感をもっているのでしょうか。
 以前、バイトが集まらないコンビニの店長が、割高でも人材派遣会社経由の人を雇わなければいけない現状がある、というテレビ取材を見たことがありました。
 バブル経済で人手不足が深刻だったころ、外国人労働者の受け入れの可否がマスコミで取り上げられていましたが、近い将来、またこの問題が浮上するでしょう。
 勤勉・まじめ・高い学力というのは、昔の日本人像でしたが、近い将来、そういう外国人が大勢日本で働くチャンスが生まれてきます。
 雇用の価値を失った日本人を割高でも雇う「福祉」も登場するでしょうか。
 おそらく「危機」がより身近にならないと本気にならないでしょうが、学習指導要領の理念はそういう具体的な未来の社会をある程度的確に捉えています。
 今後、短い学習指導要領本文の一つ一つの言葉の背景にある膨大な諸問題をつかんでいく作業が必要になります。
 終業時間を楽しみに待つような仕事に子どもをつかせたくはありません。
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ゴミにたとえるクレームの種類

ガラクタオビジェ館さん、以下のコメントありがとうございました。
 

おはようございます、そうなんですよ、学校には芸術がたりないんですよ、ないといっていいと思いますね、センスも感じない、私も学校にはセンスが必要だと思います、国語算数理科社会でもセンスというものがあると思います、それはかっこよかったりおもしろかったり、そういうことですよね、

 明治初期、まだ学校が建設される前の、どこかの邸宅を利用した授業風景を描いた絵があります。
 オープンスペースは近年になってはやってきていますが、他の教師の声が聞こえてきたり、もりあがっている教室が気になったりと、集中できない子どもが増えるデメリットがあります。
 外見上は、よいイメージなのですが、当事者にとってみるとどうか。
 教育では、「当事者の声」が通らないことがしばしばです。
 教師の声でなく、子どもの声が反映できるしくみを教師のプライドを傷つけることなく導入できている学校はどのくらいあるでしょうか。
 子どもは多くを見抜いてしまっているだけに、本音も言いにくい現状があります。

 Pyscheさんからは、クレームに関する記事へのコメントをいただきました。 
 公立教員へのクレームと塾講師へのクレームとではその質がおのずと異なる場合は多いものです。
 

実はこの税金でまかなわれる義務教育は(生徒側には見えないために意識されにくいけれど)随分費用がかかっているということが、サービスを受ける者に見えにくいのです。だからこそ費用対効果の反応が目に見えて負担感を感じやすい塾のほうに心理的なハードルを高く感じさせ「こんな程度でクレームを入れるのは気を遣う」と思わせがちなものかもしれません。
 さてこのような中、学校教員と塾講師へのクレームの種類はおのずと傾向が変わることと思います。
学校教員への一部のクレームをゴミに例えられたように、そう表現したくなるような愚痴もまざる忌憚のなさを感じるというのは目に見えにくい「費用対効果」への関心の薄さからではないでしょうか。
 先程いった親の心理的なクレームへのハードルが高いため、塾講師への不満は比較的多くはないかもしれませんが、問題の質や追及の深さや大きさは大きなものになってきてから投げかけられることが多いため、ひとつひとつが深刻なものになりがちです。
 しかしクレームというものは相手への要求度の大きさの裏返しであるという側面を考えると、真剣な相手の思いを厳粛に受け止めることは大切なことと認識しています。

 クレームには燃やせるゴミ(一度不満を発散させてあげると後が残らない性質のクレーム)、燃やせないゴミ(埋め立てるしかないが、それもできないので処理に困るクレーム)、資源ゴミ(学校改善に生かせるクレーム)があります。教員の管理職や教育行政に対するクレームも同様です。「自分の都合」を強硬に主張し、組織のルールやモラル、秩序が全く見えていない子どもと教員がダブって見えることがよくあります。
 人格への攻撃を加えてくるやり方が、一部の教員にとっての常套手段ですが、これだけは子どもに伝染させないでほしいと思います。
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校長は職人か、芸術家か?

 キリスト教会、「ルネサンス法王」から教育が学べるものは何か、とふと考えました。 
 イエス・キリストは、ソロモンの栄華よりも一本の野の百合を選んでいます。
 ですから「美しく飾り立てた教会は祈りの場にはふさわしくない」とする非難が成立する。
 しかし、イエスは神の子であって、人間たちとは違う。人間は、野の百合も愛するがソロモンの栄華も好きな生きものです。
 高位になるほど聖職者は豪勢な生活を愉しんでおり、これを堕落であると批判することもできますが、庶民とはなぜか、自分たちの手の届かない贅沢を好むという傾向もある。
 「芸能人の豪邸を訪ねる」テレビ番組は、それなりの視聴率を稼ぎ出します。
 王室や芸能界のスターがスターでありえるのは、反対の極にいるはずの庶民の支持が背景にあるわけです。
 キリスト教会の場合は、法王や枢機卿たちの華麗な僧衣の一団もあれば、黒や白の粗末な僧服や修道衣の人々もいる。
 こうして華麗さと清貧の双方とも満足させていることが、教会の強みであるといいます。
 「ルネサンス法王」は、清濁あわせもち、聖職界の長としてだけではなく俗界の組織のリーダーでもあったわけです。
 教育、学校という場はどうか。
 多くの学校には、「華やかさ」がありません。
 小学校などは子どもの作品などをめいいっぱい掲示するなどしていますが、これは場合によっては悪い趣味というか、子どもの励ましになっているとは限らない危険な行動です。
 基本的に学校は、中・高・大を見ても、機能重視(というか低予算重視)の構造になっている。
 「ハレ」の場面は、文化祭など限られた行事でしか見られません。
 しかし、そこに通う子どもの多くは、「華やかさ」に憧れ、テレビや雑誌に紹介される芸能の世界を愛しています。
 そのまねをして髪型、服装を変え、アクセサリーをつけ、化粧をして学校に行くと、「学びの場にはふさわしくない」と非難される。現場では、この非難はごくごく当たり前のものという共通認識があります。
 ただ、「華やかさ」を容認しないと成り立たない学校も少なくありません。
 「華やかさ」を売りに生徒募集をする学校も増えてきました。
 親よりも子どもの方が新しく、高価で機能が多い携帯電話を持つのが多い日本では、仕方のないことなのでしょうか。そういう家庭では、「学校は愉しむべき場」であるはずで、間違っても「修行の場」ではないのでしょう。
 運動会や文化祭は「撮影会」のような風景。子どもは親にとって最大のスターです。
 学校側の立場でいうと、あくまでも「修養の場」として通しきるのか、親や子どもの願いに即した新しいタイプの学校を増やさなければならないのか。
 ルネサンス当時のアーティストたちは、おとなしく注文をこなしていく「職人」でしかなかったわけではなく、注文を逆手にとって自分の創りたいものを創り出す本物の「芸術家」でした。
 日本では今のところ、「職人」としての管理職はいても、「芸術家」は少ない。
 校長はどんな学校像を構築すべきなのでしょうか。
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「真のよりどころ」とは何か

十牛図ー6 騎牛帰家
 十牛図の第六図は、牧人がおとなしくなった牛に乗って家路につく場面です。
 牛に乗っているとは何か。
 牛が探していた「真の自己」であるとすると、本物のよりどころを得たことを示しています。
 人間には、両親、恋人、配偶者、老後は子どもなど、人生のステージに応じてさまざまなよりどころをもっています。また、「快適」とか「便利」という価値としてのよりどころもあります。
 しかし、これらが「真のよりどころ」ではないことは、すでに明らかです。
 「他に生かされた自分」「奇跡的な存在としての自分」への気づきが「無我」の境地の第一歩といいますが、教育現場では、「我」の集中砲火を浴びる人たちがまずそれに耐える訓練をしなければならないのがつらいところです。
 しかし、「真のよりどころ」がもてたとき、揺らぐことのない自己が「利他」の精神で状況の打開に向けて歩む出すことができるはずです。
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天才に肉迫する方法

 ルネサンスに関する記述が中学校の歴史教科書が消えたとき、それを惜しんだ教師がいたとして、ルネサンスを残すべきだという根拠はどこにあったのでしょうか。
 塩野七生著『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫)から、「十牛図」に通じる部分があった箇所を少し引用します。
 

レオナルドやミケランジェロやティツィアーノの作品の前に立ったときは、これらのルネサンスの天才たちを解説した研究書など読む必要はない。ガイドの説明も、聴き流していればよい。それよりも、あなた自身が「年少の天才」にでもなったつもりで、「虚心平気」に彼らと向き合うのです。天才とは、こちらも天才になった気にでもならないかぎり、肉迫できない存在でもあるのですよ。
 (中略)虚心に作品に対し、それをすることで彼らの声に耳を傾け、偏見に捕らわれずに考え、得た想いを自分自身の言葉で言ってみてはどうでしょう。これさえ実行すれば、あなたもまた、ルネサンス精神を会得できたことになるのです。
 (中略)日本語の「心眼」や「克己」。これ一事だけでも、中世末期にイタリアで起ったルネサンスが、時代や民族や宗教のちがいを超越して、普遍性をもつことができた理由であると思いますね。

 ルネサンスの遺産を教師としてはどう生かすか。柔軟な思考を保ち、新しいアイデアを生むための素材はいたるところに眠っているものだと思いました。
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SVOを分けない境地

十牛図ー5 牧牛
 十牛図の第五図は、牧人が牛を手なずけて、おとなしくさせた場面です。
 牛を飼いならすとは、何か。
 禅には「悟後の修行」、すなわち悟った後の修行の方が、悟る前の修行より重要だと言われるそうです。
 表層では悟ったものの、深層の心に煩悩を起こす可能性がある力が渦巻いているため、それを心の中の「火」で焼き尽くし、浄化しなければならないとされています。
 「三輪清浄」といって、自分と他人、その間で行われる行為の三つを、「自分が他人に○○をしてあげた」などと思わないように、三つを分別しない。分けようとする心のはたらきを焼却する。その熱が他人をあたため、利益を与える。ただなりきって行動すること、自分の利益、他人の利益は考えず、「ただ行う」。
 ただただ、子どもの声を聞き、気がつけばアドバイスをする。
 ただただ、授業を充実したものにするために、教材を研究し、子どもの習得・活用スタイルを洗練していく。
 ただただ、よりよいものをつくりあげるために、準備をし、シミュレーションをし、調整をはかる。
 そういう「ただただ行う」「そういう存在になりきる」とき、「無分別智」がはたらくといいます。
 「忙しい」と状態が不満であると思われてしまうような現状があれば、「忙しい」「忙しい」「忙しい」と何百回も心で叫んでみる。
 いつか、「本当に自分は忙しいのだろうか?」と疑問になり、「忙しい」と感じることなく、ただただ、仕事をこなしていく・・・。
 仕事をせず、期限を守らず、他人に迷惑を与えている子どもや教師を目前に、そんな境地になるのは難しそうですが・・・。
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よい校長の条件とは?

 ガラクタオブジェ館さん、以下のコメントありがとうございました。
 

私も校長教頭なんてなんなんだろうと思ってます、確かにいい校長がいるところは教師も父兄もなんとなくまとまってるという感じがします、そもそも学校の先生というのは30人40人の子供を仕切らなければならない、リーダーシップがなければならないと思います、それが採用試験だけで教師になってるから崩壊してるのだと思ってます、有能な教師を見極めるのは論文を書かせれば解かると思いますね、教師としての意気込みがない奴は論文などかけないと思いますよ

 私は教員の立場、指導主事の立場、教育長の代理の立場、保護者の立場、PTAの立場などでさまざまな校長先生と接してきましたが、ほとんどのケースで実感できたのが、どの校長も「いい先生がほしい」「困った先生は出ていってほしい」と強く願っているということです。
 おそらく、生徒・保護者や行政マンより、校長にとってのそういう思いの切実さは大きいものだと思います。
 ただ、ニュアンスとして、「都合のいい先生」「気だてのいい先生」「子ども思いのいい先生」「指導力がある先生」「問題をおこさない先生」「休まない先生」「産休をとりそうにない先生」など、さまざまな意味合いがあるにはありますが・・・。
 残念ながら、採用担当者泣かせの教師もいます。
 面接や論文では文句なしのように見えても、実際に子どもを前に授業をさせると・・・・・。
 面接や論文というのは訓練次第で上達が可能(論題はいくつも想定が可能ですからうまい人に書いてもらって暗記しておけばよい)ですが、授業力やコミュニケーション能力といったもは、やはり適性、資質の問題が大きい。
 ですから初任者1年間の「条件付き採用」で、本来は採用すべきでない教師の多くがパスしてしまっているという現実はあるでしょう。
 校長の1年目というのは、たいてい力が入っていますからがんばってくれますが、成果が出ないことが2年、3年続くと、どうしても教師集団のせいにしたくなる。それで嘆き節が多くなる。
 中には、藤原元校長のように、「自分でやってしまう」タイプの校長もいるかもしれませんが、それではいつまでたっても教師が育たないので、リーダーシップがある校長とは言えません。
 学校という組織に「ホームランバッター」は必要ではないのに、校長がどうしてそういう人材をほしがるかというと、教員というのがそもそも言われたことを素直にやってきて育ってきた経緯があるので、仕事上かなりの裁量がある教育の仕事に就いた場合、具体的な指示を受けて行動している若いうちはいいのですが、自分が指示を出す側になると、とまどうタイプが多い。だまっていると、みんな見送り三振。送りバントのサインしか出せない。
 以心伝心の教員集団など夢のようなものなので、現状では危なくてスクイズやヒットエンドランのサインは出せません。
 また、校長や教育委員会という「権力」を嫌うタイプの人は、自分に「権力」のにおいがただようのを防ぐために、批判のリーダーにはなっても、実践のリーダーにはなかなかなろうとしない。こんな人ばかりが学校にいると、校長は息苦しくて仕方がありません。
 中には、他校の教師たちが勉強のために集まってくるような校長もいます。
 「どうしてその学校の先生は勉強に参加しないの?」というプレッシャーをかけるのに最適ですが、ただこういうタイプの校長は非常に少なく、多くの教員にとっては「だれでも大差ないだろう」と思えてしまう。
 校長と教員がわかりあう、スクイズが出せる関係になるにはどうしたらいいか。
 大トラブルを首尾よく解決に導くと、校長の信頼度は上がりますが、そういうイレギュラーなケースでなくて、普通の小トラブルが頻発する普通の学校で、何か手はないのか・・・。
 私もずっと考えてきていますが、結局は、学校を動かす原動力は校長ではなく各主任です。主幹も大事ですが、普通の規模の中学校なら、学年主任が重要です。主任に気持ちよく仕事をさせられる校長が、よい校長であるというのが結論でしょうか・・・。
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望ましい教育管理職の任用制度とは?

 すずめ@先生からコメントをいただきました。
 

管理職の人材については,私自身は大変恵まれており,行動力,指導力ともに抜群の校長と,細かく指導してくれる教頭にめぐまれております。書類作成などに関しても,過去3人の教頭にイヤというほど仕込まれ,やっと最近は「適当に出しとけ」と言ってもらえるようになりました。
 ただ,周りを見ると,どうしてこの人が??と思われる人は数多く,その下で働く人たちは大変だろうなと思います。
 管理職の人材登用の選考の基準,または選考方法(あるいは選考に当たる人)が,どうにも間違っているのではないかと私には思われてなりません。委員会から見ても,事務処理能力の不足している教員を教頭に登用してはなりませんし,指導力のない教頭を校長に採用するのは,現場を混乱させるだけだとよく分かっていると思うのですが,なぜそんな選考がなされるのでしょうね。

 ご存じのように、東京都は教育管理職の任用制度を平成12年度から変更し、指導主事、行政、企業、現場の主幹などのジョブローテーションを行い、高いマネジメント能力をもった教育管理職をつくりつつあります。
 ただ、対象となる年代の教員数が少ないことや、「わざわざたいへんな思いをしてからさらにその後、たいへんな職につこうとは思わない」という教員を増やしてしまったため、この任用制度が見直されていることは以前にも述べました。
 はじめから「優秀な副校長」として採用するのではなく、研修や実務をさせながらその資質を磨き、これでOKとなったら任用する、そういうシステム自体はよいのですが、年齢別の人数があまりにもアンバランスで、養成が間に合わない、これが東京都の悩みです。もっと前に実行したかったということを、遅れて実施してしまっているだけ、そして見事に失敗している、という印象があります。
 私見では、あまり若すぎて学年主任、教務主任、生活指導主任、研究大会での発表者としての経験がない教師がいきなり行政にはいっても、逆に教えられる立場になってしまうので、いくら管理職から受験しろと言われても、断るのが良識ある教師像だと考えています。そもそもリーダーシップをとれるような資質がないと、管理職はつとまりません。事務員のような副校長ならまだしも、「校長にはさせられない」と判断されている副校長も少なくない。ですから、「校長は無理だ」と本人が悟ったり校長から指導を受けて納得したりした場合は、降格させてあげることが本人のためになります。
 他県との違いかもしれませんが、教師は「副校長の下で働いている」という認識はほとんど持っていないと思います。「副校長は自分の上司にあたる」ということを知らないのではないかと思わせる教員もいます。
 中学校の場合、学校内で「リーダー」にふさわしいのは学年主任であり、それがよくわかっていないのが現行の「主幹制度」の最大の欠陥です。
 なお、私が採用したい管理職試験の方法は、保護者3人、教員3人、企業の管理職3人、行政から3人くらい選んだ試験官の前で、「目指す学校づくり」「私がかかわった学校づくり」を語らせて、評価の合計を競うようなスタイルです。こういう試験をすると、採点の偏りを分析することによって、学校のリーダーに求められる資質があらためて浮き彫りになるかもしれません。
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「言葉」にとらわれない現場主義

 十牛図ー4 得牛
 十牛図の第四図は、牧人が逃げた牛を綱で捕らえ、再び逃げ出そうとするところを渾身の力で自分に引き寄せようとしている場面です。最も緊張感のある図です。
 牛を捕らえる綱とは何か。「念」「集中力」「意識のスポット」「精進」という言葉で解説されています。
 「人類は言葉を使いはじめたために、念の力が弱まった」と著書にあります。「念」や「意識のスポット」によって記憶力が増すことはわかりますが、それを「言葉」が邪魔をするとはどういうことか。
 京大霊長類研究所で行った実験で、瞬間的に見たものを記憶する能力は、人より子どものチンパンジーの方が優れているということがわかりました。そして、人は進化の過程で、直観像記憶の能力を失うかわりに、言語機能を高めていったのではないかという仮説が生まれています。
 著者は「言葉に頼りすぎると、言語が対象への感覚を弱めてしまうはたらきがある、ということに留意すべき」「大きな問題は、最高度に言葉を駆使できるようになった現代人、そして、まさに情報の海に溺れそうになっている現代人が、言葉や情報から解放されず、生《なま》の存在そのものを感覚し直観することができなくなっているということです」「それは牛探し、すなわち自分探しの旅における大きな障害となる」と述べていますが、深く共感できます。
 「念の力を起こして言葉や情報を一度投げ捨ててみようという気持ちになる」ことは、「新しい自分」をつくるのに有効な手段です。
 年度のはじめには、どの学校でも「今年度の目標」「新学年としての抱負」「個人目標」「スローガン」を決めると思いますが、こういうのを決めただけで、できた気分になってしまう、そして、立てたその瞬間から破っている、ということがよくおこります。
 ですから私は、「目標なんかはすぐに忘れていい。それが実現できているということが重要」と言っています。
 行政は、こういう「言葉」をつくれば仕事は終わりです。
 現場は、それを実現させるのが仕事です。
 現場が「言葉」にとらわれていてはいけません。
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副校長・主幹教諭の育成及び職のあり方について

 教育管理職等の任用・育成のあり方検討委員会の第2次報告(副校長・主幹教諭の育成及び職のあり方について)が、東京都教育委員会のHPに掲載されています。
 会議の日程も掲載されていますが、随分進度の遅い検討委員会だったようです。
 内容もはじめからわかっていることばかりであり、また校種の違いによる分析はあっても学校規模の違いによる分析がないなど、「事務方」が中心でことを運ぶとこの程度の報告になるという典型になっています。
 また、小中学校も対象としていますが、基本は規模の大きな都立高校が検討のベースにあるので、義務教育の現場で本当に必要なものが何かが何も見えていないことが露呈しています。
 普通の教師たちは意外に思うかもしれませんが、教育委員会の目からみると義務教育の現場の校長・副校長の力不足は深刻で、この点は現場の教員とまったく同じ捉え方になります。
 ではどうすれば校長・副校長・主幹の力量をあげることが可能になるかと考えた場合、行政の立場でいうと研修しかない。そして、それはマニュアルをもとにして理解させていくという、「事務員」の育て方と同じ路線でしかない。
 報告書にあるように、教員は簡単な事務も非常に苦手にしており、内容はほとんどないにもかかわらず書き方がわかりにくいなどの理由で時間はかかる、多忙感はつのる、報告する意義がわからずやりがいがない、といった問題があります。
 この解消方法は、HPによる確定申告を参考に報告形式を開発すればよいでしょう。
 しかし、本当に大きな問題となっているのは、事務ができるできないではないのです。
 それならば教育委員会内部のように、事務職が管理職になればよいのです。
 義務教育の現場の管理職に求められている「力」は、「生きる力」です。
 過去の自分にとらわれて、副校長や主幹の活用の仕方が分からない校長が多すぎるようです。
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ティッシュをもらう側の態度

 駅前でティッシュをもらったとき、御礼を言う人の割合ってどのくらいでしょうか。
 長い間生きていると、「すべての人に感謝したくなるうれしい気分」というのを味わうことがありますが、先日ふと、ティッシュをもらって頭を下げている自分に気づいたとき、「いつもこうやって会釈をしていただろうか?」「いつもは無愛想に『もらってあげますよ』なんて態度をとっていなかったか?」と考え込んでしまいました。
 配っている方は早くティッシュが減らないと困るので「もらっていただいてうれしい」という気持ちがはたらくのはわかりますが、ものをもらう側が横柄な態度をとるという光景にはちょっと考えさせられます。
 中学生や高校生にも頭を下げているバイトの若者たち(年配の方にも出会いました)。
 「ありがとう」という言葉をいう文化はどうかしてしまっているのでしょうか。
 学校では、採点されたテストを教師から返されるとき、生徒は何と言っているでしょう。何と言うべきでしょう。
 私の場合は、「ごめんなさい」と謝られる頻度が高いですが・・・。
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ゴミ回収業者としての教師

 Psycheさん、以下のコメントありがとうございました。

教師を教育したい保護者、いるでしょうねぇ。塾で勤務していても同様の保護者は見受けますから(笑)
ところで、「社会的地位」であったり「もっと偉い存在だと思われるべきだ」との主張を指導者が唱えているのを見たことがあるのですが私は的外れな気がしてなりません。
塾の講師とて学歴的にはさまざまですが十分な力量があれば社会的なイメージにとらわれることなく多くの保護者に支持してもらえることは現場で働き強く感じています。
このような社会的イメージにより自分が正当に評価されないとする指導者ほどたいてい力量不足である印象を受けます。クレーム対応は力量を問われるでしょうね。

 塾へのクレームというのはどのくらい深刻なものなのでしょうか。
 税金でまかなわれている義務教育に対する「費用対効果」の問題が深刻なのはよくわかりますが、塾で学んでも志望校に合格できない場合、成績が向上しない場合の費用負担者の反応はいかがなのでしょう。
 不思議なことに、私の場合、家庭教師で教えていた子が大学受験に失敗したとき、保護者から「子どもの勉強不足でした。すみませんでした」と謝られたことがありました。恐縮の一言に尽きます。塾の講師をしていたときも、悪い点のテストを返されるとき、子どもはみんな「ごめんなさい」といって解答用紙を受け取っていた記憶があります。
 なぜ保護者や子どもは謝ったのでしょう?
 その塾や家庭教師を選んで金を払っているのが自分たちなので、その効果がないということになると、選んで金を払った自分が悪いということになってしまうからでしょうか?
 公立の教師は別に自分たちが選んだわけではないということが、子どもに学力がつかない責任を追及しやすいムードを作っているのでしょうか。もしそうだとしたら、学校選択制というのは一定の効果が見込まれますね。
 塾の先生への信頼というのはときに絶対的なものであり、塾に「受けなさい」といって受験させられた高校のほとんどが不合格だった生徒もいました。子どもの実力を大きく見せてくれる塾は保護者の味方であり、学校は「もっと安全な学校を受けろ」などと言ってくる敵だ!という図式もありました。
 子どもや保護者が「やればできる」という信念を持ち続け、しかしけっして「やらない」タイプが多い中、学校の教師は「現時点での本当の力」を自覚させてあげなければならないつらい立場になることがあります。
 嫌われ役になる場面が教師にはたくさん訪れます。
 保護者の学校へのクレームですが、その原因もさまざまなであり、保護者の話を聞いているうちに、一番腹を立てていたのは父親が子どもの勉強や成績に全く関心を示さないことであったり、成績が悪いのは家で勉強させない母親のせいだと言われたためだったのがわかったことがありました。
 公立学校、そして教師は、教育の不満のゴミ捨て場になっています。
 マスコミがゴミ収集車です。
 どうにかそのゴミを分別して、燃やしたり、資源にしたり、そのまま埋めたりして子どものためになる方向に持っていきたいものです。
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教師が教育したい保護者と教師を教育したい保護者

 少人数指導でないと、気の弱い教師はもたないかもしれない・・・と思うようになったのは、教室にいる子どもの背後にいる「コドモ」の手強さが尋常でなくなってきているからです。
 一人親家庭がゼロだとすると、40人学級で、最大120人の大小の「コドモ」の相手をしなければなりません。
 私の場合は祖父母にまで動員をかけても無駄だった経験がありました。
 教師が子どもを叱れなくなっている背景の一つに、背後のコドモへの刺激を恐れる傾向が強まっていることがあげられます。
 藤原前校長はこの状況を「少子化」ではなく「多子化」の進行という問題とよんでいました。
 ところで、新学年が始まったばかりなのでどの学校でもPTA役員決めのための保護者会が開かれると思います。
 多くの学校では、教師と保護者が対面し、懇談して終わりなのでしょうが、「保護者教育」という観点から、ここでたとえば警察や裁判所、弁護士、保護司など、地域でお世話になる可能性がある外部の人々の話を聞く会も開くなど、「PTA」以外の学校を支える組織を構築して活用することが課題となってくることでしょう。
 教師が教育したい保護者もいれば、教師を教育したい保護者もいます。
 「そういう教え方ではだめだ!」「教師に私が教え方を教えてあげる」という保護者も登場するようになりました。
 塾を崇拝する親の場合は、塾の学習の障害になるので宿題は出すなと要求してきたり、塾と同じような教え方や教材を望んだりする傾向も強まっています。
 行政には「想定問答集」というものが必ずあるものですが、学校ごとにそれ自体を公開していくというのもおもしろいかもしれません。
 Aタイプの保護者が~と要望してきた場合・・・・ 
 Aと正反対のBタイプの保護者が同じ要求をしてきた場合・・・・
 くれぐれも、クレームデビュー時の対応で失敗しないように・・・・
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「黙々と」しゃべる教師

 十牛図ー3 見牛
 十牛図の第三図は、牧人が探し求めた牛を発見した場面です。
 何が牛を見るのか。どのように近づけばよいのか。
 禅では、「ただなりきって見る」ことを教えます。
 今、子どもがゲーム三昧の時間を過ごしているとして、それを釈尊が見たらどう表現するのでしょう。
 子どもはもしかしたら禅の境地というのを経験しているのかもしれません。
 「そんなところで座禅を組んだら邪魔だからどけ!」と言われた昔の僧はどう対応していたのでしょう。
 仏教の世界では「捨置」といって、言葉が通用しない世界の問いには答えないという姿勢が紹介されます。
 質問が質問として成立しない世界が意識の中で創造されているとしたら、これもある立場の人から見たら都合がよいものだったのもしれません。
 今の大人社会では、「ただ黙々と何かをする」機会が失われてしまっています。
 仕事に集中したくても、携帯は鳴るし、お客さんは来るし・・・。
 家にいても、見たいテレビの時間は気になるし・・・。
 ただ、教師には、「黙々と」しゃべるタイプの人がいます。
 子どもも話しかけにくいというか、「邪魔するのは悪い」と感じさせるタイプの人ですね。
 逆に、不思議と無口のタイプの教師というのもいます。
 教科書の内容を教えるという意味ではしゃべっていますが、話しかけても会話が成立しにくいタイプ。
 「静」と「動」の両タイプのコミュニケーション不全の例ですが、ある禅僧の言葉もかみしめておかなければなりません。
 

いまは体を動かして、掃除や草むしりをしている。そしていまは心を静めて坐禅をしている。・・・などと思って、身と心、動と静を分けて修行するのは、真の禅修行ではない。
 自分は動と静との組み合わせからなると考えること、自分は身と心との二つから構成されていると考えることは、あるがままにある存在の流れを無理にせき止め、元のありようを変えてしまうことである。
 動と静、身と心の二つを分けずに、ただ、ただ、なりきり、なりきって修行せよ。

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今の子どもには損を甘受しろと?

 「改善された学習指導要領」が告示されたのに、「改善される前の“問題がある”学習指導要領」に沿って教育を受ける今の世代は、将来何とよばれることになるのでしょう?
 中学校で新学習指導要領が平成24年に完全実施になっても、小学校の5年間は旧課程で学んだ子どもたちです。平成23年に小学校に入学して新教育課程を受けるようになった1年生が、中学校3年になる平成31年には、すでに次の学習指導要領が告示されているわけです。
 どこから「新学習指導要領の成果」が測れるのでしょうか?
 いずれにせよ、公立学校の入試問題に影響があるわけではないのですが、「何だか損をしている感じ」が子どもにも保護者にもあるのではないでしょうか。
 そのことについて、学校はどのように回答することができるのでしょう。
 「移行期間」の計画と指導のねらいはすでに練られているでしょうか。
 まだ新学習指導要領の解説も教科書もできてないわけだから、それができた後でよい、ということでしょうか。
 中学受験を指導する塾のテキストを見ると、そんなことはおかまいなしの高度な内容をずーっと変わらず教え込んでいるようです。塾の教育?を受けている子どもたちやその保護者にはほとんど関係がない話なのかもしれませんが、「塾にいかなくてもすむ学校教育」などという難問をつきつけられている公立学校にできることとは何でしょうか。
 新学習指導要領の内容、改訂の趣旨、移行期間の課題については、講習の機会が多いかと思いますが、文科省はいちいち学校や研究会に出て行って話をするのではなく、HPに動画による解説を載せ、教員だけでなく保護者もすべて勉強できるようにするといいですね。「親は知っているのに先生は知らなかった」という恥を避けるために教員も熱心に見てくれるかもしれません。
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言葉とは心にまかれた塵である

十牛図ー2 見跡
 十牛図の第二図は、牧人が逃げた牛の足跡を見つけた場面です。
 牛の足跡とは何か。
 ここで禅では、仏教の大きな原理である「縁起」に気づくことになります。
 「縁起を見るものは法(真理)を見、法を見るものは縁起を見る」
・・・・「生まれてから最初の思い出は何か」と問われて、人はおそらく他人が見る自分、思い出される映像があって、生まれ出ていた自分が設定できる。
 足跡は牛ではない。
 当たり前のことですが、言葉はそれが指し示す現象そのものではありません。
 しかし人間はとかく、「言葉」に弱い。特に「言霊」という文化を持つ日本人は弱い。
 「火」と口に出して言っても、口が熱くなるわけではない。しかし、「学力低下」「教科書がおかしい」と口に出し、「そういうものだ」と与えられる認識にとどまってしまう。
 言葉がもつ限界を知っていながらも、それによって大きく左右されるのが人間です。
 言葉の限界をしっかり認識できると、「判断する主体のありようが変われば、判断される内容も変わってくる」という当然のことに気づきます。
 与えられる認識ではなく、養成される認識へ。
 子どもにも教師にも求められているのはまさにここです。
 現行の学習指導要領の大きな柱もそこにありました。
 恩師が残した言葉に、「生徒のことは生徒に聴け」というものがあります。
 著書の中では、「言葉というものは、自分で心にまいた塵ほこりである」という一文が印象に残っています。
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十牛図ー1 一人一宇宙

 十牛図は、飼っている牛が逃げたことに気づいた牧人が牛を探し求める場面から始まります。
 牛が逃げているとはどういうことか。
 なぜ牛を探さなければならないのか。
 この段階では、「自分」とは何かをまず明らかにすることが求められています。
 いかに(当為)よりまず何(存在)を知る。
 どうしたら「自分」が見つけられるか。答えがこの後に続くわけですが、著書が述べている「一人一宇宙」については、以前に私もブログでふれたことがあります。
 自分が向き合っているこの世界の一瞬は、人間だけでも60億以上の選択の組み合わせによって無数の結果があるなかのただ一つであり、それが常に連続しているわけです。
 気が遠くなるほどなどという程度の言葉では表現できないほどの小さい確率で、常に「いま」がある。
 次の一瞬には、そこからまた数え切れない別々の一瞬が生まれ、世界は無限大に分かれていく。
 ですから、自分にとっての「いま」の一瞬は、他の人の次の一瞬には全く別々の「いま」になっているわけで、著者はこのことを他人と自分は別々の宇宙に住んでいると表現していますが、私は逆に、常に「一瞬」だけ、世界は共有されていると考えています。
 禅ではここで時間も空間も自分も存在しないことに気づかなければなりませんが、私はそのことは置いておき、宝くじに当たるよりはるかに低い確率でおこっている目の前のことを「どのような姿勢」で受け止めるべきなのかを考えます。
 どうしたら「この一瞬」の自分ではなく、「次の一瞬」の自分を自覚できるか。
 「新しい自分」のイメージが持てるようになると、次のステージに進めます。
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禅の心と教育現場

 牧人(=真の自分を追い求める自分)と牛(=真の自分)とを登場させて人生を考えさせる「十牛図」は、中国の北宋時代の僧の創案といわれています。
 横山紘一著「十牛図入門」幻冬舎新書は、書名どおり簡単な解説書です。
 苦しみに満ちた教師としての一生はこの十牛図によってどのように救われるでしょうか。
 著書で整理されている「自分探しの旅」とは以下のようなものです。
自分とは何かと追求・探究する情熱を学ぶ(第一図「尋牛(じんぎゅう)」・第二図「見跡(けんせき)」)
「偽りの自分」が次第に薄れて、「新しい自分」「真の自分」がますますはっきりとあらわれてくる喜びを学ぶ(第三図「見牛(けんぎゅう)」・第四図「得牛(とくぎゅう)」)
自分を励まし、社会の中で他者のために生きる意義を学ぶ(第五図「牧牛(ぼくぎゅう)」)
自分の中に、もうこれで大丈夫だと満足するものがあることを学ぶ(第六図「騎牛帰家(きぎゅうきけ)」)
自分の死への恐怖をなくすことができることを学ぶ(第七図「忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん」)
自分を空じきった心境の素晴らしさを学ぶ(第八図「人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)」)
自分と他者とを平等視して、他者の幸福のために生きることの素晴らしさを学ぶ(第九図「返本還源(へんぽんげんげん)」・第十図「入廛垂手(にってんすいしゅ)」)
 著者は「自己究明」「生死解決」「他者救済」の三つを「十牛図」から学べることとしていますが、「静かに考える心」としての禅を帰りの会(学活・終礼)の冒頭で実践している立場から、少し考えていきたいと思います。
 「他者救済」に行き着く人間の精神は、統治者からすると都合がよいものなので、日本の教育現場ではけっして定着させることができないものでしょうが、夢は捨てないでいこうと思います。
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教員による教員のための家庭訪問

 「正義の正体」(集英社インターナショナル)で佐藤優が外交官試験について紹介している箇所があります。
 

外務省の専門職員試験はあまり一次のペーパー試験を重視していなくて、面接のほうにかなり力を入れているんです。というのも、やっぱり試験の面だと女子のほうが優秀なので、筆記だけで勝負させてしまうと8割方が女の子で埋まってしまうというんです。
 でも、そこで男子が有利(?ママ)かといえば、こいつは体力がありそうかだとか、根気がありそうだとか、あとは情緒が安定しているかなんてことまで含めて、かなり細かい部分まで面接でチェックされています。僕らの時代にはそれに加えて家庭訪問なんてものまでありましたね。
 今は家庭訪問は人権上の問題だということでやめちゃったんですが、僕はするべきだと思っています。どういう家庭で生まれて、どういう育ち方をして、どういう感覚の持ち主なのかとすべて調べる。当時の外務省はそれくらい試験に情熱をかけていたんだと思います。それは人材がすべてだという発想の裏返しだったと思うんですよ。

 試験の成績で女性優位は教員も同じ。しかし女性ばかり採用するわけにはいかないので、少しでも見込みのある男性を合格させるのも同じ。人材がすべてだということも同じ。
 家庭訪問というのも、不可能であるにしろ、「片づけができないこいつは家の部屋もたいへんなものだろう」とか、「何でもママがしてくれている子どもなのだろう」とかいう教員がいる(欠勤の連絡が母親からの電話で、勘違いした教師が「(そういう名前の生徒はいないので)学校が違うのでは?」と言ってしまったという話も)ので、何か教育する手段がほしいと人事部は考えていると思います。
 実際、教員が不登校になると管理職などが家庭訪問しますし、失踪すると手がかりを求めて警察と部屋に入る可能性もある。
 「結局、教員もどういう家庭で育ったか、どういう教育を受けてきたかがでかいなあ」という言葉を残して退職された人もいました。
 今後、大量退職に伴って教員採用のハードルがどんどん下がっていきます。
 すると求められるのは研修の充実ということなんですが、行政はどこもその予算を削れるだけ削っている。
 あとは現場の教育力にかかっているわけです。(新人に逆教育されないように勉強しておくことも大事)
 ところで、若手のとき、先輩教師に叱られたことってどんなことがあるのでしょう。
 私は今でも指導してもらって感謝したいことがたくさんありますが、先生方はどうなのでしょう。
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伝統・文化の教育に関して

 ~よたよたあひるさんのコメントから~
 

学習指導要領の記述以前に、日本の「伝統」や「文化」って何であるのか、きちんと考えている人は非常に少ないと思います。今や、「伝統のようなもの」「日本の文化っぽいもの」、つまり、フェイク日本文化ばかりなんじゃないか、と思ったりするわけです。

 内容論的には、東京都には「日本の伝統・文化理解教育推進事業」というものがあります。
 ここに含まれていないものにも、海外から日本が高く評価される国際的な特色としての「伝統」「文化」には、実にさまざまなジャンルのものがあります。
 歴史にさかのぼってそれを紹介しようとすると、「おまえは扶桑社の人間か」などとすぐ言われてしまいますが、「昔はこうだったのに、今は何だ」という嘆き節にも聞こえない純粋な「よき日本観」に一度は子どもを触れさせたいという願望は持っています。
 「闇社会の守護神」田中森一と「外務省のラスプーチン」佐藤優の対談書「正義の正体」(集英社インターナショナル)には、「人間」共通の豊かな伝統・文化を感じさせるくだりが何カ所か見られます。
 日本独自の伝統や文化もいいですが、世界と共通性があるよい伝統・文化に目を開かせる教育も必要かと思います。
 日本では、「宗教」に関して特異な国のように見られますが、さまざまな宗教からその良いところをピックアップして、「よりよく生きる」ヒントにしていけるような教材がもっとあってもいいかもしれません。
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学校の基本政策=教育課程

 子どもの教育について、政府は学校現場をあてにするしかないのに対し、教員は政府をあてにするか、批判ばかりする。
 政策というのは、実施者が立案するのが現場を知っているだけに一番よいのですが、各学校が編成している「教育課程」の編成、実施、そしてその評価に、校内のだれがどのくらいの密度でかかわっているか。
 学校の弱さが露呈されるところです。
 政府の政策などという非常に大きな枠組みについて口を出す割に、自分の勤務校の教育課程の編成にほとんどかかわっていない教員も多いはず。
 教育課程は学校の基本政策であり、これに数値目標などを入れればマニュフェストになります。
 「教育の成果は数字では図れない」という言い訳ももっともですが、子どもに評定をつけざるを得ないように、教育の成果も数字ではっきり示せるものを開発して、予算を獲得する努力を行政ではなく学校単位で進めていく必要があります。
 「学習指導要領のここがダメ」と言う前に、自分の学校の教育のここが課題、自分の授業のここが問題、そこから何を学校や自分がすべきかを「心の中」にとどめておかず、しっかり文書にしておく。公表するかしないかはそれぞれの課題に応じて判断するとして、情報公開を求められたら堂々と開示する。
 マスコミは人のことだけ批判するのが商売ですからNHKのような団体も存在してよいのでしょうが、教師に果たしてそれが許されるのか。
 学校では「国や郷土を愛する心を育む教育がどの程度実現できたか」などという項目をきちんと評価して次年度の編成・実施に生かすところはほとんどないでしょう。
 教員世界の文化も決して捨てたものではなく、義理と人情で生きていながら、政府に対立する基調をオープンにすると教育上では都合が悪いため、せっかくのよい日本特有の文化が子どもに伝わりません。
 「うちの学校をまねさせてごらん」と政府に言える学校づくりを進めたいものです。
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全国学力調査で分析可能なこと

 学力調査の結果で分析してみる価値があるのは、学校内の得点分布や評定との相関です。
 校内・地域内の学力格差や評定の信頼性は、平均点からだけでは見えません。
 以前の相対評価では、正規分布といって、真ん中にヤマがあり、成績上位と下位にいくにつれて人数が減っていく分布を前提にして評定がつけられていました。
 現在の絶対評価では、たとえば東京都が公表しているデータによると、平成20年度は全教科の平均で、5(十分満足のうち特に優れている)が13.5%、4(十分満足)が25.9%、3(おおむね満足)が42.7%、2が13.6%、1が4.3%で、かなりよい方に偏っている分布になっています。 
 学習指導要領が最低基準を示すものだとすると、学校としては少なくとも1や2を減らす努力をするよう指導されますので、1や2がつかないような基準をつくった結果、「満足できない」状況にある生徒は18%しかいないことになっていますが、いかがでしょうか。
 学力低下大合唱に乗っている人から見れば、「こんな評定は信用できない」と思われるかもしれませんが、評価の信頼性を担保する手段として、全国の学力調査の結果を使うという手も考えられます。
 ただ、公立高校の入試問題以上にこの調査の問題は易しすぎるので、分析方法は限られてきます。
 本当に、「満足できない」学習状況の子どもは5人に1人もいないのか。
 余談になりますが、新しい学習指導要領が完全実施になると、この割合は確実に増えることが予想されます。
 その20%の子どもが抱えている学力格差を埋める努力をすることを教育課程でうたっておきながら、十分に指導していないのが公立学校であり、いままで選択教科で補習的な学習をしてきた学校が、その時数削減によってそれすらできなくなる危惧があります。
 その問題を、通常の授業でクリアしていくために欠かせない存在として、成績上位層の存在を以前に述べました。では、学習状況が「十分満足である」(観点別評価ならAがつく生徒)が、本当に39.4%もいるのか。
 この約4割の生徒を抽出して、全国学力調査の平均点を比較するという方法も考えられます。
 しかし、犬山市を筆頭に、「信頼できないデータ」を集計しようとする行政は今の日本にはどこにもいないでしょうから、行政のひもつきでない研究機関が果たすべき存在意義が問われてきます。
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道徳教育の目標は官僚の資質向上にあり?

 よたよたあひるさん、以下のコメント&トラックバックありがとうございました。
 

常々、「愛国心教育」に関する議論にもう一つ納得いかないところがあったものですから、こちらの記事の最後の部分を引用させていただきました。多分、kurazohさんとは、考え方の違いもあるだろうなとは思いつつ、このあたりをもっと丁寧に議論できたらいいと考えています。

 多くの日本人は、「国」と聞いたときに、すぐに「政府」や「国家機関」、「戦争」を連想してしまうのです。
 公共空間の中の自分ではなく、「私共空間」の中の自分しかイメージできず、「国」は他人事、と捉えてしまう感性は、教育によって育まれてしまったものなのか、教育できなかったためのものなのか。
 自己究明の意識が剥落しているこういう人たちには、横山紘一著「十牛図入門」(幻冬舎新書)などを読んでもらいたいものです。
 「国家機関」の一線にあった人たちの言葉を聞くと、「国」に対する意識のレベルの違いを思い知らされますが、官僚や教師に「国を愛する心」がなかったとしたら、喜ぶのはだれでしょう。
 その喜ぶ人たちのために生きている日本人というレッテルを私がはるつもりはありませんが、誤解を招く発言がとかく教師からは出やすいものです。
 佐藤優・村上正邦著「大和ごころ入門」(扶桑社)から、佐藤優の言葉の一部を引用します。
 
能力が基準に達していないキャリア官僚が尊大な態度をとっている。このような輩によるセクハラ、パワハラが横行している。ノンキャリアにはいじけた専門家が多く、モラルも低いので、能力が国際基準に達していない。その根源は日本国家と日本人同胞に対する愛が欠けているからである。ソ連共産党の官僚の多くも、優秀であるが、出世のためにマルクス・レーニン主義を信奉しているふりをしているだけで、ソ連国家とソ連人同胞に対する愛が欠如していた。

 佐藤優は、本省勤務に入ったとき、ソ連という国家が崩壊したときと同じ雰囲気を霞ヶ関で感じたといいます。
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公立学校の優れた環境とは

 藤原和博著「バカ親、バカ教師にもほどがある」(PHP新書)には、14のケースの「バカ親」が登場しますが、私から見れば「その対応のあり方で教師としての力量が問われる」ものばかりでした。
 また、「バカ親」のクレームへの具体的な対応力が乏しい学校には、子どもを通わせたくないと思うのが普通だろうと「バカ親」に同情してしまったりもします。
 生徒・保護者=お客様の私立学校の経営者がこの本を読んだら、「だから公立はダメなんだ」と納得されてしまうような事例も紹介されています。
 「クレーム」こそ保護者を「教育」に引き込み、巻き込んでいくチャンスと考えると、公立学校はもしかしたら私立学校よりも「教育」をしやすい環境なのかもしれません。
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藤原前校長が越えられなかった壁

 藤原和博著「バカ親、バカ教師にもほどがある」(PHP新書)を読んで、長い間抱いていた違和感(経営者であっても教育者ではないなという感覚)の原因がわかりました。この本は、和田中の教師や親を非難する形にしないために、川端裕人が聞き手になって、藤原前校長がこたえるという体裁になっています。本のタイトルにある「バカ教師」の記述は少なく、全体としては教師・学校擁護の内容になっています。
 違和感の具体的な内容は示しませんが、結局藤原前校長は、優秀な教師やよい授業というものにあまり出会ったことがなかったのだということです。
 現役の教師にそれを期待してなかったから、自身で授業づくりをし、ゲストティーチャーを招き、カメラを入れて教壇に立ったのでしょう。
 ダメ教師に対しても、「それが子どもの自立を促進する」という褒め殺し?のような表現をしていました。
 ご自分はそれで成功してきたのでしょう。 
 もしかしたら、「優秀な教師だ」というふれこみで異動してきた教員が、全くの期待はずれで、行政の人間の「人を見る目のなさ」に落胆し続けていたのかもしれません。
 教員への不信は、「六時間の授業にじっとたえて受け続ける子ども」への同情になり、教員以外の人とのかかわりを重視するようになっています。
 また、教員が対処すべきトラブルと対処不能なトラブルをまとめ、たとえばソーシャルワーカーを増やすべきという提言をしていますが、公立学校に求められている機能を放棄する宣言に見えました。
 以前からの著書で「校長」という立場の「力のなさ」はくどいほど強調していましたから「責任に見合わない待遇への不満」が強いことはわかっていましたが、結局「公立学校の校長の意識改革」は促せずに現場を去ることになってしまいました。
 心ある教員や校長は、藤原前校長があきらめた大きな壁を越えようと今も励んでいるのです。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より