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行政の人材不足の深刻化と法改正

 行政に対する批判を専門にしている方々がいらっしゃいます。
 行政経験がある私にも、内部で批判したかったことは山ほどありました。
 ただ、行政現場は「責任範囲」が非常にせまい。末端になればなるほどせまく、係長や課長といっても、活動範囲は限定されています。基本的には、自分の責任のある範囲のことをしっかりやる。人事の専門は人事の専門として、教師の処分ばかりやっている。経理は経理。経営は経営。
 それぞれが担当の責任のもとで学校に調査を出す。それがなければ仕事ができない。
 しかし現場(副校長)は調査の山の処理に追われる(校長と副校長でちゃんと分担すればよいがほとんど副校長まかせになるケースが多い)。
 数も少なく規模も小さいですが私の提案で実現してもらえた改革もありました。しかし、なかなか行政と現場の乖離は解消されません。
 文科省のキャリアが現場を見ているようですが、教員から言えばこうした「事務」の人が教育の根本を支えているとは想像もつかないことです。
 国と地方ではレベルも異なっているかもしれませんが、地方の行政の大きな問題は、自治体内では異動があっても、その役所からは出ないこと。外の論理にふれる機会がない。だから問題が見えにくいことが問題なのです。たまに陳情にくる人がいても、話を聞いてあげて、「検討します」と言っておけば、その担当者の任務は終わり。
 教育行政の具体的な問題は、教育の専門家でもなければ現場も知らない人が、過去を踏襲しながら教育以外の専門家のいうことをつまみ上げて改革に着手していること。教育行政に入った教育の専門家である指導主事が言うべきことを言わないこと。改革を軌道に乗せる具体的な戦略を現場が発信する能力がないこと。改革への反対の声を真に受け、「現場を信じている」と言って心中しようとしているトップがいること。
 一番大きな問題は、行政の方には失礼かもしれませんが、組織内でも気付いていらっしゃる人が多いと思うのであえて言うと、「人材がいなくなっていること」。
 行政というのは、これが究極的に優れたものになってしまうと、「議会」が不要のものになる、という性質があります。立法も「はい、その通り、いい法律案ですね、通しましょう」ばっかりだと、審議する必要がない。国会議員が地元のためだけに求めるようなものではなく、今、国民に必要なものを自らとらえ、政策を立案し、制度化して、実施する。究極の政府というのはそういうものかもしれません。国会議員の数は、半分以下でも全然問題ない。
 逆に考えると「いいかげんな行政」というのが「議会」の存在価値を高める条件になっているわけですが(「議員」の質についてはここでは脇に置いておき)、その行政の人材の質の低下が激しい。
 なお、それは、次のようなデータをもとにして言っているわけではありません。
 ここのところ、東大法学部の上位成績者が、官僚を目指さず、もっと高い収入が得られる職を選ぶようになっている。どちらかというと成績の良くない者が官僚を目指す・・・・。天下りがなくなると、官僚になるメリットはない・・・。「国家」のことなどより、「自分の生活」を楽しみたい・・・・。
 改正教育基本法などで「個人主義」から「公共の精神」へのシフトが見られるのは、国家による統制を強めようとすることではなくて、統制ができるような人材が国家機関からいなくなりつつあるという危惧があるからではないか。人材確保というのは、あらゆる組織でつねに重要な関心事ですが、最も危機感が高いのは霞ヶ関なのではないか。教師の質の確保といったレベルではないかもしれない。
 私のような教員が知り得る官僚の範囲は限られているのですが、「これで大丈夫なのか」と思う場面が過去にいくつかありました。ニュースにも大勢登場するようになっています。
 現場にある身としては人ごとのようになってしまいましたが、国民の立場で言うと、人ごとではない。
 政治家は選挙で変わるが、官僚は2~3年ごとに順送りでポストにつく人が入れ替わっている。
 昔、ゆとりスポークスマンがテレビに露出していましたが、ああいう官僚が増えてもいいのかもしれません。
 「この人には任せられない」という世論が行政にはたらいてもいいのでは・・・?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より