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2008年3月

新学習指導要領の道徳について

 新学習指導要領の総則に示された教育課程編成の一般方針の中の、道徳教育に関する記述を文科省HPから引用します。下線部のところが、2月に出された案では書かれていなかった内容です。
 

学校における道徳教育は,道徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳の時間はもとより,各教科,総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて,生徒の発達の段階を考慮して,適切な指導を行わなければならない。
 道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏(い)敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓(ひら)く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。
 道徳教育を進めるに当たっては,教師と生徒及び生徒相互の人間関係を深めるとともに,生徒が道徳的価値に基づいた人間としての生き方についての自覚を深め,家庭や地域社会との連携を図りながら,職場体験活動やボランティア活動,自然体験活動などの豊かな体験を通して生徒の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。その際,特に生徒が自他の生命を尊重し,規律ある生活ができ,自分の将来を考え,法やきまりの意義の理解を深め,主体的に社会の形成に参画し,国際社会に生きる日本人としての自覚を身に付けるようにすることなどに配慮しなければならない。

 ここで「我が国と国土を愛し」の部分が加えられたことに批判的な方がたくさんいらっしゃいます。
 改正教育基本法の理念を受けているところなので、唐突すぎる加筆ではないのですが、「他国を尊重し」という文言が入ったとしても、やはりインパクトが大きいようです。
(なお、内容の「4 主として集団や社会とのかかわりに関すること」の(9)に「日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する。」とあるのは、案と変更がありません。)
 実はこのようなこと(学習指導要領に「国を愛する」という記述があること)に批判的な考えをもっているのは大人だけではなくて、子どもたちの方にも、マスコミ等を通じて定着しようとしています。
 社会科を教えていてここ十数年の子どもの変容を見ていると、「国」「政府」「政治家」に対して感じているマイナス印象は強まるばかりです。
 「できて当たり前」の部分はいっさい報道されませんから、「悪いことばかりしている」印象しか子どもには残りません。
 教育現場でもマスコミの後追いをした方が子どもの受けはいいし、「リベラル」の空気はいかにも快適なのでしょう。
 しかし、問題は、批判するしか能のない人間ではなく、本当に日本の舵取りを任せられる人材を育成できるかどうかが教育に問われているわけです。何も政府の言いなりになる人間が期待される「国を愛する」人間ではなく、国を支えていけるような人材というものを育てていきたいものです。国を支えるのはエリートだけではないことは言うまでもありません。
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犬山市の「攻め」と「逃げ」

ぺっしんさん、以下のコメントありがとうございました。

3/30のバンキシャの報道を見て教育委員会のすばらしい取り組みに、本当の教育はやればできるんだなと感激しました。当方も年長の子供がおりますので、出来るのなら愛知県犬山市に引っ越したくなりました。全国統一テストなど無意味です。サンプルだったら任意の各県1校やればいいのです。それより教師が子供と向き合える環境、手をかけられる環境を作る姿勢に共感いたしました。いい齢ですが私が犬山市の小学校に入学したくなったほどです。教育するのは現場の教師です、どうぞ国には左右されないで下さい。

 犬山市だけでなく、いまはどこの教育委員会も独自性を出そうと必死です。
 市教育委員会の存在意義が問われているからです。
 背景には、自治体が分権にたえられる「体力」を備えているかどうかが求められていることがあります。
 これまでは、「金がない」で逃げてきていました。
 学校は、「教師を増やさないと無理」といって逃げてきました。
 「本当の教育」の成果はいかなる方法でも測定困難であり、50年後に実感できるような質のものかもしれません。しかし、「知徳体」のうち、「知」の面で「特色ある教育」を実施するためには、国語・算数の最低学力の保障がどうしても必要になるというのがようやく常識となりました。
 今までの各校ごとの教育課程は、まるで最低学力が十分に保障されているのが前提の文言が多く、「絵空事」にすぎないことが(調査をするまでもないことだったのですが)明白になりました。
 学習指導要領の最低基準性は学校には酷な責務なのですが、公立学校の存在意義はそこにあるわけです。
 最近はようやく公立学校の一部が「知」の面でレベルの高い教育を提供できるようになっていますが、現状では私立や国立に「基準以上のレベル」の教育は任されているのが現状でしょう。
 都道府県レベルでも、市区町村レベルでも、「学力調査」というのはおおはやりです。
 これは、国が実施するような簡単すぎる問題では本当に調べたい力が測定できないという課題もあるわけで、今後は調査の重複を避ける意味で、調べたい目的に応じて区市町村が選択できるよう、いくつかのパターンを用意するということも現実的な施策になるかもしれません。一部の私立のレベルでは全員ができることがわかりきっているので時間の無駄でしかないのです。
 「参加しない」という選択肢もあっていいのでしょうが、せっかく犬山市の教育の成果を子どもにも実感させることができたのに、もったいないことです。
 くどいようですが、文科省の学力調査で測定できるのは「知」の領域のそれも最低限度のレベルのものなので、これを通して、子どもの学力が本当に自分の自治体では保障されているかどうかを保護者が判断できればよいのです。「うちの市では立派な教育をしていますよ」というメッセージに、そしてその一部だけを取り上げた報道に、他の自治体の人は「いいなあ」と思うのは本当に日本人らしい反応ですね。
 「よいものは常に外にある」と思うのが日本の典型的な精神構造です。
 市のレベルで独自の教育政策ができることが理想かもしれませんが、「知」のレベルでは中上位の子どもの多くが教育産業に助けられていることも忘れてはいけませんし、まだ現状では人事権をもっている都道府県レベルでの施策の充実も求められています。
 現場の教師は、学習指導要領という教育の最低基準を示したものを熟読して、各校の教育課程で示されたさまざまなねらいを達成するための手段を子どもの実態をふまえて練り上げ、教育を実施し、適切に評価して、つねに指導の改善に役立てる工夫をしなければなりません。
 残念ながら犬山市は、「攻めの政策」をとっていながら、「成果の測定・評価では逃げる」自治体、「子どもと教員をかばう」自治体にしか見えません。
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二面性と多面性の違いとは?

 「国を愛する心を育てる」教育を批判しているメディアが、桜や紅葉の季節になると、「日本に生まれてよかった」などと報道する。
 しかし、こういう態度をとることによって、子どもたちに「日本の大人はおかしい」という心情を植え付けることで、「国を愛せない心を育てる」ことにメディアは成功しているようです。
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中学生に必要な「もとは同じ」感覚

 昔から、地方の純朴な生徒は、都市部の学校に行くと、感化されて、たちまちに悪くなる。
 または、カルチャーショックを受けて、外の風に耐えられずに引きこもる。
 こういうことをよく耳にします。
 高校側は、「免疫力が弱い」「社会を知らない」と批判する。
 中学校側は、「そっちの教育がなってない」と反論する。
 都市部にある私の学校では、修学旅行がコース別に企画されており、1クラス規模の単位で学習します。
 私のコースでは、山間部にある中学校との交流が実現し、2時間ほどでしたが楽しい時間を過ごすことができました。合唱発表、総合的な学習の時間の研究発表、ゲームによるレクなどを行いましたが、「学び」の質は全国どこでも同じであることが実感できました。
 学習指導要領に基づく日本の教育が悪いと批判する人もいるようですが、学習面で安心して子どもが交流しあえるのは中学校までの教育の特色です。
 これが高校となると、スクールライフ以外の部分の比重というか現実味がクローズアップされてくる。
 隠れてでもアルバイトをしないといけない高校生もいるし、遊びが中心の子も増える。
 一方で、スポーツ一本槍、大学受験まっしぐらの子どもも増えて、「個別性」が高まるのが高校です。
 「もとは同じ」であるのに、そのことが実感できないで多様な「個別性」にふれると、子ども達は「自分とは違う人間」「人と違う自分」に戸惑うことになります。
 「全国大会」がある活動に参加し、勝ち残ってくる中学生はごく一部なので、多くの子どもは「もとは同じ」体験ができない。
 人間理解を深めようとするとき、同年齢の子ども達の交流がもっとあってもいいように思います。
 国語の入試問題では、そういう主人公が登場する素材がよく使われますが、「文章を読んでわかる範囲」のレベルではなく、やはり実際に会話をかわすなかで育まれていく相互理解が大事でしょう。
 ゲームを通しての交流でもいいのですが、現実世界での交流が少なくなっていることが、直近のさまざまな犯罪の原因の一つであることは間違いないようです。
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歳をとるほど時間が早く流れる理由

 『41歳からの哲学』(新潮社・・・週刊新潮の連載をまとめたもの)の中で著者の池田晶子は、「歳をとるほどに時間がたつのを早く感じるのはなぜか」という問いに対して、次のような仮説を述べています。
 

子どもの時間が遅いのは、肉体が完成に向けて努力しているからで、山登りにたとえると、頂上を目指して登っている最中だからである。そして、いったん頂上に登ってしまえば、あとは下りるだけ。下りる方が登る方より早い。あるいは作るより壊す方が早い。

 こういう話を聞くと、「ただ漫然と下りる」のはやめよう、と自戒の念が持てるようになります。
 歳をとっても、学校を建て直すような経験をするときは登山と同じで、1年が経つのが異様に長く感じる(多くの教師は早く土曜日曜にならないかと月曜から考えている)ものです。いったん落ち着いてくると、ああ、もう卒業か、ということになる。後者の感想というのも悲しいものです。油断しているとまた奈落の底に落ちてゆく。
 「縦走」という道もまた生きがいを持てる生き方かもしれません。
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私共空間と公共の「命」の重さ

 親の子殺し(虐待死)のニュースは当たり前のようになった日本ですが、小中学生の自殺、無差別殺人のニュースは、幾分かの人々に「臨界点」までの距離を感じさせるきっかけになったのではないでしょうか。

 なぜ世間では「普通の人」「おとなしい人」と見られている人が「だれでもよい」と言って殺人を犯すのか、なぜ小学生が失言の責任を自らの命で償おうとするのか。

 その解明をメディアで示すのは発言者に危険を伴う行為であるためか、あるいはプライバシー保護のためか、突っ込んだ報道は行われていないようです。

 そろそろ、得体が知れない「日本型殺人」の歯止めのための何かを真剣に求める風潮が表れてくるでしょう。

 学校では、「命の大切さ」を訴える道徳授業を展開しようとしても、子どもの「うさんくささを嗅ぎ分ける鋭い感覚」に耐えられる実践ができるかどうかが不安になります。

 ダントツ一位が中国で千人以上。二位がイラン、三位がサウジアラビア、四位がアメリカ・・・日本は一人で十九位。このランキングは何かというと、2005年の死刑執行数です。

 これを経年で調べていけば、死刑が犯罪の抑止力になっているかどうかがわかりますが、世界の情勢としては、死刑は廃止の方向に向かっています。その理由の一つに、たとえばテロの実行犯が死刑執行された場合、かえって殉教者となってしまうということがあります。

 「刑務所に入れるので人を殺す」という殺人の動機はどう考えたらよいのでしょう?

 学校で校則を決めると、それを破ることで目立とうとする生徒が出てきます。

 私が使っている「私共(わたくしども)空間」というのは、公共の場で自分勝手なことが行われるところを意味しますが、日本人はその空間への親和性が高く、行動も極端に走りやすい特徴を持っています。
以前にも高校世界史未履修問題にふれましたが、飲酒運転も同じ根の行動です。懲戒免職の教員が出ても、抑止力にならないのは、公共の精神が欠如しているだけでなく、私共空間の論理が強固だからです。

 「落ち着いた学校」という現場では、たいてい「公共の精神」が豊かに育まれています(まれに抑止力が強い学校がありますが、そうした偽物は「高校デビュー」が多くなるのですぐにばれます)。

 「公共の精神」というと「滅私奉公」をすぐにイメージする人が年配に多いのは仕方がないことですが、「開私公共」を重要なスローガンとしている学校なら、「私共空間」を排除する力がはたらきます。

 事実の解明は新たな差別や偏見を生む恐れもありますが、自爆テロと同じような日本における殺人や自殺を食い止めることにあらゆる組織が早く着手してほしいものです。

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夜スペを通して考える「営利活動」

 和田中の「夜スペシャル」をめぐり、杉並区民が今月の24日に授業の仮差し止めを東京地裁に申し立てたそうです。原告側の主張は、「税金で建てられた施設を一部企業の営利目的に使うのは違法」というものです。
 「子ども第一主義」をみじんも感じさせない区民の本音はすがすがしく感じますが、これが零細の学習塾経営者のグループだったとしたら、問題はちょっと複雑になったかもしれません。
 昔、私がいた自治体では、学校予算で購入できる店が決まっていました。量販店では5割引きで買えるものを、定価で買わされるので、ほとんど自腹ですますしかない。競争力をもたない企業を税金で救う論理はわからないでもありませんが、もし夜スペが地元の学習塾の通常料金どおりでその塾のアルバイト学生が教えると言っても、生徒は申し込まなかったでしょう。
 夜スペの場合には、安い上に質が高い(これは参観していないので何とも言えませんが)サービスを安全な場所で受けられる、子どもと親にとっては願ってもないことなのですが、申し立てを行った区民の「得をしている企業が許せない」という心情が記事からは伝わってきます。
 日本では、漫画やアニメ、ゲームなどのソフトが世界に受け入れられていますが、まだその重要性を社会が常識としてとらえるレベルには達していないことが、問題の背景の一部にあるような気がします。
 教育というのは、ものづくりではなく人づくりなので、ハードよりソフトの価値に大きな比重がかかっています。
 国立大学附属学校の研究発表などで歴史的遺物のような校舎に入ったことがある方は、その意味をわかっていただけると思います。
 税金で建てられた施設には、企業が生産したたくさんの備品、消耗品が税金で購入され、使われています。中学生が一年間に払う教材費はどのくらいでしょう。ドリルや問題集など、義務教育なのに有料で支払わされているものは多いのです。教材会社は学校に製品を売って儲けているのです。インターネットのプロバイダーも、学校に儲けさせてもらっています。学校の教育活動は、一部の企業の営利活動に支えられているのです。旅行業者も同じです。教員の多くは、修学旅行などで儲けさせている旅行業者を上手に活用して、個人の旅行の便宜も図ってもらっているでしょう。
 学校でさまざまなサービスを購入しているのは、自治体であり、生徒(の親)であり、教員です。
 私も夜スペに関しては、「目的外利用」という観点で難しい面があると考えていましたが、逆に、今回のことをきっかけにして、「税金で建てられた施設の有効利用」にもっと区民は関心を高めてほしいと願うようになりました。
 愚か者のトップがいることで有名になったある区では、土日の警備員をカットして、PTA活動ができないようにしてしまいました。地域の中のあれだけの施設が、年間100日以上も使用困難になるのです。
 夜スペは、通常より安い金額で授業が受けられるということは、実質的にはSAPIXが施設の使用料を受講者に戻しているということになります。すると、「得をしている受講者が悪い」ということになるのでしょうか。
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荒れた学校の子どもの演技

 毎日新聞が福岡県の荒れた中学校の特集を組んでいます。
 私もほぼ同じような学校に勤務していたので、先生方のつらさはよくわかりますが、管理職がいなくなり、教員の多くが休みがちになるようではもはや「学校閉鎖」のレベルだったのでしょう。
 教員の専門家でない行政マンのアドバイスを聞いて自滅する管理職がいますが、福岡ではどうだったのでしょう。
 町は当然のように教員の入れ替えを行うでしょうが、「出られて天国」「入って地獄」。 
 その学校への内示を受けた先生は、期待されて配置されるのですが、「なぜあんな学校に行かなければならないのか」と嘆く人も少なくないのでしょう。
 それが子どもの人権を無視した発言であることなど、当事者は気づきようがないほど余裕がないのが教員です。
 子ども達はくだらない学園もののドラマの役者を演じているのであって、彼らを盛り上げる効果がある人間が増えれば増えるほど、行動がエスカレートするのは目に見えています。演技に酔いたい子どもが求めているものはわかりきっていますので、教員が無理ならここは本物の役者の出番です。
 学校を建て直すとき、「戦場の心理学」というものが役に立ちました。
 地域では、「一人一人はいい子」と見られている子どもが学校で暴走するのはなぜか。そこにはどんな心理があるのか。
 ただ、これを知ってしまうと、平穏な学校の教員の姿に我慢ができなくなるおそれもあるので、知らないですませられればそれにこしたことはないかもしれません。
 「教師は子どもに何をしてあげられるのか。」
 その問いに答えればよいだけなのですが。
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東京都の19Aのみなさんへ

 教育管理職任用制度がゆきづまり、任用されても最悪の立場に立たされる状況が濃厚な中、現場を離れる覚悟で受験した先生方には頭が下がります。教育管理職というのは、PTAの役員と同じで、誰かがやらなければならない仕事です。
 行政に配置されることになった先生方には、厳しい風が待っていることと思いますが、おそらく面接でそれに耐えられる資質があると見込まれて任用されているでしょうから、そんな心配は余計なお世話なのでしょうが、問題はそこできちんとした勉強ができるかどうかということです。
 行政ではあらゆる発言に法的根拠や自治体・教育長の考えがバックになければならないので、学校では感じたことがない「責任感」というプレッシャーがおそってきます。ある方は1年間で失語症に近い状態になったそうです。
 ただ、行政の世界は3年たてば超ベテランになれるところです。
 中身を伴って卒業できるか、事務方レベルで終わるかは、現場の優れた校長先生、副校長先生、主任の先生方などとめぐりあい、その優れたところを吸収できるかどうかにかかっています。
 学年主任も教務主任も生活指導主任も経験したことがない人が、その経験に匹敵する学習ができるのが行政という世界です。
 苦情対応、議会対応、文書の収受や学校への文書配付と、事務事務事務の連続の中で、大切なものを見失わない指導主事をめざしてほしいと思います。
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完全に異文化の小学校

 小学校の先生、どなたかお教え下さい。
 「(ア)から(エ)の中から1つ選びなさい」という問題で、
 ( )をつけ忘れると、10点の問題だと△で5点減点する学校があります。
 (ア)と(イ)のどちらでしょう?という問題で、( )のあるなしにどんな意味があるのでしょう?
 どうして小学校ではこんなことがおこるのでしょう?
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読んでも気づかない担任?

 小学校の子どもが持ち帰ってきた文集を読むと、スリル満点の内容で満載でした。
 この子が作文で書いたこのことは、いじめではないか。
 この子は、家で虐待を受けているのではないか。
 印刷しているのは担任でしょうから、問題にはならないはずの内容でしょうが、ここまでの実態は作文を読むまでは知らなかった、という親が多いはずで、なかなかの代物です。
 卒業文集などには入念なチェックが入るはずの学校関係の出版物ですが、学年や学級単位のものにはときどききわどいものが混じってきます。
 あるいは、子どもの教育の責任は親がとるものだから、この作文を読んでわかったことをふまえ、それなりの対応をしてください、という学校側からのメッセージなのか。
 作文集には、できれば担任や学年主任、校長のコメントなどがついていると安心します。
 「何も知らないのは担任だけ」
 「作文を読んでも気づかない(ふり?の)担任」
 「何も知らないのは本人の親だけ」
 「作文はおろか学校だよりも読まない保護者」
 いろんなことに気づかされるきっかけづくりになるのはたしかです。
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笑顔のバリエーション

 ある学校の職員室を訪れたとき、その空気の「かたさ」に違和感を覚えました。
 私が入ったからということもあるかもしれませんが、そこに数人の元同僚がいて、気さくに話している中で、何だか息苦しい感じがする空気。
 教師らしい「堅さ」?
 頭の「固さ」?
 やはり表情の「硬さ」・・・が一番気がかりでした。
 行政にいたときと同じような空気。
 初めて会った人に、どういう表情を向けられるか。
 自然な表情とはどんなものでしょう。
 やはり日本では「笑顔」が基本なのではないでしょうか。
 意味のないタイミングで笑顔になる日本人の不思議を外国人は感じるかもしれませんが、私が出会った外国人は初対面は必ず笑顔で応対してくれていました。
 教室でも、今までさまざまな空気を感じる機会がありました。
 子どもや教師の「笑顔」にはどれくらいのバリエーションがあるのでしょう。
 子どもへ向ける「笑顔」のメッセージをいくつか考えてみました。
 「おれは知っているよ」
 「今日も元気だぞ」
 「昨日、巨人が大勝したよ(勝ち方によって表情が若干異なる)」
 「また寝癖ができているな」
 「つまらない冗談を期待するなよ」
 「次の質問は少し難しいぞ」
 「ここはつっこみを入れてもいいところだぞ」
 「よくできたね」
 「はい、笑顔のお返しです」
 「何で笑顔かわからないの?」
 「また隣が寝ているな」
 「次やったらどうなるかわかっているだろうな」
 ・・・今度、テレビや映画の笑顔だけの場面にせりふを入れてみる遊びをしてみようと思います。
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教職員の非行(と処分量定)一覧

 東京都教育委員会のHPに、「教職員の主な非行に対する標準的な処分量定」が公表されています。
 非行の種類とその内容が非常にリアルなので、あまり子どもに見せたくはない情報ですが、このような処分がたくさん行われている現実をどう考えたらよいのか。教育現場に「信頼」が寄せられる未来は訪れるのか。
 とにかく現実は重くのしかかってきます。
 非行の種類(内容・程度はHPをご参照ください)
 体罰
 児童・生徒へのいじめ
 性的行為・セクシャルハラスメント等
   児童・生徒に対する性的行為等
   保護者に対する性的行為等
   職場におけるセクシャル・ハラスメント
   一般の者に対する性的行為等
 公金公物の横領等
 収賄、供応等
 勤務態度不良
 欠勤
 秘密の漏洩
 個人情報の不適切な取扱い
 職場のコンピュータ不正利用
 違法な職員団体活動
 交通事故 
    飲酒運転での交通事故
    飲酒運転以外での交通事故
 悪質な交通法規違反
 傷害・暴行
 強盗、恐喝、窃盗、横領、詐欺、占有離脱物横領、器物破損
 無許可の兼業・兼職
 監督責任
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クラス替えの基本情報

 「中学校のクラス替え」ってどうやるんだろう?
 まさか担任が集まっての「トリトリ」では?
 「開かれた学校」とはいっても、クラス替えの方法を公開している学校は少ないかもしれません。
 クラス替えのタイミングも、毎学年行う学校、1年から2年に上がるときだけ行う学校など、バリエーションはさまざまです。
 成績、人間関係、ピアノがひける生徒、リーダーができる生徒など、クラス替えにはさまざまな基本情報を用いるものですが、最近では、学校への要望が多い保護者も考慮する必要がでてきています。
 モンスターまではいかなくても、自分の子どものことだけを考えて担任はめんどうをみてくれていると勘違いしている親が少なくない状況の中、真夜中に電話に応じなければいけなかったり、毎週のように要望を寄せてくる親がクラスに何人かいると、それだけで担任は壊れてしまいます。
 親がすでに子どもの奴隷になっていて、壊れている場合、「目を覚ませ」とつい口にしたくなるものですが、そういう親は自分が壊れていることに全く気づかないか、絶対に気づこうとしない強固な自己暗示がかかっている状態なので、担任はあきらめるしかありません。
 担任の負担を均等にする目的で、そういう保護者の子どもを分散させます。(または、対応ができる教師に集中させます。)
 また、子ども間の相性の良し悪しだけでなく、保護者間の相性まで考えなくてはならない状況もあります。
 生徒の問題行動が発覚したとき、「保護者に来てもらう」ことがさらに新たな問題を生むという状況の中、祖父母による教育が最後の希望となったことがありました。
 指導主事には「クレーム(業界では苦情とは言わずに要望と言いますが)対応」の研修が必ずありますが、初任者研修でも必須の研修になるかもしれません。
 1週間、夜中に毎日2~3時間も話を聞かさせる経験をすると、どんな教材研究も苦には感じなくなります。
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荒れた学校を経験する効果

 畑山洋太郎著「危険学のすすめ」(講談社)を読んでいて、ある数学の教師が嘆いていたことと結びつく箇所が目にとまりました。
 安全の求め方には、大きく分けて二つの道がある。
 一つは、過去の経験をもとに「うまくいくやり方」を見つけ、それをひたすら愚直に守り続ける道である。
 そしてもう一つは、過去の経験から「まずくなるやり方」を学び、どうすればそれを避けられるか、そのときどきによって行動を柔軟に変えていく道である。
 何か実現したいことがあるとき、人間は理想とされる状態に近づけようと考える。対象の特性を身ながら、「こういうことに気をつけなければならない」「人間の行動はこういうルールでやらなければならない」といった検討を行う。こうしてできあがったのが、成功のための「ノウハウ」、安全のための「マニュアル」である。これらに頼る生き方は、前者の道にあたる。はたして、それで安全は実現できるのか・・・・。

 ある数学の教師は、子どもたちが「解法を覚えよう」とする傾向が高まっていること、そのために応用力が身に付いていかないことを危惧しています。
 これは、進学塾の教育にその原因があることは明らかです。
 数学は、暗記だ。と言いきる講師もいるでしょう。
 こういう発想に縛られた子どもが、進学して全く伸びない。
 進学しても、ひたすら暗記に徹すれば、大学進学まではもつかもしれませんが、そこから先が続かない。
 こういう子どもの限界に気づかせるのが、定期考査の大きな役割ですが、本質を極めた新しい傾向の問題をつくる能力が、ほとんどの教師には備わっていないのが事実です。
 子どもが試行錯誤によってつかんでいくもの、自分の失敗体験から学んでいくもの、というのが、学校にはどれだけあるのでしょうか。
 極端な話では、教師にとって、荒れて問題行動が山積しているような学校は異動を避けたいと思うのが普通でしょうが、実はその職場は学ぶ機会が豊富にあり、教師も子どもも、そこから得られる知恵や改善への熱意、教育の本質的な意義の発見が将来はかけがえのないものになっていく可能性があります。
 落ち着いた学校しか勤務したことがない教師は、「こうすればうまくいく」ことを繰り返していればよい。
 荒れた学校を経験し、それに正面から立ち向かっていた教師は、「こうすればあの問題は避けられる」ことをたくさん知っている。
 異動というのはさまざまな経験、能力をもつ教師をミックスだけでなく、教師の能力開発を実現する重要な機能ですから、4月から暗い毎日を思い描いている先生方には、「新しい自分」づくりのためにがんばっていただきたいと思います。
 「いい学校」ほど、子どもたちの問題行動は表面化していないのですが、表面下に何がひそんでいるかを見極められる教師にならないと、「文句だけは一人前」と言われるようになってしまいます。
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研修の価値はどこにある?

 教員が研修を「受けてよかった」という基準はどこにあるのでしょう。
 「ビジネス発想源」の著者は、「自己投資したかいがあった」と感謝してくる受講者に「実践しなければ意味がない」という厳しい言葉を投げかける人物ですが、この気持ちはよくわかります。
 教育委員会にも、「すぐに役立つ研修を」という要望がよく寄せられますが、子どもへの教育と全く同じで、すぐに効果がでるようなものにはあまり意味はなく、真の力というのは本人が試行錯誤して初めて身に付くものです。
 私が考える教員研修の意義は、自分が取り組むべき課題がたくさん見つかること、それに尽きます。
 研修が勉強ではなくて、その場から離れたときから勉強が始まる。すぐに書店に行くとか、新しい指導案を構想するとか、研修後のアクションが教員の質の向上を左右するように思えます。
 免許更新制が始まると、そういう意味では、教師の指導力格差はますます広がるでしょう。
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スーパー高齢者の幸福とは?

 今年97歳になる私の祖母は高齢者向けのスポーツクラブに通っているのですが、何時から何時までしか運動してはいけないとか、すぐ休めとか、他の人が70歳代で会話があわないとか、いろいろ不満を言っています。
 100歳近くの人を70代の子どもが介護する時代ですから、一言で「高齢者」という呼び方をするのが不適切な時代になったようです。
 祖母のようなスーパー高齢者は、特別扱いされることを嫌がります。
 しかし、スポーツクラブの方も、いつ倒れるかわからない老人がいつまでも動いていたら気が気でないのでしょう。
 シルバー人材センターの方が、最高の幸福は「ピンピンコロリ」だとおっしゃっていましたが、周囲の人はそれどころではありません。
 少子化も問題でしょうが、長寿大国日本のハイパー高齢化への対応は大問題です。
 教育現場で70代の方が教鞭をとっていても、何の不思議もないような時代だと思うのですが・・・。 
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リサイクルの矛盾

 会議の場でのみ、「生徒のためを思ってこそ」という発言をする人がいます。
 日常的には生徒指導にほとんど関与していないのに、自分の考えを通そうとするときだけ、「生徒」を利用する。
 教育現場では、「生徒第一主義」というのはある意味で「切り札」であり、自分が「よい教師である」という幻想を抱ける便利な道具になっています。
 一方、環境問題を考えるとき、「リサイクル」というのは「環境に配慮した活動」の一つであり、企業であれば「社会的責任を果たしている」というPR要素です。
 しかし、たとえばペットボトルを再生利用して同じものをつくろうとすると、3.5倍の石油が必要になるなど、矛盾を抱えていることが多い。集めているが、結局はほとんど焼却しているものに、食品トレイがあるそうです。
 「言霊」の国である日本は、プラスの価値観をまとっている言葉を使うだけで、何かしらのことが実現できたりためになることにかかわっている錯覚に陥ります。
 「魔法の言葉」で生徒を立ち直らせたこともありましたが、結局最後は本人の自覚と継続的な行動が決め手です。
 「学力向上フロンティアスクール」しかり、「人権教育推進校」しかり。
 「報告書を書くのが面倒くさいから、いっさい引きうけたくない」という学校もありましたが、経営力がある校長がいると、こういう肩書きを「てこ」として、学校を変えることも可能になります。しかし、言葉だけでやっている気になることのないよう、今、自分のとっている「行動」をきちんと見つめ、短いスパンの「ふり返り」を繰り返すことが大事です。
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教育の3S

 アメリカの会議では、3“S”=立ち上がり、言うべきことを言い、そして座る。それがルールだそうです。
 Stand up, Say what you say, and Sit down
 日本の会議では、
 Silence, Smile, and Sleep
 ・・・こんな風景が一般的でしょうね。
 私が経験したことがある職員会議は、
 Shout, Say NO, Stand(耐える)
 最近は会議の無駄を減らすことが難しいので、目が覚めるような発言をするように心がけています。
 生徒に訴えたいことと同じです。
 Speed, Secure, Successful
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教師のイメージング その5 教師へのご褒美

 教師にとって最大のご褒美とは何でしょうか。
 文科省がくれる表彰状でしょうか。
 わずかばかりの昇給でしょうか。
 イメージングによる自己実現、成功の法則には、「ご褒美の想定」というものがあります。
 お金のことについて言うと、私の場合は実家が自営業で、一日と一年のほとんどを仕事に費やしていた両親が得られる収入を知っていたので、自分の月収がそれを上回るようになったときから、「給料に値することをしなければ罰が当たる」という意識で仕事に没頭し始めました。
 毎年の昇給は、それだけ自分に対するプレッシャーを高めていくもので、ある意味ではつらいものでした。(この3年間は減収になった上に昇給停止が続いているのでそれはそれでつらいですが・・・。)
 きっとサラリーマン家庭に育った教師は、収入が年ごとに増えていくのは当たり前、ボーナスがあるのも当たり前という感覚で仕事をしていると思います。しかし、学校でPTA活動に携わる方の中には自営業者も多いでしょうが、この方々にはボーナスはないし(人を雇っている人はボーナスを出す側)、翌年の収入を今年より増やすことはそう簡単なことではない。会社でも、中小企業なら同じようなことが言えます。
 そういう立場の方から見て、自分たちの税金で生活している公務員というものは、やはり厳しい目、批判の目で見られるのは仕方がないことです。
 あえてここでは書きませんが、教師は生徒と向かい合っている間に無数のご褒美を頂戴しています。
 生徒が卒業していくとき、そのご褒美は最高のものになっています。
 自分はそのご褒美に値する何をしてきたのか。
 「もらい得」の人をひがむつもりはありませんが、この時期は、勘違いしている人をたくさん見かけるときでもあります。
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「調べ学習」は「写本」の時間のこと?

 小学校の学習指導で、教科書や資料集などを使って読む活動が、「調べ学習」と呼ばれることを知ってびっくりしたことがありました。
 「調べる」という言葉は、「地図帳で国の位置を調べる」「辞書で単語の意味を調べる」などいろいろな用法がありますが、教科書を読んで考えたりまとめたりする学習を「調べ学習」と呼ぶのはおそらく小学校だけです。
 「調べる」というと何だか主体的に学ぶニュアンスがあるので教師が使いたがるのはわかりますが、答えがそこに書いてあることをノートに写す作業を中学校や高校では「調べる」活動とはいいません。
 小学校はカリキュラムがスカスカであるために、やたらと時間を「調べる」活動に費やす教師がいます。
 その間にいろいろな事務ができるからでしょう。
 パソコンのような単純な「コピー」「貼り付け」作業ではないので、教育効果が全くないとは言いませんが、その時間を「読む」ことに費やせば、子どもは何倍もの情報と接するチャンスに恵まれます。重くなる欠点はありますが、小学校の教科書こそ分量を増やすべきで、背表紙の字が小さくてわかりにくいような教科書をまずは何とかしてほしい。
 「ビジネス発想源」(弘中勝)にこんなフレーズがありました。
 「郷土知は郷土愛のもとなり」
 小学校の校長をしていた郷土史家の言葉だそうです。
 中学校では、「身近な地域の歴史」を扱うことが現行の学習指導要領では定められています。(汎用版を作らねばならない教科書会社泣かせのきまりです)
 自治体ごとに、この内容をおさめた副読本は作られているでしょうか。「地域の歴史的話題」について、義務教育の小学校と中学校それぞれに適した教材を適量学習できるよう、編集されているでしょうか。
 日本のことはもちろんですが地域のことを知らなすぎることが、「社会に生きる実感」をより持てないようにしている原因である気がします。「その方が都合がいい」という考えの人がいるので、なかなか授業は変わらないでしょうが。
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偽装「心の病」にどう対処するか

 昔から「保健室いりびたり症候群」というものがありました。
 カウンセラー的な資質が高い養護教諭がいると、とにかく休み時間ごとに話を聞いてもらいたくてやってくる生徒が出てくる。
 養護教諭の中には「物理的な病気・けがの人優先」として、ただぶらぶらやってくる生徒を排除する人もいます(あとは保健室にカギをかけて職員室にいるか)が、実際に、保健室が不登校の生徒の居場所になっている学校が多いのではないでしょうか。スクールカウンセラーが来ても、保健室で話をするという学校もあります。
 養護教諭が親切?だと、「嫌いな授業」があるときに、悩みを打ち明けにくる。
 「心の病」偽装という強力な技です。
 カウンセリングを受けていることが周知されている生徒には、ふつう、教師は「強い指導」を行いません。
 中学生で髪染め、ピアス、極端なミニスカートなどは指導の対象でしょうが、「心の病」を抱えている生徒には、「不登校にならないで来ているだけで十分である」という感覚になってしまい、事実上、黙認の態度を取りがちです。
 この指導のぶれを生徒は敏感に感じ取って、「私は今、苦しんでいる」ことにし、学校をときどき休みながら、好き勝手なことを繰り返す。
 親も、問題行動への指導に対して、「子どもを不登校にさせる気ですか」と逆ギレして反省しようとしない。 
学校はどう対処したらよいのでしょうか。
 問題行動といった調査と同じように統計をとられるので、不登校=悪という固定観念をもっているかもしれませんが、まず、それを捨てる。
 不登校はいけないことではない。登校が、必ずしも本人にとって望ましいものではない、ということを共通認識することが必要です。そうすれば、「偽装」する意味がなくなります。
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行政の人材不足の深刻化と法改正

 行政に対する批判を専門にしている方々がいらっしゃいます。
 行政経験がある私にも、内部で批判したかったことは山ほどありました。
 ただ、行政現場は「責任範囲」が非常にせまい。末端になればなるほどせまく、係長や課長といっても、活動範囲は限定されています。基本的には、自分の責任のある範囲のことをしっかりやる。人事の専門は人事の専門として、教師の処分ばかりやっている。経理は経理。経営は経営。
 それぞれが担当の責任のもとで学校に調査を出す。それがなければ仕事ができない。
 しかし現場(副校長)は調査の山の処理に追われる(校長と副校長でちゃんと分担すればよいがほとんど副校長まかせになるケースが多い)。
 数も少なく規模も小さいですが私の提案で実現してもらえた改革もありました。しかし、なかなか行政と現場の乖離は解消されません。
 文科省のキャリアが現場を見ているようですが、教員から言えばこうした「事務」の人が教育の根本を支えているとは想像もつかないことです。
 国と地方ではレベルも異なっているかもしれませんが、地方の行政の大きな問題は、自治体内では異動があっても、その役所からは出ないこと。外の論理にふれる機会がない。だから問題が見えにくいことが問題なのです。たまに陳情にくる人がいても、話を聞いてあげて、「検討します」と言っておけば、その担当者の任務は終わり。
 教育行政の具体的な問題は、教育の専門家でもなければ現場も知らない人が、過去を踏襲しながら教育以外の専門家のいうことをつまみ上げて改革に着手していること。教育行政に入った教育の専門家である指導主事が言うべきことを言わないこと。改革を軌道に乗せる具体的な戦略を現場が発信する能力がないこと。改革への反対の声を真に受け、「現場を信じている」と言って心中しようとしているトップがいること。
 一番大きな問題は、行政の方には失礼かもしれませんが、組織内でも気付いていらっしゃる人が多いと思うのであえて言うと、「人材がいなくなっていること」。
 行政というのは、これが究極的に優れたものになってしまうと、「議会」が不要のものになる、という性質があります。立法も「はい、その通り、いい法律案ですね、通しましょう」ばっかりだと、審議する必要がない。国会議員が地元のためだけに求めるようなものではなく、今、国民に必要なものを自らとらえ、政策を立案し、制度化して、実施する。究極の政府というのはそういうものかもしれません。国会議員の数は、半分以下でも全然問題ない。
 逆に考えると「いいかげんな行政」というのが「議会」の存在価値を高める条件になっているわけですが(「議員」の質についてはここでは脇に置いておき)、その行政の人材の質の低下が激しい。
 なお、それは、次のようなデータをもとにして言っているわけではありません。
 ここのところ、東大法学部の上位成績者が、官僚を目指さず、もっと高い収入が得られる職を選ぶようになっている。どちらかというと成績の良くない者が官僚を目指す・・・・。天下りがなくなると、官僚になるメリットはない・・・。「国家」のことなどより、「自分の生活」を楽しみたい・・・・。
 改正教育基本法などで「個人主義」から「公共の精神」へのシフトが見られるのは、国家による統制を強めようとすることではなくて、統制ができるような人材が国家機関からいなくなりつつあるという危惧があるからではないか。人材確保というのは、あらゆる組織でつねに重要な関心事ですが、最も危機感が高いのは霞ヶ関なのではないか。教師の質の確保といったレベルではないかもしれない。
 私のような教員が知り得る官僚の範囲は限られているのですが、「これで大丈夫なのか」と思う場面が過去にいくつかありました。ニュースにも大勢登場するようになっています。
 現場にある身としては人ごとのようになってしまいましたが、国民の立場で言うと、人ごとではない。
 政治家は選挙で変わるが、官僚は2~3年ごとに順送りでポストにつく人が入れ替わっている。
 昔、ゆとりスポークスマンがテレビに露出していましたが、ああいう官僚が増えてもいいのかもしれません。
 「この人には任せられない」という世論が行政にはたらいてもいいのでは・・・?

もう一度チャンスを・・・

 大きな失敗、ルール違反などを犯した後、最近はすぐにあきらめて投げ出してしまう生徒も多いかもしれませんが、学級委員や委員長などはある程度の責任感をもっている子どもの場合は、「もう一度チャンスをください」と言ってくる場合があります。
 これに対して、「教育的配慮」と称して生徒を許してあげる教師は多く、生徒が行動した結果、また同じ過ちを繰り返す・・・教育とはそんなことの繰り返しだというスタンスの人が多いかもしれませんが、私は原因によってはその失敗を許しませんでした。
 正確に言えば、失敗は許すのですが、「再チャレンジ」の機会を容易に与えることはしませんでした。他の課題を与えて完璧にクリアしたことを確認した上で、望むようなら同じ課題に取り組ませる。
 弘中勝著「アイデアひらめくビジネス発想源」(技術評論社)を読んでいたら、その原則と全く同じ人材育成スタンスが記されてありました。
 「社会人相手だからできるのだろう」と思われるかもしれませんが、学校現場の「人材育成」を見ていると首をかしげたくなる指導が非常に多くあり、企業などにその教育の責務を先送りしてしまっているような気がしています。
 教育してくれる企業ならまだいいのですが、競争にさらされてそれどころではないところでは、結局、「学生時代に身に付かなかったこと」が原因で豊かな社会人生活を手にすることができない子どもたちを送り出しているのではないか・・・。
 定期的にクラス会(学年単位や学級単位、部活動単位などさまざまありますが)をもってくれる教え子たちがよく口にするのが、「あのころは厳しいと思ったけど、そのおかげで今がある」という言葉です。
 生活指導でも学習指導でも「失敗」が「失敗」として教師の責任問題になることがほとんどない学校という職場なら「競争原理排除」とうたっていてもかまわないのでしょうが、教師にならない子どもたちのためになっているのか・・・。

教師は「話し相手」になるか?

 カウンセリングのクライアントが「相談するときの不安」として、以下のようなものが「カウンセリング革命」に紹介されていました。
 学校での子どもたちも教師や友達に対して、同じようなことを思っているかもしれません。
 自分にもあてはまりそうなものが多く、反省しきりです。
・相談内容をわかってくれるか不安
・バカにされる
・相談者に迷惑をかける
・甘えるなと怒られそう
・弱いと思われたくない
・評価が悪くなる
・相談する元気がない
・うまくしゃべれない
・聞いてもらえない
・明るい人だとついていけない、わかってもらえそうもない
・相談しても仕方がない
・うわさ話にされたくない
・自分が弱い人間だと思いたくない
・くよくよするなと一喝されそう
・自分の汚点をさらけだすのがこわい
・うそを言っていると思われる
・忙しいからと断られそう

 相談者=不安に思う人(不安のプログラムがはたらいている人)=悪い方ばかりに考えるひとであることは、聞き手だけでなく相談者本人もわかっているのですが、こういう人に「性格を変えればよくなる」と言っても逆効果なわけで、相手を「安心ゾーン」に入れてあげることがまず大切だということです。
 「安心ゾーン」とは?
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教師のイメージング その4 想像の創造力

 イメージングの極意は、想像の創造といったところでしょうか。
 ジョイ石井は、「ポジティブな口ぐせだけではうまくいかない」として、次のような理由をあげています。
 口にする言葉ばかりがポジティブになったとしても、心によぎっているイメージがマイナスばかりでは、結局あなたの心の状態は、陽性にはなってくれない。
 ポジティブな言葉を使うことによって内面をポジティブにしていくよりも、さらにもっと奥にあるイメージを普段からポジティブにしていったほうが、そのイメージに対する感想も無理なくポジティブになるのではないか?
 よいイメージ(想像)をどんどんつくりだしていく(創造)ことができれば、「夢の実現」に近づけそうです。
 自分自身のポジティブなイメージがわかない場合は、「あこがれの人だったらどうするか」を考える、というアドバイスもしています。
 コンピテンシーモデルが苦手なら、以前に紹介したロールモデルシートの活用でもかまいません。
 やはり教師の場合は、より力のある実践者、指導者に恵まれていることが、実力を伸ばす条件になってしまうのでしょうか。
 ある小学校の研究会に信じられないくらい大勢の参観者が訪れる理由もわかったような気がします。
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授業で使いたい「5つの表情」

 常にたくさんの子どもたちに囲まれている教師にとって、自分がどのような「メッセージ」を発信しているかということは、あまり関心がないというか、「そんなことにかまっていられない」と思えることかもしれません。
 カウンセリングのように一対一で話を聞く場合、カウンセラーは「意識しようとしまいと、その表情、言葉、姿勢、態度などでメッセージを出して」いると言われていますが、多くの教師はその姿をいつも露出しているため、一定のパターンを認識され、これが生徒からの固定的なイメージに結びついているということがあります。
 内職ができる授業とできない授業、内職をする授業としない授業など、生徒は何で判断し、行動しているのか。
 多くの学校はこのような分析を独自に行うことをしないのが普通なので、「教師が変わる」「教師を変える」ことが難しい。
 荒れた学校で、個別面接期間を設け、生徒の希望ではなく学校が決めた時間、決めた教師(そういうことがないと、3年間で一度も会話をしたことがない、という教師と生徒との関係が容易に生じてしまいます)と短時間ですが会話をするという取り組みをしたことがありました。
 生徒の多くは、「先生は生徒の話をちゃんと聞いてくれるんだな(当たり前のことなのですが・・・)」とか「あの先生は話してみると思っていた印象と違っていたな」という感想を持つようになります。
 1対40でカウンセリングマインドを発揮するのはなかなか難しいですが、1対1の面接のような場面では、教師の名誉挽回?のチャンスが生まれます。
 「カウンセリング革命」では、①興味津々②驚き③疑問④納得⑤共感という5つのステップの表情パターンをしっかりとトレーニングする方法が紹介されています。今、改めて授業が上手だった先生の表情を思い返すと、やはり①おもしろそうに、楽しそうに話し、生徒の発言も興味深く聞く>、②生徒のよい発見、意外な答えには、ややおおげさに驚く、③主要な発問に関して、教師自ら「考える」しぐさを示す、④生徒の発言から、課題が解決されたときに「すっきり」と納得した表情を向ける、⑤満足のいった子どもたちと目標を達成した喜びを共有する・・・そんな場面があったような気がしました。
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教師はうなずきのプロになれるか

 精神疾患により休職・退職する教師が多いことからも、教師への専門的カウンセリングの需要は高いことが予想できます(もちろん企業でも同じことが言えるかもしれませんが)。
 昔は若い教師がへこんだとき、年配の教師が飲みに連れていってくれて愚痴を聞いてくれたりするなど、親身になって相談にのってくれる場面が多かったかもしれません。
 しかし、今、精神疾患で職場を離れる教師の多くは40代、50代です。
 若い教師に励まされることなどはさらにプライドの傷に塩をすりこむことになりかねず、フォローが難しい。
 教師は一方で、生活指導の場面だけでなく、授業でも自分が生徒に対してカウンセリングの技能を発揮することが求められていることは言うまでもありません。
 カウンセラーが精神的に病んでいったとき、やっぱり他の専門家のやっかいになるのか?というのは素朴な疑問ですが、もし一般的な人よりも、カウンセラーが自分自身のカウンセリングの必要性を感じないようであれば、教師はますますカウンセラーとしての資質を高め、技能を習得していくことが必要だと考えられます。
 そういう技能が身に付けば、たとえば初めての苦情対応にも冷静に対処していけるかもしれません。
 下園壮太著「目からウロコのカウンセリング革命」(日本評論社)は、カウンセラーになりたい人がもっているかもしれないカウンセリングへの素朴な疑問に応えてくれる良書です。
 その冒頭で「カウンセリングの3原則」「三つの魔法」とよばれるツールが紹介されています。
 これは教育現場でもすぐに役立てられるものかもしれません。
 第一段階・・・首を振る(いつもより大きめにうなずく)
 第二段階・・・二種類のうなずきを入れる(小さいのと大きいの)
 第三段階・・・うなずきと相づち、視線の移動をリズム良く(うなずきに合わせて、声を出す、話を聞くときは、視線は基本的に相手の口のあたり、うなずくときは首の動作にあわせて、相手の目をちらっと見る)
 この本の著書が他のカウンセラーと少し違うのは、「受け取る力」と「伝える力」のバランス感覚かもしれません。
 著者は、「伝える力」の必要性を強く訴えています。教師としては、かなり共感できる部分が多いカウンセリングの指導書となっています。
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子どもに携帯を持たせた保護者必見のサイト

 携帯電話をもたせた親の動機は「家族との連絡の必要性」が第一ですが、子どもが使用する目的は他にあります。
 携帯電話は「インターネット」=「情報に関して完全に自由主義の世界」の入り口であり、子どもたちは社会へ解き放たれた状態になりました。
 「透明人間」としての能力も与えられ、ネット上で好きなことが自由にできるようになりました。
 学校との関係では主に「いじめ」、社会とのつながりでは犯罪へのかかわりと、情報モラル・ネチケットという新たな教育課題が浮上し、警察等との連携も増えてきています。
 携帯電話関係では文科省と警視庁からパンフレットが配付されるようになり、契約者である保護者の第一義的責任が問われるようになりました。
 ここでようやく「当事者間の問題解決」「責任をもつ者が責任を果たす」という市民社会であるべき姿が実現するかもしれません。
 保護者必見の警視庁サイトはこちらです。→(携帯電話と子どもたち)
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教師のイメージング その3

 子どもにも勧めたいアドバイスとして、「成功(幸せ)のハードルを低く、失敗(不幸)のハードルを高く」というのがあります。
 多くの人はそれが逆であるため、何かにつけてがっかりしたり腹を立てなければいけなくなり、よりよいセルフイメージがつくりにくくなっています。
 多くの教師はレベルの違いはあっても、「生徒はこうあってほしい。みんなこれだけの成績をあげてほしい」と考えているでしょう。そしてそれが実現できる教師が理想の教師で、自分はそれにほど遠い教師・・・。
 どうしても現実が強く足を引っ張っていて、「とてもそんなテレビのような教師にはなれない」と思ってしまう。そして、絶対になれなくなる。
 子どもたちにはスモールステップで力をつける指導をしているつもりでも、あまりそのステップには目を向けず、定期考査のたびに「やっぱりだめか」と納得してしまう。
 ジョイ石井はここで、「小さい成功」を喜ぶくせをつけようというアドバイスをしていますが、これを教師が実行するメリットは、「生徒に期待をかける」場面が多くなることでしょう。
 「予言の自己実現」は多くの人が知っていることですが、なかなか「負の予言」から教師は脱却できない。
 授業の中でも、小さな喜びを、生活指導で説諭としている中にも、期待をこめて、小さな変化・成功を願う。
 この積み重ねが大きな成長のきっかけになるかもしれません。
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校長による個人情報紛失

 都立高校の校長が教職員の自己申告書が入った鞄を電車に置き忘れた事故が報道されていました。
 都教委は明日にでも通達を出し、今後、このような書類を持ち運ぶときは鍵付きのバッグを持たせるように指導するでしょう。
 教員の自己評価などは、流失してもたいした問題はありません。
 全員データをもっていますから、すぐに復元が可能です。
 たまたまその学校の生徒が見つけてのぞいてしまっても、
 「ああ、この先生はこんな経歴(研修歴)だったのか」
 「こんな目標をもって教えてくれていたんだ」
 「自己評価が厳しいから、もっといい教育をめざしているんだ」
と、教師が見直されるきっかけになるかもしれません。
 一般人が見ても、ああ、この高校にはこんなに優秀な教員がそろっているんだなと感心してくれるかもしれないからです。
 紛失して困るのは、生徒の成績等が入った個人情報です。
 都教委は、教師に向けても同様な通達を出すと思いますが、それを受け取っても「おれたちには関係ない」「校長がおこした事件なのに何でおれたちまで指導されなければならないのか」と子どもレベルの反応で危機感を持たない教師は多いかもしれません。だから事故はいつまでたってもなくならないのです。
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逆ギレ保護者「不登校にさせる気か!」

 「子どもはやっていないと言っているのに、先生は信じないんですか」
 「見たと言っている子どもがいるんですよ。周囲にも、自分がやったことをほのめかす話をしているし・・・」
 「そんなに子どもを追いつめて、不登校にさせるつもりですか・・・」
 冷凍餃子事件の中国の対応と全く同じパターンの親が増えてきました。
 国を守る、子どもを守る、「守り方」にはさまざまありますが、それをくずす「攻め」はどうあるべきでしょうか。
 平和主義の日本ならではのやり方は?
 証拠まで突きつけると、そういう親は、また別のことに話を転換する。これも中国と同じ。
 こういうときに使える第三者機関とは何でしょう。
 よりよい対話の方法はないのでしょうか。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より