ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 日経新聞 授業時間増「どう生かす」 | トップページ | 日経新聞 「総合の敗因」? »

新しい評価システムの提言

 このブログでは何度かふれていた内容ですが、新学習指導要領案へのパブリックコメントが募集されている時期なので、まとめて掲載しておきたいと思います。
 今回の学習指導要領の改訂の基本的考え方に、「知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視」があり、小中学校段階では「知識・技能を活用して課題を解決するための思考力、判断力、表現力等の育成」が重視されています。
 私は、このことをもとに、評価観も変え、現行の「観点別評価」からもっとシンプルでかつ信頼性、妥当性が高い「段階別評価」に改めることを提言いたします。
 現行の観点別評価は、学習指導の過程で行い、個別指導や授業の改善に活用するのなら問題はありませんが、この形成的評価に適したものを、総括的評価である「評定」の根拠として使うのは問題(合成の簿謬等)があります。
 国立教育政策研究所でも、観点別評価の客観性、信頼性などの問題点は十分に把握しているようですが、私はこの評価が「学力向上」の達成への非常に大きなネックになっていると現場では実感しております(最大の原因は評価に時間がかかる上に有意なデータになっていないこと、観点別評価に値する学習活動が行われていないこと)。 
 私が提言したい「段階別評価」とは、学習のステップを「習得」「活用」「探究」のレベルに分け、習得レベルのABC評価をまず実施し、次に習得レベルがB評価以上(AかB)については「活用」レベルのABC評価を実施する。「活用」レベルがB評価以上(AかB)になったら「探究」レベルのABC評価を実施する。
 「習得」レベルの評価対象になるのは、知識・技能面です。このレベルは、ペーパーテストで容易に測定することが可能で、評価の信頼性が最も高いものです。ですからCの場合には先に進めませんから特別な支援が必要になります。全員を「習得」レベルでB以上にすることが義務教育の「義務」です。
  「活用」レベルの評価対象になるのは、習得したことを活用して思考・判断し、表現したもので、授業での発表(説明)、論述の課題(レポート)、討論活動などが評価材料になります。
 習得レベルがAでも、活用レベルではCの評価になる場合があります。これは、「暗記したことをそのまま再現することはできても、その知識を活用して有意な形に再構成する能力がない」ということで、「生きる力」としてはまだ不十分な状態にあり、やはり「活用」レベルがCなら特別な支援が必要となります。ただし、私の経験では、(カッティングポイントにもよりますが)習得レベルがAであれば、活用レベルはほとんどの場合はBになると思われます。
 最後の「探究」レベルは、現在では「発展的な学習」に当たるもので、これはたとえば「総合的な学習の時間」とリンクした学習活動を行い、教科をまたいだ評価も可能になるものです。
 「改訂の基本的考え方」では、「知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視」とありますが、これは学習活動としては車の両輪のようで、大事なことです。
 しかし、評価対象となると、知識・技能が習得されていないのに思考力や判断力はあるという状況は考えられないので、ここは「育成のバランス」の重視であって、実際に思考力・判断力・表現力を使う場面で活用されるのが習得した知識や技能であることを強調すべきです。
 実践では、さあ「習得が大事だ、知識を詰め込め、そこがスタートだ」ではなく、観察や実験、調査活動を実施して、「課題が何かをつかみ、追究しようとする思考活動、学習意欲を高める活動」が先にあるべきなので、指導過程としては「思考力、判断力」が問われる場面、「知識・技能」を習得させる場面、それらを生かして「思考力、判断力、表現力」を使う場面という順になります。
 この考え方は、社会科歴史的分野の内容(1)「歴史のとらえ方」のウの「内容の取扱い」などで反映されているので、事例としてわかりやすい参考になります。
 このように観点別評価を段階別評価に改めると、以下のような効果が期待できます。
 まず、中学校では「定期考査」の見直しが進みます。
 中学校の定期考査は、どの教科も最大50分の試験時間で出題されるので、ほとんどが「習得」レベルの評価で終わってしまいます。しかも、「思考・判断」や「資料活用の技能」といってもほんの部分的なもので、ほとんどが「知識・理解」のみの内容です。
 基本的には評定はこの点数が目安になるので、そもそも現在の観点別評価は総括的評価としては機能していません。ほとんどの教師が実感できていることだと考えられます。
 定期考査はどう見直されるかというと、極端な場合は、それが廃止できます。
 習得レベルの評価は、活用レベルの評価のための学習活動を行う前に各教科で実施すべきであって、テスト前一週間で詰め込んで後はすぐ忘れるなんてことを繰り返さないですみます。
 そして、本当の評価材料は、授業の発表やレポート、討論活動で行うべきことが教師に実感させることができます。「生きる力」の重要な箇所が評価対象になってきます。
 「学習習慣」の定着にも結びつきます。
 教師の学力観、評価観の転換が期待できるのです。
 学年等の「習得」の総括的評価は、文科省の全国学力調査をもってかえることも可能です。「活用」レベルの評価は時間がかかるので、学校ごとに実施します。
 定期考査のような「詰め込み」学習がなくなると、入試のシステムの改善にも役立ちますが、この具体案はここでは省略します。  以上
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

« 日経新聞 授業時間増「どう生かす」 | トップページ | 日経新聞 「総合の敗因」? »

教育」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/40160409

この記事へのトラックバック一覧です: 新しい評価システムの提言:

« 日経新聞 授業時間増「どう生かす」 | トップページ | 日経新聞 「総合の敗因」? »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より