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「子どもは公立に預けるな!」その5

 小泉首相のストレートな自由主義を受け入れる人は、「競争社会」という言葉をプラスのイメージで、小泉改革を批判し「負け組」ができるのを不当だと訴える人は、それに対して負のイメージを持っている。
 競争社会を負のイメージでとらえるのか、それとも前向きなイメージでとらえるかによって、公立学校のあり方の議論も全然違ったものになります。 
 和田秀樹の主張は、子どもたちは将来、みんな競争社会に旅立とうとしているのに、それに対する耐性が学校で育っていない。公立学校はその意味で子どもを学ばせるのに最も向かない環境である、という主張です。
 そもそも公立学校には、学校の自由選択制などが始まるまで、「競争」というものがなかった。
 自分の教え子がどんなに成績が悪くても、基本的生活習慣に問題があっても、「自己責任」だと言って、教師は何の責任もとらされることもなかった。
 学校自体も子どもや保護者に選択肢を与えなかった。
 地域の学校が荒れていてこんな学校には通えない、と保護者が判断し、受験させられた子どもは30年以上前からたくさんいたでしょう(今は保護者に感謝していることと思いますが、そういう人が今、保護者になって、自分の子どもに同じことをしてあげているのでしょう)。
 それが学校を「選ぶ自由」が認められるようになると、大あわてで取り乱す。
  「競争はいけない」と叫ぶ。
 自己申告を課せられると、「結果が出ないのは私のせいではない。学校は組織で仕事をしているんだから、組織が悪い。管理職が悪い」と反発する。
 そういう声を上げて、ますます公立学校への不信感を強めてしまった。
 ・・・競争とは、公立学校の教師にとって、「のぞましくない」問題というより、「ふれてほしくない」問題なのです。
 公立学校では全国大会を頂点とした部活動での競い合いがあるのはもちろんですが、和田の話は「いい勉強」「いい大学」「いい会社」をあくまで理想としているので、もともとカリキュラムとは関係がない部活動は関心外のことのようです。
 小学校での評価の問題点についても、通知表の「よくできる」「できる」「もうすこし」などという3段階評価に苦言を呈しています。小学校では、できるだけ「あなたはできない」というメッセージを子どもに伝えたくない。それを隠すために、一番下の評価に「もうすこし」という表現を使う。しかしこれでは、本当に「もう少しでできるようになる」のか、実は本当にできないのか、ということがわからない。
 小学校の評価の問題を読むと、私は一連の食品関係の偽装表示が頭に浮かびます。
 小学校の評定はまったくあてにならないので、公立の中高一貫校以外は受験のときにこの数字を使うことはまずないのではないでしょうか。
 公立中学校の場合は、高校入試のときに、成績一覧表というものを提出することになっていて、照合作業がある。小学校にはそれがない。受験ではそういう問題もあります。担任が勝手に上げ下げしても、それが本物であるかをいちいち確認することができません。だから最初から信じていない。
 通知表というものですが、これは学校が出さなければならないという法的根拠はなく、慣習として続いているものですので、「うちの学校には通知表がない」というのもあり得るわけです。
 しかし、通知表を出す学校でも出さない学校でも、問題なのは、今、学習していることが理解できているのか、できていないのか。できていないなら、どうすればよいのか、ということが家庭に知らされることがほとんどないということです。年に4回とか5回ではスパンが長すぎる。
 ところで、最近の子どもは、通知表を互いに見せ合う子どもたちが多いのはご存じでしょうか。これは、目標準拠評価になってから、評定の妥当性に疑問をもつ子どもが増え、複数の生徒同士でそれを確かめ合うというねらいも隠れているわけです。ですから中学校では、定期考査の得点と評定が逆転している場合、保護者を使って子どもが苦情を訴える場合があります。
 目標準拠評価になってから、「客観的で信頼できる評価」が求められているのですが、「嫌われたら評定が危なくなる」という疑念を子どもが少しでも持つようになったらよくないですね。しかしこれは子どもが保護者に成績が悪い言い訳として役に立つ場合もあるようです。
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コメント

「いい大学」「いい会社」が理想というのは、私はあまり理解しがたいものです。学校選びは環境選びだと思います。もちろん「いい学校」(生徒の質や環境面において)ほど偏差値は高いところが多いですので、結果的に上の学校を目指すことになるのですが。

公立校はバランスにおいて理想的であると思っています。無宗教で、かつ男女共学でもありますし。多くを吸収する時期に、ある特定のベクトルに偏ったものではない環境(先ほど書いた無宗教・共学)が好ましいと私は考えているので。(もちろんここは価値観によるものでしょう)

ただ、3つ目の条件である「学習面」において公立校は非常に大きな課題が山積みです。バランスが良くてもこれがもう少し改善されないと、やはり進学には二の足を踏む家庭も多いのではないでしょうか。実情を知っている教員に私立に通う子どもが多いというのが、課題の多さを物語ってるように感じます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より