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学力観の誤解が諸悪の根元か

 Psycheさんからいただいた、~宿題を「やらない」権利は子どもにあるか~の記事に対するコメントをご紹介します。

<仰るとおりだと思います。
<どうも公教員のブログなどを見ていると違和感を感じることは多いのですが
<kurazohさんの意見は共感できるものが多いです。
<内発的動機付けが大切なのはいうまでもありませんが
<弱いからこそ流されがちな子どもに対して向き合える
<指導者としての毅然とした姿勢は必要でしょう。
<子ども達が自分で学ぶことが大切ということに終始する指導者には
<だったら指導者の存在意義は何かといつも問いたい気持ちになります。

 ブログをつくったり読んだりしない、普通の忙しい公務員や教師は私と同じような意見の人が多いと思いますので、あまり悲観的になられることはないと思いますが、ご自分やご子息が困った教師の影響を受ける当事者になったら、「教師はみんなこんなものか!」と憤りになることは間違いないでしょう。
 ブログを読むと、学習指導要領の「最低基準化」の意味を誤解している人がいるようです。
 「最低基準化」とは、「これだけはみんなに身に付けさせて!」というもので、それが定着できたら、どんなに発展的な学習をやってもよいわけです。
 これに対して、「最高限度化」は、「これ以上は学習してはダメ」と制限をかけるもので、入試の出題範囲の原則に役立つようなものです。
 ゆとり教育は、ゆとりのなかで「基礎・基本」だけでなく「課題解決能力」を育成することが使命だったのに、基礎・基本が不十分な上に、総合とのリンクがうまくいかなった学校は、思考力・判断力・表現力も育っていない。
 そういう判断力が身に付いた保護者が、子どもを受験に向かわせたわけです。
 さて、前回の記事の補足ですが、「宿題をやらない権利は子どもにあるのか」という問いに対して、二つのケースについて、「ある」と回答する用意があります。
 ひとつは、学校で完全に習得させてもらっている場合。
 もうひとつは、宿題よりも優先して学びたいものを子どもがもっている場合。
 後者の場合は、小学生では難しいかもしれませんが、中学生は読書、塾、本人の趣味や研究のために、カリキュラムで定められた以上の時間を強制的に特定の教科のために振り分けられるのは、免除してあげてもいいかなと思います。
 かつてもふれたことですが、「関心・意欲・態度」の評価はさまざまな矛盾を生むものです。
 他の内容の関心が高まってしまうと、学校の学習単元の意欲が低下してしまう。
 教師の授業中の話に触発されて、私はよく学校の帰りに岩波新書やブルーバックスを買って読んでいました。単元の学習とは関係のない高度な内容の本ですが、読みたい衝動にかられ、時間がたつのを忘れてしまいました。ここで障害になるのが、英語の宿題です。
 英語という教科は、机やラジオの前に強制的に向かせるもので、「学習習慣」「言語的な諸能力」をつけるという意味では最適な教科です(それ以上は言わないことにします)。しかし、最低30分か1時間か家で勉強しなければいけないのは、他にやりたいことがある自分にとってはマイナスでした。
 小学校の場合は、塾に通っていない場合、「宿題がなければ家でまったく机に向かわないので困る」という親が強いプレッシャーをかける以上、担任は出さざるを得ません。
 内容がやさしくなった分、学校での理解で十分だと思う子どもが多くなり、家で勉強しなくなりました。これは調査の結果、明らかになっています。
 宿題の目的を学校、保護者、子どもが共有化できているかが課題だと言いたかったわけです。
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コメント

kurazohさんと同じような考え方をしている教員が多いのが本当であれば、それは非常に心強く感じます。また、記事にもあるように自己保身ばかりが前面に出された教員を見ると、それ以上に悲しくもあり情けなくもあります。

指導者は大きな役割を与えられていますし、それは「負担」ではなく「やりがい」として受け止めるべきだと思っています。

自分の頑張りが子ども達の成長につながる実感を持てておれば、結果として彼らからエネルギーをもらうことになり、いったいどっちがエネルギーを与えているのかと感じることもしばしばです。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より