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公立学校における成績上位層の存在意義

 公立学校の中で、「成績上位層」の生徒たちに私が期待する存在意義・役割とは何でしょうか。
 塾とは異なり、「有名校への進学実績づくり」とは関係がありません(それが励みになって目標をもって入学してくる生徒が増えるかもしれませんが)。
 その役割を果たしてもらうためにも、公立学校は「成績上位層」の学力(ここでは「確かな学力」より「生きる力」に近いイメージ)をさらに伸ばす努力をすべきだと考えています。「成績下位層」への学力向上の手立ても行っていないのに「成績上位層」への配慮を批判する資格はないと思いますが、もしそういう人がいるとしたら、おそらくその授業は学習指導要領無視か何の工夫もないものなのでしょう。
 成績上位者に伸ばしてもらう力には、テストの点が取れるようにする力も含みます。よく、「受験学力」のことを非難?する人がいますが、受験学力がなくて「生きる力」だけつくということはあり得ません。
 公立学校のこうしたはたらきは、「成績下位層を見捨てる」などということではなく、逆に「成績下位層」をも救う効果も期待できるのです。ただし、それは授業の中で「成績上位層」が重要な役割を果たせることが条件です。
 この教育観の重要なキーワードは、「学び合い」です。
 授業に「学び合い」の空気がある環境では、子どもに「○○さんのようになりたい」という希望を抱かせます。「○○さんはすごい」という敬意を抱かせます。「○○さんに教えてもらおう」という意欲を抱かせます。
 授業参観で、保護者に「こんなにすごい生徒がいるんですね」と気づかせることができるかどうか。
 成績上位者に、「先生のおかげでこんな問題まで解けるようになった」と感謝されるかどうか。
 成績上位者が育たない、または死んでいる学校の授業、成績上位者を育てない、または殺している教師の授業では、こんな場面は見られないはずです。
 どちらかのブログで、教師は、運動の得意な生徒、明るくユーモアのある生徒はどの子も高く評価するが、成績がよい生徒の場合は、何だか白い目で見ているような印象がある、と表現されているのを読みました。
 もしそれが事実なら不当な扱いですが、でもそういう教師の内面はだれでも想像できてしまうでしょう。
 義務教育段階なら、子どもの学力は「やる気」と密接な関係があります。教師の「やる気」を育てる能力はもちろん大事ですが、子ども同士でも「やる気」は高め合うことができます。その条件を作り出すのは教師の役割であり、公立学校にもぜひとも必要なものです。
 進学校では、このような条件が整っており、子どもや保護者はそこに大きな意義を感じることができるのです。
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教育」カテゴリの記事

コメント

coldsweats01
私より進んだ展望をお持ちの先生がいらっしゃて、正直驚いております。
私が和田中に対して思っている懸念は、マスコミへの過剰な露出度です。
子どもは見せ物ではありません。
教育ニュースの取り上げ方は難しい。
成果の表れ方をじっくりドキュメンタリータッチで取材し番組にするのかもしれませんが、よいものは物まねでなく、単純に広がっていく、そんな図式が好きなのですが。

コメントありがとうございました。
学校全体の雰囲気を学習に向かせ,学力を上げるには,下位層の子どもたちへの手立てと同時に,上位層を引っ張り上げる工夫が必要です。先頭集団が走るところは,勉強の雰囲気ができてくるからです。
夜スペはそんな先頭集団を作る試みととらえていますが,個人的には,反対論を計算しつくした起爆剤だと思っています。
そのままいけば,来年から4年間で藤原校長の提唱する地域本部が全国に展開し,それぞれの実態に合わせた,取り組みがなされていくはずですが,どうなっていくでしょう。

 こんにちは “しょう”です。ブログへのトラックバックありがとうございました。あなたの日記への感想を2~3…。
1、公立学校における成績上位層の存在意義については、おおむね賛成できます。私の前任校は受験学力の低い生徒の多い県立の高校でしたが、比較的「学力」の高い生徒も入学していたことが救いでした。そして、そのような生徒の「学力」「総合力」を高めていくことが、前任校でも都立の公立校でも、学校をよりよくしていくための(「学びあい」を作っていく意味でも)大切な条件であると思います。前任校では9年間のうち2名だけ「地元国立大学」の希望者が出て、その実現のため色々な「指導」もしました。
2、「学力」(「生きる力」に近いイメージ)を高めていくためには、学習面での学びあいと特別活動などでの学びあいを有機的につなげていくことが大切であり、指導する側が「実績作り」の意識を強めてしまう危険性について自覚的であることは大切だと思います。
3、次の点はさすがに言い過ぎではないか、と思います。
>受験学力がなくて「生きる力」だけつくということはあり得ません。
 受験学力という点では、前任校の大部分の生徒は低かったですが、それぞれの職場でしっかりと働いて「成果」をあげ、周囲からも信頼されているような卒業生は、山ほどいますよ。
4、現時点において東京の公立中学校に「現状を打破するための実践」が求められる、と言われるのはわかりますが、「夜スペ」に関する評価は保留します。トラックバックされた意見の視点も「ただ不快なだけ」では片付けられない重要な面を含んでいると思います。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より